アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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2.ヴェール・ド・フルール-Vert de Fleur-

午後九時四十二分。

目黒合同庁舎の資料室には、外の時間が来ない。

外の時間というのは——昼になれば明るくなり、夜になれば暗くなる、あの時間のことだ。資料室は窓がないので、昼も夜もない。あるのはデータの時間だけ。データには「何時何分に投稿された」「何時何分にいいねが押された」「何時何分にアカウントが切り替わった」という時間軸がある。Qはその時間を読む。外の時間は読まない。外の時計は、この部屋にない。

モニターが五台。三台は並列で稼働中。残り二台は待機状態——待機というのも正確ではなく、必要になったら開く状態で置いてある。

Qは今夜、黄の能力者の動画ログを追っていた。

通常業務だった。黄——キサラギ・キヅキが関わる動画の拡散経路を、投稿時刻と転載元アカウントの紐付きで照合していく。これは昨日と一昨日も同じ手順でやった。やっていれば「いつもと違う」が分かる。

「いつもと違う」は、午後九時二十七分に来た。

最初は数字だった。

同一の動画に対して、リポスト(再投稿)の速度が急上昇した。速度が上がること自体は珍しくない——内容がバズれば速度は上がる。ただ今夜の上がり方は、バズの上がり方ではなかった。バズは「良い評価のコメントが先行して、それに引っ張られて拡散が起きる」という順序をたどる。今夜は順序が逆だった。拡散が先に来て、コメントが後から来ている。

Qは手を止めた。

止めてから、遡った。

一時間前のログ。二時間前のログ。今夜の「いつもと違う」が始まった時刻——午後八時五分——まで遡ると、そこに「最初のアカウント」がいた。

一つのアカウントが、キヅキ関連の動画を四本、ほぼ同時に転載していた。

Qは「同時」という言葉の精度を確認した。最短の間隔は三秒。人間が手動で操作する場合、三秒で四本の転載を行うことは——できなくはないが、しない。しない理由は、意味がないからだ。人間はコンテンツを見て判断して転載する。見て判断するのに三秒は足りない。

つまりこのアカウントは、判断を省略している。

Qは「判断を省略している」という事実をデータとして記録した。感想は持たなかった。感想は記録に入れない。

次の問い:これは一つのアカウントか。

遡る。そのアカウントが転載した先に、別のアカウント群が出てくる。その別のアカウント群も、転載の間隔が短い。五秒、七秒、四秒。全部、判断を省略している速度だった。

Q は接続を確認した。IP情報まではここから辿れない。辿るには別の権限が必要で、今夜はまだその権限を使うレベルの事案だとは判断していなかった——が、接続の「形状」は見えた。

一つのアカウントが転載する。それを受けて七つのアカウントが拡散する。七つのアカウントを受けて、さらに十五のアカウントが動く。

ツリー構造。

根があって、幹があって、枝が広がる——そのような形でキヅキの動画が拡散していた。バズが起きるときの形ではなく、誰かが設計した形だった。

Qはホワイトボードに書くかわりに頭の中で描いた。

設計、という言葉が一度浮かんだ。浮かんで、置いといた。

次の異常値を探す。

キヅキの動画の拡散ツリーを見ながら、別のタブを開く——K機関について流れているSNS上の言説を、昨日から定期クロールしているデータ。「警視庁 秘密 少女」で検索ヒットした投稿が、今週に入って倍増していた。

Qは倍増という言葉を使わなかった。「一週間前比で196%」と自分の中で言った。

196%。

言説の内容を確認する。「警視庁には秘密の少女狩り部隊が存在する」というタグが、複数のアカウントから同じ時間帯に出ている。タグの文言が微妙に違う——「少女狩り」「10代女性の連行」「秘密警察の実態」——しかし指している内容は一致していた。K機関を指している。Qが確認した。

K機関を、直接指してはいない。

指していないのだが——指しているとも読める。言葉の当て方が「外れているのに当たっている」という精度だった。知っていれば当たると分かる。知らなければ読み飛ばせる。その精度の設計で言葉が選ばれていた。

