アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
通知が来たのは、声を出している最中だった。
NOISE BOXの地下フロアではなく、池袋の会合用アパートの一室。貢一から連絡があって翌週の配信素材を整理しながら、キヅキは独り言のように喋っていた。喋ることが先にある。素材が出てきてから録音を始める。録音が始まってから何を言うかを考える。この順番でないと、声が出ない。
イヤーカフは今夜つけていなかった。変身するつもりはなかったから。でも妖精はいた。右耳の内側から、ずっとそこにある感触。
通知は音ではなく、温度として来た。
「キヅキ」と妖精が言った。いつもの「すごい数字だよ」でも「気配があるよ」でもない声。低かった。「今夜、K機関が一斉展開します」
キヅキは喋るのをやめた。スマートフォンを机に置いた。
「複数の変身者が標的になっています。あなたも含まれているかもしれない」
「……K機関って」とキヅキは言った。「いつも一人二人じゃないの」
「今夜は違う」
違う、という言い方が妖精の声に乗る。乗り方がいつもと違った。「絶対大丈夫」でも「どうにかなるよ」でもなく、ただ「違う」とだけ言った。妖精がただ「違う」とだけ言うのは、珍しかった。珍しかったから、本当のことだと思った。
スマートフォンを手に取る。画面を開かない。手の中でそのまま持つ。
「場所は」
「代々木公園、周辺」
「今夜、全員集まる感じがするよね」とキヅキは言った。
妖精が少し間を置いた。「……うん」
間の置き方が、知っていた、という感じだった。前から分かっていた、という感じ。でも聞かなかった。妖精に「前から分かってたなら教えてよ」と言うことは、あまり意味がなかった。
キヅキはイヤーカフを耳につけた。変身するとはまだ決めていない。でもつけた。
「——聴こえてる?」
誰に向けるともなく言った。壁に向かって。妖精は答えなかった。答えが来なくても、声は出た。それでいい。
「行ってみよ」
立ち上がる。コートを取る。ドアを開ける。廊下が暗かったので、一度だけ声を出した。「あ」という音。出口のない廊下みたいな音。それが出ると、今夜が始まる。
通知より先に、夜の公園の形が変わった。
何かが、いた。複数。
ミドリは池袋から一時間かけて来た代々木公園の外周に立って、右の袖の内側を親指でなぞっていた。夜の空気が頬に当たっていた。頬の感触が今夜は正確だった。感覚過敏が落ち着いている夜は、たいてい、何かがある夜だ。
スマートフォンが震えた。
妖精から。
「今夜、危ないかもしれない場所に、誰かがいます」
ミドリは通知を読んで、もう一度夜の公園の方向を見た。
「誰が」
「分からない。でも、います」
分からない、という妖精の言い方が正直だった。ミドリの妖精は正直だった。「絶対大丈夫」と言ったことがほとんどない。「危ないかもしれない」と言うとき、本当に危ないかもしれない。本当に危ないかもしれないから、行かないといけない。
行かないといけない、という動機の形がミドリには少し不思議だった。
自分は別に怪我をしたいわけではない。怪我は嫌だ。でも「誰かがいます」と言われると、確認しないまま家に帰れない。確認する、というのが「守る」になるかどうかも分からないのに。
「場所は」
「今います。すでに、来ています」
来ている。
ミドリは変身した。地面に向かって「ここにいて」と言った。地面から来る感触が足元から上がって、膝、腰、胸。変身が完了するとき、空気が変わった。自分の場所になった。変身している間だけ、場所が自分のものになる。変身していない間は、場所はただの場所だ。
「誰かが、いる、と思った。複数」と呟いた。
誰にも聞こえなかった。それでよかった。
「今夜、K機関が来ます」
妖精が言ったとき、ユカリはマンションの一室の窓の前に立っていた。変身していなかった。変身する理由を今夜は探していた。探していたが見つからなかった。見つからないまま夜になった。
「…………」
妖精が待っている。ユカリが答えるのを待っている。
