アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
庭には蝉がいた。
まだ夏の前で、正確には「蝉がいた」ではなく「蝉の声が始まっていた」と言った方が正しい。声だけがあって、どこにいるかは見えない。木が多いせいで、声の出どころが分散する。どこからでも来る感じがして、どこからも来ない感じがする。
タチバナ・サクラは洋館の裏口から庭に出た。
出た理由は、特にない。Qからの通信が午後一時に終わって、A1は庁舎で作業をしていて、サクラは邸宅に戻っていた。戻って、部屋の中に少しいて、それから廊下に出て、廊下の先に裏口があったので開けた。それだけだった。
「あ」
と思ったのは、アオイがいたからだった。
木の根元に座っていた。大きな木——何の木か、サクラには分からない——の根元に、膝を立てて座っていた。膝の上に手を置いて、空を見ていた。
アオイが振り向いた。
「……タチバナ・サクラ」
アオイが言った。「サクラ」ではなく「タチバナ・サクラ」と呼んだ。フルネームで呼ぶ距離感があった。K機関の人間として——という言い方が、名前に入っている。サクラはそれに気づいて、でも何も言わなかった。
「隣に、座っていいですか」
「うん」
アオイが少しずれた。サクラが座った。地面は少し湿っていて、昨日雨が降ったことを、草の状態で思い出した。
しばらく二人で空を見た。
蝉の声は続いていた。続いていて、でも続いていることが気になる声ではなかった。ある種の沈黙に似た声だった。
「ここ、来たことあった?」
アオイが聞いた。
「ないです」
「私も、最近来るようになった」
アオイが言った。来るようになった、という言い方が、「前は来られなかった」を含んでいる。サクラはそれを聞いて、「最近」がどのくらいの最近かを聞かなかった。
空の雲が少しずつ動いていた。速さが一定ではなかった。ある部分は速く、ある部分は止まったみたいに動かない。同じ空の中で速さが違う。
「外に出ると——何かが分かると思っていた」
アオイが言った。
「でも分からなかった」
「……何が分かるかと思っていましたか」
サクラが聞いた。
「次に何をすればいいか」
アオイが答えた。答えに迷った形跡がなかった。迷う前から持っていた言葉だった。「次に何をすればいいかが、分かると思っていた」。庭に出れば分かると思っていたのか、部屋の外に出れば分かると思っていたのか——どちらかは、サクラには判断できなかった。
「K機関に聞きましたか」
「聞いた。いくつか選択肢があるって。でも——」
アオイが止まった。
「でも」
「——全部、私の選択肢じゃない感じがして」
「私の選択肢じゃない」とサクラは繰り返した。繰り返してから、「全部、というのは」と聞こうとして、やめた。アオイが「全部」と言ったのは、「一つも」ということだろうと思った。一つも自分のものに感じられない。その言い方が、全部、だった。
「選択肢が自分のかどうか——どうやって分かるんですか」
聞いてから、これはアオイへの問いではないかもしれないと思った。
アオイが少し驚いた。驚いた後で、「……分からないから、聞いてるんだと思う」と言った。「私が」という一人称を入れずに言った。分からないから聞いてる——主語が誰なのかを置かないまま言った言葉が、庭の空気に入った。蝉の声がその隙間に入ってきた。
二人が黙った。
木の根元の地面が少し柔らかかった。湿った土の重さが、座っている間に少しずつ分かった。
「親が来るって」
アオイが言った。
しばらく経ってから言ったので、最初どこから来た言葉か、サクラには一瞬分からなかった。
「来るんですか」
「うん。K機関が連絡してくれた。……来てほしいとは、私が言ったわけじゃないんだけど」
「でも来る」
「来る」
アオイが繰り返した。「来る」という事実だけを確認した言い方だった。来ることへの気持ちがどちら向きかを、アオイは言わなかった。言えなかったのか、言う必要がないと思ったのか——サクラには見えなかった。
「来てほしいですか」と聞こうとして、サクラは止まった。
