アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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16.ラ・ファヴォリット-La Favorita-

 天井が、白かった。

 白い、という認識が来たのは、目を開けてから少し後だった。目を開けた、ということ自体に気がつくのが、目を開けてから遅かった——開けていた。気がついたら開いていた。天井が白かった。

 白さの種類が、廃ビルの天井とも、家の天井とも違った。何と比較すべきか分からないまま、ただ白かった。

 

 体が、あった。

 あった、というのが——一番正確な感触だった。体がある、ということを確認するより、体があった、という事実として来た。腕がある。脚がある。左の肩の奥に来ていた何かが、今は来ていなかった。来ていない。ないことが——来ていた時間を思い出させた。

 思い出した。

 廃ビルの床が来た。冷たい床が来た。アオイの「この子を」という言葉が来た。白い少女が来た。

 渋谷の光が来た。

 

 起き上がれた。

 起き上がれた、というのが——驚きだった。驚く、ということができた。左腕が動いた。左腕が動いた、という事実を確かめるために三回動かした。動いた。三回、動いた。

 左肩の奥は、何もなかった。

 何もない、というのが——何もない、だった。来ていた何かが消えた後の「何もない」ではなく、最初から何もなかったような「何もない」だった。その二つの違いを確認する前に、声が来た。

 

「目が覚めたか」

 声が来た方向に、顔を向けた。

 白い少女が、椅子に座っていた。椅子が、床から三十センチほど離れた場所にあった——床に足がついていた。足がついていた、というのが、なぜ確認したのかは分からなかった。ただ確認した。

 白い少女の表情は、変わっていなかった。廃ビルで見た顔と、同じ顔だった。温度のない顔が、こちらを見ていた。

 見られていた。

 

「……ここはどこ?」

 声が、出た。

 出た声の質が——廃ビルで出た声と、また違った。違い方を確認する間に、白い少女が答えた。

「K機関だ」

 間がなかった。問いへの答えが、問いと問いの間に入るより短い間隔で来た。

「なにそれ」

「警視庁の特殊捜査機関だ」

「警察ってことですか……」

 警察、という言葉を自分が使った、ということが——何かとずれていた。ずれた何かが言語化される前に、別のことを聞いていた。

 

「あの人は?」

 白い少女が少しだけ間を置いた。

 置いた間が、前の答えより長かった。長かったが、長くはなかった。

「我々が保護した。能力も消失したから、もう魔法少女ではないがね」

 「保護した」という言い方を——確認した。保護した。保護という言葉が、どういう温度で使われているかを、白い少女の声から取り出そうとした。取り出せなかった。温度がなかったから、取り出せなかった。

「怪我は?」

「処置した。命に別状はない」

 来た。

 命に別状はない、という言葉が来た。来て、左の肩の奥が一瞬——来なかった。来なかったが、来なかった場所が分かった。

 

 自分の手を見た。

 右手が、見えた。白い天井の光が当たっていた。当たった光の中に、手があった。

 手が、あった。

 あった、だけだった——しかしそれだけではなかった。そうではなかった、というのが言語化できなかった。手を見た時、何かが——光があるような気がした。光が、手の中か、手の皮膚の下か、どこにあるのかが分からなかった。ある、気がした。気がしただけだった。気がしたという事実だけが来た。

 変身はしていなかった。

 していない、ということは分かった。それでも何かが——来ていた。

 

 白い少女が立った。

 立つ音が、少なかった。椅子から離れる動作の音が、動作の大きさに対して少なかった。少ないことが——廃ビルで最初に見た時から変わっていなかった。

 こちらに来た。

 来て、止まった。

 適当な距離で止まった——距離を計算して止まった、という感じの止まり方だった。近くもなく遠くもなく、情報を渡すのに必要な距離。

「君は今日から、タチバナ・サクラだ。そう呼ばれる」

 

 言葉が来た。

 来た言葉を、繰り返した。

「タチバナ、サクラ……」

「そう」

 白い少女が続けた。続け方に、間がなかった。

「×××××は、死んだことになったがね」

 

 死んだことになった。

 来た。

 来た言葉が——最初は、ただ来ただけだった。来た言葉の重さが、すぐには来なかった。重さが来るより先に、白い少女を見た。白い少女は、変わっていなかった。情報を渡した、という状態のままで、こちらを見ていた。

 見返した。

「……そっか」

 声が来た。自分の声が来た。

 来た声が——廃ビルで「そっか」と言った声と、似ていたかどうかが、分からなかった。似ていたかもしれなかった。

 