窓の外に夜の東京が見えた。光の集合体。光の一つひとつに誰かがいて、誰かの夜が動いていた。その中のどこかに、K機関がいる。今夜、一斉に動く。そういう夜だと妖精は言っている。
変身する理由——今夜は、ある。
その思考が来た瞬間、ユカリは変身していた。
考えたから変身したのか、変身が先にあって考えがついてきたのか、どちらだったか正確には分からなかった。こういうことがある。変身というのは、意志より少し速く来ることがある。それが怖かった時期がある。今は、怖いとも思わない。怖くないことが怖いかどうかも考えない。
変身した状態で、ユカリは窓の前に立ち続けた。
出るか。
出ない方がいいか。
——変わる、とあの夜に言った。変わることを、続けるか。
「出ます」と言った。誰にも聞こえない部屋の中で。
それでも言葉にすると、出る気になった。
「K機関が来るよ」
妖精が言った。カノンは屋根の端に寝そべったまま、夜空を見ていた。星は見えなかった。東京の夜空には星がない。でも「ない」ということは分かる。あるはずのものがないことは、分かる。
「あー、そう」
変身したままだった。変身を解く理由がなかったから、解いていなかった。それだけのことだ。炎が指先を舐めていた。熱くはない。熱を感じないまま、炎がある。
「どこ」
「代々木公園の方向」
カノンは起き上がった。屋根の端に足を出して、下を見た。かなり高い。高い場所が好きだ。なぜ好きかは考えたことがない。考えなくても好きだから好きだ。
「……行ってみよ」
特に感情がなかった。感情がないまま、立った。感情がないまま、下を見た。感情がないまま、地面まで降りる最短ルートを計算した。
計算が終わる前に身体が動いていた。
「あー、来たよ」というのは、もう少し後で、地面に降り着いてから言った言葉だ。誰も聞いていなかった。でも言った。声に出すと、今夜の始まりになる。
本郷のビルの一室ではなく、今夜は別の場所だった。
代々木公園から離れた、どこかの車の中。ヨグがノートパソコンを膝の上に開いていた。モニターに複数の変身者の位置情報が映っていた。
「今夜、K機関が動く」
ヨグが言った。数字として言った。感情として言ったわけではない。
「K機関が一斉展開した記録を映像で残せれば」
「ネガキャンの第三波に使える」と小牧が続けた。
声が低く、ゆっくりしていた。怒らない人の声だ。怒らない人の声で、夜の計画を話している。
「誰かに現場にいてもらう必要がある」
「ユカリへのDMへの返信は来ていません」
「……では、別のルートで」と小牧は言った。
間が一拍あった。
小牧が外を見た。夜の道路を白い光が走っていた。普通の車の光だったが、「白」という色がある種の形として見えた瞬間だった。
「記録されれば、それが映像になる。映像になれば、見た人が判断する」
「数字は道徳より正直だから」とヨグが言った。
「そうですね」と小牧が言った。
二人が同じ方向を向いていた。
K機関の庁舎でQから通信が来たのは、夕方の仕事が終わってから、だいたい一時間後のことだった。
「今夜、K機関が展開します」
一度言っておくと——
この展開、ワタシはわりと急に聞いた。急に聞いたので、説明する順番に困る。何から言うのが一番正確なのか、言いながら考えないといけない。
「サクラ」
A1が来た。廊下から。足音がなかったが、来たことは分かった。
「誰に向けて喋ってるんだ?」
「向こうです」
「は?」
A1が少し間を置いた。今夜で何回目だろう。毎回ツッコミが来るが、毎回少し違う形のツッコミが来る。今夜のは「誰に向けて」という形だった。「誰に向けてなのか」という形は、今夜が初めてだった気がする。
「今夜は一人で動かない」とA1が言った。
「……分かりました」
Qからの通信が続いていた。
「現在確認中の変身者:黄・緑・赤。紫は気配あり、未確定。集結点は代々木公園付近の一帯」
全員が、同じ方向に向かっている。
妖精が全員を向かわせている——それが「妖精のプログラム」なのか、誰かが「動かした」のか、今夜の時点ではまだ分からない。Qも分からない。A1も、少なくとも今夜は「まだ分かりません」と言う。
