アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
高架下の音というものは、上から降ってくる。
電車が通るたびに天井が鳴る。鳴り方は「鉄が鉄に当たる」音ではなく、空気が圧縮されて抜ける音に近い。高架が空気を押して、その押されたものが下に落ちてくる。落ちてきた音は、道路のアスファルトに当たって横に広がり、高架の脚の間を抜けて、どこか遠くへ消える。
タチバナ・サクラは、白いバスの後部からそれを聞いていた。
バスの中は前半分が仕切りで区切られていた。仕切りの向こうに運転席がある。こちら側は装備と通信機材が壁沿いに並んでいて、折り畳み式の座席が向かい合わせに二列ある。窓が小さい。走っている間は外の音より機材のファンの音の方が大きい。
A1が向かいの座席にいた。
「……今日で何回目ですか、ここ通るのって」
A1が答えなかった。答えないのは「知らない」ではなく「今答えることが必要かどうかを判断している」の方が多い。だから待った。
「三回目かな」
「渋谷新宿の間って、こんなに移動することあるんですね」
「今日は多い」
そっけない言い方だったが、嘘ではなかった。確かに今夜は多い。黄色と緑が接触して、紫が御苑の外壁のそばにいて、K機関のバスは追いかけるように動いている。追いかけて、でも追いつけていない。追いつく必要があるかどうかも、まだ判断が続いている。
Qから通信が来たのは、高架を抜けた直後だった。
「赤が動いています」
サクラは窓の外を見た。新宿と渋谷の境目の夜が、バスの外で動いていた。
「どこで」
「現在、高架下エリアの東側。行動パターンは通常より遅い。急いでいない」
「急いでいない……」
「目標が定まっていない可能性があります」
仕切りの向こうで、バスが向きを変えた。運転席との間に設けられたインターフォンに、短い確認音が一つ鳴った。Qの通信を受けて、運転要員がすでに動いている。急な動きではなかった。静かに、次の方向へ向かった。
ヒノデ・カノンが高架下を歩いているのを、サクラはバスの窓から先に見た。
変身していた。
赤い輪郭が、夜の高架下の暗さの中で浮いていた。誰かをどこかへ追いかけているわけでも、何かから逃げているわけでもない。歩いている。ただ歩いている。前に何かがあると信じているような歩き方ではなくて——「とりあえず動いていたい」という動き方に近い。
「……なんか」とサクラは思わず言った。
「なんか?」とA1が聞いた。向かいの座席から、同じ窓の方を見た。
「なんか、散歩みたいな歩き方してる」
A1が少し間を置いた。「……そうかな」
「散歩って言い方、おかしいですよね、変身してるのに」
「変身した状態で目的なく歩く日もあるさ」
「そういうことをするんだ」
「するよ」
Qからの追加通信が来た。「配信はオフです。今日は撮っていません」
サクラは窓の外のカノンを見た。配信していない。第2章でずっと配信していた赤が、今夜は画面を向けていない。
それだけのことだった。でも何か、少し引っかかった。
バスが停まった。
A1とサクラが降りた。高架の脚の間から、夜風が抜けてくる。アスファルトの上には、時々上から音が落ちてきた。
カノンが振り返った。
「あー、また来たよ」
声が軽かった。驚いていない。脅威として受け取っていない。K機関の白いバスを見て「また来た」と言えるくらいには、この組み合わせをもう知っている。
サクラはいつものように言った。
「ヒノデ・カノン。今日は任意同行をお願いします」
「へー」とカノンが言った。
「任意同行」
繰り返した。何かを確認しているのかもしれないし、語感を楽しんでいるのかもしれなかった。どちらかを判断するだけの情報が、サクラにはまだなかった。
「任意って、断ったらどうなるの」
「対処します」
「じゃあ断る」
迷わなかった。最初から断る気だった。同行に応じる選択肢が、今夜のカノンの中にはおそらく最初からなかった。
