アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
深夜に池袋にいる理由が、今夜はなかった。
NOISE BOXのイベントは昨日だった。貢一との打ち合わせは来週の水曜だった。それでもキヅキは東池袋の、住宅と雑居ビルが混じった通りを一人で歩いていた。歩いていた、というより——足が向いた場所がここだった、というだけだった。
夜11時過ぎ。コンビニの照明が、歩道の端まで四角く光を伸ばしていた。その光を横切るとき、自分の影が前から後ろへ流れていった。
イヤホンは、今夜は外していた。
何も聴いていない。妖精ともまだ話していない。話したかったかというと——正直なところ、今夜は少し疲れていた。「数字が動く」「これは広がる」「よかったよ、キヅキ」——それぞれ本当のことを言っている声たちが、今日はなぜか一日中少し重く聞こえた。
だから外した。
歩きながら、右手の人差し指で耳の裏をさわっていた。そこに普段イヤホンの引っ掛け部分が当たっている、その跡のような感触があった。外しても、そこだけが少し残っている気がした。
角を曲がったのは、気配があったからだった。
「気配」という言葉が頭に来る前に、すでに曲がっていた。今夜の自分は反応が少し速かった。理由は分からなかった。
路地に入ると、光が少なかった。
雑居ビルの裏手で、駐車場と駐車場の間の、車一台分の隙間みたいな場所だった。街灯が一本あるが、その照射範囲に入っているのは路地の入口付近だけで、奥は暗かった。
人が、いた。
二人。
一人は路地の奥の壁際に寄っていた。立っているが、膝が少し曲がっていた。「立っていたいが、うまく立てていない」という状態だった。10代後半か、あるいはキヅキと同じくらいか——制服ではなく私服だったが、年齢はそのくらいに見えた。
もう一人はその子の前に立っていた。
こちらが問題だった。
暗い場所にいるのに、見えた。というより——暗い場所だからこそ、際立って見えた。深い紫の光が、体の輪郭を縁取るように出ていた。変身している。キヅキが変身を目にしたのは、初変身の夜に相手が変身していたのを見て以来で、回数が多いわけではなかったが——「変身している」という判断は、一秒もかからなかった。
壁際の子の方は変身していなかった。
だとすれば、「青のキー」の持ち主候補——妖精がまだアクティベーションしていない状態の、色を持つ前の誰かだということだった。そういう存在がいることは、妖精から聞いていた。「あなた以外にも同じ色の候補がいる場合がある」と。
キヅキは路地の入口で止まった。
止まって、状況を見た。暗くて、紫の少女の顔はよく見えなかった。壁際の子の表情は——怖がっているのか、疲れているのか、それとも他のことを考えているのかが、距離があって分からなかった。
紫の少女が何か言っていた。
声が聞こえた。声の内容は聞き取れなかったが——声の質は分かった。圧力がある声ではなかった。「脅している」よりも「確認している」ような声だった。でもどちらにしても、壁際の子は「ここにいたくない」という体の角度をしていた。
選択しなければならなかった。
入るか。入らないか。
入らない理由を考えた——考えてみたが、来た。
スマートフォンを取り出した。
スマートフォンを胸の前にかざす。
液晶面を、外側に向けた。自分の方ではなく、路地の奥に向けて。
サイドボタンを押した。
三つの音が来た。
キャッチーな三音のポップなフレーズ——聴いた瞬間に耳に残る音。耳に残るように、誰かが作った音。誰が作ったかをキヅキは知らなかった。知らないが、この音が来るたびに身体が先に知っている、という感触があった。
両手を広げた。
頭の上まで上げてから、下ろしながら、腕が弧を描いた。挨拶に似た動作。でも誰かに向けた挨拶ではなかった。身体がそう動いた、というだけだった。
外から、来た。
夜の路地の空気が、キヅキの輪郭に向かって収束してくる。外の世界がキヅキを変えようとしている——そういう感触が、変身のたびにある。内側から何かが溢れるのではなく、外側が締め付けてくる、という感じ。
最初に変わるのは声だった。
声を出したわけではなかった。でも喉の奥で何かが変わった。変わったと分かったのは——風が来た瞬間だった。夜の路地の、小さな風。その風の音が、変わった。壁に当たって消えていたものが、反響していた。反響して、キヅキの方へ戻ってくる。空間に満ちる感触。
声の変化が、頭頂から肩へ、胸へ、腹へ、指先へと伝わっていった。
黄色い光が外から来た。
明るかった。夜の暗い路地に、圧倒的に明るかった。目を引く——目を引くように設計された光が、自分の輪郭に沿って走っていく、という感触。自分がこの光を選んでいる、というよりも、この光が自分を選んでいる。
衣装が変わった。フリルが音の振動を外へ外へと弾く。イヤーカフが、右耳に現れた。
目の表情が最後に変わった。
笑いが深くなった——目まで笑うように。嬉しいからではなかった。笑うべき局面だから笑う、という何かが来た。来て、顔の形になった。
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魔法少女 ゴールデン・ディフュージョン-GOLDEN DIFFUSION-
キサラギ・キヅキ
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——聴こえてる?
