アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
1.ゴールデン・アワー-Golden Hour-
声は出る前から届いていた。
スマートフォンの画面が朝の天井を照らしている。明けていない時刻の白さで。まだ目を閉じたまま、キサラギ・キヅキはその白さをまぶたの裏で感じていた。数字を確認する前の、零秒の余白。この余白だけが、今日唯一、数字に関係しない時間だ。
「あ」
声が出た。いつものやつだ。眠りの終わりに自分が決めたわけでもなく出てくる音。出口のない廊下みたいな音。それが出ると、今日が始まる。
スマートフォンを拾い上げる前に、妖精がもう来ていた。
「おはよ、キヅキ」
イヤホンもしていないのに内側から来る声。第三臼歯の奥あたりから響いてくる感触が、今朝もある。変わらず明るい。変わらず近い。おはようございます、とキヅキは心の中だけで返す。声には出さない。
スマートフォンを開く。
昨夜の配信の数字が最初に来る。動画が三本。NOISE BOXのライブ音源を短く切ったもの一本、それから貢一のネットワーク経由で流した宗教2世の話が二本。一番長いやつで十二万。十二万、という数字を見てキヅキは一拍だけ置く。置いてから次に行く。コメント数が二千を超えていた。全部読まない。全部確認する。指でスクロールして、全体が見えたら閉じる。
一人撮りの動画はまだ非公開のままだった。
公開ボタンは昨日から変わらずそこにある。変わらず、押していない。押す日がいつなのかも分からない。「まだ」と思っているだけで、「いつか」かどうかも決めていない。妖精は何も言わなかった。聞かなかった。そのことをキヅキは確認して、スマートフォンを胸の上に置いた。
天井。
天井を見ていると、声の残響が頭の中に積み上がっていく。昨夜の自分の声、配信中の自分の声、NOISE BOXのマイクを通した自分の声。それぞれ少し違う形をしている。形というか——届き方が違う。貢一のネットワーク越しの声は一番遠くへ行く。でも遠くへ行った先でどんな聞こえ方をするかは分からない。
「今日さ」
妖精が言った。いつもの「すごい数字だよ」や「絶対いける」ではなく、もう少し低い声だった。キヅキは天井を見たまま待つ。
「通知、来てるよ」
「普通の通知じゃない、ってこと?」
「うん」
スマートフォンをもう一度取り上げる。妖精のアプリを開く前に、すでに分かっていた。通知のかたちが違う。普段のそれは青い点だが、今日のは色を持っていない。ただ「ある」という状態の通知。
開く。
複数の能力者が近接している可能性があります。
現在、同一エリア内に三人以上の変身者が確認されています。
池袋・豊島区周辺。
三人以上。
キヅキはその数字をもう一度読んだ。三人以上。第2章の出来事からずっと、妖精の通知は基本的に一対一だった。「誰かと鉢合わせました」という情報はあっても、「三人」という数がまとめて来たことは今まで一度もない。
「これ」とキヅキは言った。「新しい?」
「うん」と妖精。「新しい。私も今朝知った」
「妖精も今朝知ったって——妖精は毎日どこから知ってるの」
「教えてもらってる」
誰に、とは聞かなかった。前に聞いたことがある。「妖精から」という答えが来た。妖精同士がネットワークを持っていることはそのとき確認した。でも「教えてもらっている側」に誰かがいるとしたら、その誰かが今朝はじめて「三人以上」を流した理由が分からない。
分からないまま、起き上がる。
朝八時の会合用アパートは静かだ。親はいない。今日はいない。壁に第二十三回教会大会のポスターが貼り残されている。剥がさないのは惰性で、貼り続けているわけでもない。ただそこにある。
洗顔して、制服に着替えて、スマートフォンをポケットに入れる。
「池袋の、どのあたり」とキヅキは聞いた。
「今のところは豊島区全体。動いてる」
「動いてる、か」
動いている、というのはつまり、場所が定まっていない。定まっていないということは、たまたま近くにいた三人が同じ瞬間に通知を受けているのではなくて——全員が何かに向かって動いている、ということかもしれない。
「私のことも、向こうの妖精は通知してる?」
妖精が少し間を置いた。
「してると思う」
「そっか」
してると思う。断言しなかった。妖精が断言しないのは、確認できていないからか、確認できているが言いたくないのかのどちらかだ。今朝の妖精の声は前者に聞こえた。少しだけ確認できていない声。
