アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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5.ヴェルベット・タックス-VELVET TUX-

スマートフォンが教えてくれた、という言い方をするのが正しいのかどうか、キヅキにはよく分からなかった。

朝起きて、いつものように数字を見た。見た瞬間に「あれ」と思う数字が出た。あれ、というのはいい方向のあれだ。昨夜の配信より数字が大きい。昨夜の配信は終わって、今朝になって、終わったはずのものの数字が昨夜より大きい。

「……三千」

声に出した。出してから、三千という数字が自分の声になったことで、実際の数だと確認された。フォロワーが、昨夜の配信終了時点より三千増えている。

妖精が何も言わなかった。待っている感じがした。

貢一からメッセージが来ていた。「どこかで拡散されたね、確認してみる」という一文。それだけだった。確認してみる、という言い方が貢一らしかった。確認したら報告するとも、確認した内容を一緒に見ようとも書かれていない。「確認してみる」という動作だけが書かれている。

キヅキは貢一のメッセージを読んで、自分でも探してみることにした。

探すというのは、拡散元を探すことだ。自分の動画がどこから広まったかを追う。普段はしない。普段は「来たものを確認する」だけで、「どこから来たか」を掘り起こすことはない。でも今日は、なんとなく、自分で探してみたかった。理由を言語化する前に、指が動いた。

 

タグが、複数あった。

自分がつけていないタグ。「魔法少女は本物だった」というタグ。「制度に殺される前に」というタグ。「界隈を守れ」というタグ。それらのタグを付けたアカウントが、同じ動画を、ほぼ同じ時刻に——深夜の二時から三時の間に——共有していた。

キヅキは画面をスクロールした。

アカウントの見た目は様々だった。アイコンも名前もばらばら。でも投稿の時刻が近い。近いだけではなくて——使っている言い回しが少し似ている。「制度が」という書き出しのもの。「本物の」という言葉を含むもの。全部が別のアカウントで、全部がばらばらなのに、何かが揃っている。

揃っている、という感触を、キヅキは一度だけ声に出しそうになって、出さなかった。

「これ、つけてくださいって言ったタグじゃない」と代わりに言った。

「そうだね」と妖精が言った。「誰かが自発的に——なのか、どうなのか、私には分からない」

「貢一は」

「……貢一さんにはまだ聞いていないんでしょう」

「確認してみるって言ってた」

「うん」

妖精が「うん」と言って黙った。その「うん」は答えではなかった。確認でもなかった。「うん、それだけ分かれば」という感触の音だった。

キヅキはスマートフォンをテーブルに置いた。

置いて、会合用アパートの天井を見た。天井には何もない。クロスが白いだけ。白いだけの天井が、朝の光の角度で少し陰を持っていた。

「広がる、ってこと——誰かが意図して広げたとしたら、その誰かはなんで広げたんだろ」

声に出してから、答えを待つ気がないことに気がついた。待つ気がない問いを声に出すことがある。待つ気がないから、壁に向かって言う。壁は答えない。答えないことが分かっていて言うとき、言葉は外に出るために出ている。

貢一から返信が来たのは、昼過ぎのことだった。

「良い方向ですよ。自然な拡散です」

それだけだった。調べた内容は書かれていなかった。「良い方向」という結論だけが来た。キヅキは「良い方向」という四文字を三回読んで、「そうですか」と返信した。それ以上のことは聞かなかった。

 

その週の金曜のNOISE BOXに、百二十人が来た。

過去最多だった。定員が百人のところに、百二十人が入った。入りきらなかった分が外に立っていて、スタッフが対応に追われた。キヅキが地下に降りたとき、すでに空気が重かった。人数のある空間の重さ。百二十人の呼吸が作る湿度。

いつもと違う顔がある、と気がついたのは開始から十分ほど経ってからだった。

「いつもと違う顔」というのは、表情の話だ。NOISE BOXに毎週来ている子たちは、「来ている」という習慣の顔をしている。習慣の顔はどこか緩んでいる。緩んでいるのに身体が来る、という状態。それが今日の最前列の子たちには、ない。