 白い少女が動かなかった。

 動かないまま、何かを待っていた——待っていたのかどうかも分からなかった。ただ、動かなかった。

 ×××××は死んだ、ということになった。

 なった、ということを、どこかで整理しようとして——整理できなかった。×××××が死んだことになった、ということは——タチバナ・サクラが生きている、ということだった。生きている、ということが——今の自分が呼吸していることが、生きていることだった。

 呼吸した。

 できた。

 

「……残念でもなさそうだな」

 白い少女が言った。

 声に何かが——来た。来たものの名前が分からなかった。さっきまでの平らな声の中に、違うものが一度だけ来た。違うものが何かは、また分からなかった。

 違うものが来た、ということだけが、残った。

「残念かどうか、分かりません」

 こちらが言った。

「×××××だったときのことが、今あまりよく分からないので」

 白い少女が、少しだけ——間を置いた。

 

「……そうか」

 来た声が、また少しだけ違った。

 違い方が、さっきよりも——大きかった。大きかった、というのが正確かどうかは分からなかった。ただ、さっきとは違う間を置いた後の声だった。

 白い少女が、窓の方を見た。

 部屋に窓があった、ということを、そこで初めて確認した。大きな窓だった。ガラスの向こうに、庭のようなものが見えた。庭に木があった。木の向こうに、別の建物の屋根が見えた。

 渋谷の夜景ではなかった。

 昼だった。昼の光が窓から入っていた。

 

「一つ聞いても、いいですか」

 こちらが言った。

 白い少女が、こちらを向いた。

「何だ」

「あなたは何て呼ばれているんですか」

 白い少女が——一拍おいた。

「エイ、だ。表記上はアルファベットのAに数字の1」

 それだけ言った。

 

 エイ、という名前が来た。

 来た名前を——繰り返した。声には出さなかった。

 ×××××という名前が——今日から「そういうものではなくなった」ということと、タチバナ・サクラという名前が——今日から「そういうものになった」ということが、同じ一日に起きていた。

 エイという名前も——誰かが、そう決めた名前だった。

 一日の中に、それだけのことが入っていた。

 

「アオイさんに会えますか?」

 A1が答えるより先に、自分が言っていた。

 言ってから——言った、ということに気がついた。

「……そうだな」

 A1が言った。

「会わせよう。ただし、今すぐではない」

「いつ?」

「君が立てるようになってから」

 

 立てるようになってから、という言い方を——確認した。

 今は立てない、とA1は言っていなかった。ただ「立てるようになってから」と言った。

 試した。

 右腕を、ベッドの端についた。ついた腕に体重をかけた。かけながら、足を床に下ろした。床が来た。床の冷たさが来た——廃ビルの床の冷たさとは違う冷たさが来た。違う冷たさを確認しながら、体を起こした。

 起こせた。

 

 立っていた。

 立っていた、ということが——来た。来たことが、何かだった。何かが、という先が——来る前に、A1が言った。

「早いな」

 声の中に、また何かが来た。来たものが、さっきとは種類が違う気がした。気がした、だったので、確認できなかった。

「……ここ、どんな場所なんですか?」

「邸宅だ。K機関が使っている」

「他のひとたちは?」

「何人かいる」

「危ない人たちは、来ますか」

 A1が少しだけ間を置いた。

「今すぐには来ない。来たとしても、対処する」

 

 対処する、という言い方を——確認した。

 確認した、というのが——廃ビルで赤い光が来たとき、A1が来た場面を思い出した。来た場面の速さを思い出した。

 対処する、という言い方を——信じた。

 信じた、ということが——来た。来た、ということに、少しだけ驚いた。こんなに早く信じた、ということに。

「そっか」

 言った。

 言った後に、続きが来た。

「じゃあ……ちょっと、歩き回っても……いいですか」

 

 A1が、こちらを見た。

 見た目が——また少しだけ変わった。変わった、というのが——表情が変わったわけではなかった。何かが来て、何かが少し、違う感じになった。

「勝手にしろ」

 来た声が、平らだった。

 平らだったが——何かがあった。何かがある平らさ、というものが、A1の声には混ざっていた。混ざっていることに、今気がついた。最初からそうだったのかもしれなかった。

 廊下に出た。

 

 廊下が長かった。

 長い廊下の壁が、木で出来ていた。床も木だった。天井も木だった。全部が木で出来ていたが、白い部屋と同じ種類の清潔さがあった。木が、古かった。古い木が、清潔だった。

 窓から光が入っていた。廊下の窓から、さっきの窓と同じ昼の光が入っていた。

 庭が見えた。

 木が見えた。大きな木が、庭の真ん中に立っていた。立っている木が——何か、長くそこに立っている木の感じがした。長い時間、そこにいた木の感じ。

 

