アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
深夜、池袋のオフィスには黄瀛貢一ひとりだった。
ビルの七階。窓の外には池袋の光が広がっていた。ネオンでも街灯でもなく、両方が混ざった後の光——特定の光源に帰属しないまま、夜に溶け込んでいる光の総体。その光を貢一は見ていなかった。モニターを見ていた。
三台のモニターが横に並んでいた。
左のモニターには、複数のSNSアカウントのダッシュボードが開かれていた。フォロワー数、エンゲージメント率、インプレッション数、クリック率。それぞれが数字として並んでいて、数字が積み重なって線になり、線が週ごとに動いていた。貢一はその線を読む人間だった。読み方を身につけるのに十年かかった。今では線が何を意味するかを、数字を意識する前に、形として知覚できた。
右のモニターには、キヅキのコンテンツの推移が出ていた。
「あの子の声は、目立つ属性が全部揃っている」と貢一は思った。
声に出さなかった。一人のときは声に出す必要がない。頭の中で処理すれば済む。それがこの仕事の特性だった——一人で考えて、形を作って、別の誰かに向けて流す。流す側と受け取る側の間に、自分がいる。その位置が、貢一が十年かけて辿り着いた場所だった。
若い。十六歳だということは確認している。十六歳の子どもが持つ「まだ整形されていない質感」は、コンテンツとして希少だ。世慣れしていない、という意味ではなく——世慣れしているのに「世慣れしていないように見える」という二重性が、視聴者にとって安心感を生む。
宗教2世というバックグラウンドも、今のトレンドに合っている。
バックグラウンドという語を、貢一は内側でだけ使った。相手の前では「あなたの経験」と言う。同じものを指す言葉だが、「バックグラウンド」は素材の話で「あなたの経験」は人の話だった。どちらを使うかで、話の向きが変わる。向きを使い分けることを、貢一は誠実さとは呼ばなかったし、不誠実とも呼ばなかった。ただの技術だった。
中央のモニターで計算が進んでいた。
今月末のタイミングで「宗教2世コンテンツ」を出す。貢一が運営するアカウント群の中で、感情的なエンゲージメントが高いカテゴリは三つあった。「家族問題」「若者の居場所」「見えない傷」。キヅキのコンテンツはその三つに同時に引っかかる。引っかかり方が自然なのが、技術ではなくキヅキ自身の性質から来ているのが、数字に出ていた。
つまり、本物だった。
本物を、広い場所に持っていく。それが自分の仕事だと貢一は思っていた。本物の才能を正しく運用することで、才能ある人間は幸福になる——これが貢一の信念だった。信念は十年変わっていなかった。信念が変わらないのは、これまで間違えたことがないからだと貢一は思っていた。
モニターの右隅に「広告収益見込み」の数字が出た。
貢一はその数字を確認した。問題なかった。
次の動きは、三つある。一つ目は、今月末のコンテンツ。二つ目は、ある媒体への売り込み——テレビではなくウェブの媒体だが、リーチは十分ある。三つ目は、貢一自身のアカウントからのクロスプロモーション。三つが重なれば、「キサラギ・キヅキ」という名前が今より一段大きな場所に出る。
出た後に何が起きるかは、貢一には管理できない。
管理できないことについて、貢一は考える時間を長くとらなかった。考えても変わらないからだった。変数として処理して、次へ進む。それがこの仕事の速度だった。
ノートPCを閉じた。
窓の外の光が、まだそこにあった。
翌日の午後、キヅキが池袋のオフィスに来た。
エレベーターを降りてくるキヅキの足音を聞きながら、貢一はコーヒーを二杯用意した。一杯はブラック、もう一杯はミルク多めで——どちらを好むか、前回の打ち合わせで確認していた。キヅキは甘い方を受け取ってから「ありがとうございます」と言った。言い方が丁寧だが、距離があった。
今日のキヅキは、いつもより少し静かだった。
静かさの種類が、前回と違った。前回は「様子を見ている静かさ」だった。今日は「何かを持ってきた静かさ」に近かった。
「次のコンテンツのことで、私から話したいことがあって」