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紫の少女が振り返った。
路地の入口に突然現れた黄色い光に、一瞬だけ動きが止まった。「何が来た」という間——その間が、ほんの少しだけキヅキの方に時間を渡した。
壁際の子が、「えっ」と声を出した。
キヅキが前に出た。
「——大丈夫だよ」
声が路地に満ちた。
言いたかったことは「大丈夫」の二文字だったが、声が出た瞬間に音が広がった。壁から反響して、上から来るような感触で路地全体に回った。広がる——黄色の能力の方向が、夜の路地に適用されていた。声を届かせようとしたわけではなかった。でも届いた。
「その子は関係ないでしょ」
紫の少女が答えなかった。
動かなかった——正確には、動く前に状況を測っていた。深い紫の光が、輪郭から少し離れて揺れていた。揺れているのを、キヅキは見た。
紫の少女が、動いた。
二方向から来た。
同時に、左右から。「二人いる」という感触ではなかった。一人なのに、二方向から来た——どちらが本体かを決める前に攻撃が来ていた。
左からを受けた。右からは半歩下がって避けた。
痛かった。
接触した衝撃が、腕を通して肩まで来た。「能力による打撃」というのは、魔法少女的なエフェクトがあるというより——純粋に重かった。重さがあった。身体に来る重さ。それが変身中に感じる一番の実感だった。
壁際の子が「逃げて」と言えばいい、とキヅキは思った。でも声を出す判断が来る前に、もう一度、左から来た。
右手でイヤーカフに触れた。
触れながら、声を出した——「声」というより音に近い、短いフレーズ。歌うというほどでもなく、言葉というほどの形もない。でも音が、路地の壁に当たった。当たって、広がって、跳ね返ってきた——跳ね返る角度が、紫の少女が立っている方向と重なった。
音が共鳴した。
建物の壁が、細かく振動した。ビルの窓ガラスが、高い音を立てた。路地の奥の、ゴミ箱のフタが跳ねた。
紫の少女の動きが、一拍だけ乱れた。
一拍が、攻撃の速さを変えた。
二方向からの攻撃が、ずれた。ずれた瞬間に「どちらが先か」が生まれた。どちらが先かが分かれば、避けられる。
避けながら声を出した。
届かせようとした、のかどうか——後から考えると分からなかった。今のキヅキには「声を出す」ことと「能力を使う」ことの境界が、変身中はなかった。声を出すと、音が広がる。広がると、空間に満ちる。満ちると、そこにいる誰かの注意がキヅキの方を向く。その連鎖が、止まらなかった。
止まらない、という感触が——今夜は少しだけ違った。
「届きすぎている」かもしれなかった。
路地の壁が、音を吸わずに全部返してくる。返ってくる音が、またキヅキを変化させる。その循環が始まっていた。キヅキが声を出すたびに路地全体の音の密度が上がって、上がった密度がまた声に乗ってくる——空間が飽和していく感触。
良いとは言いきれなかった。
良いとは言いきれないが、止まれなかった。
紫の少女が、もう一度動いた。
今度は一方向だった。
単純に、正面から来た。「測ることをやめた」という動き方に見えた。測るのをやめて、真っ直ぐに来た——こちらの方が対処しやすかった。
キヅキは一歩引いて、右手を前に出した。
声を出した。
今度は言葉の形をしていた——「聴こえてる?」と言った。決め台詞だった。決め台詞として出てくるべき場面だから出た、ということは分かっていた。分かっていたが、それでも声が空間に満ちた瞬間の感触は、決め台詞だから、ということとは別の何かだった。
音が収束した。
路地の全部の音が、一瞬だけキヅキの声の方向に向いた——そういう感触があった。向いて、紫の少女の輪郭にぶつかった。
紫の少女が止まった。
一秒か二秒か——止まった。止まった後、半歩下がった。
「……ここは、邪魔が入る場所だった」
声が出た。静かで、低かった。責めているような怒っているような声ではなく——確認している声だった。「この場所は今夜は使えない」という判断を、声に出しているだけのような。
「別の機会に」
言ってから、紫の少女は路地の奥に向かって動いた。
