アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
天井が、白かった。
白い、という認識が来たのは、目を開けてから少し後だった。目を開けた、ということ自体に気がつくのが、目を開けてから遅かった——開けていた。気がついたら開いていた。天井が白かった。
白さの種類が、廃ビルの天井とも、家の天井とも違った。何と比較すべきか分からないまま、ただ白かった。
体が、あった。
あった、というのが——一番正確な感触だった。体がある、ということを確認するより、体があった、という事実として来た。腕がある。脚がある。左の肩の奥に来ていた何かが、今は来ていなかった。来ていない。ないことが——来ていた時間を思い出させた。
思い出した。
廃ビルの床が来た。冷たい床が来た。アオイの「この子を」という言葉が来た。白い少女が来た。
渋谷の光が来た。
起き上がれた。
起き上がれた、というのが——驚きだった。驚く、ということができた。左腕が動いた。左腕が動いた、という事実を確かめるために三回動かした。動いた。三回、動いた。
左肩の奥は、何もなかった。
何もない、というのが——何もない、だった。来ていた何かが消えた後の「何もない」ではなく、最初から何もなかったような「何もない」だった。その二つの違いを確認する前に、声が来た。
「目が覚めたか」
声が来た方向に、顔を向けた。
白い少女が、椅子に座っていた。椅子が、床から三十センチほど離れた場所にあった——床に足がついていた。足がついていた、というのが、なぜ確認したのかは分からなかった。ただ確認した。
白い少女の表情は、変わっていなかった。廃ビルで見た顔と、同じ顔だった。温度のない顔が、こちらを見ていた。
見られていた。
「……ここはどこ?」
声が、出た。
出た声の質が——廃ビルで出た声と、また違った。違い方を確認する間に、白い少女が答えた。
「K機関だ」
間がなかった。問いへの答えが、問いと問いの間に入るより短い間隔で来た。
「なにそれ」
「警視庁の特殊捜査機関だ」
「警察ってことですか……」
警察、という言葉を自分が使った、ということが——何かとずれていた。ずれた何かが言語化される前に、別のことを聞いていた。
「あの人は?」
白い少女が少しだけ間を置いた。
置いた間が、前の答えより長かった。長かったが、長くはなかった。
「我々が保護した。能力も消失したから、もう魔法少女ではないがね」
「保護した」という言い方を——確認した。保護した。保護という言葉が、どういう温度で使われているかを、白い少女の声から取り出そうとした。取り出せなかった。温度がなかったから、取り出せなかった。
「怪我は?」
「処置した。命に別状はない」
来た。
命に別状はない、という言葉が来た。来て、左の肩の奥が一瞬——来なかった。来なかったが、来なかった場所が分かった。
自分の手を見た。
右手が、見えた。白い天井の光が当たっていた。当たった光の中に、手があった。
手が、あった。
あった、だけだった——しかしそれだけではなかった。そうではなかった、というのが言語化できなかった。手を見た時、何かが——光があるような気がした。光が、手の中か、手の皮膚の下か、どこにあるのかが分からなかった。ある、気がした。気がしただけだった。気がしたという事実だけが来た。
変身はしていなかった。
していない、ということは分かった。それでも何かが——来ていた。
白い少女が立った。
立つ音が、少なかった。椅子から離れる動作の音が、動作の大きさに対して少なかった。少ないことが——廃ビルで最初に見た時から変わっていなかった。
こちらに来た。
来て、止まった。
適当な距離で止まった——距離を計算して止まった、という感じの止まり方だった。近くもなく遠くもなく、情報を渡すのに必要な距離。
「君は今日から、タチバナ・サクラだ。そう呼ばれる」
言葉が来た。
来た言葉を、繰り返した。
「タチバナ、サクラ……」
「そう」
白い少女が続けた。続け方に、間がなかった。
「×××××は、死んだことになったがね」
死んだことになった。
来た。
来た言葉が——最初は、ただ来ただけだった。来た言葉の重さが、すぐには来なかった。重さが来るより先に、白い少女を見た。白い少女は、変わっていなかった。情報を渡した、という状態のままで、こちらを見ていた。
見返した。
「……そっか」
声が来た。自分の声が来た。
来た声が——廃ビルで「そっか」と言った声と、似ていたかどうかが、分からなかった。似ていたかもしれなかった。
白い少女が動かなかった。
動かないまま、何かを待っていた——待っていたのかどうかも分からなかった。ただ、動かなかった。
×××××は死んだ、ということになった。
なった、ということを、どこかで整理しようとして——整理できなかった。×××××が死んだことになった、ということは——タチバナ・サクラが生きている、ということだった。生きている、ということが——今の自分が呼吸していることが、生きていることだった。
呼吸した。
できた。
「……残念でもなさそうだな」