カノンが前に出てきた。
接触型の攻撃だということは分かっていた。
飛び道具がない。遠くから攻撃することができない。だから前に来るしかない。前に来るカノンに対して、サクラのすることは決まっていた。
バトンを出した。
百八十センチまで伸びる柄。変身した状態でバトンを持つと、バトンが「自分の腕の延長」になる感触がある。持っているというより、生えている。そういう感触。
バトンの先端を地面につけた。そこから「境界」を引き始める。
線ではなく、面だ。バトンが動いた軌跡に沿って、透明な壁が立ち上がる。カノンが入れる空間を、少しずつ削っていく。前から、右から、左から——入れる方向を絞っていく。
カノンが「面白いじゃん」と言いながら走ってきた。
来た。
拳が境界に当たった瞬間に爆発が起きた。透明な面が揺れて、熱が来た。直撃ではなかった。でも圧が来た。サクラが半歩下がった。
「——強い」
「そりゃそうでしょ」
カノンが笑いながら次の動きに入った。右から来ようとする。サクラが境界を右に広げる。カノンが引いて左に変える。左の面を張る。引いてまた右に変える。右の面を張り直す。
速い。
でも「速いカノン」の動きには、予測できる部分がある。前に来るしかない。前に来て接触する。接触しなければ能力が発動しない。だから接触するための動きを続けるしかない。接触のための動きは、接触できないと分かった時に「引く」か「変える」かのどちらかになる。
引くか、変えるか。
その二つを、サクラはバトンで追い続けた。
A1が別方向から来た。
カノンの右側に回り込もうとする動き——カノンが振り返らずに右手を後ろに向けた。爆発が来た。A1が「受けた」。脚の踏ん張りが少し沈んだが、倒れなかった。
「そっちはいや」とカノンが言った。
後ろに向けた攻撃も、A1を見ていない攻撃も、「嫌い」と言いながら後ろへ向けた攻撃も——全部、前に来ようとしながら出ている。前から逸れた意識を使って、後ろも処理している。
A1が「——」と何かを言いかけて止まった。
サクラが横目で見た。A1の表情は変わっていない。でも「言いかけた」ことが引っかかった。A1が言いかけて止まることは、多くない。
考えている隙間はなかった。
カノンが前に来た。
バトンで境界を引く。爆発。熱が来る。半歩下がる。また引く。また来る。また熱が来る。
この繰り返しが続いた。
「面白い」とカノンが言い続けていた。でも——サクラは境界を引きながら、その「面白い」を聞いていた。言葉は面白いと言っている。声も、笑っている。でも笑い方の中に、何かが足りない。
声が軽すぎる。
第2章で何度か聞いたカノンの声は——もっと重さがあった。爆発的で、怒っていて、怒りの下に何かが燃えていて、その熱が声に乗っていた。今夜の「面白い」は、声が薄い。薄くて、軽くて——形だけが「面白い」の形をしている。
カノンが急に止まった。
「……あれ」
攻撃の動きが途切れた。止まった、というより——引っかかったような止まり方だった。足が地面に根を張ったままで、上半身だけが少し前に傾いて、そのままになった。
何かが、抜けた。
「なんか」とカノンが言った。「前にここで何かしたっけ」
独り言だった。サクラに向けていなかった。A1にも向けていなかった。高架の脚に向けているのかもしれなかった。あるいは誰にも向けていなかったのかもしれない。
声がいつもと違う質感だった。
「面白い」の声ではなかった。「面白い」の声は形を持っていた。この「なんか前にここで何かしたっけ」は——形が途中で溶けた声だった。
サクラがバトンを少し引いた。
攻撃の体勢ではない。境界を維持したまま、でも押さない。
A1がその隙を——来た。
制圧のための踏み込み。速かった。カノンの右側に入って、腕を取ろうとする動き。
「痛」
カノンが言った。
爆発ではなかった。声が出た。「痛」という一言が出て、それからカノンが変身を解いた。A1の腕から逃げたのでも、倒されたのでもなかった。