キヅキが切り出した。
貢一は「はい」と言って、続きを待った。
「宗教2世のことを話したいと思ってます。私自身のことを」
貢一は少しの間を置いた。置いてから「そのテーマは、慎重にやれば強い」と言った。「ただし——出し方を考えましょう」。
「出し方」とキヅキが繰り返した。
「個人の体験談として話すのではなく、界隈の子どもたちの問題提起として話す方が、届く範囲が広がります。特定の宗教名には言及しない。信仰を強制された子どもたちに共通する苦しみとして普遍化する。それが一番伝わる形です」
キヅキがコーヒーを持ったまま、貢一を見ていた。
見方が少し変わっていた。前回は「聴いている」という見方だった。今日は——何かを計っているような見方だった。計っている自覚がキヅキ自身にあるかどうかは、貢一には分からなかった。
「……あの、これって」とキヅキが言った。「私の話をするんじゃなくて、私を通して何かの話をする、ってこと?」
貢一は正確に答えた。
「そういう言い方もできます。ただ、届く人数が最大化すれば、あなたの言いたいことも最大化するでしょう。あなたが話したいことは、あなた一人の話として終わらせるより、何万人かに届く形で話す方が、意味を持ちます」
間違っていなかった。
正しいことを言っていた。貢一は自分の言葉が正しいかどうかを、言いながら確認する習慣があった。今回も正しかった。届く人数が最大化することで、伝わる内容も最大化する——これは事実だった。
キヅキが少しの間、何も言わなかった。
言わない時間の長さが、前回より少し長かった。
「分かりました」とキヅキは最終的に言った。「じゃあ、話し方を考えてみます」
「話し方を整えるお手伝いは、私の方でもできます」と貢一は言った。「次の打ち合わせまでに、大まかなキーワードを出しておきます。それを参考に、あなたの言葉で話す——それが一番いい形です」
キヅキが「はい」と言った。
「はい」の声が、少しだけ低かった。いつもより音量が小さかったかもしれなかった。
貢一はその変化を、変数として処理した。
キヅキが帰ってから、貢一はもう一度モニターに向かった。
「次の打ち合わせまでのキーワード」を書き出す作業があった。貢一の手元にはすでにリストがあった。「界隈の子どもたちに届く言葉」のリスト——長年の運用から抽出した、感情的なエンゲージメントが高い語彙群。その中から、キヅキの話に合うものを選んで組み合わせる。
作業は三十分で終わった。
貢一はそのリストを保存してから、コーヒーの残りを飲んだ。
窓の外は日が傾いていた。夕方の池袋の光は夜とは違う種類の光で、ネオンが点灯する前の、生活の光だった。スーパーの看板、アパートの窓、まだ明るい空に重なる街灯。
貢一はその光を見ていなかった。
キヅキが「なんか違う」と思っていたかどうかは、貢一の計算に入っていなかった。入れる必要がなかったから——ではなく、入れるという発想がなかった。才能ある人間を正しく運用することで、才能ある人間は幸福になる。キヅキが幸福になるかどうかを計算しようとして、その計算をしていなかったことに、貢一は気づかなかった。
気づかなかった。
それが一番、たちが悪かった。
オフィスから出たキヅキは、エレベーターの中で一度だけ鏡を見た。
ドアの横の鏡に、自分が映っていた。
「話し方を整えましょう」という言葉が、まだどこかに残っていた。正確には、その言葉が「話し方を整えてもらう」に変換されていく過程の感触が、残っていた。
整える。
自分の話を、「届く形」に整える。届く形と、ただ話す形のどちらが「自分の話」なのかということを——キヅキは考えそうになって、止めた。止めたのは意志的にではなく、エレベーターがロビー階に着いて、ドアが開いたからだった。
外に出た。池袋の午後だった。
人が多かった。音が多かった。
妖精が来た。
「どうだった?」
「……まあ」とキヅキは言った。
「次のコンテンツ、楽しみにしてるよ」と妖精が言った。「宗教2世のこと、ちゃんと伝わると思う。キヅキの声で話したら、絶対届くから」
キヅキは「うん」と言った。
「うん」の声は小さかった。
