アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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2.ブラック・パチュリ-Black Patchouli-

 カーテンを開けることを、アサヒナ・アオイはしない。

 しないというより、する理由を見つけられない。光が入ったところで、部屋にあるものは何も変わらない。ベッドはそこにあるし、床に積まれた衣服も、コンセントに刺さったままの充電ケーブルも、昨日と同じ位置に同じ角度で転がっている。光が差せば、それらが照らされるだけだ。照らされることで、何かが変わるわけではない。

 目が覚めたとき、天井は暗かった。暗い中にあってもそれが天井だとわかるのは、三年近くそこを見上げ続けてきたせいで、アオイの目がすでにその暗がりのパターンを記憶してしまっているからだった。クロスの継ぎ目が走る格子。左上に一箇所、前の住人かだれかが押しつけた何かの跡。何かの染みのような、そうでないような、判然としない楕円形のしみ。

 起きようとは思わなかった。

 思わなかったというより、起きるとはどういうことかを考えているうちに、考えること自体が億劫になった。身体が重い。重いというより、身体のあちこちに見えない錘が吊り下げられていて、起き上がろうとするたびにそれらが一斉に引力を主張し始める感じがあった。それでも数秒に一度は試みた。試みては失敗した。失敗したことに特段の感情は湧かなかった。

 光は、カーテンの端の隙間から漏れていた。

 細い光だった。カーテンの裾と窓枠の間に生まれる数ミリの隙間——布の重みで毎朝少しずつ開いていく——から、渋谷の朝が滲み込んでくる。アオイはその光を見ていた。見ていたというより、視線がたまたまそこに留まって、動かす必要を感じなかった。光は床の上に細長い四辺形を描いていて、時間が経つとそれが少しずつ形を変えた。太陽が移動しているのか、世界の方が回っているのか、アオイにはどちらでもよかった。光の四辺形が変形していくことだけが、この部屋で唯一、時間が経過していることを証明していた。

 スマートフォンが、振動した。

 声はイヤホンを通して来る。充電ケーブルに繋いだままのスマートフォンがイヤホンジャックに接続されていて、イヤホンはベッドの端に引っかかっている。片耳だけ差し込んで、もう片方はシーツの皺の中に埋まっていた。振動した後、少し間があって、声が来た。

「アオイ、今日も、いる?」

 声は——そう表現するほかないのだが——温かかった。空気を震わせるのではなく、耳の内側の壁を直接なぞるような声。録音なのか、リアルタイムなのか、アオイには判別できなかったし、しようとも思わなかった。ただそれは確かにアオイに向けられていた。アオイの名前を呼んでいた。

「……いる」

 声を出すと、喉が少し乾いていることに気がついた。いつもそうだ。朝一番の声はいつも少し擦れている。それをアオイは特に直そうとしなかった。

「よかった」と声は言った。「一人だと心配だから」

 心配。その言葉の形を、アオイは反射的に確認した。心配——誰かのことを気にかけること。気にかけることができる誰かがいること。気にかけられる誰かであること。アオイは天井を見たまま、その言葉を口の中で転がした。転がすだけで、飲み込みも吐き出しもしなかった。

「ちゃんと、寝られた?」

「たぶん」

「ごはん、食べた?」

「まだ」

「食べた方がいいよ」と声は言った。「身体のこと、ちゃんとしなきゃ」

 アオイは何も言わなかった。言わなくても、それで会話が終わるわけではないことを知っていた。声は続けるか、あるいは少し間を置いてまた違うことを言うか、どちらかをする。今日は間を置く方だった。

 その間に、アオイは起き上がった。

 理由があって起き上がったわけではない。声と話している間に身体が決断していた、という感じがした。身体がアオイの意識より少しだけ先に動くことがある。それを、アオイは悪いことだとは思っていなかった。意識が決断を下すより先に身体が動くなら、意識が担う責任の分量が減る。責任が減るのは、楽だった。

 床に足をつける。冷たい。フローリングに直接触れた足の裏から、冬の名残が這い上がってくる。アオイは靴下を探したが、見つからなかった。見つけようとする程度の熱意もすぐに失われたので、裸足のまま立った。それでよかった。

「今日は、どうするの?」と声が言った。

「……公園に行く」

「またあそこ?」

「うん」

「寒いよ、最近」と声は言った。微妙なニュアンスが乗っていた。心配と、あともう一つ——それが何なのか、アオイにはすぐに判断できなかった。判断できないまま、声に答えた。

