アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
路地の音は奥まで続かない。
宇田川町の裏通りは夕方になると声が詰まる。表通りのスピーカーが流す音楽、居酒屋の換気扇が吐き出す音、どこかの窓から落ちてくる話し声——それらが路地の入口で渋滞して、奥へ行くほど密度が上がる。密度が上がった音は、形を失う。
キサラギ・キヅキはイヤホンを右耳だけに入れて歩いていた。
左耳が空いているのは、妖精の声を聞くためだ。妖精は今、黙っている。黙りながら、ただそこにいる。最近の妖精は沈黙することが多くなった。「すごい数字だよ」とも「どこかに気配があるよ」とも言わずに——ただ、いる。いるだけの妖精の感触が、第三臼歯の奥あたりにある。
「近くにいるんでしょ」とキヅキは言った。
路地の壁に向かって言った。誰も聞いていない。ここは聞かれない路地だ。
「うん」と妖精が答えた。「緑の気配。ずっと前からある。ここじゃなくて、もう少し奥の方」
「ずっと前から、ってどのくらい前から」
「今日の夕方あたりから。この子、あんまり動かないから気配が積み上がって、ここまで来てみたら——やっぱり、いた」
気配が積み上がる。
キヅキはその言い方を口の中で繰り返した。声には出さなかった。気配が積み上がる、というのがどういう感触かは想像できなかった。でも妖精がそう言うなら、そういうことなのだと思うことにした。
「確認したら、どうなるの」と、前に一度聞いたことのある問いをもう一度聞いた。
妖精が少し間を置く。
「確認したら——能力が分かる、かな。分かると……」
「奪える、ってこと?」
「……そういう仕組みになってる」
「誰が決めたの」
「……ルールです」
ルール、ね。
キヅキはスマートフォンを取り出した。画面を出さずに、手の中で温めるように持つ。変身の準備というよりは、もし必要になった時に遅れないようにするための準備。そういう持ち方。
「行ってみる」と言いながら、奥に向かって歩いた。
路地は細くなる方向にしか続かない。
ミドリは変身の気配を音で聞いた。
路地に入る前から、奥の方の音の質が変わっていた。音というより——音のない部分の形が変わった、と言う方が正確かもしれない。音がない場所というのは、実際には音がないのではなく、音が当たって跳ね返ってきた後の「抜け」だ。何かがそこにいると、「抜け」の形が変わる。
変わった方向から、黄色の気配があった。
妖精から通知が来てから十五分ほど経っていた。その間、ミドリはずっと同じ場所に立っていた。コートのポケットに手を入れたまま。右の袖の内側を親指でなぞるように触れたまま。
来るかもしれないと思っていた。
「来た」と妖精が言った。穏やかな声だった。「黄色の子。さっきの通知の子だと思う」
「分かった」とミドリは言った。
声を出しながら、スマートフォンを取り出す。変身のシーケンスは一連のことだ——スマートフォンを取り出して、胸の前にかざす。液晶面を外側に向ける。サイドボタンを押す。
持続する和音が来た。
三音が重なって、微妙にずれながら、解決する前にもう一度積み重なる。低くて、ぎりぎり聞こえるか聞こえないかの音量で。この音を聞くたびに、ミドリの中の何かがわずかに緩む。日常の感覚過敏が少し静かになる——戦闘態勢に入ることで、逆に余計な音が整理される。
変身ポーズを取る。
その場で一度しゃがみ、両手を地面につける。コンクリートの冷たさが両手のひらから来た。冷たさと一緒に、地面の奥にあるものの感触が来る。水道管か、配線か、コンクリートの層の下にある土の層か——地面の奥にあるものの重さが、手のひらを通じて分かる。
ゆっくりと立ち上がりながら、両手を胸の前で重ねる。
足元から変身が始まった。
靴の底が地面に触れている感触が変わる。触れている、から、根を張っている、へ。地面とミドリが一体化し始める感触。足首から膝へ、膝から腰へ、腰から胸へ——苔色の変化が茎を伸ばすような速度で上がってくる。
指先に来るのは最後だった。地面から最も遠い場所だから。
爪が暗い緑になる。葉脈の模様が走る。
顔の感触が、少し楽になる。
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魔法少女 エメラルド・サンクチュアリ-EMERALD SANCTUARY-
モリヤマ・ミドリ
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——ここにいて
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黄色の声が来た。
「やあ」
声だけが先に来た。姿が見える前に、声が来た。壁から来る声ではなく、この路地の中に生まれた声。その声が路地の空気を少しだけ変える感触が、変身したミドリには分かった。
モリヤマ・ミドリは路地の奥に立ったまま、声が来た方向を見た。
路地の入口から、黄色い輪郭を持つ人影が歩いてくる。フリルが多い衣装だった。右耳に小さな何かが光っている。
キヅキが路地の中に入ってきて、ミドリを見た。
「——あ」と言った。「もう変身してる」
「来るのが分かったから」とミドリは言った。
「そっか」とキヅキが言った。少し考える様子があった。考えてから「じゃあこっちも」と言って、スマートフォンを持ち上げた。
胸の前に。液晶面を外に向けて。
キャッチーな三音のフレーズが鳴った。
両手を広げて頭上に上げる。そのまま下ろしながら、腕全体で大きな弧を描く。外の空気が収束してくる感触が来た。外の世界がキヅキを変えようとしている——内側からではなく、外から。
声が変わるのが最初だった。
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魔法少女 ゴールデン・ディフュージョン-GOLDEN DIFFUSION-
キサラギ・キヅキ
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——聴こえてる?