さっきの打ち合わせで「分かりました」と言ったときの声と、同じくらい小さかった。小さい声が、届くことがあるのかどうか——そういうことを考えながら、ではなく、そういうことを考えずに、キヅキは歩き始めた。
足が向く方向に、歩いた。
その方向にカラオケボックスがあることを、歩きながら思い出した。
K機関の資料室は、日中も夜中も同じ明るさだった。
窓がないからだ。窓がないので、外が昼なのか夜なのかを、この部屋の中にいる間は感知できなかった。それでもQは時間を把握していた。時計を見るのではなく——入ってくるデータの時系列を追えば、外の時間軸はだいたい把握できた。今は午後の遅い時間帯だとQは知っていた。SNSのエンゲージメントが夕方に向けてゆるやかに上昇し始めている。
その上昇曲線を、Qはモニターで見ていた。
三つのモニターが横に並んでいた。
左のモニターには、黄瀛貢一が運用するアカウント群のリストが出ていた。アカウント数は二十三。それぞれのフォロワー数、直近三十日のエンゲージメント推移、クロスプロモーションの記録。どれも単体では「よくある数字」だったが、二十三のアカウントが連動して動いていると見ると、違う形になった。一つの方向に向かって動くベクトルの集合——目立たないが、確かに向きが揃っていた。
中央のモニターには、「黄色:活動記録」が出ていた。変身確認のログが四件。能力使用の推定範囲が地図上に記されていた。点が徐々に増えていた。点の間隔が短くなってきていた。
右のモニターには、Qが書いたメモが出ていた。メモというより、図式だった。
黄色の能力者(変身時)
→ 音波・声で群衆操作 → アテンション集中
↑
黄瀛貢一
→ SNSアルゴリズムで情報拡散 → エンゲージメント集中
矢印が二本、同じ方向を向いていた。
Qはその図を見ながら、独り言のような声で言った。
「これは単純な魔法少女事案ではない」
部屋に誰もいなかったので、誰も受け取らなかった。
受け取る相手がいない言葉を発する習慣は、この仕事をしていると自然についた。情報を処理するとき、声に出した方が整理が速い——確認するためではなく、音にした瞬間に「この解釈は合っているか」が自分の耳から返ってくるから。
「能力と資本の協働が、起きている」
音にした。合っていた。
画面の右隅に接続通知が来たのは、そのときだった。
Jからだった。
Qはキーを一つ叩いて接続した。中央のモニターの半分が、Jの映像になった。
Jは警察の制服を着ていた。中性的な青年の顔で、表情が少し——何かを考えているときの顔をしていた。背後の映像は判別しにくかったが、屋外ではなかった。
「確認事項があります」とJが言った。
声が丁寧だった。Jの声はいつも丁寧だった。丁寧すぎる、と言う人間もいた——感情の重みがないという意味で。Qはその評を正しいと思ったことはなかった。重みの有無と、感情の有無は、別のことだと思っていたから。
「聞きます」とQは言った。
「黄瀛貢一の本日の行動を追いました。池袋のオフィスで、キサラギ・キヅキと打ち合わせを行っています。打ち合わせの内容は確認できていませんが——退出時のキヅキの様子を観察しました」
「様子は」
「……普通ではなかったです」
Qが少し待った。
「普通ではない、というのは」
「エレベーターの中で鏡を見ていました。鏡を見て、何かを考えている顔でした。それから外に出て、カラオケボックスの方向に歩いていきました。いつもそこへ向かうときより、早足ではなかった。どちらかというと、遅かった」
「情報として有意ですか、それは」
「はい、と思います」とJは言った。「あの子は、通常、足が速いです。速さは習慣と動機の反映です。今日は動機の何かが低下していた」
動機の何かが低下していた。
Qはその表現を、しばらく持った。Jはときどき、こういう言い方をした。法の言語でもデータの言語でもない、でも意味が通る言い方。これをQは「Jの癖」として分類していた。癖、と呼ぶことで処理できていた。処理できない場合のことは、考えないようにしていた。
「分かりました」とQは言った。「引き続き観察を」
「もう一つ確認させてください、Q」
Jが言った。少しだけ、速度が変わった。速くなったのではなく——間が入った。
「何ですか」