白い少女が言った。
声に何かが——来た。来たものの名前が分からなかった。さっきまでの平らな声の中に、違うものが一度だけ来た。違うものが何かは、また分からなかった。
違うものが来た、ということだけが、残った。
「残念かどうか、分かりません」
こちらが言った。
「×××××だったときのことが、今あまりよく分からないので」
白い少女が、少しだけ——間を置いた。
「……そうか」
来た声が、また少しだけ違った。
違い方が、さっきよりも——大きかった。大きかった、というのが正確かどうかは分からなかった。ただ、さっきとは違う間を置いた後の声だった。
白い少女が、窓の方を見た。
部屋に窓があった、ということを、そこで初めて確認した。大きな窓だった。ガラスの向こうに、庭のようなものが見えた。庭に木があった。木の向こうに、別の建物の屋根が見えた。
渋谷の夜景ではなかった。
昼だった。昼の光が窓から入っていた。
「一つ聞いても、いいですか」
こちらが言った。
白い少女が、こちらを向いた。
「何だ」
「あなたは何て呼ばれているんですか」
白い少女が——一拍おいた。
「エイ、だ。表記上はアルファベットのAに数字の1」
それだけ言った。
エイ、という名前が来た。
来た名前を——繰り返した。声には出さなかった。
×××××という名前が——今日から「そういうものではなくなった」ということと、タチバナ・サクラという名前が——今日から「そういうものになった」ということが、同じ一日に起きていた。
エイという名前も——誰かが、そう決めた名前だった。
一日の中に、それだけのことが入っていた。
「アオイさんに会えますか?」
A1が答えるより先に、自分が言っていた。
言ってから——言った、ということに気がついた。
「……そうだな」
A1が言った。
「会わせよう。ただし、今すぐではない」
「いつ?」
「君が立てるようになってから」
立てるようになってから、という言い方を——確認した。
今は立てない、とA1は言っていなかった。ただ「立てるようになってから」と言った。
試した。
右腕を、ベッドの端についた。ついた腕に体重をかけた。かけながら、足を床に下ろした。床が来た。床の冷たさが来た——廃ビルの床の冷たさとは違う冷たさが来た。違う冷たさを確認しながら、体を起こした。
起こせた。
立っていた。
立っていた、ということが——来た。来たことが、何かだった。何かが、という先が——来る前に、A1が言った。
「早いな」
声の中に、また何かが来た。来たものが、さっきとは種類が違う気がした。気がした、だったので、確認できなかった。
「……ここ、どんな場所なんですか?」
「邸宅だ。K機関が使っている」
「他のひとたちは?」
「何人かいる」
「危ない人たちは、来ますか」
A1が少しだけ間を置いた。
「今すぐには来ない。来たとしても、対処する」
対処する、という言い方を——確認した。
確認した、というのが——廃ビルで赤い光が来たとき、A1が来た場面を思い出した。来た場面の速さを思い出した。
対処する、という言い方を——信じた。
信じた、ということが——来た。来た、ということに、少しだけ驚いた。こんなに早く信じた、ということに。
「そっか」
言った。
言った後に、続きが来た。
「じゃあ……ちょっと、歩き回っても……いいですか」
A1が、こちらを見た。
見た目が——また少しだけ変わった。変わった、というのが——表情が変わったわけではなかった。何かが来て、何かが少し、違う感じになった。
「勝手にしろ」
来た声が、平らだった。
平らだったが——何かがあった。何かがある平らさ、というものが、A1の声には混ざっていた。混ざっていることに、今気がついた。最初からそうだったのかもしれなかった。
廊下に出た。
廊下が長かった。
長い廊下の壁が、木で出来ていた。床も木だった。天井も木だった。全部が木で出来ていたが、白い部屋と同じ種類の清潔さがあった。木が、古かった。古い木が、清潔だった。
窓から光が入っていた。廊下の窓から、さっきの窓と同じ昼の光が入っていた。
庭が見えた。
木が見えた。大きな木が、庭の真ん中に立っていた。立っている木が——何か、長くそこに立っている木の感じがした。長い時間、そこにいた木の感じ。
振り返った。
A1が、廊下の入口のところに立っていた。こちらを見ていた。
「ここって、誰か住んでたりしてたんですか」
聞いた。
A1が、少し間を置いた。
「いた」
過去形で来た。
「今は?」
「今は我々が使っている」
それだけ言って、A1が続きを言わなかった。続きを言わない、ということが、続きがある、ということだった——たぶん。たぶん、だった。
廊下を、少し歩いた。
歩けた。
左肩が動いた。左腕が動いた。足が動いた。全部が動いた。
歩きながら、考えた。
考えた内容が——来た。来た内容が、整理されていなかった。整理されていない内容を、整理しようとして——できなかった。できなかったが、来ていた。
タチバナ・サクラという名前が来た。×××××は死んだ、ということになった、という事実が来た。アオイの「この子を——頼む」が来た。A1が来た。