来た理由がある顔。

目的として来た顔。

「キヅキさんって、魔法少女なんですか」

マイクを渡していないのに、最前列の子が声を上げた。十七か十八、くらいに見えた。「制度に殺される前に」というタグと同じ言い回しで、SNSに書いていそうな声の出し方をした。

会場がざわっとした。ざわりを、キヅキは耳で受け取った。

「……聴きたいことがあって来たんですか」

マイクを向けた。渡すことにした。

「はい」と最前列の子が言った。「魔法少女が本物なら——誰かが戦ってるなら、知りたかった。ここが、知れる場所だと思って」

ここが知れる場所。

キヅキはその言い方を聞いた。聞いて、何かが「あれ」だった。あれ、というのは、さっき数字を見たときのあれとは違うあれ。こっちのあれは、方向が違う。

でも「あれ」の中身をまだ言語化できなかった。マイクを持ったまま、十秒ほど待った。

「聴かせてください」とだけ言った。「あなたの話を」

最前列の子が話し始めた。百二十人が静かになった。静かな中で、声が届いた。届いた声は、NOISE BOXの地下の壁に当たって、また来た。来た声がキヅキの耳に入った。

入りながら、「声が向かってくる」という感触があった。

向かってくる声と、向かっていく声は、形が違う。NOISE BOXで毎週聴いてきた声は——向かっていく声だった。誰かが自分の話をするために声を出す。声は出した人間から離れて、広がって、届いた場所で誰かの耳に入る。そういう声だった。

でも今日の声は、最初からキヅキに向かって来ている。

キヅキという証拠に向かって。キヅキという証明に向かって。声が出発した場所が、「私の話がしたい」ではなくて——「あなたに確認したい」なのだ。

それが「あれ」だった。

分かったから何かが変わるわけではなかった。マイクは持ったまま。会場にはまだ百二十人がいる。声は続いている。キヅキは聴いた。聴き続けた。聴くことをやめなかった。

でも「あれ」はずっとあった。

 

イベントが終わって、一人になって、キヅキは池袋まで歩いて戻った。

電車を使わなかったのは意図したことではなく、出口を出たら足が歩き始めていた。歩いていると声が頭の中で整理される感触がある。整理というより——声の残響が身体を通って出ていく感触。歩くことが出口になる。

「声が向かってくる時と、向かっていく時、どっちが私だったっけ」

言いながら、答えを誰かに求めていないことを、今夜は出だしから知っていた。知っていても、声に出した。出口のために。

「どっちも、だよ」と妖精が言った。

「……そうかな」

「そうだよ。どっちも、キヅキだよ」

妖精の声は変わらず明るかった。明るくて、温かくて、キヅキのことを思っているような声だった。そういう声で「どっちも」と言うから——少しだけ、信じかける。信じかけて、信じきれない部分が残る。残った部分が、今夜の「あれ」と同じ場所にある。

「妖精」

「うん」

「タグ、知ってた? 『制度に殺される前に』ってやつ」

間があった。

「……知ってた」

「誰かが意図して広げたこと、知ってた?」

また間があった。さっきより少し長い。

「……広がった、って感じで知ってた」と妖精は言った。「誰かが、という部分は——私には分からない。でも広がったことは知ってた」

「広がった、ってこと、なんで今日まで言わなかったの」

「……良いことだと思ってたから。広がる、ってことは——」

「良いこと、か」

「キヅキの声が、もっと届く、ってことだから」

キヅキは歩きながら、妖精の言葉を受け取った。

受け取って、返さなかった。返せなかったというよりは——返す言葉の形が、まだ自分の中にないだけだった。「良いこと」という言葉が「良いことではない」に切り替わったわけでもなくて、ただ「良いことだけではない感触がある」という状態が、言葉になっていない。

妖精は待っていた。

「広がる」という言葉が、貢一の声に聞こえた、と思った瞬間があった。今夜ではなく——もっと前に、一度。「良い方向です」と貢一が言ったとき。「広がることが良いことだ」という論理が、妖精と貢一で同じ形をしていた。

