アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
片づけの途中で、声をかけられた。
機材室に返す荷物を両手に持って、地下の廊下を歩いていたときのことだった。NOISE BOXの入口付近——地下に降りてくる階段と、地上に出るドアの中間くらい——に、一人の男が立っていた。
「お疲れ様でした」
最初に来たのがそれだった。「今日、見ていました」でも「良かったです」でも「ちょっといいですか」でもなく、「お疲れ様でした」だった。場違いではなかった。不自然でもなかった。少し、予想外だった。
「あ、どうも」
とキヅキは答えた。両手が塞がっているので立ち止まるしかなかった。機材のケーブルが一本、片方の手から垂れ下がっていた。
男は40代かそこらで、清潔感があった。服が高いのは分かるが、見せびらかしていない。色が落ち着いている。黒とグレーの混じった、特別に目立たない服装だった。靴が少し光っている。全体的に「気を遣っている」感じがしたが、そのことを主張してくるタイプではなかった。
「荷物、機材室ですか」
「はい」
「お持ちします」
「いや、大丈夫です」
「そうですか」
引かなかった。しかし押しもしなかった。ちょうどいい場所で「そうですか」と言って、そこに立っていた。キヅキが機材室に荷物を返す間、男はドアのそばで待っていた。待つように言ったわけでもないのに、待っていた。返し終わって廊下に出てきたら、まだそこにいた。
「名刺を渡してもいいですか」
聞いてから出すタイプだった。渡す前に聞く人間は少ない。キヅキは少し考えてから「はい」と言った。
名刺を受け取った。薄いクリーム色の、角が丸い紙だった。
「黄瀛 貢一」という名前と、「フリーランス・マーケター」という肩書と、メールアドレスが一行。それだけだった。電話番号もSNSのIDも書いていなかった。
「今日のイベント、最初から最後まで見ていました」と男——黄瀛貢一は言った。
廊下に立ったままだった。階段の方に向かいながら話している。移動の方向は同じで、歩くテンポも合っていた。
「どこで知ったんですか、このイベント」
「ネットで見かけて。来るかどうか迷ったんですが、今日、たまたま渋谷にいたので」
たまたま、という言い方だった。でも「最初から最後まで見ていました」と言った。矛盾はしていないが、計算されている感じはした。計算されているが、それを隠していない——隠していないことで、警戒しにくくなる構造だ、とキヅキは思った。
「あなたの話し方、特別ですね」
言われたことは何度もある。「うまい」「話し方が好き」「もっと聴いていたかった」——それは聞き慣れている。でも「特別ですね」は少し違った。違い方がはっきりしなかった。
「……どういうところが?」
聞かずにいられなかった。
「声の使い方が体で分かっている人の話し方、というか」
貢一が少し考えるような間を置いた。考えた上で言っている感じがした。
「空気が変わった瞬間が、今日3回あった」
「3回」
「最初が、宗教の話を出したとき。2回目が、後ろの子のそばに歩いていったとき。3回目が——マイクを渡した後に、自分は引いたとき」
数えていた。
それだけではなく、「どこで変わったか」を言えた。場の空気が動いた瞬間を、キヅキは自分で数えていない。変わったことは分かる。どこで変わったかは、体で知っている。でもそれを言葉にして人に言える人間が、今まであまりいなかった。
「……ちゃんと見てたんですね」
そう言ったら、「はい」と返ってきた。余計な言葉がなかった。
地上に出たところで止まった。
渋谷の夜の音が戻ってきた。車と人と音楽が重なっていた。NOISE BOXの中では全部なかった音が、ドアを一枚出たら一気に来た。貢一が少し周囲を見て、「少し話せますか」と聞いた。
「立ったままで大丈夫なら」
「はい、それで十分です」