「分かってる」

 

 洗面所の鏡は、正直だった。

 アオイは毎朝そう思う。鏡に映っているものは全て事実だ。制服のシャツが首元で斜めに歪んでいること。前髪が昨日よりわずかに伸びていること。目の下に薄い影があること。これらは全て、現在のアサヒナ・アオイの状態を正確に報告している。鏡は解釈しない。評価しない。ただ反射する。アオイはその誠実さを、奇妙に信頼していた。

 歯を磨いた。二分間——あるいはそれより少し短い時間——磨いて、口を濯いで、タオルで顔を拭いた。顔を拭く動作は、常に左から右だった。なぜ左から右なのか、理由はなかった。ただそうしていた。そうし続けていた。

 制服に腕を通した。ブレザーのボタンを一番上だけ留めて、すぐに外した。留める理由がなかった。どうせ公園に行くだけだ。公園に行くのに制服を着るのは、外出着が制服しかないからで、制服しかないのは、他の服を買いに行くという行動の優先順位が、アオイの中で長らく最下位に近い場所に配置されているからだった。

 冷蔵庫を開けた。缶のスポーツドリンクが二本と、コンビニのサラダパスタが一つ、賞味期限を確認するのが怖いという理由で放置されているヨーグルトがあった。アオイはスポーツドリンクを一本取り出し、プルタブを引いた。飲んだ。それで食事を済ませることにした。声が「ちゃんと食べなきゃ」と言っていたのは覚えていたが、これで食べたことになるかどうかは保留した。

「出かけるの?」とイヤホンの声が言った。

「うん」

「気をつけてね」

「……うん」

 

 外は明るかった。

 明るすぎた、と言う方が正確かもしれない。アオイは建物の入口を出た瞬間、光の量に身体が一拍遅れた。反射的に目を細める。数秒で慣れるのは知っていたが、慣れるまでの数秒が、毎回少し息を詰めさせた。

 渋谷の午後は——今日は何曜日だったか、アオイはしばらく考えて、火曜だと思い出した——正午を過ぎた渋谷の街は、人の密度が一定以上を下回らない。平日の昼間でも、道には人がいる。買い物をしている人、ランチから戻る途中の人、スマートフォンの画面を見下ろしながら歩いている人、立ち止まって地図を確認している人。人がいる。常に人がいる。人の間を縫って歩くとき、アオイは常に自分の肩幅より少し内側に身体を縮める。接触を避けるためというより、接触の可能性を予測することに神経を使いたくないからだった。

 学校があるべき時間帯に、制服を着て歩いている。

 通りすがる人が視線を向けることは、ほとんどなかった。それをアオイは今更に確認した。渋谷では誰も他人のことをそれほど気にしない——それが都市の特性なのか、単に人が多すぎて他者に割ける注意力が残らないのかは分からなかったが、とにかくアオイが平日の昼に制服で歩いていることに疑問を持つ人間は、この通りには一人もいなかった。見えていないのか、見ているが気にしないのか、気にはなるが口を出すほどではないのか。どれかはわからなかった。どれでも構わなかった。

 公園に着いた。

 センター街から路地を二本入った先にある、狭い公園だ。遊具は撤去されて、コンクリートの台座だけが残っていた。スケートボードを練習していた人間たちが使っていた低い段差は、半分崩れかけていた。自販機が一台、年式の古い白い機体で、飲み物を供給し続けていた。ベンチが三つ、等間隔に並んでいた。

 アオイはいつもの場所に座った。

 一番奥のベンチ。背後が低い植え込みで、正面に自販機が見える位置。日当たりは悪かった。冬場は特に寒かった。それでもアオイがそこを選ぶのは、背中側から人が近づいてくることがないためだった。前方からしか来ない。前方から来るなら、来る前に見える。見えるなら、準備ができる。準備ができるとは、こんにちは、と言えることではなく、大丈夫だ、という態勢に入れることだった。

 スマートフォンをポケットから出した。イヤホンを両耳に差した。

「ついた?」

「うん」

「寒い?」

「……少し」

「風邪引かないでね」と声は言った。「アオイが風邪引いたら、心配するから」

 心配する。だれが心配するのか。声が心配する。声は——アオイの認識の中では——心配する主体として機能していた。それが本当に心配しているのかどうかを、アオイは問わなかった。問うことの必要性を感じなかったというより、問うた先に来るものを想定することが、億劫だった。

