アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
喫茶店は池袋東口から五分の、ビルの二階にあった。
エレベーターで上がると、観葉植物が置いてあって、照明が落ち着いていて、椅子の間隔が広かった。金曜のNOISE BOXとは全然違う空気だった。あっちは音を飲み込む素材で壁が張られているから、入った瞬間に外の音が消える。ここは違う——外の音を遠ざけてあるだけで、うっすら聞こえている。正確にいうと聞こえているが、誰も気にしていない種類の音だった。
貢一はすでに来ていた。
四人掛けのテーブルの片側に座って、PCを開いたままキヅキが来るのを待っていた。立ち上がりもせず、「あ、来た」みたいな顔で軽く手を上げた。挨拶の仕方が軽かったが、軽さに愛想がなかった——それが変に感じさせなかった。
「連絡するのが遅くなってすみません」
「いえ、全然」
貢一がコーヒーカップをPCの横にどかしながら言った。「考える時間があった方がいいと思っていました」——それだけで終わった。ではどのくらい考えたのか、何を決めたのか、を聞いてこなかった。
キヅキはコートを畳んで、向かいの椅子を引いた。
ランチのあとの時間帯だったから、店はそこまで混んでいなかった。隣のテーブルで打ち合わせをしている二人組がいて、メモを取る音が静かに続いていた。
「実は」と貢一が言った。口調は変わらず落ち着いていた。「あのあと、少し調べました。あなたの配信、全部ではないですが見ました」
「全部、じゃないんですね」
「先に言っておきた方がいいと思って。すべて把握した上で話しているわけではないという前提で」
それを正直に言う人間を、キヅキはあまり会ったことがなかった。普通は「全部見ました」と言う。見ていなくても言う場合の方が多い。貢一はそうしなかった。だからといって「誠実だ」と判定したわけでもなく——ただ少し、注意して聞こうという気持ちが出てきた。
ウェイトレスが来て、キヅキはカフェラテを頼んだ。
「見た感想を聞いてもいいですか」とキヅキは聞いた。
「うまいと思いました」と貢一は言った。「うまいという言葉は曖昧ですが」
「どう曖昧ですか」
「声の使い方が、学んで身につけた人のそれではなく——身体から出ている。訓練ではなく、体験から来ている。そこがうまいという言葉に入っています」
キヅキはそれを聞きながら、手の甲を見ていた。
「体験から来ている」という観察は、正しかった。正しいから、少し落ち着かない感じがした。なぜ落ち着かないのかを考える前に、貢一がPCを少し回転させた。
「数字を見てもらいたいのですが」
モニターには、複数のSNSの管理画面が並んでいた。
数字がいくつか出ていた。フォロワー数、インプレッション数、エンゲージメント率——キヅキも自分のアカウントで見ているのと同じ種類の数字だったが、桁が三つか四つ違った。
「合計で、フォロワーが三百万ほどのアカウント群を運用しています」
三百万、という数字が来た。キヅキが自分のアカウントで持っているのは今のところ六万台だった。六万というのは、自分でも多いと思っている数字だった。三百万は、また別の話だった。
「これは、何のアカウントですか」
「界隈や若者の話題に特化したものがいくつか、あとは——特定のテーマではなく、人が見たくなるものを集めるタイプのアカウントです。ジャンルを固定していないものが一番フォロワーが多い」
「なぜ私に見せるんですか」
「あなたの声と、この場所に来る理由になる何かを、うまく重ねられると思っているから」
貢一が言い方を変えた。
「正確に言うと——あなたの話を聞いた人間が、何かを持ち帰ると思う。持ち帰って、誰かに話したくなると思う。それが拡散の起点になる。私にはその流れを加速させる手段がある、ということです」
カフェラテが来た。
キヅキはカップを両手で持って、一口飲んだ。
「手伝う、というのは」
「週に二本か三本、動画を作る。テーマはあなたが決める。撮影はNOISE BOXか、別の場所でもいい。編集は私がやります。配信はこちらのチャンネルを使う」
「私のチャンネルではなく」
