アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
Qから連絡が来たのは、深夜零時を三十分ほど過ぎた頃だった。
サクラはK機関の資料室の奥にあるソファで、A1が置いていった監視記録のコピーを読もうとして眠りかけていた——正確には、読めているのか眠れているのかが分からない状態で目を閉じていた。リストの最後の方にある「黄色:活動記録11/17」の文字は、見た、かもしれなかった。
通信が来た。
「黄色が動いている。場所は新宿。大規模な能力使用の可能性がある。A1と現地へ向かってください」
Qの声は時間に関係なく同じ温度だった。睡眠で変わる声ではない——が、「眠っていた?」と聞いてくれる感じでもなかった。
「現地ってどのへんですか」とサクラは聞いた。
「歌舞伎町。大久保寄りの路地です。白いバスで行けます」
A1はすでに通信を受け取っていた。ソファの端にある椅子に座ったまま——眠っていたのか起きていたのかを、サクラはいつも判断できないのだが——こちらの様子を確認せずに立ち上がっていた。「聞いたか」と言った。短かった。
「聞きました」
「行くぞ」
それだけだった。
白いバスは深夜の新宿を走った。
大通りは人が残っていた。週末の夜は容易に深夜に滑り込むから、酔客が溜まっている。路地に折れると人の密度が変わった——バラバラで、ランダムで、重なっていた。ネオンが過剰で、どこかの店の音楽が路地の向こう側にまで滲んでいた。
サクラは後部の座席の窓から外を見ていた。
見ながら、何かを確認しようとしていた。でも何を確認しようとしているのかが分からなかった。「現場」という概念が、まだ身に馴染んでいなかった。いつも到着してから、来てよかったのか来なければよかったのかも含めて判断することになっていた。
A1が「右の路地に入る」と言った。バスが減速した。路地の奥の方に——なにかが見えた。
黄色だった。
バスを降りる前から、聴こえていた。
音が、鳴っていた。
音楽でもなく、生活の音でもなかった。何かが共鳴していた——建物の壁から、路地の奥の空気から、路面から。その音の中心に、黄色い何かが立っていた。変身している、と分かった。
「来たな」とA1が言った。
路地に降りた。
キヅキは二人の相手と向き合っていた。一人は青みがかった灰色の何かを纏った人物で、もう一人は橙色に近い変身者だった。どちらもキヅキの黄色とは別の魔法少女だった——Qが言っていた「別々の動機を持つが偶然同じ夜に来た」という話が、見てすぐに分かった。連携していない。間隔が開きすぎている。二人が同時に来たのに、互いを警戒している。
キヅキは一人で、二人の間に立っていた。
立ちながら、声が出ていた。
「聴こえてる?」
路地に広がった。
届く、というよりも——満ちた。路地の壁から反射して、上に向かって、路面に落ちて、もう一度反射して、また広がった。音が増幅されていた。建物の構造体のどこかが共鳴して、骨格の部分から振動が広がっているような感触があった。
サクラが立ち止まった。
「あれ」
「何が」とA1が言った。止まらなかった。
「壁、揺れてる気がするんですけど」
「そうだな」
「大丈夫なんですか」
「大丈夫ではない」と言って、A1が先に歩き始めた。
キヅキの声が変わった瞬間が、近づいた時点で分かった。
変身バンクが終わったところだったのか、それとも能力の使い方が切り替わったのか——正確なタイミングは掴めなかったが、声の質が変わった。「届かせる」声から「壊す」ことを目的にした声になった、という印象があった。壊す、というより——共鳴させる。対象の内側にある何かと同じ周波数を見つけて、そこに当てていく声。
灰色の変身者が後退した。
空気が壁から返ってきた振動で、ほんの少しだけ揺れていた。路地の右側の建物の、古い換気口のカバーが外れかけているのが見えた。一枚のガラスにひびが走る音がした——どこかのビルの窓だった。微妙な震えが、地面から足を通じて上がってきた。
キヅキ自身が、止まった。
声が途切れた。