止まった理由が、自分ではよく分からなかった。聞いていい問いか分からなかったのか、聞いて答えが来ることを怖いと思ったのか。「来てほしいかどうか」は、アオイが今整理できていない問いだと感じた。整理できていない問いを、整理させるために聞くことが今ここで必要かどうか。分からなかった。だから止まった。
「K機関が連絡してくれた」という言い方が、少し後に残った。
K機関が連絡した。アオイが頼んだわけではない。K機関が判断して、連絡した。「来てほしい」をアオイが言う前に、K機関が「来る」という状態を作った。それが「来てほしいとは言ったわけじゃないんだけど」の意味だった。
良いことか悪いことかが、判断できなかった。
地面の湿りが少しずつ感じられなくなる頃、サクラは「妖精が、どうなったか聞いてもいいですか」と言おうとした。
言いかけて、言わなかった。
代わりに、「庭、広いですね」と言った。
「うん」とアオイが言った。「茶室もある」
「え」
「奥の方に」
サクラが見た。確かに——木々の向こうに、低い建物の輪郭があった。茶室かどうかは確認できなかったが、あの形は茶室の形をしていた。「K機関ってこういうところがあるんですね」とサクラは思ったが、言わなかった。
「よく来るんですか、茶室の方に」
「行ったことない。近づく気がしなくて」
アオイが言った。気がしない、という感触を正直に言った言い方だった。「近づいてはいけない」でもなく「怖い」でもなく、ただ「気がしない」。
「……ワタシも、K機関の中でまだ行けてないところがたくさんあります。目黒合同庁舎でも、廊下がどこに繋がるか全部は分かってない」
「そういうものだと思う、ここ」
「そういうものですか」
「よく分からないまま、でも中にいる」
アオイが静かに言った。それが「自分のこと」なのか「K機関のこと」なのか——どちらについても言えることを言った気がして、サクラは「そうですね」と返した。
蝉の声が一瞬だけ止んだ。
止んで、また始まった。
「サクラ、Qから入電」
A1の声が来た。
庭の入口から来た。A1が洋館のドア口に立っていた。こちらには来ていない。入口の枠のところに、白い輪郭として立っていた。
「——はい、行きます」
サクラが立ち上がった。立ち上がって、アオイを見た。アオイはまだ座っていた。
「……この人(A1)は、変わらないんですね」
アオイが言った。A1に向けた言葉か、自分に向けた言葉か、分からない言い方だった。
A1が少し止まった。
「そうです」
「……ずっと、ですか」
「ずっとです」
A1が答えた。A1の声は変わらない。変わらないことが——A1の声そのものだ。「ずっとです」という言い方が、時間の長さを持っていて、でも重さとして出てこない。そういう声だった。
「……そうか」
アオイが言った。
「そうか」だけ言って、また空を見た。何かを確かめた後の「そうか」に聞こえた。何を確かめたかは——サクラには見えなかった。見えなかったが、「変わらない」という言葉がアオイに届いて、届いた先で何かが決まった感触があった。
決まった何かの中身を、サクラは知らないまま中に戻った。
A1が先を歩いた。
サクラが続いた。
洋館のドアが閉まった。
庭に一人になって、アオイはしばらく木の根元にいた。
蝉の声はまだあった。どこからでも来る声で、どこからも来ない声だった。
「変わらない」という言葉を聞いて、アオイは「変わっていく」という感触を自分の中で確認した。変わっていく——能力がなくなった。妖精の声がなくなった。公園のベンチがなくなった。渋谷での一人暮らしがなくなった。
なくなっていくことが、変わっていくことだと思った。
でも変わっていった先に何があるかが分からない。来週、親が来る。来てほしいか来てほしくないかも分からない。K機関が出した選択肢が「私の選択肢じゃない感じがする」のに、じゃあ何が「私の選択肢」なのかを、アオイは知らない。
ただ、庭にはいられる。
今、庭にいる。それだけは確かなことだった。
地面の湿りと、蝉の声と、木の輪郭から透けているビルのガラスの反射と——それらが全部、今この庭にある。アオイもここにある。
「次に何をすればいいか」はまだ分からなかった。
分からないまま、庭にいることだけが決まっていた。
