アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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9.ロスト・チェリー -Lost Cherry-

 起きたときから、何かが違っていた。

 布団の中で、目が覚めた。いつもなら早い——早く起きて、昨日の数字を確認したい、というよりも、確認しなければ何かが起きているかもしれない、という感触が先に来て、身体を押し出す。今朝はそれがなかった。ただ目が覚めた。薄いカーテンの隙間から光が入っていて、部屋が白く濁っていた。時刻を確かめるまでもなく朝だと分かった。

 スマートフォンが、枕の横にあった。

 手を伸ばすまでに、少し間があった。いつもはなかった、その間。

 「おはよう、キヅキ」と妖精が言った。声は明るかった。明るくて、朝に似合っていた。「今日、記事が出てるよ」

 知っていた。出ると聞いていた。今日だということも。

 

 スマートフォンを持ち上げた。通知が来ていた——数字ではなく、まず「通知の数」が目に入った。通知の数が前回の投稿の後と全然違った。

 

 記事を開いた。

 見出しがあった。写真があった——取材の夜にNOISE BOXで撮られた、マイクを持っているキヅキの写真。光の当たり方がうまかった。上手すぎて、少し知らない人の顔に見えた。

 本文を読んだ。読みながら、自分のことが書かれているのに、遠い場所の話のように処理される感触があった。「宗教2世として育ちながら、界隈の若者たちに寄り添う活動を続ける16歳の少女」という文章。その少女が自分だと分かる。分かるのに、「そのように見えているキヅキ」と「今布団の中にいるキヅキ」が別の場所にいるような感触。

 「すごいよ、キヅキ」と妖精が言った。「シェアされてる。どんどん広がってる」

 「うん」

 コメント欄を開いた。

 多かった。前回の動画の後とは全然違う種類の多さだった。前回は「また来ます」「参加したい」という種類が多かった。今回は——

 「これ本物なの?」

 「宗教2世って言ったら注目されるから言ってるだけでは」

 「活動に意味あるのか、ただの自己PRでは」

 「この子、いくら貰ってるんだろ。貢一さんの案件でしょ」

 批判ではなかった。キヅキは少しの間、スマートフォンを見ながら、これを「批判」と呼ぶのが正確かどうかを考えた。怒っていない。貶してもいない。ただ「分からない」「本当か」「疑う」という言葉が、問いの形をして並んでいた。問いだから、答えることができない。答えたとしても、答えた言葉も次の問いになる。

 「気にしないで」と妖精が言った。「支持してる人の方がずっと多いよ。数字を見て——」

 数字は見た。多かった。多いことは分かった。でも数字を見ながら、支持している人の「多さ」と、問いを書いた人の「数」は別の話だ、ということが先に来た。百人に支持されながら一人に問われている——その一人の問いが、消えるわけではない。

 画面を閉じた。

 

 スマートフォンに、貢一からのメッセージが来た。

 確認した。

 「おはようございます。記事、出ましたね。数字の伸びがいいです。今がチャンスなので、次のコンテンツを早めに出しましょう。流れに乗るタイミングが重要なので、今週中に一本撮りたいと思います。スタジオ、明後日空いています。いかがでしょうか」

 「流れに乗る」。

 読んで、何かが少し止まった。

 流れ、というのは何の流れのことだろう。記事が出て、コメントが増えて、数字が伸びていること——その流れ。乗る、というのは流れを利用することだ。流れは今、ある方向に向かっている。その方向が自分の向かいたい方向かどうかは、「流れに乗る」という言葉には含まれていない。

 考えすぎかもしれなかった。貢一が「早く次を出そう」と言っているのはいつものことで、数字が伸びているなら確かに「今」が機会になる。そういうことは分かっていた。分かった上で、「流れに乗る」という四文字が、少しだけ喉に引っかかった。

 「どうする、キヅキ?」と妖精が聞いた。「明後日、撮れそう?」

 「……考える」

 妖精が「うん、そうして」と言った。

 返信はしなかった。スマートフォンを布団の上に置いた。

 

 部屋を出た。

 家族と顔を合わせたが、言葉は少なかった。いつものことだった。台所に水を取りにいって、コップを持ったまま、窓の外を少し見た。池袋の朝は光が平らだった。建物に反射して、どこからでも同じ明るさが来るような——自分が光を受けているのか自分の隣の壁が受けているのか、よく分からない光。