「全員が同じ場所に来るって——おかしくない?」
「妖精のプログラムだろう、恐らくは」とA1が言った。
「誰かが動かした?」
「……可能性はある」
「誰が」
「これから捜査する」
——「これから捜査する」という言葉が今夜のA1の中で一番重たい言葉だった、とワタシは思っている。
だから、少し怖かった。
白いバスが出発した。
目黒合同庁舎の地下駐車場から、夜の道路へ。出口のシャッターが上がる音が、コンクリートの壁に反響して来る。その音が耳に届く前に、バスはもう動いていた。
サクラはバスの後部の座席に座っていた。向かいにA1がいる。
車内は静かだった。機材のファンが低く回っている音と、タイヤが路面を踏む感触。それだけが夜の交通の中にあった。
窓の外に夜の道路が流れていく。
一つだけ言わせてほしいんだけど。
今夜のこの感じ——白いバスが夜の道を走っているこの感じは、「始まる前の静けさ」というより「始まった後の最初の一歩」に近かった。Qからの通信があって、A1が来て、「行きます」と言って、バスに乗った。その間、サクラは何かを決めたわけじゃない。でも気がついたら動いていた。カノンが計算の前に動いていたのと、少し似てるかもしれない。似てるかどうかはよく分からないけど。
「またどこかに話しかけてる」
A1が言った。質問じゃなかった。確認だった。向かいの座席から、サクラを見ていた。
「今の話、聞こえてた」
「え、声に出てましたか」
「一言目から」
「……すみません」
A1が少し間を置いた。
「謝らなくていい」
それだけ言って、また窓の外を見た。今夜のツッコミは確認のかたちで来た。「誰に向けてなのか」でも「また始まった」でもなく、ただ「聞こえてた」という形。毎回少し違う。
Qからの通信が来た。
「現在、代々木方向の各ルートを確認中。変身者の位置:黄は公園北東、緑は外周に到達済み、赤は——南側から接近中。紫は公園内部に気配。全員が今夜、同一エリアに集まっています」
A1が短く確認の応答を返した。
「全員が同じ場所に向かってる」とサクラは言った。
「さっきも言った」
「分かってます。でも言いたくなる」
「言いたくなる理由は」
「実感が遅れてくる感じがするんです。頭で分かってから、しばらくして——ああ、本当にそうなんだ、って来る」
A1が返事をしなかった。返事をしない方の間だった。
数秒後、「それは——」と言いかけて、止まった。
「それは?」
「処理の順番の話だ。頭が先に動いて、体が後からついてくる」
「A1もそういうことありますか」
「ない」
「……そうか」
「ログが全部同時に処理される。遅延はない」
「羨ましいような、そうでもないような」
A1が少し首を動かした。「そうでもない、というのは」
「なんか——ちゃんと間が空かないと、来たことが来たって分からない気がして」
「間が空かない方が効率的だが」
「効率が全部じゃないんじゃないですか」
A1が少し止まった。止まって、答えなかった。
バスが国道を抜けて、代々木方向に向かう道に入った。
信号が赤になって、バスが止まった。止まった瞬間、後ろから低い音が来た。エンジン音より重い。路面を振動が伝わってくる感触。
窓の外を見た。
車線の後方に、光が並んでいた。
赤灯だった。
赤と青が交互に、夜道に溶けていた。パトカーの赤灯ではなかった。もっと横に広い。幅がある。一台ではなく、複数台。
「A1、あれは」
「Kの指令で動員された部隊だ。今夜は総がかりになる」
サクラは窓に顔を近づけた。
車線の右端を、青と白の縦縞が走っていた。機動隊のバスだった。横幅があって、角張っていて、白いラインが夜の中で光って見えた。その後ろに、黒い車が続いていた。普通の車より低くて、四角い。防弾仕様のSUVだと分かった。並走するように、覆面パトカーが走っている。屋根の赤灯が上がっていた。隠す気が今夜はないらしかった。
さらに後ろに、もう一台。
装甲車だった。四角い箱が、夜の道路の上にそのまま置かれているような形をしていた。
