アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
1.ジャスミン・ルージュ-Jasmin Rouge-
目覚ましより先に目が覚めた。
理由は分からなかった。暗い。カーテンの向こうが完全に夜のままで、時刻は5時43分だった。二度寝できるはずの時間なのに、身体がそれを選ばなかった。布団の中で少しの間じっとしていたが、そこに戻る気配がなかった。
起き上がって、まずスマートフォンを手に取った。
ロック画面に通知が積まれている。コメント欄の返信、タグ付けの知らせ、あと昨日の深夜に配信した切り抜きが誰かのアカウントで回っているらしく、そのリポストの通知が断続的に入っていた。ひとつひとつ確認はしない。ホーム画面を開いて、投稿のページに直接飛ぶ。
数字を見る。
昨夜の段階では13,000台だったいいね数が、今朝には18,400まで伸びていた。コメント欄は一晩で二百件以上更新されている。見てた、かわいかった、もっとやってほしい、ずっと好き——全部読まないけど、全部確認する。これが毎朝の順番だった。これをしないと、何か別のことが始まらなかった。
「おはよう、キヅキ」
イヤホンを耳に入れたわけでもないのに、妖精の声が来た。スマートフォンのスピーカーからではなく——内側から来るような感触。慣れてしまっていて、もう「おかしい」とは思わない。
「昨日の配信、2.3万見てたよ。途中のあそこ——ちょっと声のトーンを落としたとこ、あれ良かった」
具体的に褒める。いつも、妖精は具体的だった。「良かった」で終わらない。どこが、どう良かったかを言ってくる。それが気持ちよかった。気持ちよくて、少しだけ嫌だった——なぜ嫌なのかは、考えないようにしていた。
「ありがと」とキヅキは言った。声に出すと喉が乾いていることが分かった。
コメント欄をスクロールする。
好意的なもの、質問、もっと聞きたいという意味のもの——それを読んでいる間、何かが満ちていく感触があった。数字とコメントと、こちらに向かってくる言葉の量。それが重なっていくたびに、自分の輪郭が少しはっきりする感じがあった。薄かったものが、塗り重なっていくような。
でもそれは、何かが先に薄かったということだった。
薄かったものが何なのかは、まだ問いの形になっていなかった。
壁が薄い。
二間半の、古いアパートの一室だった。正確には「親が使っていた会合用の部屋」で、自分の部屋というより、自分がそこに住んでいる、という感じに近い。押し入れを開けると、まだ段ボールが積んである。引っ越してきたのは三年前のはずだが、開けていない箱がある。
隣の部屋から音がしている。親の気配だ。
教団から出た、というより、「来なくなった」という感じで、今は手続きの問題と金の問題で接触があるだけだった。「あなたには才能がある、もっと使え」——集会でそう言われたのは、たぶん十二歳か十三歳のころだ。子どもが信者の前でマイクを持って話す、という機会が年に数回あって、キヅキは毎回それをうまくやった。
うまくやったというより、うまくできるから余計に苦しかった、ということに気づいたのは、ずっと後のことだった。
教団から離れた今も、その言葉だけは手元に残った。「才能がある、使え」——意味は変わった。場所が変わった。でも言葉の形はそのままで、今も朝に起きてスマートフォンを開かせる何かとして機能していた。
「才能を使え」が教団のためではなく自分のためになった、と言えば聞こえはいい。
そうなのかもしれなかった。そうでないのかもしれなかった。
今朝は、それを考える気分でもなかった。
台所に行って水を飲んだ。
親が何か言った。短い言葉で、内容は聞き取れなかった。「うん」と答えた。何への「うん」か分からなかったが、「うん」で済む話題しか、今は来ない。
窓の外が少しずつ明るくなっていた。池袋の朝は、光が変な方向から来る。ビルの反射で、東とは全然別のところが先に白くなる。空の色より先に、ビルが光を持つ。
キヅキは今夜のことを考えた。
金曜日だから、NOISE BOXが使える。今夜で13回目になるイベントだった。演者は自分一人で、マイクと少しの機材と、来た人間だけがいる場所。「どういう人が来るの」と聞かれたことがある。家出してきた子、不登校の子、どこにいるか決めてない子——そういうふうに答えると、「場所は大丈夫なの」と必ず聞かれる。