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「能力、ちょっと使わせてもらうね」
キヅキが言いながら、声を出した。
声が出た瞬間に、路地が変わった。
音が路地に満ちた。壁から反響して増幅される。コンクリートの壁が全部、キヅキの声の方向を向く。音が形を持って、路地の空気に積み重なっていく。
その音がミドリに向かって来た。
ミドリは地面を見た。
「ここにいて」
言葉が地面に落ちた。
その瞬間に、路地全体の質が変わった。音ではなく、場所の感触が変わった。コンクリートの路地が、ミドリの「場所」になる。半径数メートル——ミドリが立っているこの場所の空気が、厚くなった。
キヅキの声が来た。
来て——吸われた。
「——え?」
キヅキの声が止まった。止まったのではなく、場所に吸収されて届かなくなった。もう一度試すように声を出す。路地に音が満ちる。でもミドリには届かない。場所の「厚さ」が音を飲んでいく。
「なにこれ」とキヅキが言った。声に意外さがあった。「固い。ていうか——響かない」
「ここにいてって言ったから」とミドリは答えた。
「それが能力ってこと?」
「場所が、私の場所になる」
キヅキが少し前に出た。一歩。ミドリのいる「場所」に踏み込もうとする動き。
足元から緑色のものが現れた。地面の割れ目から、樹根に似た帯が伸びてきて、キヅキの足首を掴んだ。引き留める力だった。制圧ではなく、「そこから先は入れない」という境界を示す力。
「あ、これも」とキヅキが言いながら足を引いた。根が解ける。「攻撃じゃないのか」
「攻撃より、止める方が好き」
「好き、って言い方するんだ」
ミドリは答えなかった。
好きか嫌いかで選んでいるのではない。ただ「止める」方が自分の能力の使い方に合っている、というだけだ。でもその違いを今ここで説明するのは——必要ではないと思った。
キヅキが声の出力を上げた。
路地が揺れるような音が来た。音の密度が上がって、空気の圧力が変わる感触がある。換気扇の蓋がどこかで揺れた。窓ガラスが鳴った。路地の奥の方で、ゴミ箱の蓋が跳ねた音がした。
ミドリの「場所」が、音を吸い続けた。
吸うほどに、厚くなっていく。音が強くなれば強くなるほど、「場所の厚さ」が増す。返ってこないエネルギーが全部、この半径の中に積み重なっていく。
キヅキが「——ちょっと待って」と言った。
声の出力が止まった。
静かになった。急に静かになったので、路地が少し広くなったような気がした。音がなくなると、空間は少し大きくなる。
「これ——」とキヅキが言った。「このまま続けたら、どっちも損じゃん」
ミドリは答えなかった。
答えなかったのは、同じことを感じていたからだ。
「場所」を維持している間、ミドリの中の何かが消耗していた。音を吸うたびに、厚くなるとともに、ミドリの中から何かが少しずつ流れ出ていく感触がある。流れ出た分だけ「場所」が厚くなる。全部自分の分だ。
「そう、だと思う」
ミドリが初めて、そういう形で答えた。
二人が黙った。
キヅキが前に出ることができない。ミドリが動けない。路地の両端から、互いを見ている。変身したまま。能力を発動したまま。その状態で、何も起きない時間が続いた。
十秒か、二十秒か。
声が届かない路地の中で、二人の呼吸だけが静かに往復していた。呼吸というより——消耗が、静かに往復していた。攻撃の火力は落ちていない。でも何かが確実に、二人から同時に、少しずつ減っていく。
余白が、なくなっていく。
先に動いたのはどちらでもなかった。
どちらからともなく、変身が解けていた。気づいたときには解けていた。意識して解いた感触がない。能力が「続けることができない」という状態になって、自然に止まった。そういう終わり方。
ミドリが地面に手をついた。膝を折って、地面に触れる。変身していた間は感じなかった疲れが、解けてから来る。いつもそうだ。解けてから、やっと今の状態が分かる。
キヅキが壁に手をついていた。片手で壁を支えにして、もう一方の手で膝を押さえている。呼吸が少し浅い。
しばらく、そのままだった。
「……あなた、声の人だよね。黄色の」