 水を飲んだ。冷たかった。

 昼過ぎまで、家にいた。スマートフォンを何度か確認した。数字はまだ上がっていた。「宗教2世だったんですね、勇気があります」「同じ境遇です、キヅキさんに会いたい」「うちの子もそうだったので、見せてあげたかった」——好意的なコメントも増えていた。増えていくコメントを読みながら、「会いたい」と書いた人が何を会いたいと思っているかを少しだけ考えた。キヅキに会いたい——そのキヅキは記事の中のキヅキだった。記事の中のキヅキと、今ここにいるキヅキが、どのくらい同じ人物なのか。

 考えすぎだ、と思った。思ったが、止まらなかった。

 

 夕方、池袋の駅の近くを通ったとき、カラオケのネオンが見えた。

 また来た、とキヅキは思った。思ってから、何かに引き寄せられるように階段を降りた。

 一番小さい個室を借りた。窓のない部屋。鍵をかけた。荷物を床に置いた。

 いつもここに来ると、妖精が「何か歌う?」と聞いてくる。今日は妖精が先に言った。「休憩?」——「うん」とキヅキは言った。「少しだけ」。

 妖精が黙った。

 黙ったことに、少し驚いた。妖精がこんなふうに黙るのは珍しかった。いつもは何かを言う。今日はただ黙って、待っていた——待っているかどうかも、分からないが、声が来なかった。

 キヅキは椅子に座って、机の上に両手を置いた。

 スマートフォンは鞄の中に入れたままにした。今は開かなくていい、と思った。開けば数字が見える。数字を見れば何かが来る——来ることが分かっているから、今は開かない。

 手を見た。

 手の甲。指の関節の形。爪の縁。

 こういうものを、最後に見たのはいつだっただろうと思ったが、記憶がなかった。

 

 声を出した。

 何かを言おうとしたわけではなかった。言葉を出す前の、音だけ出した。「あ」という音。マイクなし、イヤーカフなし、部屋の防音素材が吸い取る前の、カラオケの個室に一瞬だけある音。

 聞こえた。

 自分の声が聞こえた。

 当たり前のことだが、聞こえた。自分が出して、自分の耳に届いた。カメラのない場所で。配信のない場所で。数字にならない場所で。出して、聞こえて、それだけだった。

 「……まだ、ある」

 呟いた。

 何がまだあるのかを、自分でも言えなかった。声がまだある、ということかもしれなかった。あるいは声を出すと感じる何かが、まだある、ということかもしれなかった。どちらが正確か確かめようとしなかった。確かめなくてよかった。まだある、とだけ言った。言ったら、それで終わった。

 部屋が静かだった。

 妖精が何も言わなかった。

 キヅキは少しの間、「まだある」という言葉が空気に溶けていくのを、ただそこにいて受け取った。

 

 五分か十分か、どのくらいそうしていたか分からないまま、キヅキは立ち上がった。

 鞄を持った。鍵を開けた。

 廊下に出ると、どこかの個室から音漏れが来た——流行りの曲を、誰かがうまく歌っていた。うまく歌えている声は、届いているかどうかをおそらく考えずに出されていた。

 スマートフォンを取り出した。貢一へ、返信した。

 「明後日、大丈夫です」

 送ってから、スマートフォンをしまった。

 妖精が来た。「よかった。じゃあ準備しておくね」という声が来た。今日の妖精の声は、いつもより少し遠かった——遠いというのは、音量ではなかった。聴こえるのに、遠かった。

 「うん」とキヅキは言って、カラオケの外に出た。

 池袋の夜は始まりかけていた。まだ暗くはなかったが、光の種類が昼とは違った。居酒屋の看板、コンビニの蛍光灯、タクシーのランプ——全部が少しずつ強くなっていく時間帯。

 歩いた。

 貢一への返信を送ったことを、後悔しているかどうかを確かめようとしたが、確かめられなかった。後悔でも決意でもない何かで、送った。今夜はそれで十分だと思って、歩いた。

 

 


 

 