ただ、解いた。
「今日はもういい」
カノンが言った。変身が解けた後の格好——制服ではなく、私服だった。今夜は制服を着ていなかった。「面白くなかった」
サクラもバトンを引いた。
変身を解いた少女が、高架下の夜の中に立っていた。赤い輪郭がなくなって、普通の格好をした普通の高校生くらいの見かけになった。夜の高架下に、そういう人間がいる。不思議なのに、不思議でもない。
「同行をお願いします」
サクラが言った。
カノンが横を向いた。サクラを見なかった。高架の脚を見た。さっき「前にここで何かしたっけ」と言ったときと同じ方向を向いていた。
「嫌い」
一言だった。
断り方の説明がない。理由もない。「任意同行を断る理由は」という問いへの答えではなく、ただ「嫌い」という一語だけが出た。
その一語で終わりだった。
カノンが走った。
高架の脚の間を抜けて、夜の方向へ走っていった。速かった。変身していない状態でも速かった。走り方に無駄がない。走ることに慣れている人間の走り方だった。
A1が無線機を取った。
「移動901より警視庁」
声が変わった。さっきまでの声とは質が違う。公務の声だった。
「警視庁より移動901どうぞ」
「333発生。マルKはヒノデ・カノン、女、十代。現在、渋谷新宿境界の高架下より東側に向け徒歩で逃走中。変身は解除済み。継続追跡は所轄に引き継ぎ願います」
「警視庁了解。警視庁より渋谷署、新宿署——各局、333発生につき。マルKはヒノデ・カノン、女性、十代。現在渋谷新宿境界の高架下より東方向に徒歩にて逃走中。変身解除済み。移動901より引き継ぎ。各局、警戒に——」
無線が続いた。
サクラは、その声を聞いていた。
「マル、K」と、サクラは小さく言った。
どちらに向けた言葉でもなかった。Kという頭文字が、別の言葉として頭の中にあった。K機関のKではなく——K、でも「ケー」でもなく、ただ「符丁」として処理された何かの名前。カノンがそういう符丁で呼ばれる。呼ばれて、所轄の無線が引き継いでいく。
夜の高架の下で走っていったカノンは、もう複数の局が追っている。
A1が無線を仕舞った。インターフォンに短く何かを言った。仕切りの向こうでエンジンがかかった。
「……追いかけないんですか」とサクラは言った。
「今夜の優先事項は終わった」
「優先事項」
「任意同行の試みは不成立。変身は解除済み。一般市民への危険性は今夜の時点でない」
「所轄が追いかけてますよね」
「引き継いだ」
「何に」
「逃走中の要注意未成年者として」
サクラは窓の外を見た。夜の高架下に、もう赤い輪郭はなかった。カノンが走った方向だけが、夜のどこかに続いている。続いた先に所轄の無線が届いている。複数の局の声がカノンの名前を乗せて夜を飛んでいる。
個の少女が走っている。組織が追いかける。
組織が追いかけているのに、本人は追いかけていない。
バスに戻った。後部の座席に二人で腰を下ろした。インターフォンに短い確認がひとつ入って、バスが動き出した。
「カノンは、捕まるんですか」
「今夜は可能性が低い」
「今夜は」
「今夜は、逃げ切ると思う」
A1が言った。事実として言った。感情として言ったのではないことは分かった。でも「逃げ切ると思う」という言い方には、何か——予測と、それ以外の何かが、少し混じっていた。
「所轄は」
「当該人物の居場所が判明した段階で、保護の手続きに入る。——書類上は、そうなる」
「書類上は」
「要注意未成年者の保護案件として処理される」
「……カノンは知ってるんですかね」とサクラは言った。「自分がそういう書類の中にいるって」
A1が答えなかった。
答えないことが答えだった、かもしれない。あるいは答える必要のない問いだと判断した、かもしれない。どちらかを判断するのに、サクラにはまだ情報が足りなかった。
「なんか前にここで何かしたっけ」という言葉が、まだ頭の中にあった。