廊下を歩きながら、サクラは「妖精が、どうなったか」を聞かなかったことを思い出した。
聞いてよかったか、聞かなくてよかったかは分からなかった。ただ聞かなかった事実だけが残った。
「Q、何ですか」
サクラが無線で言った。
「坂口が本日の捜査を終了しました。明日——Kとの接触が決定しています。明朝十時。警察庁の会議室。サクラも同席してください」
「……はい」
「以上です」
通信が切れた。
A1が歩いていく。廊下が続く。
明日、坂口という人間と会う。魔法少女を知らない人間と——「知らないまま」の状態で、同じ部屋にいる。
それが明日のことだった。
今日は、庭でアオイと空を見た。それが今日のことだった。
今日と明日が、同じ廊下の中にある感じがした。廊下は続いていて、どこかで繋がっていて、でも別の場所に出る。
廊下の突き当たりの窓から、外が見えた。夕方に向かっていく空だった。雲がまだ動いていた。さっきより少し速く、さっきとは別の方向に。
「……何から始めればいいか困る感じがする」
サクラのモノローグが形になって宙に浮く。
A1が振り向かずに歩いた。
「また向こうに喋ってる」
「……でも、説明しようとすると出てくる順番に困って。庭でアオイさんと話したことと、明日坂口という人に会うこととが、同じ日のことで——でも別々な感じがして」
「別々でいいんじゃないか」
「別々でいい、ですか」
「繋がってなきゃいけない理由がない」
A1が廊下の角を曲がった。サクラも曲がった。
「繋がってなくていい、か……」
「今日の別々なことが、全部今日のことだ。それで十分だろ」
A1が止まらずに言った。
サクラはその言い方を、しばらくそのままにしておいた。
今日の別々なことが、全部今日のこと。アオイが「変わらない」を聞いた後の空を見た顔と、明日坂口に会うことと、庭の蝉の声が始まっていたこととが——全部今日の中にある。
繋がらなくていい。
繋がらなくても、今日のことだ。
「……分かりました」
「分かったのか」
「分かったような気がします」
A1が「そうかい」と言った。それだけだった。
廊下が終わった。
警察庁の会議室は、普通の会議室だった。
ドアを開ける前から分かっていたわけではないが、開けてみると「普通の会議室だ」という感想が先に来た。長テーブルが一本、椅子が六脚、プロジェクターが壁に向いていて、天井の蛍光灯が均一に光っている。どこにでもある部屋の形だった。
K機関の邸宅の廊下でも、目黒合同庁舎の資料室でもない。
ただの会議室。
「……普通の部屋だ」とサクラは思った。思ってから、「普通じゃない人間が来るから普通の部屋を用意した」という感触が来た。どちらが先なのかは分からなかった。
Qが先に席に着いた。テーブルの右端。資料を開いた。資料を開く動作が、いつもの資料室とまったく同じだった。場所が変わっても、Qのやることは変わらない。
A1がドアの近くに立っている。
サクラはA1の隣に立った。座っていいか分からなかったので、立った。
「座っていいですか」とQに聞いた。
「好きにしてください」
テーブルの左端の椅子を引いた。座った。椅子の硬さが、K機関邸宅の椅子とも、バスの座席とも、違う硬さだった。警察庁の椅子は、たぶん警察庁の椅子の硬さというものがあって、それはサクラが知っていた硬さではなかった。
十時三分前に、Kが来た。
Kが会議室に入ってくるとき、足音がなかった。
廊下を歩いてきたはずなのに、ドアが開くまで足音が来なかった。廊下の床はコンクリートで、スーツを着た人間が歩けば何かしら音がするはずだった。でも音がなかった。「スーツが動く空気だけが分かった」とサクラが後から思い出したのは、音ではなく気圧の変化だったかもしれない。空気が動いて、ドアが開いて、Kがいた。
背格好だけが分かった。
背が高くも低くもない。太くも細くもない。スーツが灰色だった。グレーというより、光の加減で色が変わる質の布だった。朝の会議室の蛍光灯の下では、灰色に見えた。
Kの顔を見たが、見た後で「どんな顔だったか」をすぐに言葉にできなかった。特徴がないのではなく——特徴を記憶に固定するための何かが、最初の数秒間は動かなかった。
