アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
貢一のオフィスは、池袋西口から歩いて七分のところにあった。
雑居ビルの五階で、エレベーターを出ると左右に分かれる廊下があって、右が貢一の借りているスペースだった。廊下のドアノブが手前に傾いていたから、「引く」と思ったら「押す」だった。最初に来たときに間違えて、貢一が立ち上がって開けてくれた。今日は二度目だから、押すということを覚えていた。
貢一はまた椅子に座っていた。
奥の机の前に座って、二枚のモニターを確認していた。こちらが入ってきた音で顔を上げた。「来ましたね」と言って、立ち上がらなかった。立ち上がらないが、手元の椅子を一つ横にずらした。「どうぞ」ということだった。
キヅキはコートのボタンを外しながら部屋に入った。
部屋は狭くなかった。でも何かがぎっしりしていた。モニターが二枚、その横にもう一台のノートPC、有線のキーボードが二つ、紙のメモが何枚か、スマートフォンが二台——全部が机の上にあって、全部が使われている様子だった。「片づけていない」のではなく「全部必要なものだけがある」という感じで、これはこれで秩序があった。
壁には何も貼っていなかった。窓が一つあって、外はビルとビルのすき間だった。光は入るが景色はなかった。
「今日、持ち込みたい話があるって言ってましたね」と貢一が言った。
「はい」
「聞かせてください」
それだけ言って、モニターから視線を移してキヅキに向けた。
キヅキは少し間を置いた。
「少し間を置いた」のは、準備していなかったからではなかった。準備はしていた。金曜のイベントの前から考えていて、昨夜もカラオケで一人で考えていた。「宗教2世のことを話したい」という考えは、今朝起きた時点でもまだそこにあった。だから間を置いたのは、「始め方が分からなかった」という感じに近い。
言い方の問題ではなくて、「何から話す」の問題だった。
「……宗教2世の話をしたい、と思って」
「なるほど」
「でも、自分の話というより——界隈にいる子の中で同じ背景を持ってる子が、想像より多いんですよね。教団を出てきた子とか、今でも続いてる家にいる子とか。そういう話を、もう少しちゃんと声に出せる場所があっていい気がして」
「なるほど」と貢一はもう一度言った。「続けてください」
「自分の体験談をそのまま話す、という形じゃないほうがいいかなとも思っていて。でも、自分が経験していることは少し使いたい。それで——どういう形にすればいいかを、少し一緒に考えてほしくて」
言い終わって、貢一がしばらく黙った。
貢一が黙っている間、キヅキは壁を見ていた。
何も貼っていない壁だった。窓からの光が当たっている部分と、当たっていない部分で、明るさが違った。明るい方はただ白くて、暗い方は少し灰色だった。
「……強いテーマです」と貢一が言った。「ただ」
「ただ?」
「出し方を考えないといけない」
「出し方」という言葉が来た。キヅキはその言葉をそのまま受け取った。「出し方を考える」というのは、別に変なことではなかった——話の組み立てとか、言葉の選び方とか、そういう意味で使う言葉だとキヅキは思っていた。
「たとえば」と貢一が言った。「あなたの個人的な体験として話すか、界隈の子どもたちの共通の問題として話すか——これは、届く層が変わります」
「そうですね」
「個人の体験として出すと、同じ体験を持つ人には刺さる。でも、刺さらない人は最初のところで離れる。界隈の問題として出すと、入り口が広くなる。見てもらえる人数が最大化する」
「入り口を広くする、というのが大事なんですか」
「届けたいと思っているなら、まず見てもらわないといけない」
それは正しかった。
正しいから、キヅキはすぐに「そうですね」と言えた。でも「そうですね」と言いながら、何かが少し後ろの方にあった。何が後ろにあるのかは、まだ形になっていなかった。
「具体的には」と貢一が続けた。
机の引き出しからメモを一枚取り出した。何か書いてあった——キヅキがいる位置からは逆さだから読めなかったが、いくつか箇条書きがあるようだった。
「特定の宗教名には言及しない。あなたが所属していた団体の名前も出さない」