引っかかるのが不思議だった。短い言葉だ。意味も分かる。前にここで何かをした記憶があるかどうかを、確認している。確認している言葉。
でも確認できなかったから、出た言葉でもある。
あの止まり方は「思い出した」のではなくて、「思い出せなかった」から出た止まり方だった。
Qへの報告のための通信が始まる前に、サクラはA1に聞いた。
「カノンは——記憶が、消えてますか」
A1が少し間を置いた。
「以前のログがそう言ってるらしい」
「ログ」
サクラが繰り返した。
「……そっか」
Qへの報告が始まった。「赤の能力者との接触。変身解除を確認。任意同行は不成立。所轄に引き継ぎ済み。——」
サクラはQの報告を聞きながら、高架の外を見た。
「以前のログがそう言ってるらしい」という言い方が、引っかかった。
「示しています」ではなく「言ってるらしい」。A1がそういう言い方をするのは珍しかった。らしい、という言い方は「自分で確かめたわけではない」か「確かめる方法がない」かのどちらかを含んでいる。ログがそう示しているのに、「らしい」と言う理由が——なんとなく、分かるような、分からないような。
でも「なんか前にここで何かしたっけ」という言葉は、ログではなかった。
カノン本人が、カノン自身の内側で、「ある」か「ない」かを探した結果が出た言葉だった。探して、なかった。なかったから、「何かしたっけ」という形で外に出た。それはログとは違う場所にある。
言わなかった。言う必要があるかどうかも分からなかった。
高架の外を、電車が通った。
音が上から落ちてきて、バスの屋根を撫でていった。
「今日は、面白くなかった、って言ってましたね」とサクラは言った。
報告が終わってから言った。A1に向けた言葉かどうかも、自分では分からなかった。
「……なんか」
「なんか」とA1が繰り返した。
「『また来た』って言ったじゃないですか、最初に。K機関のバスを見て」
「確かに、そうだな」
「だから——来ることは、分かってたんだと思うんですよね、今夜も」
「可能性は高い」
「来ること分かってて、来て、面白くなかった、って言って帰った」
「……そうだな」
「面白くなかった、って本当に思ってたのか」とサクラは言った。「それとも——なんか、面白くなかったって言う言い方しかなかったから、そう言ったのか」
A1が返事をしなかった。
数秒間、返事がなかった。
A1が返事をしないパターンは二つある。判断中か、返事が見当たらないか。今がどちらかを判断するのに、サクラはまだ慣れていなかった。
「……判断できない」とA1が言った。
「そうですか」
「その区別は——ログには出ない」
「そうですよね」
バスが動き続けた。目黒合同庁舎への帰路に入った。夜の新宿が後ろへ流れていく。
サクラは窓の外を見ながら、面白くなかった、という言葉のことを考えていた。考えているというより——言葉が、まだ頭の中にあった。頭の中にあることと、考えていることは、少し違う。考えなくても、ある。あるから、出てこない。
消えなかった言葉が、バスの中でしばらく漂っていた。
どこかで、渋谷署の無線がカノンの名前を乗せて夜を飛んでいる。
高架下を通り過ぎてから二十分後、QがK機関の共有チャンネルに短い記録を上げた。
「赤の能力者・接触記録。特記事項:変身を自主解除。消耗の蓄積は前週比+18%。接触時間は過去最短。所轄への333引き継ぎ完了。当該人物の所在確認は継続」
接触時間は過去最短。
サクラはその後、庁舎でQにその記録を見せてもらいながら、「今夜戦ってたカノンは、もしかしてそんなに長く戦いたくなかったのかもしれない」という感触が来た。来てから、「でもそれはログには出ない」と思った。
ログに出ないことも、ある。
所轄が追っている。K機関が書類を上げる。Qが記録を整理する。
カノンは今夜どこかを走っていて、複数の局の符丁が夜を飛んでいて、それ全部に気づかないまま走っている。