 振り返った。

 A1が、廊下の入口のところに立っていた。こちらを見ていた。

「ここって、誰か住んでたりしてたんですか」

 聞いた。

 A1が、少し間を置いた。

「いた」

 過去形で来た。

「今は?」

「今は我々が使っている」

 それだけ言って、A1が続きを言わなかった。続きを言わない、ということが、続きがある、ということだった——たぶん。たぶん、だった。

 

 廊下を、少し歩いた。

 歩けた。

 左肩が動いた。左腕が動いた。足が動いた。全部が動いた。

 歩きながら、考えた。

 考えた内容が——来た。来た内容が、整理されていなかった。整理されていない内容を、整理しようとして——できなかった。できなかったが、来ていた。

 タチバナ・サクラという名前が来た。×××××は死んだ、ということになった、という事実が来た。アオイの「この子を——頼む」が来た。A1が来た。

 光がある気がする手のことが来た。

 

 窓から、庭を見た。

 庭の大きな木が、光を受けていた。受けた光が、木の葉の一枚一枚に当たって、一枚一枚が少しずつ違う色で光っていた。同じ木の葉が、同じ光を受けて、少しずつ違う色で光っていた。

 見ていた。

 しばらく見ていた。

 

「戻れ。休め」

 廊下の向こうからA1の声が来た。

「残念だが、体は動くようになっても、中身がまだ整っていない」

 中身、という言葉が——来た。

「中身って……?」

 こちらが聞いた。

 A1が少しだけ間を置いた。

「今の君には、まだ名前しかない。名前の中身は、ここで積み上げていくしかない」

 

 名前の中身。

 言葉が来た。来た言葉を——確認した。

 タチバナ・サクラという名前がある。名前の中身が、今は——ない。ないか、あるかが分からないか、どちらかだった。

 どちらか、だった。

 分からない、というのが——何かだった。何かが、という先が——怖いかと思ったが、怖くなかった。分からないことが、怖くなかった。

 それが——少し、変な気がした。

 

「あの、もう一つ聞いていいですか」

 A1に向かって、言った。

「またか」

 声に来た何かが——今度は、少しだけ分かった気がした。気がした、だったが。

「エイさんは……魔法少女なんですか?」

 A1が、また間を置いた。今度の間は、少し長かった。

 

「違う」

 来た。

 違う、というのが——一言で来た。来た後に、A1が続けた。

「俺は、魔法少女じゃない」

 言い方が、平らだった。

 しかし「違う」という一語の中に——何かがあった。「魔法少女ではない」という事実より先に来た何かが、あった。

「じゃあ何ですか」

 こちらが聞いた。

 A1が、また間を置いた。

「君に近いもの、とだけ言っておこう。残念だが、それ以上はまだ言えない」

 

 君に近いもの。

 来た。来た言葉を——確認した。確認したが、確認できなかった。確認できなかったが、来た言葉はあった。

 魔法少女ではない何かが、エイ、という名前で、白い衣装で、ここにいた。自分もまた、×××××ではない何かとして、タチバナ・サクラという名前で、ここにいた。

 二つの何かが、同じ廊下にいた。

 

「動けるか」

 A1が声を出した。

 平らな声が来た。先ほどの続きを探していた声とは、また違う平らさだった。確認の声が来た。

「……分かりません」

 こちらが言った。

「動けそうな気は、します」

「それで十分だ」

 

 A1が、こちらを向いた。

 向いた目が——先ほどと同じ目だった。温度のない目が来た。来た目が、こちらを見ていた。見ながら、A1が言った。

「タチバナ・サクラとして、ここにいられるか」

 問いかけの形が来た。

 来た問いかけを——確認した。確認しながら、手を見た。

 光がある気がする手を、見た。

 

 答えが来た。

 来た答えを、言葉にした。

「やってみます」

 声が来た。自分の声が来た。

 来た声が——廃ビルで「続く方」と言った声と、同じ声かどうかが分からなかった。同じかもしれなかった。違うかもしれなかった。

 ただ、来た。

 来た声が、廊下の木の壁に当たって、少し返ってきた。返ってきた声が——タチバナ・サクラという名前の人間が出した声に、少し似ていた。

 似ていた、だった。

 

 A1が動いた。

 白い部屋の方向に歩き始めた。

「戻れ。飯が来る」

「飯ですか?」

「食事だ。食べろ」

「……誰が作ったんですか?」

「俺じゃない」

「エイさんが作ったのか聞いてないです」

 A1が少しだけ——止まった。止まった時間が、一拍未満だった。

「頼んだんだよ」

 