「想像より——」と思いかけて、サクラは止まった。
想像したことがなかった。Kの声は通信越しに聞いていた。声は分かる。でも顔や背格好を、サクラは一度も想像しなかった。想像する前に来た。
「おはようございます」
Kが言った。声は低く、ゆっくりしている。圧がない。でも「圧がない」ことそのものが、部屋の空気に何かをした。
Qが「おはようございます」と返した。
A1が軽く頭を下げた。
サクラも「おはようございます」と言った。自分の声が少し小さかった。小さいとは思ったが、言い直さなかった。
Kが席に着いた。テーブルの真ん中——Qの正面あたり。
「坂口さんは十時に来ます」
Qが言った。
「そうですか」とKが返した。「少し話してもいいですか」
「はい」
「今日の方針について確認します。SNS操作組織の情報共有は行います。変身者の存在は非開示とします。坂口が質問した場合は——ご賢察にお任せします、の形で止めます」
Qが「確認しました」と言った。
A1が「了解です」と言った。
サクラが「……はい」と言った。
「サクラさん」
Kが言った。
「……はい」
「今日は、見ていてください。話す必要はありません」
「分かりました」
「もし何か分からないことがあれば、後で質問してください」
Kが言った言い方が、普通だった。特別に優しくも、特別に冷たくもない。「後で質問してください」という言い方は、学校の先生でも言う言い方だった。Kが言うと、その普通さが少し奇妙だった。
十時ちょうどに、坂口が来た。
ドアをノックした。ノックの音が、一拍ずつ均等だった。
「どうぞ」とKが言った。
ドアが開いた。
四十代の男が入ってきた。中肉中背。スーツが紺で、ネクタイが赤だった。顔に特別な印象はない。でも部屋に入った瞬間に、一度だけ視線が部屋の全体を舐めた。A1とサクラを一瞥して、Q、Kの順に確認して、「確認した」という表情が一秒あって、それからKに向かって「失礼します」と言った。
早かった。
「部屋に入って、全体を見て、重要な順番に確認して、挨拶する」という動作が、一秒か二秒の中に収まっていた。普通の人間の動作よりも、動作と動作の間の距離が短い。
「坂口さん、お越しいただきありがとうございます」
Kが立ち上がった。立ち上がり方も音がなかった。椅子が鳴らなかった。「立っていた」という事実だけが、気がつくと成立している。
「いえ、こちらこそ」
坂口が席に着いた。Kの向かい側。Qの隣。
「ほー、例の桜田門の影に、移動901……噂は常々。特にKさんは、外事課では随分とご活躍されたようで」
単刀直入に来た。
でもそれは「知っているぞ」という牽制ではなく、「私はこれだけ知って来た」という情報開示に近い言い方だった。
Kが少し笑った。
「まあその話は追々……」
受け流した。否定しなかった。
「公安部長も警備部長も、何かと気にされているようですから」
「色々こちらも大変なんですよ。このところ桜田門から出られなくて、やっと目黒で仕事できるようになって……庁舎の中のことは把握しているものの、外の動きをちゃんと見られていなかった時期が長かったです」
Kが言った。
坂口が「……なるほど」と言った。
声のトーンが少し変わった。「ああ、この人は話せる」という判断が、坂口の中で出た感触があった。「桜田門から出られなくて」という言葉が、組織の内情を使った距離の縮め方だと分かった上で、でも「そういう言い方をする人間だ」という情報として受け取って、緩んだ。
サクラが見ていた。
このやり取りを、どう見ればいいか分からなかった。Kと坂口は「同じ言語」を話しているのに、別の場所に立っている。「桜田門から出られなくて」は、本当のことかもしれないし、「本当のことを使って別のことをしている」かもしれない。どちらか分からないまま、坂口が緩んだ。
「SNSでの組織的な操作——東大関連の集団。あなた方はこれを把握していますか」
坂口が本題に入った。
「把握しています」
Kが言った。間を置かずに言った。
「なぜ教えてくれなかった。我々が調べ始めた頃から、でしょう」
坂口の声が少し低くなった。怒っているのではなく、確認のための低さだった。