貢一からのメッセージが来ていた。「明後日、スタジオの件、確認させてください」。昨夜返事をしなかったもの。先週の動画について数字の話も来ていた。いい数字が出てる、という内容。いい数字、という言い方を貢一はしない——「こういう数字が出た」という事実の形で来る。キヅキはその事実を受け取って、ポケットにしまった。今日返す。でも今朝じゃない。
玄関を出る前に、一度声を出した。
試すような声じゃなく、ただ出した。おはよう、でも、今日も、でもなく。声の始まりだけ。空気を鳴らす。鳴った。聞こえた。自分の声だと分かった。それだけで十分だった。
ドアを閉める。
三人以上の変身者が、今朝から動いている。池袋のどこかで。今日が何日なのかより先に、その事実の方がキヅキの朝に並んだ。
電車の時間まで、あと十二分ある。
午後二時十四分。
本郷の緑が窓の外で動いていた。ほんの少し、風があった。木の上部だけが揺れていて、幹は揺れない。幹は揺れない種類の木だった。
部屋はそれを見ていた。
見ていたというより、部屋はただそこにあった。四畳半ほどの空間。「研究会部室」という表示が扉の外にある。表示は正確だ——ここは確かに研究をする部屋で、確かに会を名乗る集まりが定期的に使っている。その研究の対象が「アテンションの分配と再設計」であることを、表示は言っていないだけだ。
ホワイトボードにはびっしりと数字が書かれていた。数字とキーワード。「アテンション分布」「リソース移転効率」「第3象限への誘導」「感情誘発係数(ネガ優位)」。マーカーのにおいが残っている。昨日か一昨日か、最近使われた証拠。PCが三台。スクリーンが壁に貼ってあり、そこには現在、グラフが映っている。折れ線が右肩上がりだった。
部屋にいるのは二人だった。
一人は白いブラウスを着て、スラックスをはいていた。端正な顔立ちをしている。椅子に座って、手元の資料を見ている。見ているが、読んでいない。考えているのだ。考えながら、時々、窓の外を見る——赤門は見えない。赤門の向こう側にいる、という感触だけがある。
もう一人はオーバーサイズのパーカーとロングスカートの格好で、PCの前に座っていた。画面を三つ同時に見ていた。三つを同時に見ることができる目を持っていた。指が、キーボードを叩く前に一瞬止まる。止まってから叩く。その一瞬の間に計算が終わっている。
二人とも今日は女装の格好をしていた。特別なことではない。特別ではないので、誰も驚かない。驚かないので、説明しない。その服を着ている、それだけだ。
「続きを」と白いブラウスの方が言った。声が低かった。ゆっくりしゃべる人間の声だった。
「緑の能力者への接近について」とパーカーの方が言った。画面から目を離さないまま。「NPO経由のアプローチ、スケジュール通りです。昨日、対象が森山さんのNPOの関係者向けイベントに参加したことを確認しました」
「森山さんは」
「当初の予定通りのアプローチをしています。問題ない」
白いブラウスが「そうですね」と言った。言ってから、少し間を置いた。間は計算ではない——考えている時間だ。ただし考えていることが相手の想定外の方向に向かうことは、おそらくない。「彼女は誰かを癒すことに存在意義を見出す。それは正しいことです」
「正しいです」とパーカーが言った。「だからこそ、正しい方向へ向けやすい」
「その言い方は好きじゃないですね、ヨグ」
「そうですか。別の言い方をすれば、彼女が向かいたい方向と、私たちが必要としている方向が一致している、ということです」
白いブラウスが少し考えた。考えて、「それなら同意します」と言った。
ヨグと呼ばれた方が、画面の一つに数字を出した。タブを切り替えたのではなく、既に開いていたものが前面に来た形だ。
「現在の黄の能力者の動画リーチ。今週比で17パーセント増。うちサーカス経由の誘導が31パーセントを占めています。コントロール可能な成長率に入ってきた」
「コントロール可能」
「分かる範囲で動いている、という意味です。数字は道徳より正直だから——数字が出ている間は、動いていることが確認できる」
白いブラウスが窓の外を一度見た。木は相変わらず上部だけ揺れていた。幹は揺れない。
「黄の能力者と、彼女を支援している民間人の動きは」
「黄瀛貢一の件ですね」とヨグが言った。「今週、接触頻度が上がっています。週二本だった動画が三本になる予定。配信先のプラットフォームが一つ増える」
「増えた先は」