 廊下を歩いた。

 A1の後ろを歩いた。A1の足音が、少なかった。少ない足音の後ろで、自分の足音がした。した足音が——少ない足音の後ろにある、普通の足音だった。普通の足音が——廊下を歩いていた。

 木の廊下を歩いていた。

 タチバナ・サクラという名前の、普通の足音が——歩いていた。

 

 窓の外の木が、見えた。

 見えた木に、光が当たっていた。光が当たった葉が、風で少しだけ動いた。動いた葉が、光を別の方向に返した。

 渋谷はここにはなかった。

 でも——どこかにあるはずだった。この廊下の窓の向こうのどこかに、まだ渋谷があった。

 その事実が——来た。来て、あった。

 

 


 

 

 廊下の突き当たりに、扉があった。

 木の扉だった。扉の周りに光が当たっていた。廊下の他の部分と同じ昼の光が当たっていたが、扉だけが少し違って見えた。違う理由が分からなかった。A1に「会わせる」と言われた場所が、この扉の向こうだった、ということが——違って見える理由かもしれなかった。

 扉の前で止まった。

 止まった理由が——入る前に、何かを考えようとしていた。考えが来なかった。来なかったので、ノックした。

---

 返事が来なかった。

 来なかったが、何かが動いた音がした。動いた後に、また静かになった。

 「入れ」という声が来た。

 声が来た方向が——扉の向こうだった。扉の向こうから来た声が、アオイの声かどうかを確認する前に、扉を開けていた。

---

 部屋だった。

 白い部屋が来た——自分が目覚めた部屋と同じ種類の白ではなかった。木の壁に白い漆喰が塗られていた。窓があった。窓から昼の光が入っていた。光の量が、廊下で見た庭の木よりも多かった。

 アオイが、窓際に立っていた。

 立ち方が——公園で見た立ち方と同じ、ではなかった。公園で見た立ち方は「そこにいた」立ち方だった。今の立ち方は「立っている」立ち方だった。その差が言語化できなかったが、来た。

 こちらを向いた。

---

 アオイの顔が来た。

 来た顔が——変身した後の顔とも、変身が解けた後の顔とも、廃ビルで「この子を——頼む」と言った顔とも、違う顔だった。どれでもない顔が、窓の光の中にあった。

 窓の向こうの庭が見えた。

 庭の木が光を受けていた。

 アオイが口を開いた。

---

「……生きてた」

 声が来た。

 来た声の質が——廊下でアオイの声を聞いた記憶の声と、少し違った。廊下で聞いた声は、もっと速かった。速く、少し尖っていた。今の声は速くなかった。速くもなく、尖ってもいなかった。