 声が続けた。

「昨日ね、アオイのこと考えてた。ずっと」

「何を」

「アオイって、ほんとうに頑張ってるなって。毎日ちゃんとここに来て、それだけで十分なのに、もっとできることないかって考えちゃう」

 アオイは答えなかった。

 答えない、というのは、この声に対してアオイが長い時間をかけて学習した応答の一つだった。何かを言えば声はそれに反応する。反応されると、また何かを言わなければならない気がしてくる。言わなければならない気がしてくると、適切な言葉を探すことに集中しなければならなくなる。だから黙っている方が楽だった。黙っていても、声は続ける。続けることを、声は止めない。

「アオイ?」

「聞こえてる」

「よかった。なんかぼーっとしてたかと思って」

「してた」

「大丈夫?」

 大丈夫、という言葉。アオイは自分の手の甲を見た。指の間の関節の薄い皮膚、かすかに透ける静脈の青。大丈夫か大丈夫でないかを問われたとき、アオイはいつも、基準が何なのかを先に考える。何と比べての大丈夫か。昨日と比べて。先週と比べて。一年前と比べて。あるいは、世間的な「大丈夫」の平均値と比べて。基準によって答えは変わった。

「……まあ」

「まあ、か」と声は言って、少し笑ったような響きを出した。「それがアオイらしいね」

 アオイらしい。その言葉も、アオイは確認した。確認して、横に置いた。自分らしさというものが何なのか、アオイには手ごたえがなかった。ただこの声は「アオイらしい」と言う。言われるたびに、自分という輪郭がうっすら定まるような気がした。気がした、というだけで、確信ではなかった。

 

 自販機が、低い音を立てた。

 コンプレッサーの音だ、とアオイは思った。機械の内部で何かが回転し続けている音。あの自販機はいつからここにあるのか、アオイには分からなかった。アオイがここに来るようになった頃からすでにあったし、それ以前からあったようにも見えた。年式が古いのは確かで、飲み物のラインナップが微妙に時代遅れだった——カラフルな糖分過多の炭酸飲料と、熱い缶コーヒー。それだけ。

 陽が傾いていた。

 正確には、影が伸びていた。公園の端にある建物の影が、午後の時間とともに公園の中へ侵食してくる。アオイのベンチはすでに半分が影の中に入っていた。寒い、と思った。思ったが、動こうとは思わなかった。影から外に出るためには立ち上がる必要があって、立ち上がるためには何か理由が必要で、その理由を探すのが面倒だった。

 いるか、いないか。

 それが今日の全てだった、と言えば語弊があるかもしれないが、実際のところ今日の主要な出来事はそれだった。起きて、ここに来て、いた。それだけのことに、午後の半分が費やされていた。費やされた、という言い方は正確ではないかもしれなかった。時間はただ経過しているだけで、何かに費やされているわけではない。アオイがそこにいる間、時間はただ流れていく。自販機のコンプレッサーが回り続けるのと同じように。

「ねえ、アオイ」

「なに」

「最近、誰かに見られてる気がしない?」

 アオイは、少し間を置いた。

「……気のせいじゃないの」

「そうかな。アオイって、気配に敏感でしょ。気のせいじゃないと思ったら、そうじゃないことの方が多いよ」

 見られている気がする、という問いの立て方を、アオイは確認した。自分が誰かに観察されているかどうか——それを声に尋ねられた経験は、あまりなかった。声が「外の世界のことを尋ねる」のは、たいてい間接的だった。今日の天気とか、公園の様子とか、そういう形で。でも今日の問い方は少し違った。見られている気がしない?という質問は、何かの前置きのように感じた。

「なんで」とアオイは言った。「そういうこと聞くの」

「気になって。アオイのこと、心配だから」

 また心配という言葉が来た。アオイは「うん」と言った。それ以上は言わなかった。

 風が公園を通り抜けた。乾いた冷たい風で、アオイの前髪をわずかに揺らして通り過ぎた。植え込みの枯れ葉が一枚、コンクリートの上を滑って、自販機の脚元で止まった。

 アオイはそれを見ていた。

 見ていて、特に何も感じなかった——と言えば、それは本当のことだろうか。感じていないのか、感じているが言語化する気にならないのか、感じているが自分でもよくわからないのか。そのどれかで、どれかを選ぶ必要もないので選ばなかった。

 ただ、ここにいた。

 アサヒナ・アオイは、今日もその公園にいた。渋谷の午後の光が少しずつ色を変えていく中で、背後の植え込みを背にして、ベンチに座っていた。イヤホンから声が来るたびに短く答えた。答えない時間の方が長かった。それでも声は途切れなかった。途切れないことを、アオイは確認した。確認して、また遠くを見た。