これが全部、同じ方向に向かっている。
「……多い」とサクラは言った。
「今夜は多い」とA1が言った。
それだけだった。「今夜は多い」と言って、窓の外を見た。見ている間に、信号が青になった。バスが動き出した。
「Kが集めたんですか、全部」
「Kの指令だよ」
「こんなに動かすことが——普通なんですか」
「普通じゃない」
「でも今夜は」
「今夜は、そう判断された」
Qからの通信が来た。「東側に迂回路を確認。障害なし。代々木公園外周まで、現在の速度で約十二分」
十二分。
サクラは窓の外を見た。黒い防弾SUVが並走している。その車の中に、誰かがいる。窓が暗くて見えない。でも、いる。
「A1は——こういう夜に、何か感じますか」
「感じる」
「何を」
「処理量が増える。通信の数が増えて、判断の頻度が上がる。それが処理量として増える」
「それだけですか」
「……」
「処理量、以外に」
A1が少し間を置いた。窓の外を見たまま、間を置いた。
「動く前と、動いた後で——重さが変わることがある」
「重さ?」
「事案の重量、とでも言えばいいか。今夜は、重い方の夜だな」
「そういう感覚があるんですね」
「たまに来るさ」
サクラは「そうですか」と言いかけて、止めた。止めて、もう少し考えた。
「そんな時どうするんですか」
「動き回る」
「それだけ?」
「それだけ。動きながら処理する」
「動きながら処理する——それ、ちょっと分かります」
A1がサクラを見た。直接見てきた。
「なんか、似てる気がする。さっき言ってた、実感が遅れてくるの——それに似てます。走りながら、後から来る」
「……そうかもしれない」
A1がまた窓の外を見た。「そうかもしれない」という言い方をしたのは、珍しかった。断言でも否定でもなく、「かもしれない」という形で返ってきた。
代々木に近づくにつれて、道路から雑音が減っていった。
夜中なのに人が少ない。コンビニの光が一つ、二つ、通り過ぎる。その向こうに暗い木立が見えてきた。公園の輪郭が、夜の中でぼんやりと形をとっている。
バスのヘッドライトが前方を照らしている。
その光の先に、道路が続いていた。
Qからの通信が来た。「外周に変身者の気配が複数。Jは現在、公園南東側で待機中。接近してください」
「分かりました」とA1が答えた。
「今夜の作戦方針は」
「制圧優先。ただし——」A1が少し間を置いた。「今夜は状況が変動しやすい。現場判断を優先してください」
「Kの指示ですか」
「Kの方針です」
サクラは頷いた。
「今夜は一人で動かない」と言っていた。さっきのA1の言葉。「今夜は」という言い方が、今夜だけに限定しているようでいて、もっと広い話をしていたような気がした。気がしただけかもしれない。
「A1」
「なに」
「今夜、うまくいくと思いますか」
A1が「うまくいく」という言葉を少し検討するような間があった。
「うまくいく、というのを、どう定義するかによって変わります」
「K機関として、の意味で」
「全員の制圧ができれば、うまくいった、になる」
「できると思いますか」
「今夜は——難しいかもしれない」
「なんで」
「全員が同じ場所にいる夜は、変数が多すぎる。把握できない動きが出る可能性が高い」
「さっき言ってた、誰かが動かしたかもしれないって——それが関係してますか」
「関係しているかもしれない。でも証明できない」
「証明できないまま動くんですか」
「動くしかない場面があります」
窓の外に、暗い木立が近づいてきた。公園の外周の街灯が、点々と続いている。その光が水の上の反射みたいに揺れて見えた。バスの振動のせいだ。
「サクラ」とA1が言った。
「はい」
「今夜——無理に前に出るな」
「前に?」
「俺が動いている間、後ろから状況を見ていろ。動く必要があると判断したときだけ動け」
「……それって、信用されてないってことですか」
「違う」
「じゃあ」
「今夜の現場は、ゆとりがない。ゆとりがない場所でサクラが動くと——俺の処理が増える」
「それは」とサクラは言った。「つまり心配してるってことですか」
A1が少し止まった。