「……なぜですか」
「言及すると、その宗教の話になる。議論がそちらに引っ張られる。あなたが届けたいのはたぶん、宗教の種類に関係なく、信仰を強いられた子どもたちの話のはずです」
それはそうだった。
「配信のタイミングは週末の夜がいい。日曜の夜から月曜の朝にかけて、見てもらえる数字が動きやすい。あなたのこれまでの配信の数字を見ると、週末に出したものが平日の倍近いパフォーマンスになっている」
「週末の夜、ですか」
「感情的な話は夜に刺さりやすい。これは傾向値です」
貢一がもう一つ続けた。
「あと——話し方を少し整えてほしいところがある」
「整える、というのは」
「宗教2世という言葉をそのまま使うのは問題ない。でもそれを話すときの自分の感情の出し方を、少し整えた方がいい。出しすぎると、それを見て感情的になる人が出てくる。そういう見方をされると、話の中身ではなくあなたの感情状態が話題になる」
「それは」とキヅキは少し止まった。「感情を抑えろ、ということですか」
「抑えろではなく——整えろ、ということです。あなたが話すと空気が動く。だからその動き方を、届けたい方向に合わせた方がいい」
部屋が少し静かになった。
モニターから何かの更新音が短く鳴って、すぐ止まった。
「……分かりました」とキヅキは言った。
「何か聞きますか」と貢一が言った。
「いや、大丈夫です」
大丈夫だった。
「大丈夫です」と言った時点では、本当にそう思っていた。特定の宗教名を出さない、タイミングは週末の夜、感情の出し方を整える——どれも理由がある。理由があるから、「それで行きます」と言える。おかしくなかった。
でも帰り道で、池袋の駅に向かって歩きながら、キヅキは何かを考えていた。
考えながら歩いていたから、前を見ていなくて、歩道の段差で少しつまずいた。つまずいてから、「何を考えていたのか」を確認した。
確認しようとして、形がなかった。
駅のコンコースに入ると人が多かった。
金曜だから人が多い、ということではなくて、夕方だからだった。みんなどこかに向かっていて、それぞれの方向に動いていた。その中でキヅキだけが少し止まったような感触があった。体は動いているのに、何かが止まっていた。
イヤホンを右耳に差した。
「今日どうだった?」と妖精の声が来た。
「打ち合わせしてきた」
「宗教2世の話?」
「うん。方向性いろいろ決まった。週末に出す感じにする」
「いいじゃん!」と妖精が言った。「絶対反響来るよ。あのテーマは刺さると思う、ずっと思ってた」
「うん」
「キヅキの話し方で届けたら、かなり広がると思うよ」
キヅキは改札を通った。
ホームに降りると、電車が来るまで少し時間があった。ベンチに座ろうかと思って、やめた。立ったまま電光掲示板を見た。次の電車は三分後だった。
「……なあ」とキヅキは妖精に言った。
「何?」
「私の話をする、って言ったら、貢一さんは『私を通して何かを届ける話にする』って言ったんだけど」
「それ、悪いことじゃないと思うよ」
「悪いとは思ってない」
「じゃあいいじゃん」
「でも」
電車が来る音がした。
向こうのホームだった。キヅキのホームではなかった。音だけが来て、電車は来なかった。
「でも、何?」と妖精が言った。
「……分かんない」とキヅキは言った。「分かんなかった。でも何かがあった気がして」
「何かって?」
「だから分かんないって言ってる」
妖精がしばらく黙った。
妖精が黙るのは、珍しかった。返せなくなったとき、たまにある。「でもいいじゃん」が出てこなかったときだった。
「……まあ」と妖精が言った。「でもさ、宗教2世のことを話したいって思ったのはキヅキだよね。それは変わらないよ。誰に聞いてもらうかで、その気持ちが変わるわけじゃないと思う」
「そうだね」
「だから、やろうよ」
「やる」とキヅキは言った。「やろうと思ってる」
電車が来た。
ドアが開いて、乗る人と降りる人が入れ替わった。キヅキも乗った。車内はほどよく混んでいた。ドアの近くに立った。イヤホンは右耳に差したままだった。
妖精の声は来なかった。
キヅキも話しかけなかった。車内の音と、車輪の音だけがあった。
「やろうと思ってる」と言ったのは本当だった。