言わなかった。

言わないまま、池袋の光が見えてきた。

北口のロータリーを渡って、駅の近くのコンビニに入った。何を買うかを決めずに入って、冷蔵ケースの前に立った。缶コーヒー。無糖の温かいやつを取った。歌舞伎町の夜に取ったのと同じやつ。決めていたわけじゃなかった。手が動いた方向にそれがあった。

レジを通って、出て、缶を開けた。

飲みながら、スマートフォンを見た。

フォロワーはまだ増えていた。

今夜のイベントが終わってから——つまり、ここ三時間ほどで——また五百ほど増えていた。五百という数字を見て、キヅキは何も思わなかった。思えなかったのかもしれないし、思うものがなかったのかもしれない。どちらか判断できなかった。

「聴いてる人がいたら——ありがとう」

一人撮りで録った動画のセリフが頭の中に来た。あの動画はまだ非公開だ。公開ボタンはまだ押していない。押していないのに、あの言葉だけが今夜戻ってきた。

あの言葉は、「向かってくる声」に向けた言葉ではなかった。

あの言葉は、いるかどうか分からない誰かに向けた言葉だった。いるかどうかが分からないまま、とりあえず出した言葉。「届いたらいい」ではなくて「出した」という事実だけで成立していた言葉。

今夜の百二十人は、向かってきた。

向かってきた百二十人の声を受け取りながら、「声が向かってくる」ことが怖いわけではないし、嬉しいだけでもない、という事実が、缶コーヒーを持った手の中にあった。

「聴こえてる?」

誰にも向けずに言った。向こうに言う感じでもなかった。ただ出た。

出た声が、北口のロータリーの音に混じって消えた。

答えは来なかった。来なかったが、声は出た。出たから、今夜はそれでいい。

「……明後日、大丈夫です」と貢一に返信した。

送信して、スマートフォンをポケットに入れた。缶コーヒーを半分飲んだ。

何かが分かったわけではなかった。「あれ」の中身は、まだ言葉になっていない。なっていないまま、今夜が積まれていく。

池袋の夜は、明日になっても同じ場所にある。同じ場所にある夜の中で、また誰かが動いていて、また何かが拡散されていく。

キヅキはそのことを、知っている。

知りながら、歩いた。

 

 


 

 

午前一時四十二分。

数字が画面に並んでいた。

縦に並んでいて、横に並んでいて、折れ線になっていて、円グラフになっていた。どの形をしていても、同じことを言っていた。増えている。動いている。方向がある。

ヨグは三つの画面を見た。三つを同時に見ることができる目を持っていたが、今夜は一つを特に長く見た。一つ目:黄の動画シェア数の推移。二つ目:「秘密警察」というキーワードを含む投稿の拡散ネットワーク図。三つ目:K機関ネガキャン用の記事への誘導クリック数。

三つ目が、今夜は少し遅かった。

「クリックが止まっています」とヨグは言った。部屋には小牧がいた。いつもそこにいる小牧が、今夜もそこにいた。「第一波のピークが過ぎた。次を出す必要があります」

「出します」と小牧が答えた。答え方が速かった。考えてから答えた速さではなく、決まっていたことを確認した速さだった。「ただし今夜ではない。明日の朝、通勤時間帯に入れます」

「ピーク時間帯を合わせる」

「そうです」

ヨグがキーボードを叩いた。叩いて、止めた。止めてからもう一度叩いた。処理が終わると画面が切り替わり、新しい数字が出た。

「公安の動き、確認しました。坂口という名前の捜査員が、今日から選挙期間のSNS操作捜査に入っています。ボットネットの痕跡を追っている。今のところ、我々の組織名には行き着いていない」

「今のところ」と小牧が繰り返した。

「今のところです。時間の問題だとは思いますが——その前に、公安が出てきたこと自体を使えます」

小牧が少し前に傾いた。「続けてください」

「公安部が選挙操作を捜査している、という事実を出す。そこにK機関を重ねます。『秘密警察が選挙期間に動いている』というフレーミングで。公安とK機関は別の組織ですが——一般の人間には同じに見える」