「あなた名義ではなく、という意味です。私のネットワークの一つとして出す。ただし話しているのはあなたで、あなたの声で届ける形」
「あなたの声で届ける」という言い方だった。
キヅキがもう一度手の甲を見た。自分の手は変わっていなかった。変わっていないのに、何かが引っかかっていた。引っかかりを言葉にする前に、妖精の声が来た——イヤホンは使っていなかったから耳の内側から来る感触で。
「いいと思うよ」と妖精が言った。「届く場所が増える」
そうだった。届く場所が増える。
「一つ聞いていいですか」とキヅキは言った。
「どうぞ」
「私の話の内容に、口を出しますか」
貢一が少しだけ考えた。一拍置いてから。
「内容には基本的に干渉しません。ただ——話し方を整えてほしい、という場合はある」
「話し方を」
「たとえば、宗教2世であるということ。それをどう話すか。事実として話すのか、距離を置いて話すのか。それは届き方が変わる」
キヅキは貢一の顔を見た。
貢一の顔は、「正解を言っている」という確信を持ちながら喋っている人の顔をしていた。正解だから問題がない、という顔。それがまた、少し気になった。でも気になる理由が分からなかった。
「分かりました」とキヅキは言った。
「まずやってみる、という感じで構いません。一本撮って、合わなければ止めればいい」
「そうします」
貢一がPCを閉めた。カップを持ち上げて飲んだ。二人ともしばらく黙っていた。
外が少し曇っていた。
妖精がまた何か言おうとしていたが、キヅキは耳を向けなかった。向けなかった、というより——貢一が何かを言う気配がしたから、そっちを待った。
「あなたはなぜ、あの場所でやっているんですか」
貢一が聞いた。声のトーンが少し変わっていた。聞くための声ではなく、確認するための声だった。
「NOISE BOXで、週に一回」
「……声を出してると、自分がいる感じがするから」
言ってから、それは核心すぎる答えだと気づいた。でも止めるタイミングが来なかった。
「来てくれる子たちがいるから、というのもあるんですが——それ以前に、声を出していると、消えない感じがする」
貢一は何も言わなかった。
メモを取るわけでもなく、深くうなずくわけでもなく——ただ聞いていた。その聞き方が少し奇妙だった。何かを計算している、という感じが、あったとも、なかったとも言えなかった。
NOISE BOXに来たのは、その週の金曜日だった。
貢一が一人で機材を担いで来た。カメラ、照明、小さなマイク台。NOISE BOXの1階に個室スタジオが何部屋かあって、その中の一室を借りた。六畳くらいの部屋で、壁が防音材で覆われていて、窓がなかった。いつもと同じ材質の壁だったが、椅子の配置が違った。カメラが向いていた。照明が当たっていた。
「いつも通りやってください」と貢一は言った。
いつも通り。
マイクの前に座って、そう言われてみると「いつも通り」の状態を探した。NOISE BOXの地下でやっているのと同じ。でも地下には70人いる。ここには自分と貢一と機材しかない。「いつも通り」が何を指しているのかが、少しずれた。
「何について話せばいいですか」
「何でも。ここ最近で、話したいことがあれば」
ここ最近。
最近あったことを考えた。変身したこと、ユカリという別の魔法少女と鉢合わせたこと——その話はできなかった。貢一に話せることが、思ったより少ない、と気づいた。できることとできないことが、自分の中で整理されていなかった。
「……宗教の話、しようと思います」
声に出した瞬間、何かが変わった。
カメラに向けて言ったわけではなかったが、カメラがそこにあることを意識した状態で言った言葉が、空間に残った。「いつものNOISE BOXではない何か」がそこにあって、それに向けて話している、という感触が、声が出た後からついてきた。
でも声は出た。
出たから、続けた。
「宗教2世、という言葉を最近よく聞くようになったと思うんですけど。私自身がそうで。親が入っていた教団があって——今はもう、関係していないんですが」