「A1、さっき言いかけませんでした?」
報告を終えた後の廊下で、サクラはA1に言った。
「言いかけた?」
「戦ってる途中で。言いかけて——止まった」
A1が少し止まった。廊下で立ったまま、何かを確認するような間があった。
「……異状なし、と判断した」
「何が」
「カノンの変身中の行動について」
「異状なし」とサクラは繰り返した。「でも言いかけたじゃないですか」
「言いかけた後に判断した」
「……そういうこと?」
「そういうことだ」
A1が廊下を歩いていった。
サクラは一人で廊下に残って、「異状なしと判断した」という言い方をしばらく考えた。「異状ない」ではなくて「異状なしと判断した」。判断する前に、何かがあった。あったから、判断が必要だった。
廊下の突き当たりの窓が、半分だけカーテンが開いていた。夜の外が見えた。
電車が遠くを走る音が、かすかに来た。
白いバスの中は、移動のたびに少しずつ温まる。
エンジンの熱ではない。人間がそこにいることの熱だ。座席の背もたれ、窓ガラス、床の金属——それらが少しずつ体温を受け取って、「誰かがここにいた」という記録を積んでいく。深夜まで動き続けたバスの車内は、そういう意味で夜が深まるほど少し暖かくなる。
タチバナ・サクラは、後部座席に腰を下ろして天井を見ていた。
向かいにA1がいる。変身を解いた状態。白い。バスの中の白い存在として、向かいの座席にいる。ヘルメットは外している。今夜は三回、そのヘルメットが外された。三回外されるたびに、A1の顔が見える時間があった。
「今日だけで」とサクラは言った。天井に向かって言った。「緑と黄が接触して、赤がK機関に接触して、紫はどこかにいて——全色が動いてます」
「範囲が広がっています」
A1が答えた。単純な事実として言った。感慨がない。
「広がるって——K機関的には、どういう意味ですか」
「管理が困難になる」
管理。サクラはその言葉を頭の中で転がした。管理が困難になる、と言うA1は間違ったことを言っていない。今夜だけで三つの現場に動いて、三回とも「次の動きを決定できないまま帰る」結果になった。管理、という言葉がそれを説明している。
でも何かが、「管理」という言葉の外にある。
「難しいですね」とサクラは言った。
「そうだな」
Qからの通信が来たのは、バスが目黒に向かい始めた頃だった。
「今週の変身回数の集計が出ました。全色合計で、過去平均の二百三十パーセントです」
サクラは数字を聞いて、すぐには何も言わなかった。
二百三十パーセント。今週だけで、これまでの平均より倍以上の変身が起きている。数字として出ると、「範囲が広がっています」というA1の言葉が別の重さを持った。
「——何かあったんですか、今週」とサクラはQに聞いた。
「何か、というより。通知の頻度が上がっています。妖精側から各能力者へのアラートが増えた。何かがシステム的に変わった可能性があります」
「システム」とサクラは繰り返した。
「推測の範囲内です。以上です」
通信が切れた。
A1がバスの前方を向いたまま言った。「Qが言いたくなかったことを一つ言いましたね」
「……どれ」
「推測の範囲内です、という言い方。Qが推測を報告するのは珍しい」
サクラは少し考えた。確かに。Qはいつも「確認済みの情報」を伝える。「かもしれません」を言わない。それがQだ。今夜の「推測の範囲内」は、Qが確認できなかった何かの縁に触れた言い方だった。
「……妖精の通知が増えた、ってどういうことなんですか」
「今は不明です」
「不明」
「不明です、今は」
A1が繰り返した。今は、という言い方が、今の外の話を持っていた。今は不明だが、いつかは分かる。あるいは——いつかは不明ではなくなる。どちらかを、A1は言わなかった。
目黒合同庁舎に戻ると、Qが資料室で待っていた。