「今日やっと話す気になりましたもので。まあそういう訳でしょうな」
Kが言った。
認めた。謝らなかった。飄々としていた。「やっと話す気になった」という言い方は、前段として「ずっと話す気がなかった」を含んでいて、それをそのまま出した。坂口が少し目を細めた。
「変身者とやら——」
坂口がA1とサクラに視線を向けた。
一秒、見た。
「——やはりそういうことで?」
Kに向けて言った。
「ご賢察にお任せします」
Kが返した。
坂口が「なるほど」と言った。
それだけだった。それ以上は聞かなかった。聞かないことが「知っているが踏み込まない」という判断だと、サクラには見えた。坂口は「聞かない方が得」という計算ができる人間だった。「聞いてしまうと、答えを求める立場になる」——それを避けた。
でもサクラは一瞬、「なるほど」の後で坂口の視線がもう一度来た感触を持った。
来たかどうか、確認できなかった。坂口はすでにKの方を見ていた。
「SNS事案の件で、共有できる情報があります。それについて話しましょうかね」
Kが言った。
Qがテーブルに資料を出した。「東大学生グループを起点とするボットネットの痕跡データ」というヘッダーが見えた。サクラには詳細は読めなかった。
坂口が自分の鞄から資料を出した。
「『サーカス』——我々が追っている組織の名だ。『C.i.r.c.u.s.』というのが正式な表記のようだが、まだそこは詳しく掴めていない」
Kが「……そうですか」と言った。
その「そうですか」が、どこを向いているかを、サクラは考えた。K機関はサーカスをすでに把握している。「知らなかった」とも「知っていた」とも言わない。「そうですか」という言葉は、受け取り方を坂口に任せる言い方だった。
「我々の線では、選挙期間の組織的なSNS操作として追っています。公職選挙法上の問題と、情報操作の問題を同時に捜査中です」
「それは我々の把握と重なる部分があります」とKが言った。「こちらのデータをお渡しします。ただし出どころについては確認ください——いくつか、合法的な情報共有ラインを通じて取得したものではない素材が混ざっているので、法的に使える部分と参照に留めるべき部分を分けてお使いください」
坂口が「分かりました」と答えた。
「言葉がはっきりしているな」という印象が、坂口の返事の短さから来た。交渉ではなく、実務の話として受け取った。
Qが手元でいくつかの書類を区分けした。「こちらが公開可能な素材、こちらが参照のみ」という分け方を、音がしないように静かにやった。
「変身者の問題は、捜査対象ですか」
坂口が帰り際に言った。
席を立って、鞄を持って、ドアに近づきながら言った。行動しながらの質問は、答えなくても「通り過ぎた話」として流せる形だった。坂口は退路を作った上で聞いた。
「現時点では、判断を保留しています」
Kが答えた。
「保留、ですか」
坂口が少し止まった。
「はい」
「……分かりました。引き続き」
坂口が言って、出ていった。
ドアが閉まった。
会議室に沈黙が残った。
蛍光灯が均一に光り続けていた。外から何の音も来なかった。
Qが口を開いたのは、坂口の足音が廊下から聞こえなくなってからだった。
「……Kは、坂口に情報を渡した。坂口の動きを予測可能にした」
「そうです」
「サーカスを追う坂口と、我々の二重の包囲」
「ただし坂口が先に動けば、こちらの管轄が問題になる」
A1が言った。「その前に動く、ということですか」
「そうです」
短い言葉の応酬だった。会話の速度が、坂口がいたときとは別の速度になっていた。三人が「同じところを見ている」状態の会話だった。
サクラはそれを見ていた。見ていて、「この会話に入れる言葉を、ワタシは持っていない」という感触があった。でも「入れない」ことが「見えていない」ことではなかった。見えていたから、入れなかった。
「先に動く——というのが、怖いこともありますか」
言ってから、サクラは「しまった」と思った。「しまった」というより——「言うつもりではなかった言葉が出た」という感触だった。
場の空気が変わった。