話しながら、自分の声が「整っていく」のを感じた。整う、というのは上手くなるというよりも、「この声の出し方が今ここでは正しい」という確認が来る、ということだった。NOISE BOXの地下でも、最初の一言を言った後に似たような確認が来る。それが今日はカメラの前で来ていた。
貢一は何も言わなかった。
邪魔しないだけではなく——「続けていい」という空気を作っていた。意図的かどうかは分からなかった。でもその空気があったから、続けることができた。
「集会で話す、ということをずっとやらされていたんですね。子どもの頃から。信者の前でマイクを持って、短いスピーチをする。みんなが聴いてくれた。そのときの感触が、今もどこかにある気がしていて」
一拍置いた。
「それが教団の文脈だったのか、自分の何かなのかは、今でも分からないんですけど。ただ——声を出すと、みんなが聴く、ということは、その頃から変わっていない」
言ってから、また少し黙った。
貢一の横にあるモニターに、撮影中の映像が小さく映っていた。画面の中のキヅキが、マイクの前でじっとしていた。自分が映っているのを見るのが少し奇妙な感じがした。
十五分ほど話した。
カメラを止めてから、貢一が映像を確認した。キヅキはカップの水を飲んで、椅子の背もたれに少しだけ寄りかかった。疲れたというよりも——いつもNOISE BOXを終えた後にある「何かが軽くなった感触」と、「何かが出てしまった感触」の、両方が同時にあった。
「いい」と貢一が言った。
モニターを見たまま、短く言った。
「これは広がる」
広がる、という言葉だった。
妖精が同時に言った。「よかったよ! キヅキ」——貢一の言葉の上に重なるように来た。違う声で、同じ方向を向いていた。
キヅキは二つの声を聞いた。
聞きながら、「広がる」と「よかった」が、どちらも同じものを見ている、とぼんやり思った。でも何を見ているのかは同じでも、どこから見ているのかが、同じかどうかは分からなかった。分からないまま、「ありがとうございます」と言った。
「また来週、やりませんか」
「来週、また」
「同じくらいの時間で、テーマは変えてもいいし、変えなくてもいい」
キヅキはうなずいた。
「広がる」が誰にとっての「広がる」なのかを、まだ問いの形に整えられていなかった。整える前に部屋を出た。廊下に出ると、防音材の向こうから、1階のカフェのBGMが聞こえてきた。ずっとあったはずの音が、部屋にいる間は聞こえていなかったことを、廊下に出て初めて気づいた。
池袋の夜はまだ早かった。
動画が公開されたのは、水曜日の夜だった。
貢一がタイトルをつけた。「界隈で生きる16歳が語る、家族と居場所のこと」——キヅキが自分でつけるなら、もっと短くした。でも貢一の説明は「このくらいの文字数と言葉の選び方の方が届く」だった。届く。その言葉が出るたびに、何かが先に動いた。反論するより先に。
翌朝、起き上がってスマートフォンを開いたら、視聴数が3万を超えていた。
昨夜の段階では4,000台だった。一晩で3万。
数字が来ると、頭が先に動く。3万というのが多いのか少ないのかを確認する前に、コメント欄を開いていた。コメントは昨夜の段階では200件ほどだったのが、朝には1,400件になっていた。読んでいくのが難しい量だった。それでもスクロールした。全部は読めないが、流れていく文字のひとつひとつが、何かを押してくる感触があった。
「この子の話し方、ずっと聴いてられる」
「宗教2世のこと、初めてちゃんと聞けた気がした」
「もっと聞きたいな」
「声が好き」
「声が好き」という四文字で止まった。
アカウントを開いた。フォロワーが百数十人の、最近作ったばかりのアカウントだった。投稿は少ない。プロフィールに何も書いていない。「声が好き」とだけ書いてあった。
その人間が何者かは分からなかった。分からないのに、「声が好き」は、1,400件の中で一番先に届いた。なぜかは分からなかった。数字が大きいから届くのではない、という当たり前のことを、改めて知った気分だった。
木曜日の午後、別のアカウントに動画が転載された。
貢一からの連絡で知った。「転載されています。対応不要、想定の範囲内です」——一行だけ来た。対応不要という言葉の意味を少し考えた。想定の範囲内という言葉も。転載される、ということを貢一は事前から計算していた、ということだった。