 何かが抜けた声だった。

 抜けたものの名前が分からなかった。

---

「うん。……アオイさんも」

 こちらが言った。

 言った後に——「アオイさん」という呼び方が、こちらの口から出た、ということに気がついた。気がついたのが、言った後だった。

 アオイが窓から離れた。

 離れる動作が、ゆっくりだった。窓際に立っていた時とは速さが違う、ということだけが分かった。

---

 部屋の中央に来た。

 来て、立った。

 立った場所が——こちらとの距離が、話せる距離だった。こちらを見た。見た目が、こちらを確認している視線だった。確認の内容が何かは分からなかった。

 アオイが何かを言おうとした。

 言おうとして、止まった。

---

 止まった時間が——一拍か、それ以上か、あった。

 止まったまま、アオイがこちらの顔を見ていた。見ていた間に、こちらはアオイの顔を見ていた。

 スマートフォンが、なかった。

 気がついたのはそこだった。アオイの手に、スマートフォンがなかった。イヤホンもなかった。それだけだった。それだけが、最初に目に入ったことだった。

---

「ごめん」

 声が来た。

 アオイの声が来た。来た声に——「ごめん」という言葉が入っていた。入っていた言葉の意味が、すぐには来なかった。言葉の意味より、声の質が先に来た。

「なんで」

 こちらが言った。

 言いながら、言った内容を確認した。「なんで」という言葉が出た。出た言葉が、アオイに届いたかどうかを見た。

---

「あなたを巻き込んだから」

 アオイが言った。

「来たのは私が決めたので」

 こちらが言った。

 言い方が、事実の確認だった。謝られたことへの反論ではなかった。「あなたを巻き込んだ」という言葉が、正確ではない、と思ったので、言った。

 アオイが、少しだけ——黙った。

---

「……そう、かな」

「そう」

 アオイが、こちらを見た。

 見た目が——さっきの確認の視線と、また少し違う視線だった。違い方が言語化できなかったが、今度は何かを受け取ろうとしている視線だった。

 受け取った後に、アオイが目を逸らした。

 窓の方を見た。

---

 しばらく、何もなかった。

 何もない時間が——息苦しくはなかった。何もない時間の中に、二人がいた。二人がいて、何もなかった。

 庭の木が光を受けていた。窓の向こうで受けていた。

 アオイが、光の方を向いたまま言った。

---

「妖精が、いない」

 声が来た。

 来た声が平らだった。平らな声に、今日初めて確認できる何かがあった。何かの正体が分からなかったが、来た。

「スマートフォンを取られた?」

「取られたんじゃなくて」

 アオイが少し間を置いた。

「切れた。つながらなくなった」

---

 「切れた」という言葉が来た。

 来た言葉を——確認した。確認しながら、取られたのではなく切れた、という差を確認した。差が、どういう意味を持つのかが分からなかった。分からなかったが、アオイにとってその差が大きい、ということだけが来た。

「……寂しい?」

 こちらが言った。

 言ってから——なぜその言葉を選んだのかが来なかった。来なかったが、言っていた。

---

 アオイが、窓の方を向いたまま少し笑った。

 笑い方が——声を出す笑いではなかった。顔の表情だけが、少しだけ動いた。動いた動き方を、笑いと呼ぶかどうかが分からなかったが、それに一番近かった。

「不思議と、少し」

 声が来た。

 来た言葉の中に——「不思議と」という言葉が入っていた。入っていた「不思議と」の意味が、後から来た。寂しいことが不思議だ、ということではなかった。寂しい、ということが来ることが、不思議だった、ということだった。

 不思議と、少し。

 来た言葉が、どこかに残った。残った場所が、どこかは分からなかった。

---

 アオイがこちらを見た。

 見た目が、また変わっていた。変わり方が——さっきまでの確認の視線でも、受け取ろうとする視線でも、なかった。

 問いかけの視線だった。

「あなたは、これからどうするの?」

 声が来た。

 来た問いかけを——確認した。確認した、というのが——すぐに答えが来なかった。来なかったが、考えた。考えた結果が、来た。

---

「……分からない」

 こちらが言った。

「でも、ここにいることになったみたい」

 アオイが、こちらを見ていた。

「サクラ、って言われた」

 声が来た。自分の声が来た。来た声の中に「サクラ」という名前が入っていた。入った名前が——アオイに向かって出た。

 アオイが、少しだけ間を置いた。

---

「サクラ」

 アオイが言った。

 呼んだ、というより——繰り返した。声が低かった。繰り返した声の後に、また間があった。

「うん」

「……桃色、か」

「そうらしい」

---

 また沈黙が来た。

 今度の沈黙は——さっきと種類が違った。さっきの沈黙は何もない沈黙だった。今の沈黙は何かがある沈黙だった。何かが、という何かが、言語化できなかった。

 アオイが窓の外を見た。

 庭の木が見えた。光を受けた葉が動いていた。

 アオイが言った。

---

「戻れる、かな」

 声が来た。

 来た声が——問いかけの形をしていたが、こちらに向かっていなかった。自分に向かっていた——アオイが自分に言った声だった。

「……K機関が言うには」

 こちらが言った。言いながら、A1が言ったことを確認した。

「アオイさんの能力は消えた。でも、アオイさんはいる」

---

 アオイが、こちらを見た。

 見た目が——考えている目だった。考えた後に、何かが来た。何が来たのかは分からなかった。来た何かが、アオイの顔の上を過ぎた。

 過ぎた後に、アオイが少し笑った。

 今度は声が来た。

 声の笑い方が——廃ビルの前に聞いたことのある笑い方と、少し違った。廃ビルの前の笑い方は「隠す笑い方」だった気がした。今の笑い方は何かを——そのまま出した笑い方だった。