 K機関から権限が下りてきたのは、午後の遅い時間だった。

 正確には「注意・状況確認の権限」で、「逮捕・制圧」ではなかった。Qがそれをサクラに伝えた。「民間への影響が確認されたため」という理由で、「接触してよい」になった——「接触してよい」が「動いていい」と同じ意味ではないことはサクラにも分かっていた。できることの範囲がある。範囲の中で動く。

「A1は同行しなくていいです」

 廊下でそれを聞いたとき、サクラは少し驚いた。

「一人でいい、という判断ですか」

「そうです」とA1が言った。「俺が行くと圧になる」

 言い方が短かった。「圧になる」という言葉の中に、A1が自分の何かを把握している感触があった。自分が何者に見えるかを——少なくともあの子たちに対して——知っている、という感触。それが「俺が行くと」という一言に収まっていた。

「……でも、何かあったら」

「連絡してくれ。すぐ行く」

「すぐ、って何分ですか」

 A1が少しの間、考えた。

「十分もあれば行ける」

「十分」

「なにかあっても十分保てないなら、それは俺が一緒でも同じだ」

 それはそうかもしれなかった。

 

 NOISE BOXには、昼の顔があった。

 夜に来るときとは違って、地下への階段は人がいなかった。外壁に貼られたフライヤーだけが、先週と今週の催しを並べて知らせていた。サクラはそのフライヤーを見てから、地上の、ビルの前を少し行ったり来たりした。

 貢一からのメッセージで動いてはいない、という前提があった。キヅキが自分の意志でここに来ていることを確認してから接触する——Qからそう言われていた。「待って、タイミングを見て」と。

 十分ほどして、地下への階段から人が上がってきた。

 キヅキだった。

 変身していなかった。私服——グレーのパーカー、デニム、スニーカー。手にNOISE BOXのスタジオカードを持っていた。今日は一人で個室スタジオを使っていたらしかった。

 「あ、また来た」とキヅキが言った。

 驚かなかった。驚かなかったことに、逆に何かがあった。

 「また来ました」とサクラは言った。「邪魔でしたか」

 「別に」とキヅキが言った。「今終わったとこ」

 

 二人でビルの外壁沿いに立った。キヅキが先に壁に背を預けて、サクラがその隣に並んだ。池袋の昼の音が、路地の向こう側から来ていた。誰かの電話の声、遠い工事の音、自転車が通る。

 「一つだけ聞いていいですか」

 「何」

 「黄瀛貢一という人を知っていますか」

 キヅキが少しの間、答えなかった。答えないというのは「知らない」ではなくて、「なぜ聞くか」を計算している間のことだった。

 「知ってる。なんで知ってんの」

 「K機関で調べてるから」

 「……何を調べてるの」

 「あなたのことと、その人のことの関係を」

 沈黙が来た。

 短い沈黙だったが、その間にキヅキの顔が少し変わった。「構えた」と表現するのが正確ではなかった——構えたというより、「どこまで話すか」を決めようとしている顔だった。

 「何か問題があるの、その人に」

 「今のところ犯罪行為は確認されていないです」とサクラは言った。「でも——」

 「でも?」

 「あなたが、その人から何かを奪われていたり、困っていたりするなら、話を聞けます」

 

 キヅキがサクラをしばらく見た。

 サクラも見た——キヅキの顔を。パーカーのフードが少し下がっていて、耳のイヤリングだけが光を拾っていた。目元が昨日と違った。昨日、という比較対象をサクラは持っていなかったが、「今日の顔」というのが分かった。取材の夜でも、歌舞伎町の夜でもない、別の顔。何か決めた後の顔、ではなくて、何かが決まっていない状態のまま立っている顔。

 「奪われてる、かどうか、分からない」

 「分からない、って?」

 「嫌なこともあるけど」とキヅキは言った。「その人がいないと私の声が届く場所が減る。届く場所が減るのが——怖い」

 サクラがここで、何かを言おうとした。

 言おうとして——言えなかった。

 「届く場所が減るのが怖い」という言葉を、聴いて、その感触を自分の中で探したとき、何かが見つからなかった。見つからなかった、のではなくて——探す対象がなかった、という感じ。「届かせたい場所」を自分は持っているかどうか、というのを、サクラは今まで一度も問うたことがなかった。問う必要がなかった。問う前に何か別のことが来ていた。