光がある気がする手のことが来た。
窓から、庭を見た。
庭の大きな木が、光を受けていた。受けた光が、木の葉の一枚一枚に当たって、一枚一枚が少しずつ違う色で光っていた。同じ木の葉が、同じ光を受けて、少しずつ違う色で光っていた。
見ていた。
しばらく見ていた。
「戻れ。休め」
廊下の向こうからA1の声が来た。
「残念だが、体は動くようになっても、中身がまだ整っていない」
中身、という言葉が——来た。
「中身って……?」
こちらが聞いた。
A1が少しだけ間を置いた。
「今の君には、まだ名前しかない。名前の中身は、ここで積み上げていくしかない」
名前の中身。
言葉が来た。来た言葉を——確認した。
タチバナ・サクラという名前がある。名前の中身が、今は——ない。ないか、あるかが分からないか、どちらかだった。
どちらか、だった。
分からない、というのが——何かだった。何かが、という先が——怖いかと思ったが、怖くなかった。分からないことが、怖くなかった。
それが——少し、変な気がした。
「あの、もう一つ聞いていいですか」
A1に向かって、言った。
「またか」
声に来た何かが——今度は、少しだけ分かった気がした。気がした、だったが。
「エイさんは……魔法少女なんですか?」
A1が、また間を置いた。今度の間は、少し長かった。
「違う」
来た。
違う、というのが——一言で来た。来た後に、A1が続けた。
「俺は、魔法少女じゃない」
言い方が、平らだった。
しかし「違う」という一語の中に——何かがあった。「魔法少女ではない」という事実より先に来た何かが、あった。
「じゃあ何ですか」
こちらが聞いた。
A1が、また間を置いた。
「君に近いもの、とだけ言っておこう。残念だが、それ以上はまだ言えない」
君に近いもの。
来た。来た言葉を——確認した。確認したが、確認できなかった。確認できなかったが、来た言葉はあった。
魔法少女ではない何かが、エイ、という名前で、白い衣装で、ここにいた。自分もまた、×××××ではない何かとして、タチバナ・サクラという名前で、ここにいた。
二つの何かが、同じ廊下にいた。
「動けるか」
A1が声を出した。
平らな声が来た。先ほどの続きを探していた声とは、また違う平らさだった。確認の声が来た。
「……分かりません」
こちらが言った。
「動けそうな気は、します」
「それで十分だ」
A1が、こちらを向いた。
向いた目が——先ほどと同じ目だった。温度のない目が来た。来た目が、こちらを見ていた。見ながら、A1が言った。
「タチバナ・サクラとして、ここにいられるか」
問いかけの形が来た。
来た問いかけを——確認した。確認しながら、手を見た。
光がある気がする手を、見た。
答えが来た。
来た答えを、言葉にした。
「やってみます」
声が来た。自分の声が来た。
来た声が——廃ビルで「続く方」と言った声と、同じ声かどうかが分からなかった。同じかもしれなかった。違うかもしれなかった。
ただ、来た。
来た声が、廊下の木の壁に当たって、少し返ってきた。返ってきた声が——タチバナ・サクラという名前の人間が出した声に、少し似ていた。
似ていた、だった。
A1が動いた。
白い部屋の方向に歩き始めた。
「戻れ。飯が来る」
「飯ですか?」
「食事だ。食べろ」
「……誰が作ったんですか?」
「俺じゃない」
「エイさんが作ったのか聞いてないです」
A1が少しだけ——止まった。止まった時間が、一拍未満だった。
「頼んだんだよ」
廊下を歩いた。
A1の後ろを歩いた。A1の足音が、少なかった。少ない足音の後ろで、自分の足音がした。した足音が——少ない足音の後ろにある、普通の足音だった。普通の足音が——廊下を歩いていた。
木の廊下を歩いていた。
タチバナ・サクラという名前の、普通の足音が——歩いていた。
窓の外の木が、見えた。
見えた木に、光が当たっていた。光が当たった葉が、風で少しだけ動いた。動いた葉が、光を別の方向に返した。
渋谷はここにはなかった。
でも——どこかにあるはずだった。この廊下の窓の向こうのどこかに、まだ渋谷があった。
その事実が——来た。来て、あった。
廊下の突き当たりに、扉があった。
木の扉だった。扉の周りに光が当たっていた。廊下の他の部分と同じ昼の光が当たっていたが、扉だけが少し違って見えた。違う理由が分からなかった。A1に「会わせる」と言われた場所が、この扉の向こうだった、ということが——違って見える理由かもしれなかった。
扉の前で止まった。
止まった理由が——入る前に、何かを考えようとしていた。考えが来なかった。来なかったので、ノックした。
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返事が来なかった。
来なかったが、何かが動いた音がした。動いた後に、また静かになった。
「入れ」という声が来た。
声が来た方向が——扉の向こうだった。扉の向こうから来た声が、アオイの声かどうかを確認する前に、扉を開けていた。
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部屋だった。