そう言って、ビルの壁面に少し寄った。人の流れを遮らない場所を自分で選んだ。気が利く人だ、という印象を持ってから、それが「気が利くように見える人だ」なのかもしれないとキヅキは思った。どちらも今のところ確かめる方法がなかった。
「私は複数のSNSアカウントを運用しています」
貢一が言った。
「合計フォロワーで、数百万になります」
「……そうなんですか」
「あなたの発信を手伝えることがあれば、と思ってお声がけしました」
「手伝えることがあれば」という言い方だった。「一緒にやりませんか」ではなかった。「あなたのためになる」という感じでもなかった。ただ「手伝えることがあれば」と言って、後ろに何も足さなかった。
怪しい、とは思った。
SNS数百万フォロワーがランダムに夜のNOISE BOXを見にくる、ということはたぶんなかった。「たまたま渋谷にいたので」という説明には穴がある。でもキヅキが今それを問い詰める気分でもなかった。
問い詰めたい気分にならなかった理由が、少しはっきりしていた。
「3回」と言われたことが、先に来ていたからだった。
「……具体的には、どういうことをするんですか」
「あなたが話したいことを、話す。それを映像にして、届く場所に出す」
「届く場所、というのは」
「私のネットワークを使って、今より広い層に見てもらえるようにする、ということです。内容はあなたが決めていい」
「内容はあなたが決めていい」と言った。
この言い方が少し上手いな、と思った。思ったが、上手いというのは事実でもあった。内容を決めてくるタイプの話なら、まだ警戒しやすかった。「あなたが決めていい」と言われると、断る理由の一番手前にあるものが、先に崩れる。
「——やってみませんか、じゃないんですね」
気がついたら言っていた。
「はい?」
「普通、『やってみませんか』って言いそうなのに、言わないな、と思って」
貢一が少しの間、キヅキを見た。値踏みではなかった。何か確かめているような、でも「確かめている」とも言いにくい種類の間だった。
「言ってしまえばそうなりますが」と貢一は言った。「そういう可能性もあるかな、と思っています、の方が今は正確です」
正確です、という言い方をした。
連絡先だけ交換することにした。
「考えてみます」と言った。貢一は「はい、よろしくお願いします」と答えた。急かしてこなかった。期待した顔も作らなかった。名刺の裏に連絡先をもう一行書き足して、渡してきた。それだけだった。
「今日のイベント、本当に良かったです」
別れ際にもう一度言った。ここで初めて、「良かったです」という形で言った。最初には言わなかったのに、最後に言った。
キヅキは「ありがとうございます」と答えた。
答えながら、「今日のイベントの何が良かったのか」という問いが少し動いた。マイが声を出せたことなのか、手が挙がったことなのか、あの空間が変わった瞬間のことなのか——貢一が「良かった」と言うときの「良かった」が指しているものが、自分が「うまくいった」と思ったものと同じかどうかを、確かめていなかった。
でも確かめる前に「ありがとうございます」と言ってしまったから、もう聞けなかった。
円山町の坂を上がりながら、妖精の声が来た。
「なんか面白い人と話してたね、キヅキ。見てたよ」
「見てたの」
「いつも見てるじゃん」
そうだった、とキヅキは思った。いつも見ている。カメラを通して見ている——それをアオイさんから聞いたことがあった。前に、渋谷の公園で。
「あの人のこと、どう思った?」
「いいと思うよ」
妖精の答えは早かった。考えた上での「いいと思うよ」ではなく、最初から「いい」と決まっていたような速さだった。
「なんで?」
「だってキヅキのこと、ちゃんと見てたじゃん。数字が動く人だと思う。あなたと組んだら、すごいことになりそう」
「すごいことになりそう」。
その言い方が、少しだけ何かに似ていた。でも何に似ているかが言語化できなかった。
「……そうだね」