場所は大丈夫だ。来たい人が来て、帰りたい人が帰る。それだけだった。
もっとも、それだけ、と言えるようになるまでに時間がかかった。最初の数回は「誰も来なかったらどうしよう」という気持ちがあった。来なかったらおしまい、という感触が、どこかにあった。
今はそれが薄れている。
薄れた理由が「続いているから」なのか「来てくれる子が増えたから」なのか、あるいはもっと別の何かなのかは、はっきりしなかった。
スマートフォンを見ると、妖精の声がまた来ていた。
「今日の夜、いつものやつ?」
「うん」
「絶対よくなるよ。毎回ちゃんと良くなってる」
毎回ちゃんと良くなってる。その言葉を、キヅキは少しの間だけ止めて考えた。「良くなってる」が何に向かっての「良い」なのかを、妖精は言わなかった。自分も聞かなかった。
どこかに向かって良くなっている、という感触は確かにある。でもどこに向かっているかは、キヅキには今のところ見えていなかった。
制服に着替えながら、コメント欄を少しだけもう一度確認した。
一件、「声が聞きたくなる」という短いコメントがあった。「声が聞きたくなる」——それだけの言葉で、送り主のアカウントを開くと、最近アカウントを作ったばかりの、フォロワーが20人もいない人間だった。
キヅキはそのコメントをしばらく見ていた。
数万のいいねより、「声が聞きたくなる」の方が、何かが先に届く場合がある。何がどう違うのかを言語化できないけれど、でもある。そういうことがある。
「届く」とはどういうことか、と聞かれたら、今のキヅキには答えられなかった。
届いた先に何があるかも、届けるためにどこまで声を出せばいいかも、よく分からなかった。でも声を出せば何かが動く、ということだけは、何度やっても変わらなかった。
それで今日も、動ける。
キヅキはスマートフォンをポケットに入れて、制服のジャケットの前を閉めた。鏡の前で一秒だけ自分の顔を見て、それから部屋を出た。
廊下で親と鉢合わせた。「行ってきます」と言ったら「うん」と返ってきた。
玄関を出る。
朝の池袋の空気が来た。まだ完全には起きていない街の、少し灰色の空気。
キヅキは歩き始めた。
話すことはまだ頭の中にない。でも今夜、マイクの前に立てば何かが来る、ということは知っていた。いつもそうだった。立つと来る。来るから立つ。どちらが先かは分からないが、その順番で、今のところうまく回っていた。
——聴こえてる?
心の中でだけ、誰に向けるともなく呟いた。答えは来なかった。来なくても、足は動いた。
渋谷円山町のビルはどこが入口か分かりにくい。一階が鉄扉で、インターフォンのボタンが三つ並んでいるが、ラベルが全部剥がれていて、どれを押せばいいのか毎回迷う。毎回迷うのにもう三ヶ月通っているキヅキは、今日も一番上を押して、五秒待って、鉄扉がブザー音とともに開錠されるのを待った。
スタッフが出てこない。出てきたことがない。出てくる必要がないから出てこない——それがNOISE BOXという場所の運営方針らしかった。「らしかった」というのは、キヅキが誰かから聞いたわけではなく、三ヶ月のうちにそういうものだと理解した、ということだ。
地下一階のスペースが今夜の場所だった。
階段を下りると、廊下の先にある受付カウンターに女の人が座っていて、「今日で13回ですね」と言った。確認のような言い方で、ねぎらいではなかった。キヅキは「はい」と答えて機材室から機材を借りて、本番前の三十分でセッティングをした。
スペースは縦長だった。奥行きがあって、その分だけ「どこにいても同じように聞こえる」構造になっている——音を吸う壁材のせいで、ここに来ると外の音が全部なくなる。池袋の雑踏も、電車の音も、別の話になる。音の箱の中に入った、という感触だけが残る。
キャパシティは一応200人だが、今夜は70人くらいだった。
来る人の顔ぶれは固まってきた。半分くらいはリピーターで、残りの半分が毎回入れ替わる。リピーターの子たちが新しい子を連れてくることもある。「つながり」という感じではなく——もっと曖昧な、「ここに来たら誰かがいる」という引力に近いもので動いている。キヅキがそれをやっているわけでもなく、気がついたらそうなっていた。