転載先の視聴数も上がっていった。コメント欄は少し違う雰囲気だった。「界隈って何?」という質問が多かった。「知らない子だけどちょっと気になった」というタイプのコメントも多かった。もとのキヅキのアカウントではなく、転載先でその動画を知った人たちだった。
その人たちはキヅキのことを知らなかった。動画の中の声を聞いた、ということしか知らなかった。
それでも声は届いていた、ということだった。
何かが満ちた。満ちると同時に、少しだけ別の何かが早く減っていく感触も来た。でもその感触には名前がつかなかった。名前がつかないと追いかけられない。追いかけられないから、満ちる方だけを見た。
金曜日の夜、NOISE BOXのイベントに来た人数が増えた。
いつもは70人前後で、そのうち常連が半分ほどだった。今夜は100人を超えた。椅子が足りなくて、立っているスペースが増えた。「狭い」という雰囲気ではなく——人が多くなったことで、空気の密度が上がっていた。
知らない顔が増えた。
常連の子たちは、知らない顔が増えたことに気づいていた。気づいていたが、何も言わなかった。言わないまま少し間隔を空けて立っていた。キヅキだけが気づいていた——あるいはキヅキだけが、気づいていた自分に気づいていた。
「動画、見ました」
終わってから、一人の女の子に声をかけられた。高校生か中学生くらいの、知らない顔だった。
「来てくれてありがとう」とキヅキは言った。
「リアルで話してるの初めて見て——声、同じで安心した」
「声が同じ」という言い方が面白かった。動画の声とリアルの声が「同じ」ということを確認した、という意味だった。ということは、違う可能性もあると思っていた、ということだった。
「同じだよ」
「でも、なんか——画面越しより近くに聞こえる」
「それは当たり前じゃないかな」
「そうか」と女の子は言って、少しだけ笑った。
「来てくれてありがとう」のつもりで言ったが、言いながらキヅキは「来てくれた子への感謝」と「来てくれたことへの何か別のもの」が混じっていることに気づいた。混じっていて、二つを分けられなかった。
いつからか、それが混じっていた。
その夜のイベント中に、一人の男が隅の方に立っているのをキヅキはちらっと見た。
常連でもなかった。今日来た知らない顔でもなかった——もっと違う種類の「知らない顔」だった。20代か30代かよく分からない、中性的な外見をしていた。警察の制服に少し似た、でも素材が少し違う服を着ていた。
その男が、隣にいた来場者の少女に何か話しかけていた。
聞こえなかった。でも距離が近い場所にいたから、後で少しだけ聞こえた。
「今日、楽しかったですか」
丁寧な、少しだけ場に合っていない言い方だった。
「……うん、なんか、聴いてたら泣きそうになった」
「それは良かったです」
「それは良かったです」という返し方が、ほんの少しずれていた。ずれていたが、悪意はなかった。それがかえって奇妙だった。なぜ奇妙なのかを考える前に、次の曲が始まって、キヅキはマイクに集中した。
数字は土曜日にまた動いた。
別のSNSのタグにキヅキの名前が入った。「界隈のこと知りたいならこれ見て」というタイプの投稿から来ていた。「界隈のことを知る入口」として使われていた。
入口。
入口として使われている、ということは、「来る人」と「来た後どこへ行くか」がキヅキの側にはコントロールできない、ということだった。ここへ来て、聞いて、それからどこへ行くかを誰も言わなかった。「ここへ来てよかった」と言われることはあった。「ここを出た後どうなった」は、ほとんど来なかった。
それが悪い、とは思わなかった。
入口がある、ということの意味を否定していなかった。でも「入口」という言葉がしっくり来ていなかった——自分がどこかの入口になっている感触が、少し奇妙だった。
奇妙、の正確な意味を探そうとして、見つからなかった。
妖精が「今日も数字伸びてたね、キヅキ」と言った。
「うん」とだけ答えた。
「嬉しくない?」
「嬉しい」