ミドリが先に言った。声を出してから、先に言ったことに少し驚いた。自分が先に言葉を出す側ではないと思っていた。でも出た。出た言葉は戻らない。
「そう」とキヅキが答えた。「緑がこんなに固いとは思わなかった」
「固いというか——場所だから」
「場所、ね」
キヅキが壁から手を離して、その場に座り込んだ。路地の壁を背にして。変身を解いた状態だと、普通の高校生くらいの見かけに戻る。ミドリも似たくらいの年齢だ。こうして路地に並んで座っていたら——ただの二人になる。
ミドリも、近くの段差に腰を下ろした。
「なんで」とキヅキが言った。
独り言のような声だった。答えを求めていない声のかたち。でもミドリには聞こえた。
「奪い合うのかな」
ミドリは少し考えた。考えてから答えた。「分からない」
「私も分からない。でも」とキヅキが続けた。「妖精が、そういうルールって言う」
「私の妖精も言う」
「ルール——どこから来たんだろ、そのルール」
「分からない」
また、同じ答えになった。でもキヅキは「そっか」と言っただけで、それ以上は聞かなかった。
路地の外から音が来た。表通りのスピーカー。居酒屋の換気扇。夕方の渋谷の音が、路地の入口の辺りで詰まって、ここまでは来ない。ここだけ、少し静かだった。
「あなたは」とキヅキが言った。「ここに何しに来たの」
「妖精が、黄色と紫が近くにいると言ったから」
「私に会いに来たわけじゃないのか」
「来たのは——来ただけ」
「来ただけ、か」とキヅキが言って、少し笑った。「変な言い方だけど、分かる気がする」
ミドリには、笑った理由が分からなかった。でも笑い方が「嫌な笑い方ではない」ことは分かった。嫌な笑い方と、そうでない笑い方の違いは——声の形で分かる。この人の笑いの形は、どちらに向けている笑いかが、聴いた瞬間に分かる種類のものだった。
「行く」とミドリは立ち上がりながら言った。「紫も近くにいるから」
「ユカリ?」とキヅキが言った。「あの子、今日変身してる?」
「分からない。でも気配は、まだある」
「そっか」とキヅキが立ち上がった。「じゃあ——また」
また、という言葉の形を、ミドリは路地の出口まで歩きながら考えた。またというのは、次があるということだ。次に会うかどうかも分からないのに、この人はまたと言った。言い方がとても自然で、あるかどうかも不確かな「次」を、当然のように話の中に置いた。
悪くない置き方だと思った。
路地の入口まで来たとき、妖精の声が来た。
「うん。また消耗したけど」という声だった。「でも——来て良かったと思う?」
「分からない」とミドリは言った。
「分からないは、来て悪かったとは言ってないね」
それはそうだ。分からないは、良かったとも悪かったとも言っていない。ただ「分からない」だ。
でも分からないまま歩ける、ということは——今がどこかに留まっている感触がある、ということだ。
路地の外に出た。
外の音が来た。
形のない音が、最初の数秒だけ形を持たないまま来た。その数秒に息を吸った。
後ろで、キヅキが別の方向に歩いていく気配があった。
「また今度」と妖精が言った。
キヅキが歩きながら聞いた。また今度——その言葉が、どこかで聞いた声の質感で来た。また今度、という言葉を、貢一もよく使う。似ている。声の質感は全然違うのに、言葉の向きが似ている。「次がある」という方向を当然のように言葉の中に込めるやり方が、似ている。
ぞっとする、とまでは言わない。
でも気づいてしまったら、気づいたままにしておくことも、できなかった。
「なんか」とキヅキは歩きながら言った。壁に向かって言った。誰にでもなく。「——消耗したな」
妖精は何も言わなかった。
「収穫は、なし」
妖精は何も言わなかった。
「でも——負けたわけでもない、か」
妖精は何も言わなかった。今日の妖精は、こういう話のときに黙ることにしているみたいだ。
「なんで奪い合うんだろ、ていうのはさ」とキヅキは続けた。「本当に分からなかったんだよね、私も」
声が路地の外に出た。表通りの音の中に混じった瞬間に、形をなくした。なくなった声が、どこかへ行く。行った先で誰かが聞くかどうかは、分からない。