---

「そうだね」

 アオイが言った。

「アオイはいる」

 来た声が、言葉を確認していた。確認の声だった——誰かに言い聞かせている確認の声だった。誰かが誰かを、こちらには分からなかった。

 窓から光が入っていた。

 庭の木が動いていた。

 アオイが動いた。

---

 窓の前に来た。

 来て、手をガラスに当てた。当てた手が平らだった。手の平らがガラスに触れた。触れたまま、光の中に立った。

 スマートフォンがない手だった。

 イヤホンがない耳だった。

 それだけが、来た。

---

「行き先、決まった?」

 アオイが聞いた。

 窓の向こうを見たままで聞いた。こちらを向かずに聞いた。

「決まってないけど、ここにいる」

 こちらが言った。

「ここがどういう場所かが分かったら——考える」

---

 アオイが少し間を置いた。

「K機関、か」

「そう」

「……A1という人は、どういう人だった?」

 来た問いかけが——「人」という言葉を使っていた。「人」という言葉を使ったことに、アオイが気づいているかどうかは分からなかった。

「よく分からない」

 こちらが言った。

「でも——信じた」

---

 アオイが、ガラスから手を離した。

 離した手を見た。見た後に、こちらを向いた。

 見た目が——今日最初に見た目とも、公園で見た目とも、廃ビルで見た目とも、違う目だった。どれとも違う目が来た。

「そっか」

 アオイが言った。

 それだけだった。それ以上は来なかった。

 それ以上が来ないことが——何かだった。何かが、という先が、来なかった。

---

 光が入っていた。

 庭の木が動いていた。

 二人が、部屋にいた。

 いた時間が——測れなかった。測ろうとしなかった。測ることより、いることが先にあった。

---

 A1の足音が廊下から来た。

 来た音の少なさで、A1だと分かった。来た音が扉の前で止まった。

「時間だ」

 扉の向こうから声が来た。

---

 アオイがこちらを見た。

「行って」

 声が来た。

 来た声に——促す声だった。脅す声でも引き止める声でも、引き留め損ねた声でもなかった。行ってほしい、という声でもなかった。ただ、行くなら行っていい、という声だった。

 扉に向かった。

---

 扉を開けた。

 廊下に出る前に、振り返った。

 アオイが窓の前にいた。

 光の中にいた。スマートフォンのない手が、体の横にあった。

「また来てもいいですか?」

 こちらが言った。

 アオイが少しだけ間を置いた。

「……好きにしたら」

---

 声が来た。

 来た声に——また何かがあった。何かが何かは、来た瞬間には分からなかった。扉を閉じた後になって、少しだけ分かった気がした。

 気がしただけだったが。

---

 廊下に出た。

 A1がいた。

 白い衣装が光を受けていた。

「行くか」

「はい」

 A1が動いた。廊下を歩いた。こちらも歩いた。

---

 木の廊下を歩いた。

 歩きながら、部屋に残ったアオイのことを考えた。考えたが、考えの形が——どういう形か分からなかった。

 ただ来た。

 アオイの「好きにしたら」という声が、来た。

 来て、どこかにあった。どこにあるのかは分からなかったが、あった。

 

 

 


 

 

 部屋が、白かった。

 白い部屋が、また来た。目を覚ました部屋と同じではなかった。広さが違った。窓の位置が違った。壁の素材が同じ種類の白だった。同じ種類の白が、別の形で来た。

 A1がいた。

 A1が扉の前に立っていた。立ち方が、廊下を歩いていた時と変わっていなかった。扉を背にして、こちらを見ていた。

---

 机があった。

 机の上に、スマートフォンがあった。

 スマートフォンを——見た。見た目が、アオイのスマートフォンとは違うスマートフォンだった。違い方が——新しかった。傷がなかった。A1のスマートフォンとも違った。新しい、ということだけが来た。

 A1が言った。

---

「確認させてくれ」

 声が来た。

 来た声が、廊下で聞いた声と同じ声だった。同じ声が、「確認させてくれ」という言葉を運んできた。言葉の意味を確認した。

「何を?」

「君が変身できるかを」

---

 変身、という言葉が来た。

 来た言葉が——アオイが変身した夜の記憶を連れてきた。連れてきた記憶の中に、藍色の光があった。水が染み込む光があった。

 変身する、ということが——自分にできるのかを、こちらは知らなかった。A1が「君は桃色だ」と言った。でも実際に変身したことがなかった。

「できるかどうか分からない」

 こちらが言った。

---

「そうだな」

 A1が言った。

「でも身体は知っている」

 来た言葉が——平らだった。確認の声だった。身体は知っている、という言葉の根拠が何かは分からなかった。分からなかったが、A1が言った、ということだけがあった。

 机のスマートフォンを見た。

---

 取った。

 手に持った。スマートフォンが手の中に来た。来た重さが——アオイのスマートフォンの重さとは違った。違い方が分からなかった。重いか軽いかも分からなかった。ただ来た。

 何もしていなかった。

 何もしていないのに、スマートフォンの画面が光った。

---

 桃色だった。

 光の色が、桃色だった。他の色ではなかった。赤でも青でも黄でも緑でも紫でも白でも黒でもなかった。桃色だった、ということだけが来た。桃色が来た。

 来た光が——きれいかどうかが分からなかった。きれい、という判断よりも、来た、という事実が先に来た。

 A1がこちらを見ていた。

---

 胸骨の裏側が、変わった。

 変わった、というのが——何かが始まった、ではなかった。何かが開いた。開く、という言葉が一番近かった。封が解けた、でもなかった。蓋が——開いた。

 来た感触が、怖かったかと言えば——怖くはなかった。怖くはなく、嬉しかったかと言えば——嬉しくもなかった。来た、ということだけが来た。

---

 身体が動いた。

 動かした、ではなかった。身体が先に動いた。腕が前に来た。胸の前に来た。来た腕が——広がった。開く、という動作が来た。開く、という動作をしながら、なぜそうするのかが来なかった。来なかったが、身体がそうした。