白い部屋が来た——自分が目覚めた部屋と同じ種類の白ではなかった。木の壁に白い漆喰が塗られていた。窓があった。窓から昼の光が入っていた。光の量が、廊下で見た庭の木よりも多かった。
アオイが、窓際に立っていた。
立ち方が——公園で見た立ち方と同じ、ではなかった。公園で見た立ち方は「そこにいた」立ち方だった。今の立ち方は「立っている」立ち方だった。その差が言語化できなかったが、来た。
こちらを向いた。
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アオイの顔が来た。
来た顔が——変身した後の顔とも、変身が解けた後の顔とも、廃ビルで「この子を——頼む」と言った顔とも、違う顔だった。どれでもない顔が、窓の光の中にあった。
窓の向こうの庭が見えた。
庭の木が光を受けていた。
アオイが口を開いた。
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「……生きてた」
声が来た。
来た声の質が——廊下でアオイの声を聞いた記憶の声と、少し違った。廊下で聞いた声は、もっと速かった。速く、少し尖っていた。今の声は速くなかった。速くもなく、尖ってもいなかった。
何かが抜けた声だった。
抜けたものの名前が分からなかった。
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「うん。……アオイさんも」
こちらが言った。
言った後に——「アオイさん」という呼び方が、こちらの口から出た、ということに気がついた。気がついたのが、言った後だった。
アオイが窓から離れた。
離れる動作が、ゆっくりだった。窓際に立っていた時とは速さが違う、ということだけが分かった。
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部屋の中央に来た。
来て、立った。
立った場所が——こちらとの距離が、話せる距離だった。こちらを見た。見た目が、こちらを確認している視線だった。確認の内容が何かは分からなかった。
アオイが何かを言おうとした。
言おうとして、止まった。
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止まった時間が——一拍か、それ以上か、あった。
止まったまま、アオイがこちらの顔を見ていた。見ていた間に、こちらはアオイの顔を見ていた。
スマートフォンが、なかった。
気がついたのはそこだった。アオイの手に、スマートフォンがなかった。イヤホンもなかった。それだけだった。それだけが、最初に目に入ったことだった。
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「ごめん」
声が来た。
アオイの声が来た。来た声に——「ごめん」という言葉が入っていた。入っていた言葉の意味が、すぐには来なかった。言葉の意味より、声の質が先に来た。
「なんで」
こちらが言った。
言いながら、言った内容を確認した。「なんで」という言葉が出た。出た言葉が、アオイに届いたかどうかを見た。
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「あなたを巻き込んだから」
アオイが言った。
「来たのは私が決めたので」
こちらが言った。
言い方が、事実の確認だった。謝られたことへの反論ではなかった。「あなたを巻き込んだ」という言葉が、正確ではない、と思ったので、言った。
アオイが、少しだけ——黙った。
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「……そう、かな」
「そう」
アオイが、こちらを見た。
見た目が——さっきの確認の視線と、また少し違う視線だった。違い方が言語化できなかったが、今度は何かを受け取ろうとしている視線だった。
受け取った後に、アオイが目を逸らした。
窓の方を見た。
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しばらく、何もなかった。
何もない時間が——息苦しくはなかった。何もない時間の中に、二人がいた。二人がいて、何もなかった。
庭の木が光を受けていた。窓の向こうで受けていた。
アオイが、光の方を向いたまま言った。
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「妖精が、いない」
声が来た。
来た声が平らだった。平らな声に、今日初めて確認できる何かがあった。何かの正体が分からなかったが、来た。
「スマートフォンを取られた?」
「取られたんじゃなくて」
アオイが少し間を置いた。
「切れた。つながらなくなった」
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「切れた」という言葉が来た。