変わり方が、止まる感じではなかった。「少しずれた」という感触だった。Qが書類を持つ手を止めた。A1がサクラの方を見た。
Kが少し間を置いた。
一秒か、二秒か。
「……ありますね」
Kが言った。
それだけだった。
補足がなかった。「怖いというのは具体的には」という接続もなかった。「ありますね」という事実だけが、会議室の蛍光灯の光の中に出た。
サクラが「……そうですか」と言おうとして、止まった。
止まった理由が分からなかった。止まって、「そうですか」以外に言える言葉がなかったので、何も言わなかった。
Kが書類を閉じた。立ち上がった。今度は椅子の音がした——かすかに。さっきよりはかすかな音があった。
「後で質問があれば来てください」
Kがドアに向かいながら言った。
サクラに向けた言葉かどうかも、確認できなかった。でも「後で」という言葉だったので、「今じゃない」ということだけ分かった。
ドアが開いて、Kが出ていった。
今度は足音があった。
廊下を歩いていく音が、少しだけ聞こえた。遠くなって、消えた。
三人が残った。
Qが書類を整理し始めた。A1が窓のない壁を向いたまま立っていた。
サクラはテーブルの上に視線を落とした。
テーブルの木目が、均一ではなかった。見えているのに気づいていなかった木目が、今は目に入った。会議中は「見ていたのに見えていなかった」ものが、人が減ると見えてくる。
「……怖いこともある」
サクラが繰り返した。声に出す必要があったかどうか分からなかったが、声に出た。
Qが書類から顔を上げなかった。
A1が言った。「何が怖いのか聞かなかった」
「……聞けなかったです」
「聞かなかった、と聞けなかった、は別だよ」
「……そうですか」
「Kが怖いと思っているのは——今は分からない。でも、ある。あると分かった」
「あると分かりました」とサクラは繰り返した。
分かった、ということが何かの始まりなのか終わりなのかが、まだ決まっていない。決まらないまま、「ある」という事実だけが出た。
Qが言った。「坂口との情報共有はひとまず機能しました。サーカスへの捜査ラインが二重になった——坂口が先に動けばK機関の管轄は複雑になりますが、今日のデータを渡した以上、坂口の動きはある程度こちらの想定内になります」
「……坂口という人は、怖くなかったですか」とサクラは言った。
「怖い」とQが少し間を置いてから言った。「百戦錬磨の公安部捜査員を怖いと感じないのは、判断力がおかしい」
サクラが少し驚いた。
「そうですか」
「ただ怖いというのは——どう対処するかに影響しない。判断とは別の話です」
Qが書類をまとめた。立ち上がった。
「以上です。帰ります」
資料を持って、ドアに向かった。
A1が「サクラ、行くよ」と言った。
「……はい」
廊下に出ると、Qはもういなかった。
A1が歩き始めた。サクラが続いた。警察庁の廊下は、目黒合同庁舎の廊下とは違う歩き方をする廊下だった。目黒の廊下は「どこに繋がるか分からない」廊下だが、ここは「どこに繋がるか分かっていて、分かっている人だけが歩く」廊下だった。
サクラには分からない廊下を、A1と一緒に歩いた。
「さっきの」とサクラは言った。
「さっきの」
「Kに、変なことを聞いてしまいました」
「変なこと」
「怖いこともあるかって」
「変なことか?」
「……変じゃないですか」
「Kが答えた」
A1が言った。答えが出た、という事実だけを言った。
「……ありますね、って言いました」
「言った」
「あれは、本当ですか」
A1が少し止まった。廊下の途中で、一歩だけ止まった。
「本当だと思う」
「……どうして分かるんですか」
「補足しなかったから」
サクラが考えた。
補足しなかった。「ありますね」だけで止まった。あの一言に続きがなかった。説明も、弁解も、「しかし」以降もなかった。「ありますね」だけが、会議室の空気の中に残った。
「……補足がないほうが、本当に近い」
「たいていは」とA1が言った。
たいていは。例外もある、という言い方だった。でも「たいていは」が、今日については当てはまると思った。
外に出ると、日が高かった。午前中のまだ傾いていない光が、警察庁前のアスファルトを平らに照らしていた。影が短かった。