 スマートフォンを液晶面の向こうに向けた。

 なぜそうするのかが——来なかった。

---

 光が変わった。

 画面の光が——外側に向いた。向いた光が、部屋の空気の中に広がった。広がり方が音を持っていなかった。音を持たずに、光だけが広がった。

 胸の中心から、何かが来た。

 来たものが——色だった。

 色が先にあった。物質ではなく、色が先に来た。桃色が、胸の中心から広がり始めた。

---

 広がる速さが——速くも遅くもなかった。

 何かと比較できなかった。アオイの変身は「染み込む」だった。カノンの変身は「燃え広がる」だった。それらと比べるための言葉を探した。

 来なかった。

 比べるものがなかった。「開く」、だった。開いている、ということだけがあった。

---

 内的に——何も来なかった。

 来なかった、ということが来た。変身しているはずなのに、変身している感触が来なかった。何かが広がっているのに、それを自分が感じている、という感覚が来なかった。

 起きている、ということだけがあった。

 起きていることを、自分が感じているのではなかった——起きていることを、誰かが感じているのかもしれなかった。感じているのが自分かどうかが、来なかった。

---

 A1を見た。

 変身の途中で——A1を見た。見た理由が分からなかった。でもA1を見た。

 A1が、こちらを見ていた。

 見ていた目が——温度のない目だった。温度のない目が、こちらを見ていた。見ていた、ということだけがあった。温度はなかったが、見ていた。

 それが——何かだった。何かが、という先が来なかった。

---

 声が来た。

 来た声が、自分から来た。来た声の内容が——「始めます」、という言葉だった。

 言葉が来てから、自分が言ったと分かった。来た言葉の意味が——なぜその言葉を言ったのかが——来なかった。でも言った。言った言葉が、部屋の木の壁に当たって、少し返ってきた。

 「始めます」という言葉が、返ってきた。

---

 光が、引いた。

 引いた光が——消えた。消えたのではなく——収まった。収まった場所が、分からなかった。収まった後に、空気の温度が戻った。戻り方が、変わっていた。変わり方が分からなかった。ただ、変わっていた。

 自分の手を見た。

---

 右手にあった。

 バトンのような何かが、右手にあった。いつ来たのかが分からなかった。変身の途中で来たのか、変身が終わった後に来たのかが——来なかった。あった、ということだけがあった。