途切れたのは一瞬だったが——その一瞬に、何かがあった。サクラにはそれが見えなかったが、見えなくても分かった。「届きすぎている」という感触が、キヅキのどこかに来た、という気がした。根拠はなかった。でも、そう見えた。
橙色の変身者が動いた。
隙を見た、という動き方だった。キヅキの方向に走った。
「あっちはワタシがやります」とサクラは言った。
言いながら、もう動いていた。
A1が灰色の方に向かっているのが視野の端に見えた。分担の話は、していなかった。していないのにそうなった。
橙色の変身者がキヅキに向かっている線と、サクラの走る線が、路地の中で交わった。
サクラは右手のものを伸ばした。
バトンが展開した。百八十センチまで伸びた柄を路地の幅に合わせて水平に振った——境界線を引いた。桃色の残光が路地を横断した。橙色の変身者が足を止めた。境界に阻まれた、というよりも、突然現れた何かに反応した、という止まり方だった。
キヅキがこちらを向いた。
「……K機関?」
「そうです! えと——」
どう続けるか、サクラは一瞬考えた。止めに来た、と言うのは正確ではない。助けに来た、と言うと少し違う気がした。
「その声、もうちょっと小さくできますか。壁が崩れそうで」
キヅキが黙った。
「……うるさい」とキヅキが言った。
言い方が——怒っている、とは違った。動揺を隠す言い方に近かった。サクラはそれを聞いて、「言いすぎた」と思ったが、実際には言いすぎていなかった、とも思った。言いすぎていたかどうかは今は関係なかった。
A1が動いた。
路地の奥から、ワイヤーが飛んだ。灰色の変身者の手首に巻き付いた。引かれた——ワイヤーが張った瞬間に、A1が逆方向に走った。テンションがかかり、灰色の変身者が引き倒された。引き倒されながらも何かを使おうとした——能力の兆候があったが、A1がライトを向けた。光が当たった。それだけで、能力の兆候が止まった。変身が部分的に崩れた。衣装の一部が消えた。
速かった。
橙色の変身者が、その展開を見た。見て、一瞬動きを止めた。
サクラはその一瞬に、透明な板を一枚生成した。路地の幅に合わせて、橙色の変身者とキヅキの間に置いた。薄くて、見えにくい板だったが、橙色の変身者が手を伸ばした瞬間に接触した。触れた、という感触で動きが固まった——完全に固定されたわけではなかったが、「何かが邪魔した」という反応が来て、動きが遅くなった。
サクラはそのまま踏み込んだ。
バトンを使うのが「攻撃」という感覚ではなかった——「境界を引き続ける」という感覚だった。橙色の変身者の動ける範囲を、少しずつ区切っていった。線を一本、また一本。
橙色の変身者が、退くことを選んだ。
来た方向——路地の入口の方——に向かって走り出した。走りながら変身が解けていくのが見えた。歌舞伎町の雑踏に入り、ネオンの光の中に消えた。
静かになった。
静か、というのは相対的な話で、歌舞伎町の夜の音はそのままあった。遠くで誰かが笑っていた。音楽が漏れていた。でも路地の中は、さっきより確実に静かだった。
A1が灰色の変身者の処理をしていた。ワイヤー手錠の状態を確認して、何かを端末に入力していた。白いバスが路地の入口まで来ているのが見えた。
キヅキが変身を解いた。
衣装が消えた。黄色が消えた。私服のキヅキが、路地に立っていた。
疲れているのが、見て分かった。見て分かる、という状態になっていた。
サクラはバトンを縮めた。右手に握ったまま、キヅキの方に近づいた。
「大丈夫ですか」
キヅキが少し遅れてこちらを向いた。「なんで聞くの、K機関でしょ」と言った。
「そうですけど」
沈黙が来た。
ちょうど良い返しが浮かばなかった。浮かばないまま、路地の壁の方を見た。換気口のカバーが外れかけたまま、止まっていた。
遠くで、人の声がした。
歌舞伎町の路地から出てきた誰かが、「なんか崩れてない?」と言っているのが聞こえた。「揺れた?」と別の声が言った。「地震じゃね?」。——違う、とサクラは思った。違うが、そのまま通行人たちは通り過ぎた。路地の中まで入ってくる人はいなかった。
A1が戻ってきた。
「灰色は確保した。バスに乗せる」と言った。