分からないまま声を出すのは——むしろ、それが本来の形なのかもしれない、と、何かが言いかけてやめた。
「聴こえてる?」
誰に向けるともなく、キヅキは言った。
答えは来なかった。
来なかったことで、声が出たということだけが、夕方の渋谷の路地に残った。
新宿御苑の外壁は夜になると色を失う。
昼間は煉瓦のような赤みを帯びた色をしているのに、夜は灰色に近づく。色が消えるのではなく——色を持っていたことが嘘だったみたいに、なくなる。フジサキ・ユカリは外壁の前のベンチに座って、そのことを考えていた。
変身していない。
普通のワンピース。コンビニで買ったミルクティーのペットボトルを両手で持っている。キャップは閉めてある。飲もうとして、飲まないままにしている。それだけで今夜は十分だった。
妖精が黙っている。
ユカリの妖精は声が少ない。他の妖精が「今日の数字がどうだ」とか「あちらに気配がある」とか言う間、ユカリの妖精は沈黙を選ぶことが多い。そして沈黙を選んでいるくせに、いなくなったわけでもない。いる。ただいる。それだけの妖精。
外壁の向こうに、木が見えない。壁が塞いでいるから。でも木があることは分かる。御苑の中に木が大量にある。なのに外からは見えない。壁の中に閉じ込められた木々が、見えないところで葉を揺らしている。
「今日は変身しないの?」
妖精が言った。
「うん」とユカリは答えた。
「なんで」
問いかけが来た。責めているのではない——ユカリの妖精は責める声の出し方を知らない。ただ聞いている。ただの問い。
「……変身するたびに、何かが消えていく気がする」
言ってから、外壁を見た。灰色の外壁。
「消えて、何になるの」
「分からない」
分からない、とユカリは言った。消えた先に何があるかは、本当に分からない。消える感触だけがある。消えた後のことは、消えてしまうから分からない。
「変身しないと、あなたは誰」
ユカリが黙った。
外壁の灰色を見た。夜に色を失った外壁。昼間の色を持っていたころの外壁はどこへ行ったのか。なくなったのか、隠れているだけなのか——外壁に聞いても、外壁は答えない。
「……私は私」
「変身してる時も、私は私、って思う?」
「……思う。でも——」
ペットボトルを両手で少し強く握った。キャップの端が右の手のひらに当たった。「——違う私だ」
「どっちが本当の私」
「両方」
答えた瞬間に、何かが終わった感触があった。問答が一段落したような——妖精もそれを感じたのか、「……そう」とだけ言って、それ以上は聞かなかった。
沈黙が来た。
外から人が歩く音が来た。カップルだった。笑い声を連れていた。外壁の前を通り過ぎて、遠くなった。笑い声が遠くなっても、空気の中に残った感触があった。残滓。音が消えた場所に何かが残る。
ユカリは変身の意味について考えていた。
変身している間、ユカリは「本当の自分に近づける」気がする。気がする、という言い方が正確だ。本当に近づいているのかは分からない。ただ「近づいている感触がある」。感触がある間は、変身し続けたいと思う。変身し続けることが目的になっていた。
それを変えようとしている。
「変わる」と、第2章の終わりに独り言として言った。誰かに向けて言ったのではない。キヅキの方を向いたまま言ったけれど、キヅキに向けた言葉でもなかった。自分に向けた言葉でも、たぶんなかった。どこにも向けない形で出た。
でも言った。
言ったから、変わらなければならないということは、ない。でも言った事実は残っている。言葉というものは、発した後に自分の外に出て、そこで独立する。「変わる」は今、ユカリの外にいる。
何を変えるのか。
変身の目的を変える。変身し続けることを目的にするのをやめて——何かのために変身する。何か、というのが、まだ言語化できていない。
「変わる、と言った。言ったから変わるんだと思った。でも言葉が先で、中身はまだない」
呟きのような形で出た言葉に、妖精が反応しなかった。沈黙で受け取った。
スマートフォンが鳴った。
画面を見た。見知らぬアカウントからDMが来ていた。
通知文を読んだ。「あなたの変身動画を拝見しました。お話できますか」