動き方が変わった——変身が解けていく過程で、光の輪郭が薄くなって、次の瞬間には普通の服を着た誰かが路地の暗い部分に入っていった。入っていって、暗さに溶けた。
姿が見えなくなった。
静かになった。
壁際にいた子が、壁から少し離れた。
「……行った、の?」
「行ったよ」
キヅキが答えた。答えながら、自分の声を聴いた。
変身中の声だった。空間に満ちる感触。でも今は相手がいないから、満ちた後にどこへ行くかが分からなかった。
「大丈夫?」
「……うん」とその子は言った。少しの間があって、「ありがとう」と言った。
「ここはあまり長居しない方がいい。また来るかもしれないから」
その子がうなずいた。その子が路地の入口の方へ歩き出した。キヅキも一緒に歩いた。通りに出たところで、その子が「名前、聞いていいですか」と言った。
「……キヅキ」とキヅキは言った。
「キヅキさん。……助けてくれてありがとう」
軽く頭を下げて、その子は通りを歩いていった。キヅキはしばらく、通りのコンビニの明かりが届く場所に立っていた。
変身が、解けた。
特に決めたわけでもなく、解けた。黄色い光が空気に戻って、フリルが消えて、イヤーカフが消えて、普段のキヅキに戻った。戻った後、夜の通りの音が戻ってきた。
コンビニの換気扇の音。遠くを走る車。どこかの居酒屋から漏れる話し声。
通常の、音の量だった。
聴いてみて——今まで気づかなかったが、変身中は音が「全部こちらに向いていた」ということが分かった。全部が向いていた状態から、バラバラに戻った。バラバラが普通の状態なのに、バラバラが少し多く感じた。
喉を確かめた。
痛くはなかった。乾いていた。乾いている、という感触だけがあった。でも何かが引っかかった。引っかかりの正体が何なのかを探した。
——さっき自分が言ったこと。「大丈夫だよ」「聴こえてる?」——声を出したのは自分だった。でも「声を出した」という実感と、「声が出た」という感触が、少しずれていた。
少し、ずれていた。
ずれている、ということが今まではなかった。声を出したら声が出た、という感触がいつもあった。変身中はそれが「全員が聴いている」という感触になって、もっとはっきりしていた。でも今夜——何かが少し違った。
「自分の声なのか」というのが、一瞬だけ出てきた。
出てきて、消えた。消えたが、なかったことにはならなかった。
路地に向かって、一度だけ振り返った。
もう誰もいない暗い路地。壁際に立っていた子も、紫の少女も、キヅキもいない。
紫の少女の「別の機会に」という言葉が残っていた。声の質を思い出した——怒っていなかった。あの少女も、何か別のことを考えながら戦っていた、という声だった。何を考えているかは分からなかったが。
妖精がいないことに気づいた。
話しかけていなかった。変身してから、解けるまで、妖精の声が来なかった——正確には、声が来ていたかもしれないが、キヅキが耳を向けていなかったかもしれなかった。変身中は空間の音が全部こちらに向いていて、妖精の声が入ってくる隙間がなかった。
スマートフォンを取り出した。
「ねえ」
「キヅキ! 大丈夫だった?」
声が来た。速かった。待っていたような速さだった。
「変身してたの聞こえてたんだけど——ちゃんと終わった?」
「終わった」
「良かった、一人でやったの?」
「そう」
妖精が「すごいじゃん!」と言った。明るい声だった。
キヅキはそれを聴きながら、自分の右手を見た。変身が解けた今は、普通の手だった。変身していた間は何かが違う手だった——声が出るたびに空間が変わっていた手。その手が今は普通の手だった。
「……なあ」
「なに」
「変身してる間って、声出すじゃないか」
「うん」
「その声って——自分の声?」
少しの間があった。
「……どういう意味で聞いてる?」
「自分が出してる声が、自分のものだって感触があるか、ってこと」
また少し間があった。妖精がすぐに答えないのは珍しかった。珍しいことが今夜は重なっていた。
「キヅキの声だよ」と妖精は言った。「キヅキが出した声で、キヅキの能力が使われた」
「そうじゃなくて」
「そうじゃないって、どういう意味?」
キヅキは少し黙った。
どういう意味か、を言葉にする手前で、何かが形を崩した。崩れる前につかまえようとしたが、うまくいかなかった。