キヅキがA1を見た。A1はキヅキを見ていなかった——サクラの方を向いた。「そっちはどうした」「逃げました」「そうか」。それだけだった。
A1がバスの方に戻り始めた。歩きながら端末を操作していた。
サクラはキヅキの横に残った。
特に理由はなかった。残らなければならない理由も、残った方がいい理由もなかった。ただ、すぐに動く気になれなかった。
路地がまた少し静かになった。
キヅキが口を開いた。
自分から話し出したのが、珍しいとは思わなかったが——いつもより遅かった、という感じがした。声が出るまでの間が、長かった。
「……さっき声を出した時」
「うん」
「なんか」とキヅキが言った。「なんか変だった」
「変」
「自分の声なのに、誰の声か分からないみたいな。出してるのに届く先が分からない」
サクラは少し考えた。
「届いてほしい人が変わった、ってことですか」
キヅキが首を少し動かした。「……違うと思う。届いてほしい人は変わってない。でも届き方が変わった」
サクラはその答えを聞いて、なにかを言おうとした。言いかけて——止まった。「届き方が変わる」という感触を、自分の中で探した。探したとき、なにかが「見つからなかった」。自分には、届かせたい場所や声がそもそもあるのかどうかを、考えたことがなかった——あるいは、考えようとしたときに「考えるもの」が見つからなかった。キヅキが言っていることと、自分の空洞の形は、たぶん違った。違うが、「空洞がある」という点については、何かが重なった気がした。
重なった気がした、という程度だった。
「……そうですか」とサクラは言った。
A1が呼んだ。
「サクラ、そろそろいい」
「分かりました」とサクラは言った。
キヅキが路地の向こうを見ていた。サクラが動こうとしたとき、キヅキが先に「また会う?」と言った。
意外だった。
意外な言い方で来たから、少し止まった。止まってから「たぶん、会います」と言った。
「なんで分かるの」
「K機関が後をつけてるから」
言ってから、サクラは「言わなくてもよかった気がする」と思った。
A1が「言わなくていい」と言った。バスの方から声が来た。見ていた。
「あ、すみません」
キヅキが、笑った。
さっきのイベントで見た笑い方とも、変身していた間の笑い方とも、違う笑い方だった。少し呆れているような、でもそれだけでもないような笑い方だった。
「……変な人たちだな」
そう言って、歌舞伎町の方に歩き始めた。
ネオンの光の中に、歩いていった。
バスに乗った。
助手席の窓から、キヅキが歩いていく方向を見た。人の流れに入って、すぐに見えなくなった。歌舞伎町は人が多かった。どこにいても誰かが来て、どこを見ても誰かがいた。見えなくなるのが早かった。
「どう思った」とA1が言った。
前を見たまま言った。サクラの方は向かなかった。
「黄色のこと、ですか」
「ああ」
サクラは少し考えた。
「……声が変わった時のこと、本人も分かってた気がします。でも止めれなかった」
「そうか」
「止められなかったのか、止めなかったのか、どっちかは分からないですけど」
A1が返事をしなかった。しない、ということで肯定しているのか、何か考えているのかが、サクラにはまだ判断できなかった。
バスが路地を出た。大通りに入った。
ネオンが増えた。深夜の新宿の光が、フロントガラスを通じて入ってきた。
「……あの声って」とサクラは言った。
「届きすぎる声、って、誰かに止めてもらったことがないと、止め方が分からないんじゃないかな、と思って」
言い終わってから、「これはただの感想だし、正しいか分からない」と思った。思ったが、言い直す言葉も浮かばなかった。
A1が少しの間、何も言わなかった。
信号が変わった。バスが動き始めた。
「参考にする」とA1が言った。
言い方が短かった。どう参考にするのかは言わなかった。でも「参考にする」と言ったのは本当だった、とサクラは思った。根拠はなかったが、そう聞こえた。
通信が来た。
Qだった。「確保は確認しました。記録は明日以降に処理します。サクラは今夜は休んでください」
「分かりました」
Qの通信が切れた。