 持っていた。

 持っていたが——持った感触が、薄かった。重さがなかった、ではなかった。重さはあった。でも、持っている、という感触が——自分の手のものとして来なかった。

---

 A1が動いた。

 一歩こちらに向かって動いた。動いた後に、止まった。止まった場所が、さっきまでいた場所より近かった。

 こちらを見た目が——変わっていた。

 変わり方が——分からなかった。さっきと同じ温度のない目だった。でも、さっきとは何かが違った。違いの名前が来なかった。

---

「確認できた」

 声が来た。

 来た声が平らだった。

「これでいいの?」

 こちらが言った。

 言った後に——「これでいいの」という問いの意味が分からなかった。何がいいのかを、問いの形で出した。出した問いが、自分でも何を問いているのかが来なかった。

---

 A1が、少しだけ間を置いた。

 間の長さが——さっきまでのA1の間とは、少し違った。少しだけ長かった。

「何がいいのかは、まだ分からない」

 声が来た。

「なにそれ」

 こちらが言った。

 A1が——また少しだけ間を置いた。

---

「あなたも、私も」

 声が来た。

 来た言葉が——「あなたも、私も」という言葉だった。来た言葉を確認した。確認したが、確認できなかった。確認できなかったが、来た言葉はあった。

 右手のバトンが——消えた。

 消えた、というのが——来た時と同じ速さで来なかった。気がついたら消えていた、という消え方だった。

---

 普通の格好になっていた。

 自分の手を見た。バトンのない手が来た。スマートフォンを持っている手が来た。スマートフォンの画面が消えていた。消えた画面が、ただのガラスの板だった。

 窓があった。

 窓から昼の光が入っていた。

---

 A1が言った。

「疲れたか」

「……分からない」

 こちらが言った。

「疲れている感触があるか、ないか分からない」

 A1が少しだけ間を置いた。

「それが答えだ」

---

 来た言葉の意味が——来なかった。

 来なかったが、A1が言った、ということだけがあった。

「もう一つ聞いていいですか」

「また聞くのか」

 A1の声に——何かが来た。来たものが何かは分からなかったが、来た。

「変身、怖くなかったか?」

 来た問いが——こちらに向けられていた。A1が自分に向けた問いが来た。こちらが聞いたのではなく、A1が聞いた。

---

 考えた。

 考えた内容が——怖かったかどうかを確認した。確認した結果が来た。

「怖くは、なかった」

「なぜだ」

「分からない。でも、何かが起きていた」

「起きていたことを、感じなかったのではなく?」

---

 少し間を置いた。

「感じた」

 こちらが言った。

「でも感じ方が——誰かが感じているようだった。自分が感じているのか、確認できなかった」

 A1が動かなかった。

 動かないまま、こちらを見ていた。見た時間が——短かったが、あった。

---

「そうか」

 A1が言った。

 声に、さっきの廊下での声とは違うものが来た——来た気がした。来た気がした、だけだったが。

「それは怖くなかったか」

「怖くは、なかった」

「なぜ?」

「……それも、分からない」

---

 A1が、また少しだけ間を置いた。

「正直だな」

「正直かどうかが分からない。分からないことが、多すぎて」

 A1が——止まった。

 止まった時間が、いつもより長かった。長かったが、A1は何も言わなかった。何も言わない時間が来て、そのまま止まっていた。

---

 窓から光が入っていた。

 昼の光が入っていた。光の中に、二人がいた。

 A1が言った。

「私も、そうだ」

 声が来た。

 来た声が——平らだった。しかし今日聞いてきた声の中で、最も何かが混ざっていた声だった。

---

 来た言葉を確認した。

 「私も、そうだ」という言葉を確認した。「私も」という言葉が——何の「私も」なのかが、来た。

 分からないことが、多すぎる、ということが——「私も、そうだ」だった。

 それが来た。

---

 光の中にいた。

 二人が、それぞれの位置で、光の中にいた。

---

「食えるか?」

 A1が言った。

 声が来た。声の温度が、また変わっていた。変わり方が——事務的だった。さっきの何かが混ざった声から、事務的な声に戻っていた。

「……食べれると思います」

「なら食え。今日は動きすぎた」

「エイさんが言うことかなそれ」

---

 A1が少しだけ——止まった。

 止まった時間が、一拍以下だった。

「立て」

 声が来た。

 扉の方向に向かって動き始めた。動き始める前に、こちらを見なかった。見なかったが、こちらが立ち上がることを前提にして動いた。

 立った。

---

 立てた。

 立てた、ということが——来た。来たことが、少し不思議だった。变身した後に立てた、ということより——変身した、という事実がまだそこにあることが不思議だった。変身した自分が、まだここにいる。

 A1の後ろを歩いた。

---

 廊下を歩いた。

 廊下の木の壁が来た。木の床が来た。窓の向こうの庭が来た。庭の大きな木が光を受けていた。

 歩きながら、右手を見た。

 右手が来た。バトンのない手が来た。光があった手が来た。光があるような気がした手が——今も、あるような気がした。気がしただけだったが。

---

 気がしただけだった。

 でも来ていた。来ていた。

---

 廊下の先に食堂のようなものがあった。

 あった、ということが来た。

 A1が中に入った。こちらも入った。

 食事があった。

---

 食事を食べた。

 食べながら、A1がいた。A1が何も言わずにいた。いた、ということだけがあった。

 食べた。

 食べられた。

---

 食べ終わった後に、窓を見た。

 窓の向こうの庭に、木があった。光の中に木があった。光が当たった葉が、風で動いた。動いた葉が光を別の方向に返した。

 渋谷はここにはなかった。

 でも、渋谷はどこかにあった。この窓の向こうのどこかに、渋谷はあった。界隈はあった。アオイがいた夜が——あった夜として、どこかにあった。

---

 タチバナ・サクラという名前の人間が、食堂の窓の前に座っていた。

 座っていた人間の右手が、ここにあった。

 始まる、ということが——来ていた。

 来た始まりが、どういう形の始まりなのかを——まだ知らなかった。

 ただ、来ていた。

---

 外はまだ昼だった。

 昼が、窓から来ていた。

 渋谷のどこかで、今も誰かが何かをしていた。しているはずだった。しているかどうかも分からなかった——でも、渋谷はそこにあった。

 その事実が——来た。来て、あった。

 

 

 

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