来た言葉を——確認した。確認しながら、取られたのではなく切れた、という差を確認した。差が、どういう意味を持つのかが分からなかった。分からなかったが、アオイにとってその差が大きい、ということだけが来た。
「……寂しい?」
こちらが言った。
言ってから——なぜその言葉を選んだのかが来なかった。来なかったが、言っていた。
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アオイが、窓の方を向いたまま少し笑った。
笑い方が——声を出す笑いではなかった。顔の表情だけが、少しだけ動いた。動いた動き方を、笑いと呼ぶかどうかが分からなかったが、それに一番近かった。
「不思議と、少し」
声が来た。
来た言葉の中に——「不思議と」という言葉が入っていた。入っていた「不思議と」の意味が、後から来た。寂しいことが不思議だ、ということではなかった。寂しい、ということが来ることが、不思議だった、ということだった。
不思議と、少し。
来た言葉が、どこかに残った。残った場所が、どこかは分からなかった。
---
アオイがこちらを見た。
見た目が、また変わっていた。変わり方が——さっきまでの確認の視線でも、受け取ろうとする視線でも、なかった。
問いかけの視線だった。
「あなたは、これからどうするの?」
声が来た。
来た問いかけを——確認した。確認した、というのが——すぐに答えが来なかった。来なかったが、考えた。考えた結果が、来た。
---
「……分からない」
こちらが言った。
「でも、ここにいることになったみたい」
アオイが、こちらを見ていた。
「サクラ、って言われた」
声が来た。自分の声が来た。来た声の中に「サクラ」という名前が入っていた。入った名前が——アオイに向かって出た。
アオイが、少しだけ間を置いた。
---
「サクラ」
アオイが言った。
呼んだ、というより——繰り返した。声が低かった。繰り返した声の後に、また間があった。
「うん」
「……桃色、か」
「そうらしい」
---
また沈黙が来た。
今度の沈黙は——さっきと種類が違った。さっきの沈黙は何もない沈黙だった。今の沈黙は何かがある沈黙だった。何かが、という何かが、言語化できなかった。
アオイが窓の外を見た。
庭の木が見えた。光を受けた葉が動いていた。
アオイが言った。
---
「戻れる、かな」
声が来た。
来た声が——問いかけの形をしていたが、こちらに向かっていなかった。自分に向かっていた——アオイが自分に言った声だった。
「……K機関が言うには」
こちらが言った。言いながら、A1が言ったことを確認した。
「アオイさんの能力は消えた。でも、アオイさんはいる」
---
アオイが、こちらを見た。
見た目が——考えている目だった。考えた後に、何かが来た。何が来たのかは分からなかった。来た何かが、アオイの顔の上を過ぎた。
過ぎた後に、アオイが少し笑った。
今度は声が来た。
声の笑い方が——廃ビルの前に聞いたことのある笑い方と、少し違った。廃ビルの前の笑い方は「隠す笑い方」だった気がした。今の笑い方は何かを——そのまま出した笑い方だった。
---
「そうだね」
アオイが言った。
「アオイはいる」
来た声が、言葉を確認していた。確認の声だった——誰かに言い聞かせている確認の声だった。誰かが誰かを、こちらには分からなかった。
窓から光が入っていた。
庭の木が動いていた。
アオイが動いた。
---
窓の前に来た。
来て、手をガラスに当てた。当てた手が平らだった。手の平らがガラスに触れた。触れたまま、光の中に立った。
スマートフォンがない手だった。
イヤホンがない耳だった。
それだけが、来た。
---
「行き先、決まった?」
アオイが聞いた。
窓の向こうを見たままで聞いた。こちらを向かずに聞いた。
「決まってないけど、ここにいる」
こちらが言った。
「ここがどういう場所かが分かったら——考える」
---
アオイが少し間を置いた。
「K機関、か」
「そう」
「……A1という人は、どういう人だった?」
来た問いかけが——「人」という言葉を使っていた。「人」という言葉を使ったことに、アオイが気づいているかどうかは分からなかった。
「よく分からない」
こちらが言った。
「でも——信じた」
---
アオイが、ガラスから手を離した。
離した手を見た。見た後に、こちらを向いた。
見た目が——今日最初に見た目とも、公園で見た目とも、廃ビルで見た目とも、違う目だった。どれとも違う目が来た。
「そっか」
アオイが言った。
それだけだった。それ以上は来なかった。
それ以上が来ないことが——何かだった。何かが、という先が、来なかった。
---
光が入っていた。
庭の木が動いていた。
二人が、部屋にいた。
いた時間が——測れなかった。測ろうとしなかった。測ることより、いることが先にあった。
---
A1の足音が廊下から来た。
来た音の少なさで、A1だと分かった。来た音が扉の前で止まった。
「時間だ」
扉の向こうから声が来た。
---
アオイがこちらを見た。
「行って」
声が来た。