ユカリが画面を見たまま、少しの間、何もしなかった。
DM通知。変身動画。拝見しました。
変身は動画として撮られていたのか、と思ってから——そうか、と思った。変身しているところを誰かが撮っていた可能性はある。気づいていなかっただけで、撮っていた誰かがいた可能性がある。街中で変身している。当然、見られることがある。
アプリを開いた。
DMを開いた。
「先日、新宿近くの路地でのあなたのパフォーマンスを拝見しました。非常に印象的でした。私どもは言論・文化研究に携わっており、あなたのような表現活動をされている方と、ぜひ一度お話を——」
ユカリが読むのを止めた。
途中で止めた。
最後まで読まなかった理由を、ユカリは自分でも言葉にできなかった。ただ、最後まで読まなくていいと思ったから止めた。読まなかった部分に何が書いてあるかは分からないけれど——読まなかった。
差出人のプロフィールを開いた。
「言論・文化研究」「多様性の実現のために」
アイコンは静物写真だった。コーヒーカップが写っていた。白いコーヒーカップ。フォロワー数は表示されていた。数字はそこそこあった。
「……大人みたいな文章だな」と独り言が出た。
誰かに言ったのではなかった。ただ出た。
パフォーマンス、という言葉が引っかかっていた。変身をパフォーマンスと呼ぶ人の見え方と、変身をする本人の感触は、違う場所にある。同じものを指しているのに、指し方が違う。その違いが、言葉として何と呼べばいいのか、ユカリには分からなかった。
返信しない。でも削除もしない。
スマートフォンを閉じた。ペットボトルを持ち直した。
妖精が何かを言いかけた気配がした。でも言わなかった。妖精は時々、言いかけてやめる。言わないことを選ぶ理由は、ユカリには分からない。妖精に聞いたこともない。聞かなくていい、と思っている。
立ち上がった。
ペットボトルをポケットに入れた。少し重かった。まだ飲んでいないから、重い。重いまま持っていく。
外壁に沿って歩き始めた。
変身しない夜というのは、こういう感触だ。自分が「この場所にいる人間のうちの一人」として歩いている。他の人間と同じ重力の中にいる。変身している間の「少し軽くなる感触」がない。重いまま歩く。
重いことが、悪いことかどうかは分からない。
「気配がある」と妖精が言った。「黄色と緑——さっきより、近くに来てる」
「うん」とユカリは答えた。
「行く?」
ユカリが少しの間、考えた。考える、と言っても——考えているのが何なのか、ユカリには整理できていなかった。行くか行かないかを考えているのではなかった。何か別のことを考えていた。
「行ってみる」
言い方が、いつもと少し違った。
「行く」ではなく「行ってみる」。試してみる、という方向の言い方。行ったら何があるかは分からない。でも行かなかったら何もない。行って、みる。
妖精が方向を教えた。
ユカリは御苑の外壁沿いを曲がった。
夜の気配が変わった。道の先に——黄色い何かと、緑色の何かの残滓があった。さっきまで何かがあって、今はなくなりつつある。ちょうど終わった後の空気。戦闘か、接触か——何かが起きて、終わりかけている場所の空気。
路地の方向に向かった。
足が重い。変身していないから、重い。でも止まらなかった。
重いまま歩くのが、今の自分の正しい形だと——言葉にならない形で、そう思った。
路地に入ったとき、二人はちょうど解散するところだった。
キサラギ・キヅキが立ち上がっていた。モリヤマ・ミドリが路地の出口に向かいかけていた。変身が解けた後の空気が路地に残っていた。消耗が、少し積み重なって漂っている。
二人がユカリに気づいた。
ミドリが「紫も近くにいるから」と言っていたのかもしれない——その言葉の後半が、ユカリが路地に入ったタイミングと重なった。
キヅキがユカリを見た。
「あ」と言った。「来た」
「うん」とユカリは言った。
「変身してないじゃん」
「してない」
「なんで」
答えた言葉がない、と思った。「変身するたびに何かが消えていく気がするから」は今夜妖精に言ったけれど、キヅキに言う言葉とは違う形をしている。同じことを別の場所で言うのは難しい。
「今日は、していない」