「同じには見えません」と小牧が言った。言い方が穏やかだった。否定ではなく、訂正のつもりで言ったのかもしれなかった。「でも『どちらも国家の力』という括りには入る。その括りを使う」

「そうです。括りを大きくすれば、細部は問わなくていい」

ヨグが画面を一つ切り替えた。表示が変わった。文章のドラフトが出た。タイトルが横にある:「警察庁・K機関、選挙前夜に10代少女を連行。秘密警察の実態」。

小牧が画面を見た。見て、「タイトルが強い」と言った。

「強いほうが読まれます」

「強すぎると信じられない」

「強すぎた場合に信じてもらうためのコメントが、すでに準備してあります」ヨグが画面を横にスクロールした。コメント一覧が出た。「最初の一時間でつくコメントを、三十七個用意してあります。信頼性を補強する方向のものと、感情的な怒りで応じるものと、中立を装って詳細を補足するもの——三種類で構成してあります。このバランスが適切です」

小牧が「三十七個」と言った。

「数字は道徳より正直だから」とヨグが言った。「三十七個が最適だと計算しました。三十個では薄い。四十個では露骨になる。三十七個が、自然発生に見える限界です」

「……」

「問題がありますか」

小牧が少し間を置いた。窓の外の本郷の夜は、どちらかといえば暗かった。街灯の光が木の幹だけを照らしていて、木の上は暗い。幹が照らされているから、上の方がより暗く見える。

「問題はないです」と小牧は言った。「三十七個、確認します」

 

警察庁公安部の執務室は、夜になると人が減る。

残る人間が残る。坂口は残る人間だった。部下の一人が「お先です」と声をかけて出ていった。坂口は「ご苦労」と言った。言ってから、資料に目を戻した。

資料は厚かった。

印刷された紙が三センチほど積まれている。そのほとんどは「SNS上のアカウント操作に関するデータ収集記録」だった。坂口が今週から担当することになった案件の基礎資料だ。選挙期間前の情報工作——これは珍しくない。公安が毎回追いかけるものだ。

珍しいのは、今回の工作の標的の一つだった。

「秘密警察」。

坂口が付箋を貼った紙を引き出した。拡散されている投稿のスクリーンショットが印刷されている。「警視庁には秘密の少女狩り部隊が存在する」「10代の変身者を合法的に連行している」。

変身者、という言葉が何度も出てくる。

「変身者というのは何ですか」と今日の昼間、坂口は部下に聞いた。

部下が少し考えてから「SNS上の用語のようです」と言った。「コスプレ、あるいはゲーム配信の用語かもしれません。動画で確認するとそういう格好をした人間が映っているので……」

「格好、ね」

「ただ」と部下が言いにくそうに続けた。「画質を確認した結果、合成とは断定できない、という判断が出ています」

坂口は「合成とは断定できない、か」と繰り返した。繰り返してから、「本物?」と聞いた。

部下は答えなかった。答えなかったことが、答えだった。

今夜の資料に戻ると、その動画の拡散経路が一枚の紙に整理されていた。拡散の起点となったアカウントが複数ある。そのアカウントを辿ると、動作パターンが似ている。投稿時間が一定のリズムを持っている。

ボットか、あるいはそれに近い何かが動いている。

坂口が別の紙を重ねた。「秘密警察」という言葉の出現頻度の推移。一週間前から急増している。増加のタイミングに規則性がある。午前八時前後と、夕方の通勤時間帯と、深夜。

「意図的だな」と坂口は言った。誰にも向けない言葉だった。

机の上に、もう一枚の付箋が貼ってある。今日の午後に書いた付箋だ。「K機関」という文字が書いてある。「K機関」の下に「?」がある。「?」の下に「目黒」とある。

「K機関」という名前は、坂口がこれまでの職歴の中で何度か聞いたことがある名前だった。聞いたことがあって、会ったことはなかった。実在するのかどうかも、確認できたことがなかった。ただ「実在するらしい」という噂が、確かめられないまま積まれている。