「……なんでもない」
「怪我は?」
「してない」
「じゃあ良かった。一人で解決できたのすごいよ、キヅキ」
妖精の声が、明るく弾んでいた。その明るさが、今夜は少しだけ遠くから来るような感触だった。遠くから来る——そういう言い方しかできなかった。距離が変わったわけではなかった。でも何かの質が変わっていた。
返事をしなかった。
コンビニの前まで歩いた。
缶コーヒーを買って、ベンチに座った。無糖のやつ。温かかった。
飲みながら、通りを行き交う人を見た。夜の池袋には人がいた。キヅキが戦闘をしていた路地から一本外に出れば、人がいて、光があって、音がある。誰も知らない。知らなくていい話だったが、それでも少しだけ奇妙な感触があった。
今夜の声のことを考えた。
「大丈夫だよ」と言った声。「聴こえてる?」と言った声。あの声は、壁際の子に届いた。届いたのは確かだった。届いて、あの子は路地から出てきた。
届いた、ということと、「自分の声だった」ということが——今夜は少しだけ、別のことに感じた。
今までは同じことだった。声を出す、届く、自分がそこにいる——一本の線だった。今夜は、出すと届く、の間に何かが入った気がした。
何が入ったのかは、分からなかった。
分からないまま、缶コーヒーを飲んだ。
温かかった。温かいことだけが、今夜の、一番はっきりしていた感触だった。
帰り際に、もう一度右耳の裏をさわった。
変身が解けても、少し残っていた感触。イヤーカフがあった場所の、余韻のような何かが。
あの少女——紫の——もどこかにいる。今夜は「別の機会に」と言って去ったが、いなくなったわけではない。
「同じ側にいる」かもしれない、とキヅキは思った。「同じ側」が何を意味するのかを、まだ知らなかったが。
夜の池袋の音が、外から来ていた。
その部屋に窓はなかった。
「資料室」という名称になっているが、資料が置かれているのは壁際の一列の棚だけで、残りの面積はモニターと機器類が占めていた。蛍光灯ではなく、作業ランプが机ごとに置かれている。それぞれが違う角度を向いていた。部屋全体を均一に照らすのではなく、「使っている人間の手元だけを照らす」ための配置だった。
Qが画面を見ていた。
三面に並んだモニターの、一番左を指で叩いた。画面が切り替わって、SNSのダッシュボードが出た。アカウントが二十数個、ずらりと並んでいた。フォロワーの総数と、直近七日間のインプレッション数と、エンゲージメント率が縦に並んで、更新のたびに少しずつ数字が変わっていた。
「タチバナ」とQが言った。
ここで一度、立ち止まって説明しないといけない。
ワタシことタチバナ・サクラが今いる場所は、第1章でエイさんに連れてこられた「木造の古い建物」——庭に大きな木があって、廊下が軋む、あの邸宅ではない。
あの邸宅はK機関の「居住スペース」というか、保護対象を匿う場所というか、とにかく住むための建物だった。アオイさんとワタシはしばらくあそこにいた。あそこは渋谷からわりと近い、住宅街の中にある。
今ワタシがいるのは別の場所だ。
正式名称は「警視庁目黒合同庁舎」という。目黒区にある、普通の警察署のように見えるが、そうじゃない。一般の窓口業務はやっていなくて、入れるのは関係者だけ——という、外から見ても分からない種類の建物だ。K機関の実務拠点がここにある。監視システムの管理とか、捜査記録の保管とか、そういう「情報を扱う」機能がほぼここに集まっている。
邸宅で「住む」、庁舎で「働く」——そういう構造だとエイさんが説明してくれた。ワタシは「へえ」と言った。言ってから「つまり、ワタシも働くんですか」と聞いたら「そうなる」と言われた。
というわけで。
今日は庁舎の、資料室と呼ばれている部屋にいる。
「タチバナ」とQが言った。
サクラは部屋の入口に立っていた。
来てから十秒か二十秒は、何も言われなかった。言われなかったので、どこに立つべきかが分からなかった。Qが使っている椅子の隣に別の椅子があったが、「座っていい」と言われていないので立ったままでいた。立ったままだから少し手持ち無沙汰で、左手で右のひじをさわっていた。
ここでもう一つ説明する。