「私たちが使っているチャンネルの近傍です。重複する視聴者層と、誘導できる層がある」
「貢一さんは知っていますか」
「知らない、と思います」ヨグが一度だけ画面から手を離した。「貢一さんは自分の判断で動いている。それは本当のことです。知らないままの方が——」
「分かりました」と白いブラウスが言った。知らないままの方が、という続きを聞く必要がなかった。「貢一さんとの間接的な接点は、今のまま維持します。彼は知らなくていい」
ヨグが頷いた。頷き方が少し事務的だった——同意というより、確認済みというマークを付けた動作。
「K機関の動きは」と白いブラウスが聞いた。声のトーンが変わらなかった。同じ会議の続きとして聞いた。
「今週は直接の接触なし。ただし目黒の拠点を中心に、各能力者の行動ログを取っています。おそらくQが担当している。Qというのは——」
「分かっています」
「——分析系のK機関構成員で、今のところデータ収集の段階です。動く前の状態」
「動く前」と白いブラウスが繰り返した。「K機関が動く前に、私たちが先に動いている必要がある」
「第二波の準備は済んでいます」とヨグが言った。「K機関のネガティブキャンペーン。今週末、選挙期間に入るタイミングに合わせて打ちます。選挙期間中は公安が動く。その前に世論の土台を作っておけば——」
「公安が動いた後でも遅くない場合がある」と白いブラウスが言った。「むしろ、公安が動いた映像を素材に使える場合もある」
ヨグが一瞬止まった。一瞬だけ、計算が追いつかない顔をした。それからすぐ「そうですね」と言った。「第三象限への誘導ができる。K機関と公安が重複した場合の混乱を、そのまま素材にする」
「選挙期間の終わりまで、全部を同時に動かします。段階ではなく並列です」
ヨグが三つの画面を一度に確認した。折れ線グラフ。アカウントの投稿ログ。能力者の動画への反応分布。どれも数字だった。数字が出ている間は、動いていることが確認できる——自分で言った言葉を、自分で確認している時間だった。
「一つ、報告があります」とヨグが言った。「新しい青の候補者の情報が入ってきました」
白いブラウスが資料から目を上げた。
「どのルートで」
「妖精ネットワークの外側から。接触者が分かっています」
「早めに動いた方がいいですね」
「そう思います。候補者が——能力をアクティベートされる前に」
白いブラウスが「そうですね」と言った。それから少し間を置いた。間がどちらの意味の間なのか分からない間だった。考えているか、あるいは考えるまでもなく決まっていることを確認しているか。
「青が空いている間は、動きが読みにくい。早い方がいい」
「了解です」とヨグが言って、画面の一つを操作した。操作した結果として何かが変わった——何かが変わったが、部屋の外では何も変わっていない。本郷の木は相変わらず上部だけ揺れていて、幹は揺れない。
白いブラウスが立ち上がった。
立ち上がる動作が静かだった。椅子を引く音が小さかった。部屋を出る前に、ホワイトボードを一度見た。「アテンション分布」「リソース移転効率」「第3象限への誘導」。全部、正しいことが書いてあった。正しいことを正しい手順で実行するための言葉が書いてあった。その「正しい」を誰が定義したかは、書いていない。
「今日の確認は以上ですか」と白いブラウスが言った。
「以上です」
「では」と言って、ドアの方に向かった。
「小牧さん」とヨグが呼んだ。
白いブラウスが止まった。
「グラムシは——陣地戦の定義で、文化の占有には時間がかかると言っています。一夜ではできない、と」
「知っています」と小牧と呼ばれた方が言った。止まったまま、振り返らなかった。
「今週の第二波と、来週の展開で、一夜ではなくなりますか」
「一夜ではありません」と小牧が言った。「だから今から動いています」
ドアが開いた。廊下の白い光が一瞬、部屋に入った。それからドアが閉まって、廊下の光は消えた。
ヨグが画面に向き直った。折れ線グラフを見た。右肩上がりだった。数字が出ている間は、動いていることが確認できる。
それだけが正しかった。
その正しさに、誰も疑問を持っていなかった。少なくとも、この部屋の中では。
窓の外の木は、まだ上部だけ揺れていた。幹は揺れない。赤門は見えない。赤門の向こう側という感触だけがある部屋の中で、ヨグはもう一つの画面を開いた。「新・青候補者」というファイルのタイトルが、一瞬、スクリーンに映った。
それが何者なのかを、この部屋の外では、まだ誰も知らなかった。