言い方を変えた。「なぜしないか」ではなく「今日はこうだ」という言い方。それだけで答えにならなくても、それが今あるものだ。
ミドリが路地の出口のあたりで止まっていた。出る途中で止まっている。ユカリと目が合った。
「消耗した?」とユカリが聞いた。ミドリに向かって。
「した」とミドリが答えた。「あなたは」
「してない。来ただけ」
「来ただけ」をミドリが繰り返した。どこかで聞いた言い方だ、という顔をした。言わなかったけれど、顔が少し変わった。
キヅキが「ていうか」と言った。「今夜変身してないユカリって——初めて見るかも」
「そうかもしれない」
「なんか、違う人みたい」
「違う人ではない」とユカリは言った。「でも——違う感触はある」
「何が違うの」
「重さ」
答えてから、自分で少し驚いた。重さが違う、というのは変身していない状態の感触だ。変身すると軽くなる。変身しないと重い。その違いを言葉にしたのは初めてだった。
キヅキが「重さ」と繰り返した。繰り返してから、「——なんかわかる気がする」と言った。
「声のこと?」
「かな。声を出してると、なんか軽い気がするんだよね。声を出してないと、ちょっと重い」
ユカリが「そう」と言った。
「重い方が、普通、ってこと?」
「普通かどうかは分からない。でも」——少し間があった——「重い方が、地面に近い感触がある」
ミドリが路地の出口から戻ってきた。一歩だけ戻って、二人の会話を聞く距離に入った。「地面に近い」という言葉に何かを感じたのかもしれない。ミドリの能力は地面と繋がっている。地面という言葉が、ミドリの方向に向かう言葉として届いた可能性がある。
三人が路地の中にいた。
変身していた二人と、変身していない一人。消耗した二人と、来ただけの一人。
「なんで、ここに来たの」とキヅキが聞いた。
「気配があるって、妖精が言ったから」
「それだけ?」
「……それだけ、と言えるかどうか」
言ってから、自分の言葉が何を指しているか、ユカリにも分からなかった。「それだけ」では答えにならない、という感触がある。でも「それだけではない」と言えるほど、理由の形が整っていない。
「来てみたかったから、来た」
言い方を変えた。またさっきと同じ変え方をした。
「……まあ、そういうこともある」とキヅキが言った。
ミドリが「うん」と言った。
「変わる」と言ったこと、とユカリは思った。
思っただけで、言わなかった。
あの時の「変わる」が何を指していたか、三週間経った今も、まだ形になっていない。形になっていないものを言葉にすることが、今夜はできなかった。
でも来た。
変身せずに来た。重いまま来た。来てみたかったから来た——来てみた結果、ここに二人がいた。消耗した二人が、路地の壁を背にしている。
それが何か、かは分からない。何かであるかどうかも分からない。
「今夜は、これで終わり?」とキヅキが聞いた。
「どこかに行く予定があるわけじゃなかった」とユカリは答えた。
「じゃあ、ここにいる?」
ユカリが少し考えた。
「少しだけ」
「少しだけ、か」とキヅキが言って、路地の壁にもたれた。「なんかその言い方、ユカリらしい」
「ユカリらしい」というのが何か、ユカリには分からなかった。でも聞かなかった。
ミドリも戻ってきた。段差のあたりに腰を下ろした。右の袖の内側を親指でなぞる動作が、一度あった。
三人が路地の中にいた。
変身していない時間が流れた。変身の能力も、戦闘の気配もない時間。ただ三人が路地にいる時間。
何かが積み重なるような感触はなかった。
でも——何かが消えていく感触も、今夜はなかった。
少しだけ、とユカリは言った。
少しだけがどのくらいかは、言わなかった。言わなくていいと思った。
外壁の灰色が、路地の入口越しにまだ見えていた。昼間の色を失った外壁。でもそこにある。灰色でも、ある。
変身しない夜の重さが、少しだけ、今は——丁度よかった。
「変わる」と言ったことの意味は、まだ見えていない。
でも来た夜があった。
来た、という事実が、ユカリの外に出た。言葉と同じように——発した後に自分の外に出て、独立する。
路地の夜気の中で、その事実が、しばらく漂っていた。