Qは「組織的な言論工作の初期段階」と分類した。

分類してから、名前をつけようとした。

つけられなかった。

まだ形が決まっていない何かだった——個人が騒いでいるのではなく、組織が動いているのでもなく、その中間のどこかにある「協調した意図」のようなもの。「協調した意図」という言い方が正確かどうかも分からない。ともかく、今夜の資料室では「名前がまだない」という状態で置くことにした。名前がない状態で積んでおく——それが今できることだった。

スクリーンを見る。数字が出ている。

数字は増えている。

Qはその増え方が「止まらない種類」かどうかを、これまでのデータと比較した。比較の結果:止まらない種類、ではなく、しかし「自然に止まる速度より速い」種類だった。誰かが加速させている。加速の手を外せば落ちる。でも今夜、手は外れていない。

通信を開いた。

「J、聞こえますか」

映像通話の接続音。Jの顔が出た。

「聞こえます」とJが言った。周囲が暗かった。外だった。「今夜は現地に出ています。池袋です」

「池袋で何を」

「能力者の行動確認です。ただ——」Jが少し止まった。止まる間が、いつものJより少し長かった。「今夜、少し——」

「何ですか」

「ちょっと寒いと思います」

Qは答えなかった。

「気温は、13度です」とJが続けた。「平年比で2.3度低い。あの、Qさん」

「何ですか」

「今日、着替えてください」

「関係ないです、J」

「着替えないと体調に影響する可能性があります」

「今の会話には関係ないという意味です」

Jが「了解しました」と言った。了解という言葉の後ろに、何かが少し残っていた。残っているものに、Qは名前をつけなかった。

「東大周辺のネットワークに関して調査権限の申請をします。本日中に出します。潜入ができる位置にいますか」

「今夜は池袋エリアです。本郷には——明日以降なら対応できます」

「分かりました。明日の午前中に申請が通るよう手配します。待機してください」

「了解です」

Jの映像が切れた。

Qはまた画面に向かった。

レポートを書く。Kへの定期通信に追記する形で——今夜見つけたものを、情報として整理する。

項目:新規組織の痕跡確認。推定拠点:東大周辺。活動形態:SNSの協調的拡散と、K機関への言論的フレーミング。選挙期間前という時間軸との重複あり。対処方針:要監視。接触の要否については現時点では判断保留。

書き終えて、送信した。

Kからの折り返しは十二分後に来た。


接触の確認を優先すること。

公安との重複に注意。


Qはそのメッセージを二回読んだ。

「公安との重複」。

Kが公安の動きを知っている、という前提がある。「注意」という言葉がその前提を前提として使われている——ということは、Kはすでに公安が動いていることを把握している。公安が選挙期間前のSNS操作に関して動きを見せているという情報を、どこから得たか。

Qはその「どこから」を問いの形に整えようとして、整えなかった。

問いにしてしまうと、次の行動が必要になる。今夜、その行動に割ける資源はない。問いは「どこから」ではなく「Kが知っている」という事実として処理して、保留した。

画面を見る。

数字が——まだ増えていた。

増え続けている間は、誰かが動いている。止まれば、手が外れた意味になる。止まるまで、Qはここにいる。外の時間には関係なく。

スクリーンの折れ線グラフが右に延びる。

延びた先に何があるかを、今夜の段階で言える言葉を、Qは持っていなかった。持っていないので、持てる言葉で続けた。「東大周辺のアカウント群」「協調的な拡散パターン」「K機関へのフレーミング開始」。

三つの事実を並べると、一つの問いが出てくる。

この三つが「同じ意図を持つ動き」ならば——その意図は、何に向かっているか。

問いの形が出た。

しかし答えは、今夜のデータには入っていない。

Qはその問いをファイルに保存した。ファイルには名前をつけなかった。名前をつけられるだけの形が、まだない。名前のないファイルが一つ増えた。

そのことを、Qは記録しなかった。

記録しないことが多くなっていた——最近。Jの言葉が「名前のつかないファイル」として積まれるようになったあたりから。積まれる量が増えているかどうかは、記録していないから分からない。