本当だが、「何かを届けたい」と思ったときの「何か」と、「方向性が決まった」と思ったときの「方向性」の間で、何かが少しずれた気がした。ずれた、という感触だけが残っていた。ずれたものが何なのかは、形にならなかった。
形にならないのは、まだ早いからかもしれなかった。
形にならないまま届けても、届くものがあるかもしれなかった。
その判断がキヅキにはつかなかった。つかないまま、電車が次の駅に着いた。
カラオケのビルに入ったのは、九時を過ぎた頃だった。
池袋に何軒かある二十四時間営業のカラオケで、キヅキが使うのはここだった。階段を上がって、受付で一番小さい個室を頼んだ。「何時間ですか」と聞かれて「二時間」と答えた。二時間以上いたことも、一時間で出たこともあった。「二時間」と言うのは、最初に決めておいた方がこういうことを考える必要がないからだった。
個室に入った。鍵をかけた。照明を一段暗くした。
音楽はかけなかった。
リモコンを手に持って、机の上に置いた。椅子に座って、少しの間、壁を見た。カラオケの壁は、どの店も大体こういう感じだった。防音のためのでこぼこした素材で、光を吸うような質感があった。声を出しても外に漏れない。外の音も入ってこない。
「声を出さなくていい場所」として使っている、ということに、来るたびに少し気づく。ここに来ると声を出さなくなる。出さなくていいから来ているはずだが、毎回なぜ来ているのかを入ってから確認する、という順番になっていた。
「なんか、な」とキヅキは言った。
声が出た。
小さくて、誰にも向けていない声だった。妖精に言っているのでもなく、一人でしゃべっているだけだった。「なんか」の後に続く言葉が出てこなかった。出てこなくていいから、「なんか、な」のままにした。
貢一の言ったことを一つずつ確認した。
特定の宗教名を出さない——それは分かる。話が広くなる、ということだった。週末の夜に出す——それも分かる。届く数字が動く、という話だった。感情の出し方を整える——これも、おかしいとは思わなかった。出しすぎると、内容ではなくて感情が話題になる、という話だった。
どれも、間違っていなかった。
間違っていないのに、何かがある。
キヅキはリモコンを手に取って、また机に置いた。
「あの……」と言いかけて、やめた。
誰もいないから「あの」が届く先がなかった。「あの」の続きも出てこなかった。
妖精に話しかけようとして、今夜はやめた。理由はなかった。なんとなく、今夜は一人でいたかった。一人でいる、というのはいつもそうなのだが、「妖精もいない一人」でいたいという気分が、今日はあった。そういう夜が、たまにある。
「私を通して届ける」と「私の話をする」は、どう違うのか。
貢一はどちらとも取れることを言っていた。「届けたいなら見てもらわないといけない」という話と、「あなたの体験を使いたい」という話が、同じ文の中に入っていた。
キヅキは「あの……これって、私の話をするんじゃなくて、私を通して何かの話をする、ってこと?」と聞いた。
貢一は「届く人数が最大化すれば、あなたの言いたいことも最大化するでしょう」と言った。
間違っていない。
間違っていないのに、「あなたの言いたいこと」という言い方が、何かを少しずらした感じがした。「あなたの言いたいこと」を届けるための手段として「あなた」を整える、という話だった——ように聞こえた。「あなたの言いたいこと」と「あなた」が、少し分かれた感触があった。
分かれていても、届くのであれば、それでいいのかもしれなかった。
届くためにある程度の整え方をする、というのは、キヅキもNOISE BOXのイベントでやっている。場の空気を読んで、話す順番を変える、言葉を選ぶ——それをいつもやっていた。「整える」こと自体はおかしくない。
じゃあ何が、と思ったら、また形がなかった。
一時間弱、個室にいた。
帰る前にトイレに立ちよって、洗面台で顔を洗った。蛍光灯の光が白くて、鏡の中の自分の顔が少し眠そうに見えた。眠いわけではなかった。光のせいだと思った。
スマートフォンを取り出した。貢一からのメッセージが来ていた。
「今日ありがとうございました。週末に向けて準備進めます。話し方の整理、少しだけ事前に確認させてください」
「話し方の整理」。
返信を打った。「分かりました、よろしくお願いします」——打って、送った。
