アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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第1章「界隈の子どもたち」
1.アナザー13-Another 13-


 月曜日、午後4時18分。

 改札口の電子音は、一秒間に何回鳴るだろうか。

 数えたことはない。数えようとしたこともない。ただ毎日その音の洪水のなかを通り抜けながら、少女はいつも同じことを思う。——べつに、何も思わない。

 東横線渋谷駅の地下改札は、夕方になると人体の密度が臨界点を超える。学校帰りの制服が塾帰りの制服と混じり、会社帰りのスーツの背中が両者を押し分けるように流れ込んでくる。人と人の隙間はひっきりなしに生まれ、ひっきりなしに塞がれる。呼吸のようなもの——誰も意識しないまま繰り返される、集合的な収縮と弛緩。

 少女はその流れに逆らわず、されど流されもしないで、ゆっくりと歩いた。

 目線は床に落ちている。タイルの目地、誰かが踏んで剥がれかけたシールの残骸、ガムの染み、水たまりの浅い鏡。駅構内の蛍光灯は完璧に均一で、影が生まれない。影が生まれないということは、自分がどこにいるのかを足元で確認するしかないということで、だからいつも下を向いていた。それが習慣になって久しい。顔を上げて、前を見て、向こうから歩いてくる誰かと目が合う——そういうことが、少女にはひどく消耗することに思われた。

 べつに怖いわけではない。ただ疲れる。

 スニーカーの先端が、前を行く革靴の踵のすぐ後ろに迫って、少女は半歩のペースを落とした。革靴は左に折れてエスカレーターへ向かい、少女はまっすぐ地下道を行く。このまま地上への階段を上れば、センター街の端に出る。それからハチ公方向へ出ることなく細道を斜めに横切って、246の手前の坂を下り、帰宅ルートの住宅街に入る。

 毎日、そう。毎日おなじ。

 おなじということは、安心することだ——少なくとも少女はそう思っていた。正確に言えば、そう思おうとすることによって、「おなじということが安心でない」という可能性を踏まずに済んでいた。足元に視線を固定したまま歩く癖と、よく似た構造をしていた。

 


 

 地下道の途中、上方から差し込んでくる西日が黄ばんで分厚いスロープの出口を照らしていた。

 そのシルエットのなかに、人が立ち止まっているのが目に入った。

 スマートフォンを持ち上げて、流れる人波の写真を撮っている男がいた。観光客だろう。ハロウィンの季節でもないのに、彼の連写シャッターは止まらなかった。少女は男の横をすり抜けながら思った——撮られているのは「渋谷」であって、そこを流れる一人一人ではない。「渋谷」のなかに写り込む人間は、顔のない数のうちの一つだ。

 撮られていない、という確認が、じんわりと安心を生んだ。

 と同時に——それをもって安心とするような自分の体質が、「見えていない」ということと同義だと気づく思考の回路が、脳の端のほうで一瞬光って、消えた。

 少女は気にしなかった。

 というより、気にする言葉を持っていなかった。

 

 部活帰りの集団が横を抜けていった。バレーボール部かバスケットボール部か、背の高い中学生か高校生かの塊で、誰かが誰かの背中を叩いて笑い、笑われた誰かが「やめろって」と笑い返した。

 少女は速度を変えなかった。

 自分とおなじ年頃の子たちが、なぜあんなふうに人に触れることができるのか——触れられることを、笑って受け入れられるのか——不思議だとも思わなかった。ただ観察した。背の高い集団の足元の動きが、少女の視界を数秒間埋めて、それから通り過ぎた。靴の種類が全員ばらばらだった。運動靴にも個性が出る。おもしろいと思った。なぜかは分からない。

 塾の鞄を持った女子二人が、少女のすぐ後ろを歩いていた。

 会話の断片が届いた。「——あの先生さあ、テスト範囲のこと聞いたら絶対ウソつくじゃん——」「——え、まじで? ずっとそうなん——」。少女の耳を素通りして、前方へ消えた。受け取る必要のない情報は、勝手に通過する。それが渋谷の地下道の良さだった——何もかもが大量に流れているから、かえって一つも引っかかってこない。川の流れに飛び込んだとき、押してくるのが「水」なのか「汚れ」なのかを区別せずに済む。