スクリーンに向き直る。

午後十時十七分。

外では夜が続いている。Qには関係ない。データの時間は、関係なく進んでいる。

 

 


 

 

カフェの音は、方向を持って来る。

コーヒーメーカーが左から来た。ミルクを泡立てる音は少し上だった。四人掛けのテーブルで笑い声が上がって、それは右の斜め後ろから来た。笑い声は形が丸い。丸いものが壁に当たって、少し削れて、削れた形のまま耳の奥まで入ってくる。

モリヤマ・ミドリは窓際の席に座って、カップを両手で持っていた。

何も入っていないカップだった。飲み終わってから、三分か四分そうしていた。持っていると、手のひらが少し温かい。カップの底に残った熱がゆっくり移ってくる。移ってくる速度が分かる。分かる速度で移ってくると、今がどこかに留まっている感触がある。

時間を確認しようとしてやめた。

今日はここに来る予定ではなかった。予定はなかったのに来ていた。そういう日がある。決めていないのに動いていて、動いた先に「ここがいいな」という感触が来る。決めた場所より、決めていない場所の方が当たることが多い。それがなぜなのかをミドリは一度も考えたことがなかった。当たるから来る、それだけだ。

「——モリヤマさん、ですね」

声が来た。

来た方向を先に特定した。右の前。声の形が「問い」だった。確認の問い、ではなく、答えを少し知っている問い。そのふたつには声に違いがある。聞けば分かる。

顔を上げた。

男性が立っていた。四十代くらい。髪が少し白くなっている。背広を着ていたが、首元のボタンが一つ開いていた——仕事をしている感じを、少しだけほどいた状態。眼鏡をかけていた。眼鏡のフレームが細く、顔に自然に馴染んでいた。穏やかな顔をしていた。

「界隈で声をかけてくれている子のことを、耳にしていました」とその人が言った。「座ってもいいですか」

ミドリは答える前に一拍置いた。

置くのは習慣ではない。必要な時間だ。声が来て、声が形を持って、形の意味が何かを確認する——それだけの時間。「界隈」という言葉をこの人が使ったことが、最初に引っかかった。外の人間が「界隈」という言い方をする時、だいたい二種類ある。知っているから使う人と、知っている人が使うと思って使う人。この人の「界隈」はどちらか、一回では分からなかった。

「どうぞ」とミドリは言った。

その人が向かいの席に座った。カップをテーブルに置いた。すでに注文していた——来る前から座る場所を決めていた、ということだ。

「森山と言います」とその人が言った。「NPOチルドレンファーストの、一応、設立者で。今は代表という肩書きで呼ばれています」

「知っています」とミドリは言った。「別の支援団体の集まりで、名前だけ」

「名前だけ知っていてもらえているなら、少し楽に話せますね」

森山がカップを持った。ミドリと同じ動作だった。両手でカップを包む形。模倣ではなかった——単にそういう人だった。

「あなたが界隈の子たちのそばにいてくれている、という話を聞きました。一人でいる子が、少し楽になったという話を。名前は出ていなかったけれど」

「名前は出さないようにしています」とミドリは言った。「向こうが嫌がるから」

「そうですね。それは正しいと思います」

正しいと思います、という言葉が来た。

ミドリはその言葉の形を確認した。「そうですね」があってから「正しいと思います」が来た。「そうですね」が先に来る人、という分類が頭の中に出来た。ただし分類は判断ではない。分類して、置いておく。