通信とは違う顔だ、とサクラはいつも思う。声だけ聞いているときのQと、実際に顔を見ているときのQは、少し違う人間に見える。どちらが「本当のQ」なのかというより、両方本当で、出てくる部分が違う。
「坂口が動いています」
Qが言った。挨拶がない。いつもそうだ。
「坂口……どなたですか」
「警察庁公安部の捜査員です。今日から名前を覚えてください」
Qがモニターを操作した。表示が切り替わった。人物情報。顔写真。四十代、中肉中背。「捜査資料ではなく、公開情報からの収集です」とQが補足した。
「公安部」とA1が言った。「選挙期間のSNS操作の捜査担当ですか」
「そうです。東大周辺の組織的アカウント操作を追っています。ただし——」
Qが一拍置いた。
「——その調査の網が、魔法少女の動画拡散にも引っかかっている。時間の問題だと思います」
サクラは坂口の顔写真を見た。普通の顔だった。警察官です、と言われれば警察官に見える。公安部です、と言われれば公安部に見える。特別な顔ではない。特別な顔をしていない人間が、「魔法少女の動画拡散」に向かって捜査の網を広げている。
「坂口は——魔法少女の存在を知っているんですか」
「知りません」とQが答えた。「SNS上のボットネットを追っていて、その先に能力者の映像が引っかかっている。映像の出どころがサーカスのアカウント群と一致するため、調査線が繋がりかけている状態です」
「サーカス」とサクラが言った。
「東大の学生組織。今夜初めてその名前が、坂口の捜査ライン上に現れました。Kが入手しました」
Kが入手した、という言い方を聞いて、サクラは何も聞かなかった。Kがどうやって公安部の捜査情報を入手するのかは、聞ける立場ではないと思ったし、聞いて答えが来るとも思わなかった。
「先手を打つか後手で収拾するか」とA1が言った。
「Kからの返信が来ています」
Qがモニターを切り替えた。テキストが表示された。
「坂口とは正式な接触を行う。ただし魔法少女の存在は非開示とする。SNS操作組織の情報は共有してよい」
サクラが読んだ。読みながら、少し時間をかけた。
「……K機関って、公安部と別なんですか」
「別です」とQが答えた。
「でも今、K機関が公安に情報を渡す——それって、普通じゃないですよね」
「普通ではない、ですね。Kが判断したことです」
普通ではない、ですね。Qがそういう言い方をすることが珍しかった。「普通ではない」とQが言うとき、Qの中で何かが判断されている。何が普通で、何がそこから外れているか。Qはその境界を常に計算している人間で、計算した結果として「普通ではない」を出した。
「Kが正式に接触する、ということは——」とサクラは言いかけた。
「坂口が来る前に、K機関側から会いに行く、ということです」
「坂口は、K機関を知らないんですよね」
「知りません」
「じゃあ——何者として会いに行くんですか、Kは」
Qが少し間を置いた。間を置いてから、「それは——Kが判断することです」と言った。さっきと同じ言い方だった。Kが判断したこと、Kが判断することが、今夜だけで二回出てきた。
A1が言った。「今夜の報告は以上ですか」
「以上です」
「では」
A1が廊下に出た。サクラも出た。Qの資料室のドアが閉まった。
廊下は少し暗い。
夜の合同庁舎は全体の照明を絞る。節電か、それとも「夜はそういうものだ」という設計なのか、サクラには分からなかった。ただ、昼間とは光の量が違う。
A1が歩いていく。
サクラが後ろから続いた。廊下が長い。目黒合同庁舎は、歩くと長い廊下がいくつか出てくる。廊下と廊下が繋がっていて、突き当たりに別の廊下がある。建物の構造を、サクラはまだ全部把握していない。
「……坂口という人の名前が、なぜか残った」
声に出してから、サクラは「あ」と思った。言うつもりではなかった。廊下の壁に向かって出た言葉だった。
A1が歩きながら振り返らずに言った。「残ったってのはどういう意味かな」
「……分からないんですけど」