「心配、という語彙が正確かどうかは分からない」
「でも気にはしてる」
「……処理の優先順位として、サクラの安全は上位に入っています」
「言い方が機械的ですが」
「機械的ですよ」
「でも聞こえた」
A1が返事をしなかった。返事をしない間が、今夜は少し長かった。
窓の外で、代々木公園の木立が横に流れていく。バスのヘッドライトが先に届いて、暗い葉のシルエットを照らした。光が届いた先に何かがあるような気がして——でも何もなかった。光が届いてから分かることが、今夜はある。
バスが速度を落とした。
外周路に入ったらしかった。
「降ります」とA1が言った。
「はい」とサクラは言った。
バスが止まった。ドアが開いた。夜の空気が入ってきた。公園の夜は、道路の夜より少し湿っていた。草の匂いが混じっていた。
踏み出す前に、サクラは一度だけ向こうを見た。
向こうに向かって最後に言わせてほしいんだけど——こういう夜が、「普通の夜」との区別がだんだんなくなってくる気がする。前は、バスに乗って夜の道を走るたびに、これは特別な夜だと思っていた。今はそう思わない。普通の夜に、普通に乗って、普通に降りる。「普通」が変わってしまった。それが怖いかどうかは、まだ分からない。
「サクラ」
A1が先に降りていた。振り返ってサクラを見ていた。
「行くぞ」
「はい」と言いながら、サクラはドアから降りた。
夜の公園が、目の前にあった。
カノンはすでに来ていた。
外周の木に一本、うまい位置で枝が張り出しているのを見つけたらしく、そこに座って足をぶらぶらさせていた。変身したままだった。炎が指先を舐めていた。
「遅いじゃん」とカノンが言った。
誰に向けているかは分からなかった。サクラに向けているようでも、A1に向けているようでも、どちらにも向けていないようでもあった。
「ヒノデ・カノン」とサクラは言った。「今夜は——」
「知ってる」とカノンが言った。「任意同行でしょ」
「そうです」
「断る」
「だろうと思いました」
カノンが少し首を傾けた。「今日は諦め早いな」
「早くないです。断られるのが分かってても、言わないといけないので」
「そういうもんか」とカノンが言った。特に感情が乗らない言い方だった。「……A1も来たんだ、今夜は」
「来ました」
「へー」
カノンの足が止まった。ぶらぶらさせていた足が、空中で止まった。
「今夜——なんか多い気がする」とカノンが言った。公園の外、サクラたちが来た方向を見ていた。「あのバス一台じゃないよね」
「一台じゃないです」
「何台」
「機動隊のバスが来ています。車両も複数」
カノンが「へー」ともう一度言った。今度は少し違う質感だった。「ふーん」に近い言い方だった。
「そんなに集めたんだ」と言って、枝から飛び降りた。地面に着地した。一切音がしなかった。変身した状態での着地は音がしない、ということを、サクラはまだ慣れていなかった。
カノンが正面に立った。
「別に関係ないけど」とカノンが言った。「なんか今夜——つまんない気がする。なんでだろ」
「つまんない?」
「そういう気分の夜ってある。そういう夜は、やってても面白くない」
「面白くないならやめればいいじゃないですか」
「やめる理由もない」
「……」
「来たから、やる。それだけ」
カノンが前に出てきた。
サクラは右手のものを短く持った。
線を一本、引く。
前に出てくるカノンとの間に、境界を置く。境界は攻撃じゃない。一度引いたら一度分の仕事はする。それだけのことだ。
カノンが線を踏んだ瞬間に、熱が来た。
リソースが一拍、押された感触があった。押されて、でも通った。境界を突き破るより、少し消耗して越えてきた、という感触。カノンの消耗はさらに大きいはずだった。でもカノンは止まらなかった。
「来るな」とサクラは言いながら、もう一本引いた。
「来ちゃうんだよな」とカノンが言った。「来ないでいる理由が、今夜は特にない」
「理由なく来てるんですか」
「理由がないってことが理由みたいなもんでしょ」
線を三本引いた。カノンが三本越えるごとに、少しずつ歩みが重くなっていくのが分かった。積み上がっていく。でもカノンは止まらなかった。