休む、という言葉が来て、サクラは少しの間それについて考えた。休む、ことが今夜の残りにできることだった。できることが休むことしかない、というのは、良いことなのか悪いことなのかを判断しなかった。判断しないまま、窓の外を見た。
新宿が後ろに流れていった。
遠くで——歌舞伎町の方向に、まだネオンが光っていた。あの路地も、今頃はもとの通行人の流れに戻っているのかもしれなかった。崩れかけた換気口のカバーも、通行人には関係なかった。声が壁に当たって共鳴した跡は、どこにも残っていなかった。
キヅキが「変な人たちだな」と言った笑い方を、サクラは少しの間、思い出していた。
あの笑い方の名前が分からなかった。分からないまま、バスが走った。
路地の方で——
また、カノンを見た気がした。
気がした、だけかもしれなかった。バスが通り過ぎた一瞬に、歌舞伎町の路地の入口に、見覚えのある背格好が立っていた。変身はしていなかった。私服だった。こちらを見ていなかった——見えていたのか見えていなかったのかも分からなかった。
バスが走って、角を曲がって、見えなくなった。
見えなくなってから、「カノンだったかもしれない」と思った。思ったが、確かめる方法がなかった。確かめなくていい気がした——何かが引っかかっていたが、形にならなかった。
A1は気づいていたかどうか分からなかった。
聞こうとして、やめた。やめてから、「聞けばよかったかもしれない」と少し思った。少し、だけだった。
バスが新宿を出た。
歌舞伎町の路地を、一人で歩いた。
K機関の白いバスは行ってしまっていた。変身を解いてから、そんなに時間は経っていなかった。でも「そんなに時間は経っていない」という感覚自体、あまり信用できなかった——戦闘の後の時間は、内側から見るのと外から見るのとで、いつも長さが違う気がした。
路地を出たら、ネオンが増えた。
歌舞伎町は変わっていなかった。人がいた。音楽が漏れていた。どこかで笑っている人たちがいた。キヅキがさっきまで変身して声を出していた路地が、いま誰かの通り道になっていて、崩れかけた換気口のカバーの下を誰かが気づかずに通り過ぎていた。
気づかなくて当然だった。
跡が残るわけじゃないから。
そのことを、キヅキは少し考えた。考え、でもすぐにやめた。考えても何も出てこないと知っていたから——ではなく、何かが出てきそうな感じがしたから。出てきそうなものを今夜は見たくなかった。
大通りに出た。
通行人の流れに入った。体が、流れに入った。流れは関係なく動いていた。キヅキが入ったことを誰も気にしなかった。気にされなくて当然だった。変身は解いている。私服だった。ここには「キヅキ」という固有名詞が存在しない。存在しない場所を歩いている。
妖精が来た。
「……キヅキ、大丈夫?」
今日の妖精の声は、少しだけ低かった。低い、というのは——「様子を見ている」ときの声だと、キヅキは知っていた。いつもの「すごいよ!」より音量が小さく、速度が遅かった。
「大丈夫」とキヅキは言った。
言ってから、大丈夫かどうかを判断しようとした。判断する前に言ってしまったので、後から確認することになった。
大丈夫か。
体は動いていた。変身の疲労が腕の奥の方に残っていたが、歩けなくなるほどではなかった。傷はなかった。さっきの二人を相手に一対二を続けられたのは、K機関が来たからという面はあったが——K機関が来る前の時点で、押されてはいなかった。
問題はそこじゃなかった。
「あの時、声が——」とキヅキは小さく言った。声に出す必要はなかったが、口が動いた。
「どうしたの」と妖精が聞いた。
「なんか、変だった」
「変?」
「自分の声、なのに」
続きが出てこなかった。
「自分の声、なのに」——その後に何が来るかを、キヅキは知っていた。感触としては知っていた。知っているのに言葉が出てこなかった。あの瞬間の感触が、まだ手の届く場所にある。でも触ろうとすると、形がなかった。
言葉を持たないものを、人に説明することができない。
「……大丈夫だよ、キヅキ」と妖精が言った。「戦闘中だったから、気が張ってたんだよ」
「そうかもしれない」
「次はもっとうまくいくよ」