「分からないながらも、残った」
「はい」
A1が少し速度を落とした。歩き続けながら、速度だけが落ちた。
「坂口という人間は、今夜初めて名前が出た」
「そうですね」
「一度しか聞いていない」
「一度です」
「それが残った、ということか?」
「……そうだと思います」
A1が前を向いた。廊下の先を向いた。「理由に心当たりは?」
サクラは考えた。
心当たりを探した。坂口という名前を聞いたとき、何を感じたか。「あ」という何かがあった。「あ」の中身が、今もよく分からない。公安部の捜査員。四十代。魔法少女の存在を知らない。そういう人間が、知らないままSNSの調査をしていて、その先に「能力者の映像」がある。
知らないままで、向かっている。
「……普通の人が来る、って感じがしたのかもしれないです」
「普通の人」
「魔法少女のことを知らない、普通の意味での警察官。そういう人が——この話に入ってくる」
「入ってくると、何が」
「分からないです。でも——」
廊下の突き当たりの窓が見えた。外が暗かった。夜の目黒の暗さ。
「なんか、違う気がして」
A1が止まった。廊下の途中で、足を止めた。珍しかった。廊下では通常、目的地に向かって歩き続ける。止まることは少ない。
「違う、というのは」
「K機関と魔法少女と、その周りだけで話が動いてるって思ってたんですけど——そこと関係なく動いている人が、繋がってくる」
「公安部はこの話とは関係なく仕事してるが」
「それは、そうですけど」
「Kも把握してる。繋がってくることは、予測の範疇だよ。あの狸親父なら」
「予測されてた——じゃあ、なんで残ったのかな」
聞いてから、自分への問いになっていたことに気がついた。A1に聞いたのではなかった。でも言葉は廊下に出てしまって、A1の耳に届いている。
A1が少し間を置いた。
「残るものがある、ということ自体は——処理できなかったことが残っている、ということかも。処理できていれば、残らない」
「処理できなかった」
「まだ意味が決まっていない。だから残る」
「……そういう理屈ですか」
「理屈というより、ログ的にはそうなるね」
ログ的には、という言い方。A1がログの話をするとき、A1の中にある「ログとは違う何か」が少しだけ透けることがある。今夜で何回目だろう、とサクラは思った。
「坂口という人は——」とサクラは言った。「今夜の話には、まだ出てきてないですよね。Qが名前を教えてくれただけで」
「そうだな」
「でも、来る」
「可能性は高い」
「来たとき、坂口は——魔法少女を知らないままですか」
「Kの指示では、非開示とする」
「じゃあ——知らないままの人と会うことになる」
A1が答えなかった。
答えないことが何かを持っていた。知らないままの坂口と会うということの意味を——A1は持っているが、今それを言う必要があるかどうかを判断中なのかもしれなかった。あるいは判断が出なかったのかもしれなかった。
廊下の蛍光灯が一本、かすかにちらついた。ちらついて、元に戻った。
「……今夜は疲れましたか」とサクラは言った。
A1がまた歩き始めた。
「疲れたりはしない」
「私は」とサクラは言った。「疲れた気がします」
A1が少し止まりかけた。一歩分だけ速度が落ちた。「そうかい」とだけ言って、また歩いた。
廊下が終わった。
左に折れると、それぞれの部屋への分岐になる。A1が左に折れた。サクラも折れた。A1の部屋の方向と、サクラの部屋の方向は途中まで同じで、途中から違う。
部屋に入る前に、Qから短い通信が来た。
「追加情報。Kが坂口との接触を明日に設定しました。場所は未定。以上です」
「明日」とサクラは言った。
通信は切れていた。独り言だった。
明日、坂口という人間と、K機関のKが会う。その場にサクラがいるかどうかは分からなかった。指示があれば行く。指示がなければ行かない。それだけのことだ。
でも坂口という名前が——まだ残っていた。