それが今日、「秘密警察」というフレームの中で出てきた。

ボットネットが「K機関」という名前を使って「秘密警察」という話を作っている。それは坂口が追っているSNS操作の一部だ。だから今日、この名前が坂口の手元に来た。

「K機関を追いかけているわけじゃない」と坂口は自分に言い聞かせた。「SNS操作組織を追いかけている。K機関は、その組織が使っているネタの一つだ」

でも付箋を捨てなかった。

捨てなかったので、付箋はそこにある。「K機関」と「?」と「目黒」が並んで、夜の執務室の蛍光灯に照らされている。

 

目黒合同庁舎の資料室で、Qはモニターを見ていた。

三面モニターの左側に、坂口の捜査資料の断片が出ている。合法的な情報共有ラインを通じて入手したものだ。断片を繋ぎ合わせると、坂口が今日どこまで見ているかが分かる。

見えた範囲:ボットネットの存在、拡散の起点となるアカウント群、「K機関」という名前がSNS上で使われていること。

見えていない範囲:そのボットネットを動かしている組織。「サーカス」の実態。K機関が実際に何をしているか。

「坂口が動画にたどり着いた」とQは小さく言った。声に出した言葉は、確認のためだ。確認することで、次が決まる。「変身者の映像に。時間の問題だと思った。時間の問題だった」

K機関への報告を打つ。テキスト形式で、Kへの通信ラインに送る。

「公安部・坂口の捜査状況:変身者映像への接触を確認。SNS操作組織の捜査ラインと並行して進んでいます。公安との正式接触を本日中に設定することを提案します」

送信した。

Kからの返信が来るまで、少し時間があった。Qはその時間を待った。待ちながら、右側のモニターで別のデータを見た。

「K機関へのネガキャン記事」の一つを、今日の昼間から監視している。誰かが記事を書いて、ボットで拡散している。記事の内容は「K機関が10代の少女を連行している」というものだ。写真が使われている。変身中の少女の後ろ姿——どこかの現場で撮られたもの——と、K機関の車両らしき白いバスが同じ画面に並んでいる。

写真は証拠として成立しない。でも「見た人間がどう読むか」という観点では、証拠より機能する。

「この記事の初速が——」Qが数字を確認した。「公開から六時間で四十万インプレッション。拡散起点のアカウントが、黄の能力者のシェアネットワークと重複している部分がある」

能力と資本の協働。Qが先週、Kへの報告に書いた言葉だ。黄の能力者と民間支援者の動きが連動していることは把握していた。そこに今日、「サーカスと黄の拡散ネットワークが接点を持っている」という事実が加わった。

どちらが原因でどちらが結果か、Qにはまだ分からない。分からないまま、三つ目の事実が来た。K機関を「秘密警察」として描く記事が、その同じネットワーク上で拡散している。

「接続を確認できているが、方向が確定できない」

確認行為として声にした。声にしたが、方向は確定しなかった。

Kからの返信が来た。

「設定する。坂口と私が直接話す。Q、同席せよ」

Qがそれを読んだ。読んで、一度だけモニターから目を離した。

「Kが直接出る」

Kが直接動く事案は、通常の対処では済まない事案だ。これはQが第2章以来、繰り返し確認してきた認識だ。でも今夜は——

「今回はまだ通常対処の範囲では?」

自問した。

答えが来なかった。自問の答えが自分から来なかった、というより——Kがすでに判断していた、ということだった。Kが判断したなら、Qの自問は後からついてくるだけだ。

「……Kの判断です」

Qが自分の疑問を閉じた。

閉じてから、モニターに向き直った。K機関のネガキャン記事の数字がまた少し動いていた。インプレッションが増えている。誰かが今この瞬間も開いて、読んでいる。

「数字は道徳より正直だから」という言葉を、Qはどこかで見た。ボットネットの調査資料を読んでいる中で出てきた言葉だ。出典は分からない。特定の人間が言っていた言葉なのか、拡散されているフレーズなのか、まだ確認できていない。