21時になって、キヅキがマイクを持った。
スポットライトが一つ。シンプルな機材。PA込みで月に四回借りると五万円かかって、それは今のところ全部キヅキが出している。赤字ではない——ギリギリ赤字ではない程度で回っている。
「えと、今日で13回目になりました」
マイクの前でそう言ったら、静かにそれを聞く顔が、スペースの奥まで並んでいた。
「よく続いてると思う。ありがとうございます、来てくれて」
声が出た瞬間に、何かが変わった。
変わった、というのは大げさかもしれないが——でも変わる。キヅキ自身が一番よく知っている。マイクを持って声を出すと、空間の空気が少し別のものになる。全員の顔がこちらを向く。物理的に向いているのは当たり前だが、そうじゃなくて——注意が来る。70人の注意が、一本の線になって向かってくる感触。
この感触に名前をつけたことがなかった。つける必要がないから。ただ、あった。
「最近ちょっと話したいことがあって——というか、毎回そうなんだけど。いつも何かあるんですよね、話したいことが」
笑いがほんの少し起きた。小さくて、でも確かにあった。
「今日は——宗教の話、しようと思います」
空気が変わった、というより、静かになった。静かだったのが、もっと静かになった。
「宗教」という単語を出すたびに会場の温度が一段下がる——どんな場所でも、界隈の子たちが集まる場所でも、そうなる。自分のことを話す場合はなおさらだ。キヅキはそれを知っていて、知っているから先に言う。静かになってから話す方が、届く。
「自分が宗教2世で、ということは最初の回にちょっと触れたんですけど、今日はもう少しちゃんと話そうかと。ちゃんと、っていうか——自分が覚えてる範囲で」
一度、マイクを口から少し離した。
「親の教団の集会で、小学生の頃から喋らされてたんですね。子どもが信者の前でマイクを持って話す、みたいな機会が年に何回かあって。それをやると、みんなが聴いてくれた。大人が100人いて、全員が自分の話を聴いてる——その感触が、すごかった」
「すごかった」で一拍置いた。
「今でもたぶん、そこから来てるんだと思う。この場所でやってるのも。マイクを持って、誰かの顔を見て話すっていうことが——好きで、続けてる」
それだけ言ったら、また少し笑いが起きた。今度は温かい種類だった。
イベントの中盤ごろに、一番後ろの壁際にいた少女が泣き出した。
キヅキが気づいたのは、周りの子が少し体を引いたからだった。泣いている子から距離を取るのではなく——何かが起きていることに気づいて、どうしたらいいか分からなくて、少し固まった。そういう種類の「引く」だった。
少女は立ったまま泣いていた。蹲るでも座り込むでもなく、ただ立ったまま、顔を覆わずに、涙が顎のラインを伝っていくのを放置していた。18か19かそのくらいの、バッグだけ持ってる子。荷物が少ない。
キヅキはマイクを持ったまま、しばらくその子を見た。
「……ちょっと待って」
場に向けて言った。場が待った。
マイクスタンドに一度マイクを戻して、そのまま歩いた。スペースの後ろまで行くのに十二歩くらいかかった。少女のそばまで来て、隣に立った。
「大丈夫?」
声が届いたかどうか分からなかった。少女は顔を覆った。
しばらくそこにいた。何も言わなかった。何か言う必要があるとは思わなかった。ただ隣にいた。
一分くらいして、少女の呼吸が少し変わった。荒かったのが、遅くなった。
「……昨日から家出てきて」
少女が言った。小さい声だった。でも場が静かだったから、たぶん全員に聞こえた。
「どこ行くか決めてないのに出てきた。お金もあんまりないし。今日ここ来たのも、たまたま通ったビルにポスター貼ってあったから」
「来てくれてよかった」
キヅキはそう言った。言ったら、また少し泣き出した。
「……ここって、どんな人でも来ていいんですか」
「どんな人でも来ていいですよ」
「帰る場所ない人でも」
「帰る場所ない人でも」
少女が両手で顔を拭いた。しっかりした動作だった。泣いてはいるが、泣いていることに動揺していない。自分が泣いていることを知っていて、それでも立っていられる人間の泣き方だ、とキヅキは思った。