「キヅキは、自分が使われていることを知っていますか」
Qは答えるまでに時間をかけなかった。
「知らないと思います」
「それは——」Jがまた間を置いた。「問題ですか」
今度はQの方が、少しだけ時間をかけた。
モニターの図式を見た。矢印が二本、同じ方向を向いていた。
「法的には」とQは言った。「現時点で犯罪行為は確認されていません。問題かどうかは——判断する条文がありません」
「そうですか」
「そうです」
Jが少し間を置いた。置いた後に言った。
「私は——問題だと思います」
Qが少し止まった。
止まった、というのは、手が動かなくなったということだった。キーボードの上に置いていた両手が、何もしない状態で止まった。
問題だと思います。
情報として受け取った。感情として受け取ったのではなく、情報として。——でも情報として受け取った後で、その情報が「どこに分類されるか」がうまく決まらなかった。Jの言葉は命題の形をしていた。命題は検証できる。検証しようとした。
検証できなかった。
「問題である」という命題の真偽を確かめるためには、「何が問題か」を定義する必要があった。定義するためには基準が必要だった。基準は法だった。法に基づいて確認した結果——「判断する条文がない」。つまり検証不能。
Jが「問題だと思います」と言ったのは、法の基準からではなかった。
では何の基準から言ったのか、とQは思った。
思って、答えが来なかった。
「そうですね」とQは言った。
言ってから、少しだけ意外だった。自分が「そうですね」と言ったことが。同意したのか、聞き取ったことを返したのか、自分でも判断がつかなかった。
「でも、今は動けない」
「なぜですか」とJが聞いた。
「Kの判断待ちだからです」
「……分かりました」とJが言った。
言い方が、「分かった」とは少し違った。「分かった」と「納得した」の間に何かがあって、Jはその間にいる言い方をした。「分かりました」が「了解しました」の意味ではなく、「そういうことなのだと確認しました」の意味で言われると、Qは感じた。
感じた、という表現が正しいかどうかは、Qには確認できなかった。
通信が切れた後、Qはしばらく画面を見ていた。
中央のモニターに戻った。「黄色:活動記録」のログ。点が増えていた。間隔が短くなっていた。
Jが言ったことを、もう一度考えた。
「問題だと思います」——この言葉の出どころが、Qには分からなかった。Jは量産型AI巡査の上位機種だった。プログラムに忠実に動作する存在だった。動作の根拠はプログラムにある。プログラムは法と手順と情報処理のルールで構成されている。「問題だと思う」という感情の様式は、そのどれにも含まれないはずだった。
含まれないはずのものが、出てきた。
出てきたものを、どう扱うかをQはまだ決めていなかった。
情報として分類することはできた。分類してファイルに入れることはできた。でもそのファイルに、名前をつけることが——まだできていなかった。
ファイルは名前のないまま、Qの処理待ちの棚に残った。
Kからの定期報告が届いた。
「現状を維持。黄色能力者の動向を引き続き監視。接触は禁止。民間への影響が拡大した場合のみ、対処を許可する」
変更なし。
Qは報告を閲覧済みにした。
それから、右のモニターを見た。図式が出ていた。矢印二本。同じ方向。
キヅキが今日、早足ではなかった、とJは言った。動機の何かが低下していた、とJは言った。カラオケボックスの方向へ歩いていった、と言った。
カラオケボックス、とQは思った。
キヅキがそこへ向かうのは初めてではなかった。ログの中に複数回の記録があった。一人で入って、一定時間後に出てくる。同伴者なし。飲食の形跡なし。推定:音楽を聴くためではない。
なぜそこへ行くのかは、データが示していなかった。
データが示さないことをQは推測しない、という習慣があった。推測は情報ではなかったから。でも今日は——Jが「問題だと思います」と言ったこととともに、そのデータの空白が、妙に残った。
残る、という感触がどこから来るのかも、Qには分からなかった。
分からないので、また別の仕事に移った。
モニターの数字は動き続けていた。