 自分が今日、誰とも話していないことに、少女はこのとき初めて気づいた。

 ホームルームが終わって、移動して、授業を受けて、また移動して——その間に言葉を交わした人間がゼロだったかどうか、正直なところはっきりしない。「次の授業移動だよ」とか「プリント回してー」とか、そういう機能的な音声のやり取りがあったような気もするが、会話だったかどうかというと、よく分からない。

 知覚しないということは、存在しないのとどこが違うか。

 答えが出ないうちに、地下道が終わった。

 

 階段を上がると、夕方の渋谷が拡張した。

 音量が二倍になる。光量が三倍になる。西の空が茜色に燃えているのに、その手前の広告画面がそれより明るいLED青白色で上書きしているから、空が燃えているのか消えているのかよく分からない。人が増える。においが増える。タピオカかクレープか何かの甘い蒸気と、アスファルトが一日分の熱を発散しているにおいと、誰かの香水と、誰かの体臭が、全部同時にある。

 少女は鞄のストラップを握り直した。

 ここが嫌いかというと、そうでもない。ただ、渋谷はいつも少女に対して何かを要求してくるような気がした——情報として、視覚として、聴覚として、嗅覚として。全方位から要求してくる。存在しろ、反応しろ、選べ、決めろ、楽しめ、消費しろ——そういう命令の集積が、夕方の渋谷には充満していた。

 少女には応答するものが、あまりなかった。

 スマートフォンがなかった。

 正確に言えば、スマートフォンはあった。去年の秋に落としたときに液晶が割れ、充電しても電源が入らなくなった。修理に持っていくお金がないわけでもなかったが、修理しようと思う前に修理しないことに慣れた。連絡を取りたい相手が、特にいなかった。取りたい相手がいないということは、取れない状態に慣れることは、難しくなかった。

 周囲の人間の半分以上が、歩きながら画面を見ていた。

 少女だけが手をあけて歩いていた。

 空いている手を、どこに置いていいのか分からなかった。鞄のストラップを握っている逆の手は、宙ぶらりんのまま揺れている。振る必要もなく、持つものもなく。ポケットに入れてしまえば済むことだが、なんとなく、そうしなかった。

 


 

 細道に折れる交差点で、少女は一度立ち止まった。

 信号が赤だった。

 横断歩道のない小さな交差点に、一人で立って、向こうから車が来るのを待った。車は来なかった。来ない車を待って立っている自分の時間が、この渋谷の夕方にどれだけの質量を持っているか——そういうことは考えなかった。

 ただ、信号のない交差点で、来ない車を、なぜ待っているのか。

 少女は、しばらく、その問いを保留した。

 答えが出るまで待った。

 答えは出なかった。

 少女はそのまま渡った。

 246の手前の坂。

 下りながら、西の光が建物の隙間からかろうじて地面に届いているのを見た。午後4時18分に改札を出て、今はたぶん4時32分か33分頃だろう。いつもこのくらいの時間にここを通る。いつもこのくらいの光がここにある。

 渋谷は少女を記憶していない。

 少女が何時に来ても、何曜日に来ても、あるいは来なくても、渋谷は同じだけの光量と音量で機能し続ける。それは少女にとって安心であり、同時に、確認しなくてもよかったことを確認させられるような感覚でもあった。

 確認しなくてもよかったこととは——つまり、自分がここにいなくても、ここは変わらないということだ。

 怖くはなかった。

 怖くないということを、少女は怖いとも思わなかった。

 ただ、歩いた。

 いつもの道を、いつもの速さで。いつもの靴の先端を見ながら、いつもの坂を下りながら、いつもと何も変わらない月曜日の午後に、何も変わらない少女が、何も変わらない場所に向かって、歩いていた。