とキヅキは答えた。答えながら、貢一の名刺を上着のポケットに入れた。角が丸い、クリーム色の、薄い紙。「フリーランス・マーケター」という肩書しか書いていない紙。
渋谷駅の方向に歩いた。
「ちゃんと聴いていた」という事実が、まだ手の中にあった。
電車の中で名刺をもう一度出した。
「3回」と言われたことを考えた。宗教の話を出したとき。後ろの子のそばに歩いていったとき。マイクを渡した後に引いたとき。
3回、というのは正確だった。自分でも今夜、「変わった」と思ったのはその3回だった。回数じゃなく、瞬間の話として。
でも。
「3回あった」というのと、「3回を知っている」というのは、少し違うかもしれなかった。見ていれば分かる、ということと、何のために数えていたか、ということは別のことだった。
名刺を折り畳んで、スマートフォンケースの内側に挟んだ。
電車が揺れた。扉のガラスに自分の顔が映った。ちゃんと映っていた。
「——聴こえてる?」
声に出したら、同じボックスに乗っていた女子高生二人組が少しこちらを見た。すぐ話に戻った。聞こえたわけじゃないだろうと思った。
妖精は「聴こえてるよ」と言った。
そうじゃなくて、とは言わなかった。電車が揺れ続けた。
カラオケボックスに入ったのは、帰りの電車に乗る前だった。
特に考えてそうしたわけじゃなかった。渋谷駅の地下に降りていく途中で、足が止まった。止まってから「カラオケに行こう」という考えが来た。順番が逆だったが、そういうことは割とある。
豊島区に帰るより先に、先に何かが必要だった。
池袋に何軒かあるカラオケチェーンの中で、窓のない最小の個室があるのは1軒だけだった。渋谷からだと少し遠いが、わざわざそこへ行く。広い個室は要らない。窓が要らない。外が見えない、外の音が入ってこない、その条件だけで選んでいた。
部屋に入って、鍵を閉める。
デンモクを手に取って、何も入力しなかった。音楽なしのドリンクバーのみのコースで入った。時間は一時間。だいたいいつもそうする。
椅子に座って、壁を見た。壁は薄い赤の布張りで、防音材が入っているのかどこかが柔らかそうに見えた。何も映っていない画面。音のない部屋。
声を出さなくていい場所、というのが正確だった。
声を出したくないわけではなかった。ただ、出さなくていいという条件が、たまに必要だった。
スマートフォンを机の上に置いた。
妖精の声が来た。
「今日もよかったよ、キヅキ。あの子、マイク持ったとき——顔変わったよね」
「うん」
「あれ、最高だった」
最高だった。そうかもしれなかった。マイが話し始めた瞬間の、場の空気の変化は、キヅキも感じていた。場を作ったから場が動いた、という手応え。それは確かにあった。あったが。
「最高」という言葉が今日は少し速かった。
考える前に来た。
「……ねえ」とキヅキは言った。
「なに」
「貢一さんのこと、どう思った。さっきの」
「いい人だと思う」
「そう」
「ちゃんと見てたじゃん。数字が動く人だと思う、って言ったじゃん」
そうだった。言っていた。妖精の「いい」は、いつも具体的な根拠がある。「数字が動く」という観察は事実だった。
でも。
「数字が動く」というのと「ちゃんと見ていた」というのは、同じ意味で使われていた。キヅキはそこが少し引っかかった。引っかかったが、その引っかかりが何なのかを言葉にする前に、考えがどこかへ行ってしまった。
壁を見ていた。
貢一は「3回」と言った。
宗教の話を出したとき。後ろの子のそばに歩いていったとき。マイクを渡した後に引いたとき。
3回。正確だった。自分でも今夜「変わった」と感じたのはその3回だった。
ただ。
「変わった瞬間を見ていた」のと「なぜ変わったかを知っていた」のは別のことだった。見ていれば分かる、というのと、何のために数えていたか、というのも別のことだった。貢一が「3回」と言ったとき、キヅキは「ちゃんと聴いていた」と思った。思ったのは本当だった。でも貢一が「3回」という数字を持ったのは、見るためではなく——