「坂口という人は、この話をどう見るんだろう」とサクラは思った。思ってから、「この話」というのが何を指しているかを考えた。魔法少女の話。K機関の話。サーカスの話。全部が「この話」の中にある。でも坂口にとっては、それは「SNS操作組織の捜査」という別の形をしている。同じ物事が、見る人間によって別の形をしている。
同じ場所にいて、別のものを見ている人間が——繋がってくる。
それが、残った理由かもしれなかった。
残った理由が分かっても、何かが解消されたわけではなかった。分かったことで、また別のことが残った。
「……多い、今夜」
誰にも向けずに言った。廊下には誰もいなかった。A1はもう自分の方向に歩いていった後だった。
突き当たりの窓から、夜の外が見えた。
目黒の夜は、何も教えてくれない夜だった。ただそこにあって、ただ暗い。暗い中で何かが動いている。どこかで坂口という人間が動いている。どこかでサーカスが動いている。どこかでカノンが走っている。それら全部が今夜のことで、全部が「分からない」という形で残っている。
サクラは自分の部屋のドアを開けた。
明かりをつけた。
部屋の光の中で、今夜の話が静かに積まれていた。「坂口が動いています」という言葉と、「範囲が広がっています」という言葉と、「Kが判断したことです」という言葉が、場所を決めないまま部屋の中に浮いていた。
明日になれば、また動き始める。
今夜はここまでだった。
Qは、一人で資料室に残っていた。
サクラとA1が出ていった後、Qはモニターを一台だけ残して他の画面を落とした。一台だけ残したモニターに、坂口の情報が表示されていた。
坂口の捜査担当案件。SNS操作組織。選挙期間中の動き。
「……名前のつかないファイルが、また一つ」
Qが小さく言った。
相手は誰でもない。独り言を言う習慣がQにあるのかどうか、Qにも分からなかった。今夜に限って言えば、言葉が出た。出たから出た、それだけのことだった。
坂口の顔写真を見た。
「あなたはこちら側を知らない」とQは思った。思って、「こちら側」という言葉の意味を自分で確認しようとして——確認できなかった。K機関の側。魔法少女の側。サーカスの側。どれもが「こちら側」と「あちら側」を持っていて、坂口は「あちら側」から「こちら側」の縁に触れかけている。
「縁に触れることと、見えることは違う」とQはモニターに向かって言った。「あなたが見えるのは、まだ縁だけです」
坂口は何も答えない。顔写真だから当然だった。
明日、Kが会いに行く。
そのことについて、Qには今夜確認できたこととできなかったことがある。できたこと:坂口の現在の捜査の範囲、サーカスの名前が初めて出たこと、接触のタイミング。できなかったこと:Kがどういう形で接触するつもりか、どこまで開示するつもりか。
「Kが判断したことです」という言葉を、今夜サクラに向かって二回言った。
二回、同じ言い方をしたことを、Qは少し気にしていた。一回目は自然だった。二回目は——「Kが判断したことを、Qは把握していない」という事実を、そうでないかのように見せるための言い方に近かったかもしれない。
「把握していない、では話が成立しないから」
また独り言が出た。
Qが独り言を言うのは、確認行為だ。声にすることで、思考が一つ決まる。「Kが判断したことをQは把握していない」という事実が、声にしたことで確認された。確認されたから、次に動ける。
モニターを落とした。
部屋が暗くなった。
窓の外に目黒の夜があった。K機関のどこかでサクラが今夜の分を積んでいる。どこかでA1が今夜のログを整理している。Kはどこかで明日の準備をしている。
坂口は今夜、知らないまま動いている。
全員が同じ夜の中にいて、別々の話を持っている。
Qはそういう夜の分類を、ファイルとして整理することに慣れていた。慣れていたが——今夜のファイルには、まだ名前が付かなかった。
付かないまま、ファイルを閉じた。