 

 


 

 公園の縁石に、誰かが座っていた。

 帰宅路に公園があることは知っていた。そこにベンチがあることも。しかし縁石——舗道と芝生の境界を区切る低い石材の列——に人が座っているのを、少女は今まで意識したことがなかった。存在していたとしても、視界が処理するより先に捨てていた情報だったのかもしれない。

 足が一瞬、躊躇した。

 正確に言えば、足は止まらなかった。歩速も変わらなかった。ただ何かが引っかかった——爪が何かに触れて折れる寸前、あの感触に似た、小さくて見過ごせない違和感が、胸の内側のどこかに引っかかった。

 少女はそのまま通り過ぎた。

 振り返らなかった。振り返る理由がなかった。縁石に座っている人間など渋谷には掃いて捨てるほどいて、それは別に珍しくもない、普通のことで——

 ただ、何かが引っかかっていた。

 翌日、火曜日。

 同じ時刻に同じ出口を抜け、同じ方向に足を向けた。月曜より薄い雲が出ていて、日差しはあるが影が薄い、そういう午後だった。公園の縁石の手前、少女の視点はいつも通り地面に落ちていたが、今日はその手前五メートルほどで自然に顔が上がった。

 座っていた。

 昨日と同じ位置に、同じ少女が。

 ただし昨日と同じではなかった。制服のリボンがほどけかけていた。昨日は胸元でかろうじて形を保っていたが、今日はもはや存在を主張することを諦めたように、胸元で細く垂れていた。スマートフォンを両手で持つ角度が、昨日より五度ほど下がっていた。少女にはなぜそんな細部まで記憶しているのかが分からなかった。

 イヤホンをしていた。右耳だけ。

 視線はスマートフォンの画面に固定されていて、液晶の光が顔の下半分を白く照らしていた。制服は学校のものだと分かったが、それをどこの学校のものかまで少女は知らなかった——知ろうとしていなかった、というより、知るほど近くに近寄っていなかった。

 少女はまた通り過ぎた。

 水曜日。

 今日はイヤホンが両耳に入っていた。

 それだけが違った。

 空は晴れていた。先週末に台風が来て草が倒れたのか、公園の芝が一方向に凪いでいた。縁石に座る少女の後ろで、倒れた草が夕方の光を鈍く受けていた。スマートフォンの画面は今日も点いていたが、角度のせいか中身は見えなかった。制服の裾が、月曜より明らかに汚れていた。どこかで引っかかったのか、裾の端にほつれがあった。

 今日は昨日より少し遅い時間だった。

 それに気づいたのは歩きながらだったが、なぜそれが分かるのかが少女には分からなかった。昨日と比べてどこが違うのか、光の角度か、影の伸び方か、それとも公園の奥の自販機が照らす光の強さか——少女は自分がそこまで細かく記憶しているという事実に、少し驚いた。驚いたが、それをどうすることもできなかった。

 通り過ぎた。

 四日目、少女は気がついた。

 気がついた、というよりは——観念した、という感じだった。認めたくなかったが、もはや否定するのが難しかった。

 あの少女は、あの場所にいる。

 毎日。

 幽霊か何かのように、あの場所だけが固定されていた。渋谷という場所は何もかもが絶えず動いていて、人が変わり、広告が変わり、工事の囲いの色が変わり、街路樹の影が変わっていくのに、あの縁石の上の少女だけが定点として存在していた。街という動体の中に打ち込まれた釘のように、あるいは早送りの動画の中で一人だけ等速で動いている人間のように。

 その少女は何者なのか。

 なぜ毎日同じ場所に座っているのか。

 どこから来て、どこへ帰るのか。帰る場所はあるのか。あの制服はどこの学校のものなのか。あのスマートフォンで、何をしているのか。あるいは誰かと話しているのか——右耳だけのイヤホンで、誰と。