そこで考えが止まった。
止まって、先に行かなかった。
先に行かないのは、行き先が分からないからか、行きたくないからか、どちらか分からなかった。
「ねえ」とキヅキはまた言った。
「なに」
「最初のこと、覚えてる?」
少しの間があった。
「覚えてるよ」と妖精は言った。「あの夜のこと?」
「うん」
「東池袋の公園」
「そう」
数ヶ月前のことを考えた。
あの時も池袋だった。深夜の、誰もいない公園。東池袋の、名前のついていないような小さい公園で——正確には名前はあるのだろうが、覚えていない。ベンチが二つと、錆びかけたブランコと、砂場の跡だけがあった。砂場は今は使われていなくて、砂の代わりに細かい砂利が入っていた。
なぜ深夜にあそこにいたのかは、今となっては少しあいまいだった。誰かに会いに行ったわけではなく、帰るのが面倒で降りた駅があそこだっただけで、それだけで深夜の公園のベンチに一人でいた。スマートフォンをいじっていた。妖精と話していた。
そこに、来た。
音はなかった。
気配だけがあって——「いる」と分かった瞬間に、もう向かいのベンチのあたりに立っていた。
人の形をしていた。でも制服でも私服でもない何かを着ていて、全体が白っぽかった。白というより、色がなかった。後で思うと、変身していたのかもしれなかった。あの時はそういう概念がなかったから「なんか変な人がいる」くらいにしか思わなかった。
「その色」と、その誰かが言った。
声が低かった。低いが、感情が少なかった。「その色よこせ」——それだけだった。何の色のことを言っているのか、意味が分からなかった。
「は?」
「持ってるでしょ。渡して」
意味が分からないまま、でも「渡さなくていいと思う」という判断だけは来た。渡す必要がない。根拠はなかったが、そう感じた。
「何の話してるか分かんないんですけど」とキヅキは言った。
相手が一歩近づいてきた。
妖精が言った。
「変身できるよ」
耳の内側から来る声で。落ち着いた声で。
「キヅキの声で、もっと大きなことができる」
意味は分からなかった。分からないが、スマートフォンのサイドボタンを押していた。
音が来た。
三つの音で作られた短いフレーズ。聴いた瞬間に耳に残る、キャッチーな音だった。「こんな音、初めて聴いた」と思った。思ったが、身体の方が先に動いていた。
両手を広げて、頭の上に上げた。
上げながら、下ろしながら、腕が大きな弧を描いた。——誰かに挨拶するときの動作に似ていた。似ているが、誰かに向けてやっているつもりはなかった。身体がそう動いた、というだけだった。
外から、来た。
内側から何かが溢れる、ではなかった。外の空気が自分の輪郭に向かって収束してくる感触。外の世界がキヅキを変えようとしている、という感じ。
最初に変わったのは声だった。
声を出したわけじゃなかった。でも喉のあたりで何かが変わった。変わったと分かったのは、次に声が出たときだった——「何それ」と言おうとしたら、声の響き方が違った。壁に吸収されるんじゃなくて、壁から増幅されてくる感触。空間に満ちる感触。
声の変化が身体に伝わってきた。
頭頂から肩、胸、腹、指先——声が触媒みたいにして変身が進んでいった。黄色い光が外から来て、自分の輪郭に沿っていく。明るかった。明るくて、目を引いた。目を引くように作られた光だ、という感触が、変身が終わる前にもう来ていた。
目の表情が最後に変わった。
笑いが深くなった——目まで笑うように。嬉しいからではなかった。笑うべき局面だから笑う、という何かが来た。本物ではなかったが、偽物とも言い切れなかった。
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魔法少女 ゴールデン・ディフュージョン-GOLDEN DIFFUSION-
キサラギ・キヅキ
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——聴こえてる?