A1が横から出てきた。
カノンとサクラの間に入ってきた。入ってきて、カノンの前に立った。
「……」とカノンが止まった。
A1を見た。
「A1」とカノンが言った。名前として言った。何かを呼んだ言い方ではなくて、ただ確認した言い方。
「ヒノデ・カノン。今夜の状況は——」
「分かってる」とカノンが言った。「バスがいっぱい来てる。全員でかかってくる気でしょ」
「状況に応じた動員です」
「えらいじゃん」とカノンが言った。「えらいと思う。ちゃんとやってる」
「やめてほしいなら、今夜は自分から動くな」
「やめない」
「なぜ」
「やめる気分じゃない」
A1が少し間を置いた。
「A1って、疲れないの」
カノンが突然言った。攻撃をするかしないかの位置から、構えを変えないまま。
「疲れません」
「そう」
「……何故、その質問を」
「なんとなく」とカノンが言った。「さっきから見てたら——疲れてないんだなって」
「疲れない設計です」
「いいな」
それが小さく出た。「いいな」という言葉が、声に出る前に処理されなかったみたいに、出てきた。カノンが「いいな」と言ったことで、カノン自身が少し止まった。
「……いいな」とカノンがもう一度言った。今度は確認みたいに。自分が言った言葉を確かめるみたいに。「疲れないって、いいな」
「疲れないことで、失うものもある」とA1が言った。
「なにを」
「疲れないと——休む理由がない」
カノンが少し止まった。
「休む理由がない、か」
「はい」
「……それは、嫌だな」
カノンがそう言って、また前に出てきた。
「でも、いいな、とは思う。疲れないって——よこせ」
最後の言葉が来た瞬間に、カノンの右手が来た。
A1が動いた。
サクラが後ろから線を引いた。
夜の公園の外周で、三つの動きが同時に始まった。
Qからの通信が来た。
「東側——人間が複数います。変身者ではない。スマートフォンで撮影しています」
「撮影?」とサクラは動きながら言った。
「意図的な記録です。サーカスの手配した人員だと思われます。排除できますか」
サクラが線を引きながら、東の方向を一度だけ見た。
木立の向こうに、人影があった。暗くて顔は見えない。でもスマートフォンの光が見えた。画面が、夜の中で白く光っていた。
「……ちょっと待ってください」とサクラは言った。
「時間がありません」
「一秒だけ」
一秒で、考えた。
「Qは今夜、ここで何が起きているか全部把握してますか」
「把握中です」
「撮影している人たちが撮っているのは——K機関の動きですか。それとも変身者ですか」
「……おそらく、K機関の動員状況と見られます。A1の制圧行為を中心に記録しています」
「排除したら——」
「記録が残らない可能性が上がります」
「排除しなかったら」
「記録が残ります」
サクラは右手のものを一本引きながら、答えた。
「Kに確認を取ってください。ワタシは判断できないです、これは」
一拍の沈黙があった。
「……了解しました。Kへ確認します」
通信が一時的に切れた。
切れた間に、カノンとA1の動きが続いていた。カノンが「よこせ」と言いながら動いている。A1が細い棒を出して、カノンの動きを止めようとしている。光が出た棒が、夜の中で一瞬白く見えた。
サクラは線を引き続けた。
線を引くのが仕事だから、引く。判断できないものは判断を待つ。動ける間は動く。
東の方向の木立の向こうに、白いスマートフォンの光がまだあった。
「Kより回答」とQが来た。
「今夜は排除しない。記録は残る。その上で動け。以上」
「分かりました」
サクラは前を向いた。
カノンがA1の棒を一度かわして、また前に出てきた。「疲れないっていいな」と言ったカノンの声が、まだどこかに残っていた。サクラの頭の中に残っていた。
線を一本、引いた。
夜の公園の空気が、少し重かった。
草の匂いと、排気ガスの匂いが混じっていた。その向こうに、機動隊のバスのエンジン音が低く続いていた。
今夜が重い方の夜だ、とA1が言っていた。
そうかもしれなかった。