Qというのは、K機関の諜報部門を担当している人で——まあ、ワタシとエイさんが「現場に出る」側なら、こっちは「情報を集めて分析する」側の人だと思ってもらえばいい。見た目は三十代くらいの女性で、落ち着いた格好をしている。声が短くて、台詞が完結している。「かもしれません」とか「だと思います」とかを言わない。出てくる言葉がほぼ全部、処理の終わった情報だ。
K機関に来て最初に会ったとき、ワタシは「怖い人なのかな」と思った。でも怖いというのとは少し違った。「情報以外のものの扱い方を、まだ迷っている人」——というのが今のワタシの認識だ。合ってるかどうかは分からない。
「——今、何が見えてますか」
Qが言った。質問のような言い方だったが、確認に近かった。
「えと」とサクラは言った。「SNSの画面、ですよね」
「そうです。これが全部、一人の人間が管理しているアカウントです」
「全部で二十何個かある」
「二十三です」
Qが右のモニターを切り替えた。白地に黒で「推定運用者:黄瀛貢一」と書かれた、報告書のような画面が出てきた。横に顔写真が貼られていた。四十代ほどの男の、ビジネスの場で撮ったような写真だった。
「黄瀛貢一。アフィリエイト系のコンテンツ制作者。表の肩書きはフリーランスのマーケターで、実態は複数のSNSアカウントを運用して広告収益と紹介料を得ています。フォロワーの合計が現在、約三百三十万。この数字は今月に入ってから七パーセント増えている」
サクラは画面を見た。
「七パーセント、が多いんですか」
「ひと月で、という話ならば。ただし増え方の中身が問題で——」Qが少し間を置いた。「黄色の能力者と接触を始めてから、この男のネットワーク全体の数字が動き出している。接触前と後で、伸び方の傾きが変わった」
グラフが出てきた。折れ線が途中から角度を変えていた。
「……これ、どっちが先なんですか」
「何のことですか」
「能力者が黄瀛さんと組んだのが先か、数字が動き出したのが先か」
Qが少しだけ画面から視線を外して、サクラの方を見た。見て、また画面に戻った。
「ほぼ同時です。それが問題の一部。能力と人工的なアルゴリズムが、並行して動いている。どちらが原因でどちらが結果なのかを分離できていない」
右端のモニターに映像ウィンドウが出てきた。
NOISE BOXらしき場所で、キヅキがマイクを持って話している映像だった。会場全体を映したアングルで、照明が暗くてはっきりとは見えなかったが、立っている人間の数が多かった。正確には——全員が同じ方向を向いていた。
キヅキの方を、全員が向いていた。
「……なんか、多いですね」
「今夜ではなく、三日前の映像です。件の動画が配信されてから最初のイベント。来場者数が通常の一・五倍になっている」
「一・五倍って、すごくないですか」
「魔法少女の能力を使っているわけではない状態で、という意味では。変身していない時でも、声の使い方で場の空気を変えられる——Jが現地で確認しました」
「Jが」
サクラはモニターを見た。映像の中のキヅキが、マイクを別の子に渡そうとしていた。渡された子が戸惑っている様子だったが、キヅキが何か言って、場の空気が変わった。全員がその子の方を向いた。
「……変身してないのに」
「変身前から身についている技術だと思われます。詳細な経緯はまだ追えていませんが、能力と、能力以前から持っているものが、今は一緒になって動いている状態」
Qが映像を止めた。
「問題の整理をします」
Qは机に置いてあったバインダーを一枚めくった。手元を見なくても、どこに何が書いてあるかを把握しているような動作だった。
「現状確認できているのは三点。一点目——黄色の能力者が、民間人のアカウント運用者と接触し、協働しているように見える。二点目——その接触から後、能力者の活動範囲と影響力が拡大している。三点目——能力の使用は現場では確認できていないが、使用していない状態でも一般市民に対する相当の影響力を持つ」
「……三点目が難しいですよね」
「そうです」
「変身してなければ、ただ話がうまい人と変わらないから」
「法的には、その通りです。魔法少女の能力行使と、一般人の言論活動の区別が——今のところ私たちには証明できない」
サクラはそれを聞いて、少し天井の方を見た。