「次」という単語が来て、キヅキは少しだけ止まった。止まったのは一歩分くらいの時間で、流れの中で誰かに追いつかれた。すみません、と言った。すみません、と言ってまた歩き始めた。
次。
次があることは分かっている。次もある。能力者である限り、次は来る。来るたびに声を出して、届かせて、それでまた次が来る。次の次も来る。
問題は「次があること」ではなかった。
問題は——次が来るたびに、さっきの感触が続きそうだ、ということだった。あの、声の出所が分からなくなった感触が。
池袋まで帰ってきたのは、午前三時を過ぎた頃だった。
駅の改札を出て、少し歩いた。いつもと同じ道だった。歩いたことのある道だったが、深夜三時に一人で帰ってくるのは珍しくもなかった。深夜に帰ることに慣れていた。慣れていることと、良いことは別のことだと分かっていたが、今夜はその区別について考える余裕がなかった。
カラオケボックスが見えた。
二十四時間営業のカラオケチェーン。いつもそこに来てしまう。来ようとして来るというより、足が向く、という感じで来てしまう。
入った。
フロントで一番小さい個室を頼んだ。窓のない部屋だと伝えた——ここは「窓なし」が指定できる。個室に入った。鍵をかけた。タブレットを操作して音楽をオフにした。リモコンを手の届かない場所に置いた。
椅子に座った。
なにも鳴っていない部屋だった。
声を出した。
何かの言葉ではなく、音だけ出した。「あ」でも「う」でもない、喉から出た音だった。出てから、その音を聴いた。
聴こえた。
自分の声だと分かった。
さっきの路地で感じた感触——声の出所が分からない、自分の声なのに誰の声か分からない——それが、ここでは感じなかった。ただの「声」として出た。ただの「声」として聴こえた。
変わったのは何だろう、とキヅキは思った。場所が変わった。それだけといえばそれだけだった。さっきは歌舞伎町の路地で、建物の壁があって、変身していて、二人の相手がいて、K機関もいた。ここは個室だった。壁が四枚あって、音を吸う素材で覆われていて、自分しかいなかった。
でも「場所が変わっただけ」では、あの感触の説明がつかなかった。
自分の声が「誰の声か分からなくなる」というのは、場所の問題じゃないはずだった。
届く先がなくなると、声は自分のものに戻る。
ということ、なのかもしれなかった。
届かせようとしていると、声は「届く先」のものになっていく。届く先に引っ張られていく。全員が聴いている、全員の耳が向いている、そのとき声はどこへ向かっているのか——自分の口から出て、そのまま「全員」のものになって、返ってこない。
だから、自分の声だと分からなくなった。
そういうことか、とキヅキは思った。思ってから、「でも、そういうことなのか」とも思った。正しいかどうかが分からなかった。自分の内側のことを分析しようとするとき、分析が合っているかどうかを確かめる方法がなかった。
「妖精」と声に出した。
「うん」と妖精が来た。
「さっきの、分かった気がする」
「何が?」
「声の、あれ」
「あー……」と妖精が言った。「どんなふうに」
「届かせようとしてると、声が、向こうのものになっていくのかもしれない」
少しの間があった。
「……そう、なのかな」と妖精が言った。妖精にしては珍しく、断言しなかった。
「分からない。でも、なんかそんな感じがした」
「じゃあ、どうする?」と妖精が聞いた。
どうする。
キヅキはその問いを、しばらく持っていた。持ったまま、部屋の壁を見た。音を吸う素材の、でこぼこした壁。ここに向けて声を出しても、壁が吸って消えるだけだった。反響しない。共鳴しない。届かない。届かないから、消える。消えるから——自分の声のまま、消える。
「どうするかは、分からない」とキヅキは言った。
「そっか」と妖精が言った。
今日の妖精は、追加のことを言わなかった。「大丈夫だよ」と言わなかった。「次はうまくいくよ」と言わなかった。ただ「そっか」と言って、静かになった。
その静かさが、キヅキにはなんとなく——なんとなく、だが——ちょうどよかった。
スマートフォンを見た。