マイクを持ちに戻って、少女に手招きした。
「一個だけ聞いていい?」とマイクを通さずに声をかけたら、少女がゆっくりこちらに来た。
マイクを渡した。
少女が少し戸惑った顔をした。周りの子たちが見ている。スポットライトが一つしかないから、少女の顔も照らされた。照らされた顔が少し青ざめた——が、逃げなかった。
「……何、話せばいい?」
「何でもいいです。今日、何があったかとか」
「……今日、ちゃんとご飯食べてないんですよね」
「うん」
「朝からコンビニのおにぎり一個だけ食べて、お金足りなくて。夜は食べてないです」
「そっか」
「なんか——お腹すいてることも、今まで忘れてた」
場に小さい音が起きた。笑いではなく、何かが動いた音だった。
「ここで話してたら、急にお腹すいてくるの気づいた。なんか、急に自分の感覚が戻ってきた感じがして——」
少女の声が途切れた。途切れた先を、誰かに埋めてもらうわけでもなく、スペースの空気がそのままそれを受け取った。
キヅキが場に向けて言った。
「終わった後、一緒にご飯行ける人いる?」
十秒以内に五人の手が上がった。
イベントが終わった後、少女——名前はマイで、19歳だと最後に自己紹介した——は八人に囲まれて近所の定食屋に消えていった。キヅキには声がかかったが断った。「いてあげた方がよかったかな」と後から思ったが、「いなくてよかったかもしれない」とも思った。どっちが正しいかは分からなかった。
機材を片づけながら、妖精の声が来た。
「よかったね、今日。あの子、マイクうまく渡せた」
「うん」
「みんなも良い顔してたよ。後半、ずっと」
「そうだったかな」
スピーカーのケーブルを巻きながら答えた。妖精の言う「良い顔」が何を指しているのか、少し考えた。感動している顔、なのか、場が温まった顔、なのか、何かが動いた顔、なのか——同じ顔に見えても、中身は違うかもしれない。
「次の回もあれくらいできるといいね」
「……うん」
できる、できない、という話ではない気もした。でもそれを妖精に言う言葉を持っていなかった。
マイのことがひとつ、頭に残った。
「お腹すいてることを忘れてた」という言葉が。
自分の感覚が分からなくなる、ということが——キヅキには少し分かる気がした。正確には、分かる気がした、ということが分かる気がした。自分の中にある感覚と、今自分がしていることの間に、たまにズレが生まれる。「やりたいからやっている」と「やっているからやっている」の区別が、気がつくと曖昧になっている。
でも今夜、マイが「お腹すいてくるの気づいた」と言ったとき——その言葉を聴きながら、キヅキは舞台の端に立って、70人の顔を見ていた。顔を見ていたら、何かがあった。全員の顔がそれぞれ別の形で動いていた。「感動した」という同じ言葉で括れない種類の、それぞれ違う動きが、70個あった。
届いた、と思った。
ただし、それが「マイの言葉が届いた」なのか「キヅキが作った場所に届いた」なのか「キヅキ自身の声が届いた」なのかが、区別できなかった。どれかを区別する必要があるかどうかも分からなかった。「うまくいった」という言葉の内側に何が入っているかを、開けて確かめない——それで今のところ動けているから、そのまま閉じておいた。
片づけが終わって、地上に出たら、渋谷の夜の音が戻ってきた。
NOISE BOXの中では全部なかった音が、一気に来た。車の音、人の話し声、どこかの店から漏れる音楽。音の量が違いすぎて、一瞬だけ自分がどこにいるか分からなくなった。
あ、外だった、と思った。
それだけだった。
スマートフォンを出したら、通知が来ていた。イベント中にスマートフォンをずっとポケットに入れていたから、この一時間半で溜まった分だ。コメント欄の更新、さっきの配信のリポスト、あとフォロワーが増えた通知。数を確認して、それだけ確認した。
「おつかれ、キヅキ。今日も良かったよ」
妖精の声が来た。
「ありがと」
歩き始めた。円山町の坂を上がって、渋谷の方に向かった。帰り道はいつも少し遠回りをする。乗り換えが楽だからではなく——早く電車に乗りたくない気分になることが多いからだ。
なんとなく、そうだった。なぜかは分からなかった。