来た声に——促す声だった。脅す声でも引き止める声でも、引き留め損ねた声でもなかった。行ってほしい、という声でもなかった。ただ、行くなら行っていい、という声だった。
扉に向かった。
---
扉を開けた。
廊下に出る前に、振り返った。
アオイが窓の前にいた。
光の中にいた。スマートフォンのない手が、体の横にあった。
「また来てもいいですか?」
こちらが言った。
アオイが少しだけ間を置いた。
「……好きにしたら」
---
声が来た。
来た声に——また何かがあった。何かが何かは、来た瞬間には分からなかった。扉を閉じた後になって、少しだけ分かった気がした。
気がしただけだったが。
---
廊下に出た。
A1がいた。
白い衣装が光を受けていた。
「行くか」
「はい」
A1が動いた。廊下を歩いた。こちらも歩いた。
---
木の廊下を歩いた。
歩きながら、部屋に残ったアオイのことを考えた。考えたが、考えの形が——どういう形か分からなかった。
ただ来た。
アオイの「好きにしたら」という声が、来た。
来て、どこかにあった。どこにあるのかは分からなかったが、あった。
部屋が、白かった。
白い部屋が、また来た。目を覚ました部屋と同じではなかった。広さが違った。窓の位置が違った。壁の素材が同じ種類の白だった。同じ種類の白が、別の形で来た。
A1がいた。
A1が扉の前に立っていた。立ち方が、廊下を歩いていた時と変わっていなかった。扉を背にして、こちらを見ていた。
---
机があった。
机の上に、スマートフォンがあった。
スマートフォンを——見た。見た目が、アオイのスマートフォンとは違うスマートフォンだった。違い方が——新しかった。傷がなかった。A1のスマートフォンとも違った。新しい、ということだけが来た。
A1が言った。
---
「確認させてくれ」
声が来た。
来た声が、廊下で聞いた声と同じ声だった。同じ声が、「確認させてくれ」という言葉を運んできた。言葉の意味を確認した。
「何を?」
「君が変身できるかを」
---
変身、という言葉が来た。
来た言葉が——アオイが変身した夜の記憶を連れてきた。連れてきた記憶の中に、藍色の光があった。水が染み込む光があった。
変身する、ということが——自分にできるのかを、こちらは知らなかった。A1が「君は桃色だ」と言った。でも実際に変身したことがなかった。
「できるかどうか分からない」
こちらが言った。
---
「そうだな」
A1が言った。
「でも身体は知っている」
来た言葉が——平らだった。確認の声だった。身体は知っている、という言葉の根拠が何かは分からなかった。分からなかったが、A1が言った、ということだけがあった。
机のスマートフォンを見た。
---
取った。
手に持った。スマートフォンが手の中に来た。来た重さが——アオイのスマートフォンの重さとは違った。違い方が分からなかった。重いか軽いかも分からなかった。ただ来た。
何もしていなかった。
何もしていないのに、スマートフォンの画面が光った。
---
桃色だった。
光の色が、桃色だった。他の色ではなかった。赤でも青でも黄でも緑でも紫でも白でも黒でもなかった。桃色だった、ということだけが来た。桃色が来た。
来た光が——きれいかどうかが分からなかった。きれい、という判断よりも、来た、という事実が先に来た。
A1がこちらを見ていた。
---
胸骨の裏側が、変わった。
変わった、というのが——何かが始まった、ではなかった。何かが開いた。開く、という言葉が一番近かった。封が解けた、でもなかった。蓋が——開いた。
来た感触が、怖かったかと言えば——怖くはなかった。怖くはなく、嬉しかったかと言えば——嬉しくもなかった。来た、ということだけが来た。
---
身体が動いた。
動かした、ではなかった。身体が先に動いた。腕が前に来た。胸の前に来た。来た腕が——広がった。開く、という動作が来た。開く、という動作をしながら、なぜそうするのかが来なかった。来なかったが、身体がそうした。
スマートフォンを液晶面の向こうに向けた。
なぜそうするのかが——来なかった。
---
光が変わった。
画面の光が——外側に向いた。向いた光が、部屋の空気の中に広がった。広がり方が音を持っていなかった。音を持たずに、光だけが広がった。
胸の中心から、何かが来た。
来たものが——色だった。
色が先にあった。物質ではなく、色が先に来た。桃色が、胸の中心から広がり始めた。
---
広がる速さが——速くも遅くもなかった。
何かと比較できなかった。アオイの変身は「染み込む」だった。カノンの変身は「燃え広がる」だった。それらと比べるための言葉を探した。
来なかった。
比べるものがなかった。「開く」、だった。開いている、ということだけがあった。
---
内的に——何も来なかった。
来なかった、ということが来た。変身しているはずなのに、変身している感触が来なかった。何かが広がっているのに、それを自分が感じている、という感覚が来なかった。
起きている、ということだけがあった。
起きていることを、自分が感じているのではなかった——起きていることを、誰かが感じているのかもしれなかった。感じているのが自分かどうかが、来なかった。