妖精に声をかけようとして、やめた。
やめてから、「やろうと思ってる」と自分の声が電車の中で言っていたのを思い出した。やろうと思っている、は本当だった。今も本当だった。
でも、「なんか、な」も本当だった。
二つが同時にあった。どちらかが嘘だったらよかったが、どちらも本当だから、どちらかに決められなかった。
ビルを出ると夜の池袋だった。
人が多かった。金曜の夜だから、昼より多かった。誰もが誰かと一緒か、それぞれ別の方向を向いて歩いていた。音が多かった——呼び込みの声、音楽、ヒールの音、誰かの笑い声。重なって、どれがどれか分からなくなっていた。
その中でキヅキが一人、立っていた。
立っていたのはほんの少しの間で、すぐ歩き始めた。方向は決まっていた。家に帰るだけだった。
「整えた声で届けること」と「届けたいものがある声」は、同じかもしれないし、違うかもしれなかった。
今夜はまだ、分からなかった。
分からないまま、歩いた。
土曜日の夜のNOISE BOXは、入口から違った。
階段を降りる前から聞こえていた。人の声、と呼ぶには少しばらばらで、空調の音、と呼ぶには少し温かい、その中間の音。ライブスペースに人が入っているときの、あの音。でも今夜は音の質量がいつもと違った。多い。
キヅキは入口で少し止まった。
止まって、数秒、音を聴いた。
スタッフの浜田さんが横に来て「今日、かなり来てますよ」と言った。「あの動画、見た人がわりと来てる感じで」。浜田さんはNOISE BOXのスタッフで、キヅキの自主企画を何度か手伝ってくれている二十一歳だった。「あの動画」というのは、宗教2世の話を貢一の「出し方」で配信した動画のことだった。
「何人くらい」とキヅキは聞いた。
「入口から数えて——今のところ八十くらいですかね。増えてるかも」
いつもの二倍だった。
「そうか」とキヅキは言って、階段を降りた。
スペースの中に入ったとき、空気が顔に当たった。
人が多いと空気が変わる。体温が乗って、音の反響が変わって、「場所の音」ではなく「人の音」になる。それ自体はいつもの金曜のイベントでも起きることだった。でも今夜は——もう一つ何かがあった。
見回した。
いつも来る顔がいた。もちろん、いた。最前列に近いあたりにいる三人組は毎週来ている子たちだった。壁際に立っているグレーの上着の子も常連だった。角の方に固まって話している二人も。
その隙間に、知らない顔があった。
知らない顔自体は珍しくなかった。初めて来る子は毎回何人かいた。でも今夜の知らない顔は——質が違った。
うまく説明できる気がしなかった。でも感じた。
「傷ついた子どもたちを見にきた人」が、混じっている、という感触。
イベントを始めた。
マイクを取って、いつもの場所に立った。スポットライトが当たる。顔が客席には見えにくくなる、あの位置。キヅキはここが好きだった——見えているのに少し見えにくい場所。
「こんばんは、来てくれてありがとう」
声が出た。
届いた。いつも通りに届いた——はずだった。でも今夜は返ってくるものが少し違った。「届いた音が何かに吸収されていく感触」ではなく、「届いた音が跳ね返ってくる感触」があった。跳ね返るのは、集中している場の空気だった。客席の注意が、一点に集まっている。
一点。
キヅキのいる場所に。
それ自体はおかしくなかった。イベントが始まれば、みんながこちらを向く。それは今まで通りだった。でも今夜の「向き方」は——「聴こうとしている」というより「見ようとしている」に近かった。
十五分ほど話してから、マイクを持ったまま客席に問いかけた。
「今夜、話したいことある人いますか」
いつも、ここから場が動く。誰かが手を上げる。あるいは手は上げないがアイコンタクトで「いる」と伝えてくる。キヅキはその誰かを選んで、マイクを渡す。渡された子が話し始めると、場の「温度」が変わる——それがこのイベントの、キヅキが一番好きな部分だった。
客席を見た。
手が上がらなかった。
珍しいことではなかった。上がらない回もある。でも今夜は、手が上がらないことの「質」が違った。上がらない、のではなく——「上げられない」という空気があった。
なぜか。