「あなたがやっていることを、もう少し具体的に聞いてもいいですか」と森山が言った。

「誰かが一人でいそうなとき、一緒にいるだけです」とミドリは答えた。

「一緒にいるだけ、というのが——どういう形で」

「形は特にないです。隣に座って、話したければ話して、話したくなければ話さない。話したいかどうかも、聞かない」

「聞かないんですか」

「聞くと、考えなきゃいけなくなるから」

森山が少し間を置いた。今度はミドリが置くのとは少し違う種類の間だった——理解しようとしている間、だと思った。

「話したいかどうかを聞かれると」と森山が確認するように言った。「考えなきゃいけなくなる」

「そうです」

「——それは、大切なことですね」

大切なことですね。

ミドリはその言葉の着地点を探した。着地点が、どこかにある感触はあった。ただ今すぐには見えなかった。「大切なことですね」というのは肯定の言葉だ。でも何かを大切だと言うとき、その先に「だから」が来ることがある。「だから、もっとこうした方がいい」の前置きとして使われることがある。

まだ「だから」は来ていない。

「でも」と森山が言った。「持続可能な形にしないと」

来た、とミドリは思った。言葉に出さなかった。

「あなた自身が消耗する。一人でやり続けることの限界というのがあって、体制を整えることで——もっと多くの子たちに、安定した形で届けることができるようになる。一緒に、考えてみませんか」

体制。

ミドリはその言葉を一度だけ繰り返した。頭の中で。体制。体制を整える。体制が整ったら、何かが変わる。何かが変わるということは、今と違う形になる、ということだ。

今の形が何かを、ミドリは言葉にしたことがなかった。

「体制を整えるというのは」とミドリは言った。「どういう形ですか」

「例えば」と森山が言った。「複数の人間が関わることで、負担を分散させる。記録をつけることで、効果を可視化して、支援の継続性を担保する。外部の評価を受けることで、活動の信頼性を高める。そういった仕組みです」

「記録をつける」

「はい」

「どういう記録を」

「関わった子の数、状況、改善の指標——そういったものです。あなたが肌感覚でやっていることを、数値として見えるようにする作業です」

数値。

ミドリはその言葉を持って、何かを探した。何かが引っかかっている感触があった。引っかかりの形がまだ見えない。ただ「通らない」という感触がある。何かが通っていない。

「改善の指標、というのは」

「関わった後に、その子の状況が以前より良くなったかどうか、ということです」

「良くなったかどうか、というのは——誰が判断しますか」

森山が少し止まった。止まり方が先ほどの「理解しようとしている間」とは少し違った。こちらの間は「想定していなかったことが来た間」だ、とミドリは思った。

「評価の仕組みを作って」と森山が言った。「客観的な基準で」

「客観的な基準で」とミドリは繰り返した。

「はい」

「その基準は、誰が作りますか」

「経験のある支援者が集まって、議論して——」

「議論した結果が基準になる」

「そうです」

「議論に、今一人でいる子は参加しますか」

また間が来た。今度は少し長い間だった。

「参加できる場合は、参加を促すことになると思います」

促す。

ミドリはその言葉の形を確認した。促すというのは——今できない状態にある何かを、できる方向へ動かすことだ。できる状態になったら参加できる。できる状態になるために、体制が整う必要がある。体制が整うまでの間は、今の子は基準の外にいる。

「今、一人でいる子は」とミドリは言った。「体制が整うまでの間、どうなりますか」

「だから——今あなたがやっている活動も、体制の中に組み込んで、継続しながら整えていく、という形になります。やめるわけじゃない」

やめるわけじゃない。

正しいことを言っていた。全部、正しいことを言っていた。一つも間違っていない。体制を整えることは正しい。記録をつけることは正しい。負担を分散させることは正しい。持続可能な形にすることは正しい。

正しいことが並んでいるのに、何かが通っていない。

「少し、考えてみます」とミドリは言った。

「もちろん」と森山が言った。「急ぐ話じゃないです。ただ——あなたのことが心配で」

心配。

「消耗していませんか」と森山が言った。「一人で抱えていると、自分では分からないまま消耗していることがある」

「大丈夫です」とミドリは言った。

言ってから、気づいた。

今言ったのは、「大丈夫です」だ。森山が「消耗していませんか」と聞いたから、「大丈夫です」と答えた。消耗しているかどうかを確認して答えたのではなかった。先に言葉が出た。「大丈夫です」が先に来て、後から確認しようとした。確認の結果は——よく分からなかった。分からないまま「大丈夫です」を置いてきた。