嬉しかった。それは本当だった。
でも今日の「嬉しい」は、三日前の「嬉しい」と同じ形をしているかどうかが、少しあやふやだった。あやふや、の正確な理由も分からなかった。分からないまま「嬉しい」と言った。言ったことは嘘ではなかった。
日曜日の夜、貢一から次の動画の相談が来た。
テーマ案が三つ、箇条書きで来ていた。
一つ目「界隈で出会った子たちの話(具体的なエピソードを交えて)」。二つ目「家族と距離を置くとはどういうことか」。三つ目「NOISE BOXをはじめた理由」。
キヅキはその三つを見た。
全部、話せる内容だった。どれについても話したことがある、あるいは話せる、という感覚があった。ただ——一つ目の「界隈で出会った子たちの話」を読んだとき、少し止まった。
具体的なエピソードを交えて。
具体的なエピソードというのは、誰かの話だった。名前は出さない。でも誰かの経験を話す、ということだった。その誰かはここに来た子で、話してくれた子で——話してくれた、ということはキヅキに向けて話したのであって、カメラに向けて話したわけではなかった。
それでも話せる、とは思った。
誰かのことを思いながらも、話せる、と思った自分がいた。
その「話せる」が、「この子の経験を広く届けたい」なのか、「この内容が届くと数字が動く」なのかを、今のキヅキは分けられなかった。分けようとして、少し黙った。
黙っている間に、妖精が「どれもいいと思うよ」と言った。
どれもいい。
キヅキは返信に「少し考えます」と打って、スマートフォンを置いた。
月曜日の朝、また数字が更新されていた。
今度は別のメディアのアカウントが取り上げていた。「注目の若者コンテンツ」というタグがついていた。フォロワーが十万を超えるアカウントだった。
注目の若者コンテンツ。
キヅキは、その言葉の中に自分がいる、ということをしばらく眺めた。
「コンテンツ」という言葉は知っていた。使ったこともあった。「動画のコンテンツが」という使い方は自分でもしていた。でも「キヅキ」が「コンテンツ」と並んで出てきたのは、これが初めてだった。
キヅキというコンテンツ、ではなかった。でも「注目の若者コンテンツ」の中にキヅキの動画があるとき、どこまでが動画でどこからがキヅキなのかを、外から見た人間は分けていないかもしれなかった。
分けているかもしれなかった。分けていないかもしれなかった。
どちらかを確認するすべが、今はなかった。
夕方にまたNOISE BOXに行った。
今日はイベントがない日で、一人でスタジオを借りて、カメラなしで座っていた。防音材の壁、照明、マイク台——前に来たときより自分の場所として感じるようになっていた。慣れた、ということかもしれなかった。
声を出してみた。
「聴こえてる?」と言った。誰もいない部屋の、マイク台に向けて。
自分の声が壁に吸われて、消えた。エコーがないから、消えた。いつものNOISE BOXの地下なら少しだけ残るのに、ここでは跡形もなかった。
もう一回言った。「聴こえてる?」
消えた。
それでいい、という気持ちが来た。消えたが、出た。出たから、今ここにいる感触がある。それだけで、今日はいい。
そう思って、それだけのために来た、という理由が自分でも少しおかしかった。
おかしいが、来てよかった。
スマートフォンを見ると、貢一から「次の撮影、来週水曜はどうですか」と来ていた。
「大丈夫です」と打ってから、少し止まった。
テーマを決めていなかった。でも来週の水曜には行く。行ったら何かを話す。何かを話したら、誰かに届く。届いた先で数字が動く。それがこれからの順番だった。それが今のキヅキの動き方だった。
悪くはなかった。
悪くはない、ということと、それでよかった、ということが同じかどうかを考えかけて、考えるのをやめた。やめて、スマートフォンをポケットに入れた。
防音材の壁が、外の音を全部止めていた。
静かだった。静かなのに、何かが遠くで動き続けている感触があった。数字が、あの動画が、転載先が、誰かの口が——自分には聞こえない速さで、どこかで動いていた。
動いている間も、ここにいる。
キヅキは立ち上がって、部屋の電気を消した。