---
A1を見た。
変身の途中で——A1を見た。見た理由が分からなかった。でもA1を見た。
A1が、こちらを見ていた。
見ていた目が——温度のない目だった。温度のない目が、こちらを見ていた。見ていた、ということだけがあった。温度はなかったが、見ていた。
それが——何かだった。何かが、という先が来なかった。
---
声が来た。
来た声が、自分から来た。来た声の内容が——「始めます」、という言葉だった。
言葉が来てから、自分が言ったと分かった。来た言葉の意味が——なぜその言葉を言ったのかが——来なかった。でも言った。言った言葉が、部屋の木の壁に当たって、少し返ってきた。
「始めます」という言葉が、返ってきた。
---
光が、引いた。
引いた光が——消えた。消えたのではなく——収まった。収まった場所が、分からなかった。収まった後に、空気の温度が戻った。戻り方が、変わっていた。変わり方が分からなかった。ただ、変わっていた。
自分の手を見た。
---
右手にあった。
バトンのような何かが、右手にあった。いつ来たのかが分からなかった。変身の途中で来たのか、変身が終わった後に来たのかが——来なかった。あった、ということだけがあった。
持っていた。
持っていたが——持った感触が、薄かった。重さがなかった、ではなかった。重さはあった。でも、持っている、という感触が——自分の手のものとして来なかった。
---
A1が動いた。
一歩こちらに向かって動いた。動いた後に、止まった。止まった場所が、さっきまでいた場所より近かった。
こちらを見た目が——変わっていた。
変わり方が——分からなかった。さっきと同じ温度のない目だった。でも、さっきとは何かが違った。違いの名前が来なかった。
---
「確認できた」
声が来た。
来た声が平らだった。
「これでいいの?」
こちらが言った。
言った後に——「これでいいの」という問いの意味が分からなかった。何がいいのかを、問いの形で出した。出した問いが、自分でも何を問いているのかが来なかった。
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A1が、少しだけ間を置いた。
間の長さが——さっきまでのA1の間とは、少し違った。少しだけ長かった。
「何がいいのかは、まだ分からない」
声が来た。
「なにそれ」
こちらが言った。
A1が——また少しだけ間を置いた。
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「あなたも、私も」
声が来た。
来た言葉が——「あなたも、私も」という言葉だった。来た言葉を確認した。確認したが、確認できなかった。確認できなかったが、来た言葉はあった。
右手のバトンが——消えた。
消えた、というのが——来た時と同じ速さで来なかった。気がついたら消えていた、という消え方だった。
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普通の格好になっていた。
自分の手を見た。バトンのない手が来た。スマートフォンを持っている手が来た。スマートフォンの画面が消えていた。消えた画面が、ただのガラスの板だった。
窓があった。
窓から昼の光が入っていた。
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A1が言った。
「疲れたか」
「……分からない」
こちらが言った。
「疲れている感触があるか、ないか分からない」
A1が少しだけ間を置いた。
「それが答えだ」
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来た言葉の意味が——来なかった。
来なかったが、A1が言った、ということだけがあった。
「もう一つ聞いていいですか」
「また聞くのか」
A1の声に——何かが来た。来たものが何かは分からなかったが、来た。
「変身、怖くなかったか?」
来た問いが——こちらに向けられていた。A1が自分に向けた問いが来た。こちらが聞いたのではなく、A1が聞いた。
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考えた。
考えた内容が——怖かったかどうかを確認した。確認した結果が来た。
「怖くは、なかった」
「なぜだ」
「分からない。でも、何かが起きていた」
「起きていたことを、感じなかったのではなく?」
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少し間を置いた。
「感じた」
こちらが言った。
「でも感じ方が——誰かが感じているようだった。自分が感じているのか、確認できなかった」
A1が動かなかった。
動かないまま、こちらを見ていた。見た時間が——短かったが、あった。
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「そうか」
A1が言った。