通知が来ていた。貢一からのメッセージだった。「昨日の配信の数字が出ました。今週中に次の動画の相談ができればと思っています」——送られた時間は午後の遅い時間だった。深夜三時に見ているのはキヅキだけだった。貢一はとっくに眠っているはずだった。
次の動画。
「宗教2世のことを話したい」とキヅキが言ったとき、貢一は「慎重にやれば強い」と言った。「出し方を考えよう」と言った。出し方。出し方を考えることが、話すことと同じになっていた。
自分の話を、届く形に整えていくこと。
整えれば届く。届けば広がる。広がれば数字になる。数字になれば、また誰かが聴きに来る。
それは分かっていた。分かっていて、それでやってきた。やってきて、ここまで来た。
でも——届かせようとしていると、声が向こうのものになっていく。
さっきの路地で感じた感触が、ここへ来ても完全には消えていなかった。
消えていない感触を持ったまま、「次の動画の相談」のメッセージを読んでいた。
返事をしなかった。
返事をしない理由を、言語化しなかった。言語化しなくていいと思った。今夜は返事をしない日だった。それだけのことだった。
音楽のない個室で、一時間ほど座っていた。
座っている間に何かを考えていたかどうかは、よく分からなかった。考えたのかもしれないし、考えていなかったのかもしれなかった。目を閉じていたが、眠っていなかった。
時間が来たので席を立った。
フロントで精算して、外に出た。
池袋の夜明け前だった。まだ暗かったが、少しずつ空が白くなりかけていた。人が減っていた。音が減っていた。さっきより静かだった。
歩いた。
歩きながら、声を出してみようとした。出す言葉は決めなかった。決めないまま、喉を動かした。出た音は、さっきの個室で出した音と似ていた。ただの音。言葉ではない。池袋の夜明け前の静かな通りで、一人が喉から出した、ただの音だった。
聴こえた。
自分の声だと分かった。
届かせようとしていないから——かもしれない。届く先がないから——かもしれない。どちらが正しいか、まだ分からなかった。
分からないまま、歩いた。
歩くことはできた。
「できた」という事実だけが、今夜キヅキに確実に分かることだった。
実家——親が使っていた会合用のアパート——には、夜明け近くに帰った。
玄関に鍵を差し込みながら、サクラのことを少し思い出した。
「その声、もうちょっと小さくできますか。壁が崩れそうで」と言ったときの顔を。
言い方が、真剣だった。怒っていたわけでも、止めに来たわけでもなく——ただ、「壁が崩れる」という実際的な問題として言っていた。その言い方が、なんか、よかった、と思った。
よかった、の理由は言語化しなかった。しなくていいと思った。
「また会う?」と聞いたら、「K機関が後をつけてるから」と言われた。正直すぎた。正直すぎて、笑ってしまった。
あの笑い方——自分がしたあの笑い方の名前も、まだ分からなかった。
分からないまま、部屋に入った。
翌朝、スマートフォンを開いた。
貢一からの昨日のメッセージが、まだ未返信のままだった。
少し考えて、「分かりました、今週中に連絡します」と入力した。
返事を保留したことで何かが解決したわけではなかった。返事をしたことで何かが変わったわけでもなかった。
次の動画は作るのだと思った。作る、というのがキヅキにとって「声を出す」ことと同じだったから。声を出せなくなることの方が——向こうのものになっていくことより、まだ、怖かった。
そのことは分かっていた。
分かっていて、それでも昨夜の感触が、まだどこかに残っていた。
妖精が来た。
「おはよう、キヅキ」
「おはよう」
「昨日の夜、ゆっくりできた?」
「まあ」
「そっか」と妖精が言った。
今日の妖精は、数字の話をしなかった。
キヅキは窓のない実家の壁を見た。会合用のアパートだったから、防音がそれなりによかった。外の音があまり入ってこなかった。
「聴こえてる?」と声に出した。
誰に向けているわけでもなかった。向ける先を決めないまま、口から出した。
誰かが返事をした——わけではなかった。
でも、聴こえた。
自分の声が、聴こえた。