「——まあ、そういうことらしくて」
誰かに向かって言った。
Qが「何ですか」と言った。
「あ、えとですね」とサクラは言った。「こういうとき、ワタシが出番、って思って、思っただけです、すみません」
Qがしばらく見てから「そうですか」と言って、バインダーに視線を戻した。
モニターの一つが点滅した。
Qが画面を確認した。「Jが来ます」と言った。
中央のモニターに別の画面が立ち上がった。映像通話の画面だった。数秒後に接続が確立して、中性的な顔の青年が映った。
ここでまた一つ説明する。
Jというのは「量産型AI巡査の上位機種」で——プロローグでワタシが現場に出たとき、非常線の内側で「こちらです」って敬礼しながら動いていた、あの白黒のAI巡査がいたと思う。あれが量産型で、Jはその上位バージョンだ。量産型は顔もついてなくて、動きが規則的で、どう見ても「機械」なんだけど、Jはそれより全然「人間っぽい」見た目をしている。二十代前半くらいの、中性的な顔の青年、という感じ。
ただ服装の素材が微妙に違う。ボタンの配置も微妙にずれている。
「人間」と「AI巡査」の、ちょうど間くらいにいる存在、というのがワタシの今の印象だ。
「Jです」と青年が言った。「接続の確認です」
「確認できています」とQが言った。「報告を」
「はい。昨夜のNOISE BOXの件から」Jが画面の外の何かを確認した。「イベント参加者四十七人を観察しました。うち、変身能力の持ち主と思われる人物は黄色の能力者本人のみで、他の参加者については変身の兆候は確認できていません」
「能力使用は」
「使用なし。ただし——」Jが少し止まった。「声の届き方が、通常の人間の音声とは違う、という印象はありました。計測値で示せるものではなく、印象になってしまうのですが」
「印象でいい、続けてください」
「場の中に入ると、話を聞かざるを得ない状態になる、という感触がありました。聞こうとして聞いているのではなく——聞いていることに気づいたら、もう聞いていた、という。参加者に声をかけてみました。一人、お話を聞きました」
「何を聞きましたか」
「今日のイベントが楽しかったかどうかを聞きました。その方は——」Jがまた少し止まった。「聴いていたら泣きそうになった、と言いました」
部屋が少し静かになった。
静かになってから、Jが言った。
「一つ、質問していいですか」
「何ですか」とQが言った。
「この子たちは」
「この子たちは」
「——犯罪者なのですか」
Qが何も言わなかった。
Qは何も言わなかったが、何かを言いかけた気配があった。バインダーに手が触れてから、止まった。
モニターの数字が更新されて、カウンターが一つ上がった。
サクラはQが答えないのを見ていた。答えない、というのは「答えがない」ではなく「答えを処理できていない」という状態だった。それはJの質問が「情報」ではなかったから、だとサクラは思った。Qが得意なのは情報の処理で——Jが今聞いたのは、情報ではなかった。
「……難しい質問ですね」とサクラが言った。
Jが画面の中からサクラを見た。
「そうですか」
「うん、難しいですよ、それ」
「もう少し詳しく教えてもらえますか」
「えとですね」とサクラは言った。「悪いことをしてるつもりがない人が、悪いことをしてる場合って、誰が悪いのか分からないじゃないですか」
「……はい」
「それが分からないまま『犯罪者』って言うのは——たぶん、難しい、というのは、そういうことだと思います」
Jがしばらく考える様子を見せた。考え終わってから「ありがとうございます」と言った。言い方がとても丁寧だった。
「ところで」とJが言った。
「はい」
「先ほど潜入前に、立ち食いそばを一杯食べたのですが」
「それは」とQが言った。「今は関係がないです」
「そうですか。美味しかったです」
「報告を続けてください」
その後、Jが現地の状況をひと通り話した。黄瀛貢一については、NOISE BOXの外から車で待機していた人物が確認されたが、それが貢一かどうかは未確認だと報告した。Qが「引き続き観察を」と言ったところで、通信が終わった。
画面が通常表示に戻った。
部屋が元の静けさになった。
Qがキーボードを打って、何かを入力し始めた。