声に、さっきの廊下での声とは違うものが来た——来た気がした。来た気がした、だけだったが。
「それは怖くなかったか」
「怖くは、なかった」
「なぜ?」
「……それも、分からない」
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A1が、また少しだけ間を置いた。
「正直だな」
「正直かどうかが分からない。分からないことが、多すぎて」
A1が——止まった。
止まった時間が、いつもより長かった。長かったが、A1は何も言わなかった。何も言わない時間が来て、そのまま止まっていた。
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窓から光が入っていた。
昼の光が入っていた。光の中に、二人がいた。
A1が言った。
「私も、そうだ」
声が来た。
来た声が——平らだった。しかし今日聞いてきた声の中で、最も何かが混ざっていた声だった。
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来た言葉を確認した。
「私も、そうだ」という言葉を確認した。「私も」という言葉が——何の「私も」なのかが、来た。
分からないことが、多すぎる、ということが——「私も、そうだ」だった。
それが来た。
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光の中にいた。
二人が、それぞれの位置で、光の中にいた。
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「食えるか?」
A1が言った。
声が来た。声の温度が、また変わっていた。変わり方が——事務的だった。さっきの何かが混ざった声から、事務的な声に戻っていた。
「……食べれると思います」
「なら食え。今日は動きすぎた」
「エイさんが言うことかなそれ」
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A1が少しだけ——止まった。
止まった時間が、一拍以下だった。
「立て」
声が来た。
扉の方向に向かって動き始めた。動き始める前に、こちらを見なかった。見なかったが、こちらが立ち上がることを前提にして動いた。
立った。
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立てた。
立てた、ということが——来た。来たことが、少し不思議だった。变身した後に立てた、ということより——変身した、という事実がまだそこにあることが不思議だった。変身した自分が、まだここにいる。
A1の後ろを歩いた。
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廊下を歩いた。
廊下の木の壁が来た。木の床が来た。窓の向こうの庭が来た。庭の大きな木が光を受けていた。
歩きながら、右手を見た。
右手が来た。バトンのない手が来た。光があった手が来た。光があるような気がした手が——今も、あるような気がした。気がしただけだったが。
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気がしただけだった。
でも来ていた。来ていた。
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廊下の先に食堂のようなものがあった。
あった、ということが来た。
A1が中に入った。こちらも入った。
食事があった。
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食事を食べた。
食べながら、A1がいた。A1が何も言わずにいた。いた、ということだけがあった。
食べた。
食べられた。
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食べ終わった後に、窓を見た。
窓の向こうの庭に、木があった。光の中に木があった。光が当たった葉が、風で動いた。動いた葉が光を別の方向に返した。
渋谷はここにはなかった。
でも、渋谷はどこかにあった。この窓の向こうのどこかに、渋谷はあった。界隈はあった。アオイがいた夜が——あった夜として、どこかにあった。
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タチバナ・サクラという名前の人間が、食堂の窓の前に座っていた。
座っていた人間の右手が、ここにあった。
始まる、ということが——来ていた。
来た始まりが、どういう形の始まりなのかを——まだ知らなかった。
ただ、来ていた。
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外はまだ昼だった。
昼が、窓から来ていた。
渋谷のどこかで、今も誰かが何かをしていた。しているはずだった。しているかどうかも分からなかった——でも、渋谷はそこにあった。
その事実が——来た。来て、あった。