 「……そうですか」

 それだけ言った。

 キヅキが少し首を傾けた。「それだけ?」

 「それだけです」

 「K機関の人って、もっとなんか言わないの」

 「今日の権限はそこまでです。状況の確認まで」

 「……なんか、そういう感じなんですね」

 「そういう感じです」

 

 路地の向こうを自転車が一台通り過ぎた。ベルを鳴らさないまま通り過ぎた。音だけが後から来た——ギアの音、タイヤが溝を踏む音。

 「記事、出たんですよ」とキヅキが言った。

 聞き方ではなかった。言い方だった——報告というより、確認作業みたいな言い方。

 「見ました」とサクラは言った。「K機関のモニタリングの中で、出ているのは確認しています」

 「どんなコメントが来てるか分かる?」

 「概要は」

 「どうでした」

 サクラは少しの間、何と言うかを考えた。

 「支持が多かったです。それと——信じるかどうかを問うコメントも、一定数」

 「そうですね」とキヅキが言った。「私も見ました」

 言い方が平らだった。怒っていない。悲しんでいない。ただ「見た」という事実を置いている言い方。

 「妖精が、支持が多い方だから大丈夫って言ってきた」

 「あなたはどう思いましたか」

 「……数字で大丈夫って言われても、って、思いました」とキヅキは言った。「なんか、問いを出してきた一人が、百人と同じ重さになるわけじゃないから」

 

 サクラがそれを聴いていた。

 聴きながら、この話をK機関への報告書に書けるかどうかを少し考えた。書ける内容ではなかった——「民間への影響」の確認には当たらない。キヅキが自分の内側のことを言っている話だった。

 でも聴いていた。

 「K機関に」とキヅキが言った。「相談できる?」

 少し間があった。

 「できます」とサクラは言った。

 「本当に困ったら、声かけていい?」

 「かけてください」

 キヅキが「……分かりました」と言って、少し前を向いた。前を向いた顔が、何かを処理しているのか処理するのを止めているのか、サクラには判断できなかった。

 「貢一さんとは続けます」とキヅキが言った。宣言ではなかった。確認に近かった。「今のところは」

 「分かりました」

 「K機関は止めないんですか」

 「止める権限がないです。止める必要があると判断されれば、別の話になりますが、今のところは」

 「『今のところは』ばかりですね」

 「K機関はそういう組織です」

 キヅキがふっと、笑ったような息を出した。笑ったのかどうかはよく分からなかった。

 

 サクラが帰ろうとした。

 バッグの持ち手を直して、ビルの前から離れようとした。

 「あの」とキヅキが言った。

 振り返った。

 キヅキが壁から背を離さないまま、サクラの方を向いていた。何かを言おうとして、少し止まった。止まってから、言った。

 「私の声、聴こえてましたか。変身してる時も、してない時も」

 サクラは少しの間、答えた。

 「ちゃんと聴こえてましたよ」と言った。「変身してる時も、してない時も、両方」

 キヅキが止まった。

 止まったというのは動かなくなったのではなく——何かが届いたとき人がなる「止まり方」をした。聴こえた、というのが届いた後の静けさ。

 「……どっちの意味ですか」

 「どっちも同時です」とサクラは言った。「K機関の人間として聴いていた、というのと、ここで声を出していた人として聴いていた、というのの、両方」

 キヅキがまた少し止まった。

 「それ、どう違うんですか」

 「違い方は私にも説明できないんですけど」とサクラは言った。「でも違います」

 キヅキが、何かを考えている顔をした。考えているというより——受け取っている顔だった。受け取っているものをどこに置くかを探している、という感触。

 「……そうですか」

 「そうです」

 それだけ言った。サクラが歩き始めた。

 

 路地を出るとき、一度だけ振り返った。

 キヅキはまだ壁際に立っていた。スタジオカードを手の中で回している。特に何かをしているわけではなくて、ただそこにいた。

 遠くなる前に、キヅキが空の方を見た。

 見上げた先が何の空だったか——サクラの角度からは分からなかった。曇っていた。光が散漫だった。どこが明るくてどこが暗いのか、はっきりしない空だった。

 サクラは歩いた。

 