白いバスが路肩に停まっていた。
「乗ります」とA1が言った。
サクラが乗った。
バスが動き始めてから、サクラは窓の外を見た。
桜田門のあたりを通過した。堀に水が光っていた。光り方が均一ではなく、風で少しずつ揺れていた。揺れているから光って見える。揺れていなければ、ただの水だった。
「……向こうに説明しようとすると、また順番に困る」
A1が「またか」と言った。ため息ではなく、「また」という事実として言った。
「Kが怖いこともあると言ったこととか」
「うん」
「あれは——Kへの質問が怖かったんじゃなくて、答えが来るかどうかが怖かった気がします」
「来た」
「来ました。……来るとは思っていなかった」
「そうか」
A1が前を向いたまま言った。
「来たことを、どう思うか」とA1が聞いた。珍しかった。A1が「どう思うか」を聞くのは、珍しい。
サクラは少し考えた。
「……怖いことが、Kにもある、という事実が——なんか」
「なんか」
「ほっとした、って言うとおかしいですか」
A1が少し間を置いた。
「おかしくない」
「ほっとするのが正しいのかどうか分からないんですけど。ほっとした」
「理由は」
「……怖いことがある人間の判断を、信じやすい気がして」
言ってから、「これは正しい論理じゃないかもしれない」と思った。怖いことがあっても判断が正しいかどうかは別の問題だ。でも「ほっとした」という事実は、論理の前にある。論理より先に来た。
「怖いことがある人間の判断を——信じやすい」
A1が繰り返した。繰り返してから、「なるほど」と言った。「なるほど」という言い方が、A1からはあまり来ない言い方だった。「処理した」のではなく「受け取った」ときに出る言い方に聞こえた。
「A1は——怖いことはありますか」
「ある」
「何が」
「今は言わない」
「……今じゃないんですか」
「今じゃない」
バスが信号で止まった。
信号が変わるまでの間、二人が黙った。黙っている間に、外を横切る人たちがいた。普通の顔の人たちが、信号を待って渡っていった。あの人たちは「今日、K機関が公安部の人間と会議をした」ことを知らない。知らないまま、信号を渡っている。
信号が変わった。バスが動いた。
「今じゃない怖さが——あるんですね」
「ある」
「そういうものですか」
「そういうものだよ」
A1が前を向いたまま言った。
サクラは窓の外に目を戻した。
堀の水はもう見えなかった。いつの間にか通り過ぎていた。揺れている水が光っていたことと、それが通り過ぎたことだけが残った。
「……怖いこともある」
もう一度言った。
今度は、誰に向けても言わなかった。
向こうに言ったわけでも、A1に言ったわけでも、Kに向けて言ったわけでもない。ただ「怖いこともある」という事実を、窓の外の方向に出した。
答えは来なかった。
来なくて、でも言えた。
それだけだった。
目黒合同庁舎に戻ったのは、昼前だった。
Qが資料室にいた。もう次の仕事に入っていた。「坂口との接触記録のまとめが終わったら見てください」とだけ言って、Qは画面の方を向いた。
A1が「先に確認作業に入る」と言って廊下を曲がっていった。
サクラは一人で廊下に立った。
廊下の突き当たりに、半分だけカーテンが開いた窓がある。昨日もその窓から外を見た。今日も見た。外は昼前の空で、雲が少なかった。
午前中だけで、見てきたものが多い。
Kの足音のなさと、「ありますね」という一言と、坂口が「なるほど」と言ったときの目の細め方と、堀の水が揺れながら光っていたことと——それらが全部、午前中の中にある。
繋がらなくていい。A1が昨日言ったことを、サクラは思い出した。
全部、今日の午前のことだ。
「……怖いこともある、か」
声に出した。廊下に向かって出た。答えは来なかった。
来なかったが、言えた。
今日の廊下は、昨日の廊下と同じ廊下だった。でも歩いた回数が一回増えた。一回増えた廊下には、何かが少しだけ積まれていくのかもしれなかった。積まれているのかどうか、サクラには見えなかった。見えないが、「あるとしたらそういうものだ」という感触だけがあった。
窓の外で、雲が一つ動いた。