「Kへの報告を上げます」とQが言った。「判断を仰ぎます」
「Kさんというのは」とサクラが言った。「直接お会いしたことがまだないんですが」
「ないままでいい方がいいです。会う理由があるということは、状況が悪化しているということです」
「そうなんですか」
「K機関の構造上の話です。Kが現場に出てくる事案は、原則として通常の対処では済まない事案ということになる」
「……なるほど」
サクラはまたモニターを見た。黄瀛貢一の顔写真がまだ出ていた。
清潔で、高価だが目立たない服の、四十代の男だった。
この人が「悪い人」なのか「悪くない人」なのかは、サクラには今のところ分からなかった。分からないまま、なんとなく眺めていた。
Kの判断が下りてきたのは、それから十五分ほど後だった。
モニターの一つに、テキストだけの短いメッセージが出てきた。Qが読んで、「来ました」と言った。
声には出さずに読んでいた。サクラは何が書いてあるか分からなかった。分からないので黙っていた。
Qが読み終えてから、内容を言った。
「『接触するな。観察を続けろ。ただし民間人への影響が確認されれば対処する権限を与える』」
その言葉が、部屋に出てから少し経って静かになった。
「……観察を続けろ、というのは」とサクラが言った。「何かが起きるまでは動かないってことですか」
「そうなります」
「でも、何かが起きてからじゃ」
「そうです」
Qの答え方は短かった。追加の説明がなかった。
サクラは「そうです」が「同意します」なのか「そういうルールです」なのかを、判断できなかった。どちらにも聞こえた。Qの言い方は、どちらにも聞こえるように作られているのかもしれなかった。
「K機関は」とサクラが言った。「法律の外のことはしない、ということですか」
「外ではなく、枠の中で動く組織です」
「枠の中で、動ける範囲でしか動けない」
「そうです」
それ以上は言われなかった。
資料室を出たのは、夕方に差し掛かる前の時間だった。
廊下は静かだった。目黒合同庁舎の建物はどこも静かだったが、廊下はとくに静かで、足音だけが聞こえた。邸宅の廊下が軋むのとは違う、コンクリートと配線と冷却システムの音がうっすら混じった、「仕事をしている建物の静けさ」だった。
サクラは歩きながら、さっきQが言った言葉を繰り返していた。
観察を続けろ。
民間人への影響が確認されれば。
確認されれば、対処する権限を与える。
権限を与える、というのは「動いていい」ということで、権限が与えられるまでは「動いてはいけない」ということだった。そのあいだに何かが起きても、K機関は動けない。
NOISE BOXの映像の中で、キヅキがマイクを持って話していた。全員が同じ方向を向いていた。
あの映像の中の「全員」が、今夜もどこかにいるのだと思った。
廊下の突き当たりに窓があった。
目黒合同庁舎の中でも、窓がある場所は少なかった。あっても外が見えないように処理されているものが多かった。ここの窓は半分だけカーテンが開いていた。
カーテンの隙間から空が見えた。曇っていた。
夕方前の曇った空で、光が散漫だった。どこが明るくてどこが暗いのかが、はっきりしていなかった。
A1が廊下の途中に立っていた。
壁際に片足を預けて、腕を組んで、何もない方向を見ていた。サクラが来ても振り向かなかった。
「終わったか」とA1が言った。
「終わりました」
「Qから何か言われたか」
「Kの判断が来て、動くなって話でした」
「そうか」
A1が壁から背を離した。サクラと並んで歩き始めた。
「……エイさんはどう思いますか」
「何を」
「動けない間に何かが起きたら、どうするのかな、ということ」
A1は少し歩いてから、答えた。
「動けない間に起きることが、起きない方がいい」
「それは」
「それだけのことだ」
言い方が短くて、それ以上続かなかった。
サクラはA1の横を歩きながら、「それだけのことだ」という言葉の中身を考えた。起きない方がいい、というのは、起きることを止める方法がない、ということと、どのくらい違うのかを考えた。
違うはずだった。違うはずだが——どのくらい違うのかが、分からなかった。
廊下の窓の横を通り過ぎた。曇った空が少し動いていた。