 帰り道、白いバスに乗る前に、サクラはA1に連絡した。

 「終わりました」

 すぐに「どうだった」と返ってきた。

 「話せました。今のところ緊急の案件にはなりません」

 「そうか」

 「A1が来なかったのは正解だったと思います」

 少しの間があって「そうか」とまた返ってきた。「問題なかったか」「問題なかったです」。それ以上は続かなかった。A1が今夜の話を詳しく聞いてこないのは、聞かなくていい判断をしたということで、それがたぶん正しかった。

 白いバスに乗った。

 助手席から、池袋の午後の街が窓越しに通り過ぎていった。

 「届く場所が減るのが怖い」とキヅキが言っていた。

 サクラはそれをもう一度、心の中で繰り返した。繰り返して——自分の中に同じものがあるかどうかを、もう一度探した。

 見つからなかった。

 見つからないことが、今日は少しだけ、違う意味を持って感じられた。欠けているのか、もともとなかったのか——なかったとして、それは欠けているのか、あるいはただないのか。

 答えが出る問いではなかった。出さなくていい問いかもしれなかった。

 バスが走り続けた。

 

 


 

 

 NOISE BOXの個室スタジオは、夜より昼の方が静かだった。

 夜は下のライブスペースから音が漏れてくる——というより、音が染みてくる、という感触がある。防音素材で覆われているはずなのに、大きな音は分子のように隙間を通り抜けてくる。今日は昼で、下は無人で、廊下にも誰もいなくて、スタジオの中は水を張った水槽みたいに、音が全部中に留まっていた。

 キヅキは三号室の機材棚から三脚を引き出して、自分のスマートフォンをセットした。貢一が持ってくる機材と違って、撮影角度を自分で決めなければならなかった。少し高いかな、と思って三脚の足を縮めた。縮めすぎた。延ばした。そのくらいにした。

 カメラのランプが赤くなるのを待った。

 なった。

 「えと」とキヅキは言った。「今日は、なんか、普通に話します」

 

 何を話すかは、来る前から決めていなかった。

 NOISE BOXに向かいながら「何を撮ろう」と考えて、考えているうちに地下への階段を降りていて、気づいたときには三脚を立てていた。何を話すか、は後でいい——そう思ったわけでもなくて、「後で決める」すら考えずにここまで来た。

 妖精が珍しく、「今日は一人で撮るの?」と聞いてきた。

 「うん」と言った。

 「貢一さんには連絡した?」

 「してない」

 「した方がいいんじゃ——」

 「今日は一人で撮る」

 妖精が少しの間を置いた。置いてから「そっか」と言った。今日の妖精の声は、いつもより控えめだった——控えめというのは、音量ではなかった。何かを言いたそうだが、言わない、という控えめ。

 カメラのランプが赤くて、キヅキはそれを見ながら話し始めた。

 

 「最近ちょっと、いろいろあって」

 いろいろ、の中身を言葉にしようとしたが、うまくならなかった。記事が出たこと、コメント欄のこと、サクラと話したこと——それらを全部並べても、「いろいろ」という言葉より正確にならない気がした。だから「いろいろ」のままにした。

 「なんか、考えてたんですよね」

 誰に向かって話しているか、は決めていなかった。視聴者がいる前提で話すか、誰もいない前提で話すか——ランプが赤いだけで、今は誰も見ていない。後から見る人が来るかもしれないし、来ないかもしれない。どちらでも同じ話をしていい、と思った。

 「声を出してると、自分がいる感じがする、って気づいたのが最近で」

 言ってから、「最近」かどうかを自分で疑った。最近ではないかもしれない。ずっと前から、ずっとそうだったかもしれない——声を出していない時間が怖いのは、声を出していない間は自分がいる感じがしないからで、それはたぶん子どもの頃からずっとそうだった。

 「最近、って言ったけど、ずっとそうかも」

 カメラに向けて言い直した。

 

 間ができた。

 カメラのランプは黙ったままで、赤かった。

 キヅキは少しの間、何も言わなかった。NOISE BOXのスタジオの中には音がなかった——換気扇の低い振動音だけがあって、それも「音」と呼ぶには弱すぎた。音がないことを「静寂」と言うのが正しいのかどうかも、今日はよく分からなかった。

 「声を出してると、いなくなる感じがしない」

 さっきと少し言い方が変わった。「自分がいる感じがする」と「いなくなる感じがしない」——意味は似ているが、言っているのは別のことだ、とキヅキは思った。どっちの方が正確かは分からなかった。どちらも本当で、どちらかが本当ではない、ということはなかった。