正直か、とQは思った。

数字は動いている。動いていることは確かだ。方向も確かだ。ただし、その数字が「何を正直に示しているか」——それはQが今夜確認できたことの中に入っていない。

確認できていないファイルが、また一つ積まれた。

Qはファイルに名前をつけることができなかった。名前がつかないまま、夜の資料室で数字が動いていた。

 

翌朝、七時十九分。

ヨグがスマートフォンを確認した。

記事の公開から八時間が経っていた。予定していた通り、朝の通勤時間帯に向けて投稿が集中している。コメントの数が伸びている。三十七個のコメントは、今は五百を超えた本物のコメントの中に溶け込んでいた。溶け込んでいることが、最初の三十七個が機能した証拠だ。

「K機関のネガキャン第二波、初速。インプレッション:昨日の三倍。シェアの拡散速度:六十七パーセント増」

小牧に送った。

返信が来た。「段階から並列に変えます。今日の内に第三波の準備を始めてください」

ヨグが「了解しました」と打った。

打ってから、スクリーンを見た。

記事へのコメントが流れていた。怒りのコメントが多かった。怒りの形をしていた。その怒りがどこから来ているのかをヨグは知っていた。自分たちが三十七個の種を蒔いて、そこから育ったものだということを。

育ったことは確かだ。

数字が示している。

「数字は道徳より正直だから」

ヨグはその言葉を声に出さなかった。心の中でだけ言った。言って、スクリーンから目を離し、次のドラフトファイルを開いた。

 

Qは、一人で資料室に残っていた。

Kへの同席を確認した後、Jへの指示を出した。「東大周辺のネットワーク、継続監視。サーカスの組織名が公安の捜査ラインに出た場合、即時報告」。Jが「了解しました。あとQさん、今日も——」と言いかけて、Qが「今は関係ないです、J」と返した。Jが「——顔色がよくないと思います」と言い切った。Qが少し止まった。「関係ないです」と繰り返した。Jが「分かりました」と言って通信を切った。

一人になった。

モニターに戻った。

「K機関が直接出て、坂口と話す」

その事実が、Qの中でまだ動いていた。通常ではない。Kが直接出ることは、通常ではない範囲に入ることを意味する。でも「通常ではない」という判断を、今夜Qはできなかった——なぜなら、Kがすでに動くと決めていたから。

Qが「通常ではない」と判断する前に、Kが「これで動く」と決めていた。

二つは同じことを言っているかもしれない。

でも順番が違う。

「先に動く、という判断は——」とQは言いかけた。言いかけてやめた。何を言いたかったのか、最後まで出なかった。

坂口の顔写真が、モニターの端に表示されたままだった。公開情報から収集した写真。四十代。中肉中背。特別な顔ではない。

「あなたが知らないことを、こちらは知っています」とQはモニターに向かって思った。思って、「こちら」という言葉の意味を確かめようとした。確かめようとして——確かめられなかった。

K機関は知っている。サーカスを知っている。坂口の動きを知っている。魔法少女の存在を知っている。

坂口は知らない。

知らない人間が、知っている人間たちの動きの中に入ってくる。それが明日、Kとの会議という形で起きる。

「知っていることと、見えていることは別です」とQは小さく言った。

声は部屋に吸い込まれた。夜の合同庁舎は音を返さない。廊下のどこかで冷却システムが低く唸っていて、それだけが静かに続いていた。

モニターの中で、数字が動いていた。

K機関ネガキャンの記事のインプレッションが、Qのモニター上でもリアルタイムに動いていた。夜中にもかかわらず、誰かが開いて読んでいる。誰かが怒っている。誰かが「秘密警察だ」と信じている。

「信じていることと、本当のことは別です」とQはもう一度言った。

誰に向けた言葉でもなかった。

夜の資料室は、その言葉の意味を判断しなかった。

 

 

 

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