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相手が止まった。
「変身した」と認識したのか、それとも別の何かに驚いたのかは分からなかった。でも一歩下がった。
キヅキは口を開いた。
何を言うつもりだったか、決めていなかった。決めていなかったのに、声が出た。言葉が出た——「もう終わりにしていいよ」というような意味の、短い文だった。
声が、空間に満ちた。
満ちたというより——全員が聴いていた。
全員? 公園に全員などいなかった。二人しかいなかった。でもそう感じた。「全員が聴いている」——深夜の公園の空気全部が、砂利の代わりになった砂場も、錆びたブランコも、遠くの車の音も、全部がキヅキの声を聴いていた。聴いて、受け取っていた。
話していない時間が怖かった。
ずっと怖かった。声を出していない間は何かが薄くなる——ずっとそうだった。でも今は。
今は——全員が聴いている。全員が。
それだけだった。それだけが、あの夜の感触の正体だった。
相手は退いた。
撃退したとか倒したとかではなく、「もういい」みたいな感じで、向こうが先に関心をなくした感じがした。背中を向けて歩いていって、路地の奥に消えた。
変身が解けた。
解けた後、砂利の上に立っていた。静かだった。静かで、手足がある感触がして、喉が少し乾いていた。
「良かったじゃん! すごいよキヅキ!」
妖精の声が来た。弾んでいた。
「……そうかな」
「そうだよ、ちゃんとできたじゃん。最初からそんなにできる子、あんまりいないよ」
そうかもしれなかった。
でもキヅキが考えていたのはそこじゃなくて、「全員が聴いていた」という感触の話だった。あの感触を、妖精に言う言葉が見つからなかった。
「全員が聴いていた」——それが嬉しかったのか、怖かったのか、それとも全然別の何かだったのかも、言葉にする前に夜の空気に消えていってしまった。
ブランコが風で少し揺れた。
鎖の音がした。
カラオケの個室の、壁を見ていた。
天井を見た。赤い布。音を吸う素材。
「……あのときから、始まった、のかな」
声に出すつもりじゃなかったが、声に出ていた。
「うん」と妖精は言った。「あそこから始まったよ」
間があった。
「だから、もっとできるよ」と妖精は言った。
キヅキは返事をしなかった。
返事をしなかったのに、妖精は続けた。
「キヅキが話すと、みんなが聴く。それってすごいことじゃん。貢一さんと組んだら——もっといろんな人に届くようになるよ。絶対」
絶対、という言葉だった。
妖精が「絶対」と言うのは珍しかった。「絶対」が来るときは、何かを確かめているときだった——誰の何を確かめているのかは、今夜はまだ考えないでいた。
黙った。
天井を見たまま、何かを考えていた。何を考えていたかは書かない——書くことができなかった、というより、その考えは言葉になる手前で形が崩れていくような何かだった。崩れる前につかまえようとしたが、つかまらなかった。
その間、妖精は何も言わなかった。
妖精が何も言わない間は少なくて、たいていの間を埋めてくる。だから今夜の静けさは少し珍しかった。
聴こえているのに、待っている感じがした。
何を待っているのかは分からなかった。
時間が来た。
一時間のタイマーが切れる少し前に、キヅキは椅子から立ち上がった。コートを持って、鍵を返すカードを持って、ドアを開けた。廊下に出ると、隣の個室から誰かの歌声が漏れていた。上手くはなかったが、声の出し方が楽しそうだった。
フロントで精算して、外に出た。
池袋の夜は渋谷より生活の匂いがした。チェーンの居酒屋の換気扇の匂いと、近くのコンビニのドアが開いた瞬間に出てくる温かい空気と、通り過ぎる人の声の断片。
歩きながら、スマートフォンケースの内側に挟んだ名刺のことを考えた。
クリーム色の、角が丸い紙。
「3回」という言葉と、「あの子、最高だった」という妖精の言葉が、なぜか重なって聞こえた。重なって——でも、それが同じ意味かどうかが分からなかった。
分からないまま歩いた。
夜の池袋の音が、外から来ていた。