 「おかしいのかな」と言った。「おかしくないといいんだけど」

 おかしくないと思う、と妖精が言いそうなタイミングで——妖精は何も言わなかった。

 言わないことに、キヅキは少し驚いた。驚いてから、妖精が何も言わなかったことで、「おかしくないといいんだけど」という言葉がそのままカメラの前に残った。答えが来ないまま残った。残ったことで、その言葉がキヅキ自身の声だということが、少しだけはっきりした。

 

 「聴いてる人がいたら」

 少し間を置いた。

 「——ありがとう」

 言いたいことは他にもあったかもしれなかった。でも、あとは思いつかなかった。「ありがとう」の後に続けるべき言葉が見当たらなくて、見当たらないなら続けなくていい、と思った。

 カメラのランプはまだ赤かった。

 視聴者数のカウンターは表示されていない——一人でスタジオを借りて、配信ではなく録画をしているから。数字がどこにもなかった。数字がないことに、おかしいとは思わなかった。数字があれば何かが変わるかどうかも、今日は分からなかった。

 

 録画を止めた。

 スマートフォンを三脚から外した。動画のサムネイルを確認した。確認したが、すぐには見直さなかった。後でいい、と思った——あるいは、後でも見ないかもしれなかった。どちらでもよかった。

 機材を片付けて、部屋の鍵を返して、地上に出た。

 

 池袋の夜は始まりかけていた。

 まだ暗くはなかった——夕方と夜の中間の時間で、光の種類が昼とは違っているが、街灯が必要になる手前だった。居酒屋の看板が点灯し始めて、コンビニだけが昼から変わらない明るさで光っていた。

 妖精が来た。「良かったよ、キヅキ」

 キヅキは返事をしなかった。

 「今日の、公開する?」と妖精が続けた。

 「まだ分かんない」

 「……うん。そっか」

 妖精がまた黙った。黙っているのが珍しいのか当たり前のことなのか、今日は判断がつかなかった。妖精はいつでも何かを言っているわけではなかったかもしれない——自分が聞いていなかっただけかもしれなかった。

 歩いた。

 どこに向かうかは決めていなかった。駅の方向には自然に足が向いていたが、駅に着いたらどこへ乗るかはまだ決まっていなかった。今日は決まらないままでいい、と思った。決まらないまま、歩いた。

 

 人が増えてきた。

 夕方の池袋は人が多い——当たり前のことだが、人が多いことが今日はただの「多い」として目に入った。それぞれが別の方向へ歩いていて、別の用事があって、別の声を出していた。自分の声とは関係のない声が、あちこちから来ていた。

 キヅキは立ち止まらずに歩きながら、ふと口を開いた。

 「——聴こえてる?」

 誰にも向けない言い方だった。前を歩く人の背中でも、通り過ぎる自転車でも、看板でもなかった。どこにも向けていない、けれど声は出た。

 答えは来なかった。

 来なかったが、声は出た。出たことは分かった。出たから——歩いた。

 

 貢一には、まだ連絡しなかった。

 明日する、と思ったわけでもなかった。ただ今夜はしないでいた。貢一が連絡を待っているかどうか、気にならなかったわけではないが、今夜はそれより先に別のことがある感触があった。何が先にあるのかは分からなかった——分からないが、貢一より先にある、という感触だけがあった。

 妖精が「おやすみ、キヅキ」と言った。

 「うん」

 それだけ言って、電車に乗った。

 

 帰りの電車の窓に、池袋の光が流れて消えた。

 光が消えるたびに、トンネルの中の自分の顔が窓に映った。映っているが、よく見えない。輪郭だけが、ガラスの向こうにある。

 サクラが言った言葉を、またひとつ思い出した。「ちゃんと聴こえてましたよ」——変身してる時も、してない時も、両方、と言った。どっちの意味か聞いたら、どちらも同時と返ってきた。どちらも同時。

 どちらも同時、というのが今日撮った動画にも言えるかどうか、キヅキにはまだ分からなかった。届いている声なのか、届いていない声なのか——両方同時かもしれなかった。どちらでも、声は出た、という事実だけは変わらなかった。

 窓の中の顔が、トンネルを出るとまた消えた。

 外の光の方が勝った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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