「いつでも相談してください」と森山が立ち上がった。

名刺をテーブルに置いた。白い名刺だった。NPOチルドレンファーストという名前と、森山慶介という名前が書いてあった。フォントが丸かった。丸いフォントで書かれた名前が、テーブルの上に置かれていた。

「また話しましょう」と森山が言って、カップを持ってレジの方へ歩いていった。

ミドリは名刺を見た。

見てから、見るのをやめた。窓の外に目を向けた。窓の外は曇っていた。曇りの光が、平均的な明るさで街を照らしていた。ある方向だけが明るいのではなく、全部が均等に薄くなった光。こういう光の日は、音が少し遠く聞こえる。音の輪郭が曇る。それが今日は少し助かっていた。

良いことを言っていた。

ミドリは声に出さずに確認した。良いことを言っていた。全部正しいことを言っていた。森山慶介という人は正しいことを言う人だった。正しいことを言う人に会ったとき、ミドリはだいたい「そうですね」と思う。今日も「そうですね」と思いながら話を聞いていた。

でも何かが通らなかった。

「通らない」という言葉がミドリの中にある。言葉というより感触だ。物理的な感触。何かが当たって、通り抜けずに戻ってくる感触。正しいことが来て、正しいと分かって、でも何かが通らない。

体制が整ったら、今日一人でいる子のところに今日行けなくなる気がした。

それだけだった。

それだけのことが、何かを止めていた。止めているものに名前がつかない。名前がつかないまま、「通らない」という形で残っている。

右の袖を引っ張った。

制服の右袖。授業中でも、電車の中でも、こうやって引っ張ることがある。神経が通っている場所に力を入れると、今がどこかに留まる感触が来る。さっきカップを持っていたのと、同じ目的だ。

名刺をコートのポケットに入れた。

捨てない。考える、と言ったのは嘘ではなかった。正しいことを言う人の言葉は、捨てるより持っておく方がいい。持っておいて、もう少し時間をかけて「通らない」の形を探す方がいい。

妖精からの通知が来た。

音ではなく振動だった。ポケットの中でスマートフォンが震えた。取り出して画面を見た。

通知の形が、いつものものだった。ただし内容が少し違う。

 


今日、近くに黄色と紫の気配があります。

複数の変身者が同一エリアに——


文章の途中で通知が切れた。切れたのではなく、文章が続いていた。スクロールすると続きがある。続きは確認しなかった。

黄色と紫。

キヅキとユカリ、ということだ。二人が、近くにいる。近くというのは、池袋か渋谷か、そのあたりだ。距離感は大体分かる。妖精の通知に出る「近く」は、電車で一駅か二駅の範囲を指すことが多かった。

ミドリは立ち上がった。

コートを着て、バッグを持って、名刺が入ったポケットを一度触った。確認してから、椅子を戻した。カップをトレイに置いた。片付けてから出るのは習慣だ。誰かが次に使いやすい形にして出る。それは意識してやっているのではなく、出る前にそうなっている。

「行く」とミドリは言った。

誰にでもなく、声に出した。

声が出ると、今がどこかに留まる感触が来る。カップを持っていたのと、袖を引っ張ったのと、今の声と、全部同じ目的だった。ただ今は出る方向の言葉だったので、今は行く方向に動けた。

カフェの扉を開けた。

外の音が来た。雑踏の音は形がない。形のないものが来るのは、壁に当たって跳ね返る前の音だからだ。外に出るといつも、最初の数秒は音が形を持たない。その数秒が、ミドリには一番息ができる時間だった。

歩き始めた。

森山慶介という人が言ったことは全部正しかった。正しいことの中に「通らない」があった。そのことを、今は持ったまま歩く。

黄色と紫が近くにいる。近くにいることの方が、今は先にある。

 

 

 

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