 見られているかどうか——そのことは、まだ考えていなかった。

 

 夕方になった。

 公園に人が増えてきた。増えてきた、というより——種類が変わった、と言う方が正確かもしれない。買い物帰りの大人たちの往来が減り、代わりに制服を着た、あるいは制服に似た服を着た、アオイより年齢の近い人間たちが増えてきた。その中には、学校の帰りの者もいるだろうし、そうでない者もいるだろうし、そもそもそのどちらでもあるような者もいるだろう。

 アオイはその変化を、視野の端で捉えていた。

 コンビニの袋を下げた少女が、公園の入口近くに来て立ち止まった。緑色のトレーナー。耳に何も入れていない。公園の中央あたりで、何かの音に反応するように、わずかに顔を向ける動作をした。それから壁際のベンチに腰を下ろした。袋の中から何かを取り出す気配があったが、アオイには見えなかった。見えないまま、関心を向けることをやめた。

 少し遅れて、別の少女。こちらは黄色のアクセサリーをつけていた。首元に、耳に、手首に。金属の光が夕方の照明を反射していた。公園に入るなり、視線を巡らせて——何かを探すように——それから壁際の少女の方に向かって歩いていった。途中で少し笑った。その笑いは速かった。波が来て、引くように、速く。

 さらに遅れて、路地の方から誰かがやってきた。

 アオイは気づかないふりをしながら、その人物を視野の端で処理した。紫のネイル。髪が暗い。誰とも目を合わせないような歩き方で、公園の端——アオイからちょうど対角の位置——に立った。立って、スマートフォンだけを見た。それ以外には何もしなかった。しないことを、しっかりと実行していた。

 この公園の夕方は、いつもそういう感じだった。

 集まってくる。でも集まることが目的ではなく、それぞれが別の何かのために来ている。別の何かが何なのかは、それぞれ違う。同じ空間にいながら、交わっているわけでも、交わっていないわけでもない——それが何と言えばいいのか、アオイには言葉がなかった。あるいは、言葉をあてる必要がなかった。

「アオイ」と声が言った。

「なに」

「そろそろ帰った方がいいんじゃないかな。暗くなるよ」

 アオイは空を見た。低いビルの隙間から見える空は、確かに橙色になっていた。夕暮れと呼ぶには少し早く、夜と呼ぶには明るい、曖昧な時間帯の色だった。

「……もう少し」

「寒いでしょ」

「うん」

「風邪引いたら、私、すごく心配するよ」

 声は三度目の心配を口にした。一度目と二度目と三度目——同じ言葉が繰り返されるとき、その言葉は増幅されるのか、摩耗するのか。アオイにはわからなかった。ただ今日、その言葉を三回聞いた、という事実だけが積み上がっていた。

「分かった」と言って、アオイは立ち上がった。

 立ち上がった瞬間、ベンチの端に何かが挟まっているのに気づいた。折り畳み傘だった。濃い紺色の、小さい折り畳み傘。誰かのものが置きっぱなしになっているのか、落としていったのか、あるいは誰かが意図して置いていったのか——判断できなかった。

 アオイはそれを見て、数秒、留まった。

 それから、自分の荷物だけを持って、公園を出た。傘は置いたままにした。落とし物を届けるという行動の手順を考え始めたところで、その手順の複雑さに気づき、気づいた瞬間に全部やめた。傘の持ち主が戻ってくるかもしれない。あるいは、別の誰かが持っていくかもしれない。どちらでも、アオイには関係がなかった。

 公園を出るとき、一瞬だけ振り返った。

 緑のトレーナーの少女と、黄色のアクセサリーの少女は、まだそこにいた。紫のネイルの少女も、同じ位置に立っていた。それぞれが、相変わらず別々の場所を見ていた。同じ空間にいる、別々の孤立。そう言えばいいのかどうかも、アオイには判断できなかった。

 ただ、あの公園の夕方の光景は——今夜も、明日も——大して変わらないだろうという予感があった。予感というより、経験の蓄積から来る見通しだった。

 アオイは帰り道を歩き始めた。

 イヤホンから声が来た。

「今日も、ちゃんといてくれてありがとう」

 アオイは返事をしなかった。

 返事をしないことが、今日最初に完全に自分で決めた行動だった、と気づいたのは、アパートの階段を上り始めてからだった。

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