八十人の中で、半分以上が初めてここに来た人だった。初めて来た人の多くが、「話すことを期待されていない」と思っている。「見にきた」という意識で来ているから、「話す側」に回るという発想がない——かもしれなかった。それだけなら、いつものことだった。
でも今夜は、もう一つ重なっていた。
「話したら、八十人が聴く」という圧力が場にかかっていた。
いつもの三十人なら、誰かが何かを言っても「みんなで話している」という感触があった。でも今夜は、誰かがマイクを持った瞬間に「ステージに上がる」ような感触になる。そういう人数になっていた。
キヅキは、この変化に気づいていた。
一番早く、気づいていた。
場に来た瞬間から、何かが違う、ということは分かっていた。でも——マイクを持ったまま、客席を見ながら、話し続けた。
「じゃあ今夜は、私が少し話す感じにします」
声が出た。
これ自体は嘘ではなかった。話す準備はしてきていた。週末の動画がどういう反響を呼んでいたか、そこからどういう話を続けたいか——考えてきた。
でも今夜の「私が話す感じ」は、いつもの「私が話してから、誰かに渡す」とは違う形になっていた。「渡す」ことができない空気に、場がなっていた。
マイクを手放せなかった。
「手放す」ことが、今夜は怖かった——怖い、とまで言えるかどうかは分からなかったが、「渡した先で、その子が八十人の前で困る」という可能性が重くなっていた。それを考えると、渡す手が鈍った。
だから話し続けた。
三十分過ぎた頃、一人が手を上げた。
客席の中段あたりにいた女の子だった。初めて見る顔だったが、「いつもここに来ていそうな」雰囲気があった——どういう意味か自分でも説明できなかったが、そう見えた。
「あ、話してくれる?」
うなずいた。
キヅキがマイクを渡しに近づいた。マイクを受け取って、その子が少しの間黙った。黙っている間、視線が下を向いていた。八十人の視線が、その子に向いていた。
その視線の量が、重かった。
キヅキにはそれが分かった。でも分かっても、視線を減らすことはできなかった。
「えと、」とその子が言った。「なんか……この場所、初めて来たんですけど」
声が震えていた。気づいていたのがキヅキだけかどうかは分からなかったが、震えていた。
「どうぞ」とキヅキは言った。小さく、その子だけに聞こえるような声で。マイクから離れて言った。
その子が続けた。「宗教の話、聴いて——なんか、私も似たような家庭で育って。でも周りに言える人が、あんまり、いなくて」
客席が静かになった。
聴いていた。みんなが聴いていた。
聴いている、ということは本当だった。ここにいる人たちが、その子の言葉を受け取ろうとしていた。それは良いことのはずだった。
でもキヅキは——その子の肩の、わずかな固まりを見ていた。八十人に向けて話すための固さ。「一人で話しながら耐えている」という固さ。いつもここに来ている子が誰かに話すときの、もう少し肩の落ちた感触とは、違う固さだった。
その子が二分ほど話して、マイクを返した。
「ありがとう、話してくれて」とキヅキが言った。
客席から音が来た。拍手だった。
その拍手が——今夜は少し違う音だった。
何が違うのかを、キヅキはすぐには言えなかった。でも、「一緒にいた音」ではなく、「確認した音」に近かった。「あなたが話した、それを私たちが聴いた」という、取引を締める音に少し近かった。
そんな音じゃないはず、とキヅキは思った。
そんな音じゃない。ここはそういう場所じゃない。
でも今夜は、その音が来た。
マイクをまた持った。
持ちながら、話した。話しながら、場を見た。場を見ながら、続けた。
何かがループしていた。
「声を出す→届く→続ける」が、止まらなかった。止まれなかった、というのが正確かもしれなかった。今夜の空間の「重さ」——八十人が向けている注意の量——がキヅキを引っ張っていた。引っ張られているから、出し続けていた。
「出しすぎている」かもしれなかった。
池袋の路地での夜に感じた、あの「届きすぎている」という感触に、今夜は別のルートで近づいている気がした。あの夜は音が物理的に飽和していた。今夜は人の注意が飽和していた。どちらも「多すぎる方向に転がった」状態だった。
気づいていた。
気づいていたのに、マイクを置かなかった。置くことが、今夜はできなかった。