 少女には、分からなかった。

 分からないことを、この三日間で初めて、ちゃんと意識した。

 木曜日、少女は立ち止まった。

 止まったのではなく——足が、少しだけ遅くなった。歩速というより、踏み出す重さが変わった。気づいたときには縁石の少女の横を通り過ぎていたが、今日は足元より少し視線を上げていた。

 横顔が見えた。

 整った、というより——静かな顔だった。感情が置いてあるのではなく、感情が起動していない、という感じ。眠っているわけではなかった。確かに画面を見ていた。ただその顔に浮かんでいるものは、楽しみでも退屈でも安心でも不安でもなかった。

 ただ、そこにいた。

 少女には、その「ただそこにいる」という状態がどういうものか、うまく言葉にできなかった。自分は毎日「ただ歩いている」のかもしれないが、それとはまた違った——もっと長い時間、もっと深い場所に根を下ろした「ただいる」だった。

 あの少女は、今日も少し遅い時間に来ている。

 昨日より遅い。一昨日より遅い。

 ということはつまり、あの少女の「一日」は毎日少しずつ後ろにずれているのではないか——そういう生活をしているのではないか——

 考えたところで分からなかった。

 少女は歩き続け、公園を出た。

 その日の夜、少女は眠れなかった。

 何かを心配しているわけではなかった。怖いものを見たわけでも、嫌なことがあったわけでもなかった。ただ、横になって天井を見ていると、あの縁石の少女の横顔が脈絡なく浮かんだ。

 なぜ引っかかるのか、少女には分からなかった。

 渋谷には毎日たくさんの人間がいて、たくさんの見知らぬ顔があって、その誰も少女の記憶には残らない。改札を抜けるときに肩がぶつかった人間の顔も、横断歩道で隣に立った人間の靴の色も、少女は翌日には忘れている。それが普通だった。それが正しかった。知らない人間のことを覚えておく必要はなかった。

 なのに。

 今日の夕方、あの縁石の少女は、右のイヤホンを外してスマートフォンを持ち替えた。

 ただそれだけのことを、少女は覚えていた。

 五日目。

 少女は、今日は少し早い時間に公園の前を通ることにした。

 意図的ではなかった。少なくとも、少女はそう思っていた。塾の日程が変わったから、などの理由を自分の内側に用意しながら、しかし実際のところそんな理由はなく、ただ少し早く帰宅しようとしたら自然にこのルートになった——そういうことにしておくことにした。

 縁石に、誰もいなかった。

 少女は一秒ほど、そこで立ち止まった。

 何をしているのか分からなかった。誰かが縁石に座っていようといまいと、それは別に少女には関係ない話で、自分はここを通り過ぎればいいだけで——

 でも。

 誰もいなかった。

 縁石の表面には、昨日まで誰かが座っていた痕跡などなかった。ただの石だった。ただの、灰色の、何でもない縁石だった。

 少女は、なぜか、少しだけ息を吸った。

 それから歩き続けた。

 いつものルートを、いつものように。

 六日目、月曜日。

 少女が公園の前を通りかかったのは、いつも通りの時刻だった。

 縁石に、あの少女がいた。

 今日は左耳だけにイヤホンをしていた。スマートフォンを持つ手が昨日より少し強ばっていた。制服の第一ボタンが外れていた。

 少女はまた一秒だけ立ち止まった。

 今日は昨日より少し早い時間だ——と気がついた。

 つまり、あの少女の一日は今日から少し前に戻った。あるいは昨日は特別に遅かっただけで、普段は今日くらいの時間に来るのかもしれない——

 少女は、自分がそんなことを考えていることに気がついて、少し困惑した。

 なぜ自分はあの少女の時間を追跡しているのか。

 なぜあの少女の制服のボタンがいくつ外れているかを数えているのか。

 分からなかった。

 引っかかりは最初の日から消えていなかった。むしろ大きくなっていた。大きくなりながら、正確に何が引っかかっているのかは一向に言葉にならなかった。

 少女は歩き出した。

 あの縁石の少女は、今日も何かを聴きながら画面を見ていた。

 その横顔は——今日も、静かだった。

 

 

 

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