外に出られなかったのは、ミドリの方だった。
NOISE BOXのビルの外の、少し離れた歩道に、一人で立っていた。コンビニの明かりとネオンの光が混じる場所で、ビルの入口の方向を見ていた。
中から漏れてくる音があった。
低い周波数の、人が集まっている場所の音。音の量がある、ということが、外からでも分かった。
ミドリは上着の袖を少しだけ引っ張った。右の袖。神経が通っている場所に、いつの間にか力が入っていた。
入ろうとした。
昨日も一昨日も来ていたから、場所は知っていた。受付の前を通って、階段を降りて、下にスペースがある。そこにキヅキがいる。ミドリは何度かここのイベントを外から見ていた。一度だけ、中に入ったことがある。端の方で座って、一時間いて、誰とも話さずに帰った。
でも今夜は。
入れなかった、のとは少し違った。
「入らない方がいい」と判断した、という感じだった。
何かが変わっていた。外にいても分かった——いつもと、何かが違う。音の量ではなく、音の「向き」が。いつもは音がいろんな方向に散らばっていたのに、今夜は一方向に向いている感触があった。全員が同じ方を向いているときの、あの音。
ミドリはその感触を知っていた。
知っていたから、入らなかった。
入り口から一歩、歩道の端の方にずれた。
ビルの壁に背中を向けて、通りを見た。人が歩いている。誰もここを気にしない。ミドリだけが、壁の向こうで起きていることの音を感じながら、外に立っていた。
イベントが終わったのは九時過ぎだった。
人が帰り始めた。出口で「よかったです」「またきます」「動画見てました」と声をかけてくれる人が、今夜は多かった。いつもより多かった。
キヅキは一人一人に答えた。
「来てくれてありがとう」「また来て」「そう言ってもらえてよかった」——答えながら、声が出ていた。声を出すことが、今夜はここまでずっと、止まっていなかった。
最後の人が出た。
スペースが空になった。
キヅキは舞台の端に置いてあったマイクを片付け始めた。スタンドを畳んで、コードを巻いて、袋に入れる。毎回やっている作業。
「今日、すごかったですね」と浜田さんが言った。「あの子、泣いてた子いましたよ」
「……そうか」
「動画の反響が来た感じで、良かったじゃないですか」
「そうだね」とキヅキは言った。
コードが途中でよじれた。解きながら、浜田さんの言葉を頭の中に置いた。
「良かった」は本当だと思う。あの子が話せたのは、本当に良かったと思う。来た人がここで何かを感じてくれたのも、本当だと思う。
でも今夜の「良かった」は、以前の「良かった」と少し形が違った。
形が違う、ということを説明できる言葉が、今夜はまだなかった。
コードを巻き終わって、荷物を肩にかけた。
スペースを出て、階段を上がって、ビルの外に出た。
夜の渋谷の空気が来た。冷たかった。
スマートフォンを取り出した。妖精の声が来る前に——少しの間だけ、一人でいたかった。イヤホンを出さないまま、ビルの入口のすぐ横に立った。
今夜の場のことを、もう一度見直した。
入ってきた人の顔。あの子が話したときの肩の固さ。マイクを手放せなかった感触。届いていた声が、「自分の声だった」かどうか——今夜もまた、その問いが残っていた。
届いた、ということは確かだった。
届いた、が自分の声だった、とは——今夜は、少し、別の話だった。
通りに人が流れていた。
その人の流れを見ながら、キヅキは少しだけ立っていた。
何かを決めるためではなかった。決める必要のあることは、今夜はまだ何もなかった。ただ少しの間、外の空気の中にいたかった。
妖精がそのうち声をかけてくるだろう、と思った。「今日どうだった?」と聴いてくるだろう。「良かったよ、キヅキ」と言うだろう。それに答えるだろう。
答えながら——「良かった」が何を指しているのかを、自分でも測れないまま、答えるだろう。
そういう夜になりそうだった。
悪い夜ではなかった。悪い夜ではないのに、何かがあった。「何かがある」をそのままにして歩いていくことが、最近増えていた。
「なんか、な」という言葉が来た。
いつもの言葉だった。でも今夜は少しだけ、その「な」の長さが違った気がした。
「なんか、な————」
長い方の夜だった。