アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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7.アイコニック・スモーク-Iconic Smoke-

通知が来たのは、声を出している最中だった。

NOISE BOXの地下フロアではなく、池袋の会合用アパートの一室。貢一から連絡があって翌週の配信素材を整理しながら、キヅキは独り言のように喋っていた。喋ることが先にある。素材が出てきてから録音を始める。録音が始まってから何を言うかを考える。この順番でないと、声が出ない。

イヤーカフは今夜つけていなかった。変身するつもりはなかったから。でも妖精はいた。右耳の内側から、ずっとそこにある感触。

通知は音ではなく、温度として来た。

「キヅキ」と妖精が言った。いつもの「すごい数字だよ」でも「気配があるよ」でもない声。低かった。「今夜、K機関が一斉展開します」

キヅキは喋るのをやめた。スマートフォンを机に置いた。

「複数の変身者が標的になっています。あなたも含まれているかもしれない」

「……K機関って」とキヅキは言った。「いつも一人二人じゃないの」

「今夜は違う」

違う、という言い方が妖精の声に乗る。乗り方がいつもと違った。「絶対大丈夫」でも「どうにかなるよ」でもなく、ただ「違う」とだけ言った。妖精がただ「違う」とだけ言うのは、珍しかった。珍しかったから、本当のことだと思った。

スマートフォンを手に取る。画面を開かない。手の中でそのまま持つ。

「場所は」

「代々木公園、周辺」

「今夜、全員集まる感じがするよね」とキヅキは言った。

妖精が少し間を置いた。「……うん」

間の置き方が、知っていた、という感じだった。前から分かっていた、という感じ。でも聞かなかった。妖精に「前から分かってたなら教えてよ」と言うことは、あまり意味がなかった。

キヅキはイヤーカフを耳につけた。変身するとはまだ決めていない。でもつけた。

「——聴こえてる?」

誰に向けるともなく言った。壁に向かって。妖精は答えなかった。答えが来なくても、声は出た。それでいい。

「行ってみよ」

立ち上がる。コートを取る。ドアを開ける。廊下が暗かったので、一度だけ声を出した。「あ」という音。出口のない廊下みたいな音。それが出ると、今夜が始まる。

 


 

通知より先に、夜の公園の形が変わった。

何かが、いた。複数。

ミドリは池袋から一時間かけて来た代々木公園の外周に立って、右の袖の内側を親指でなぞっていた。夜の空気が頬に当たっていた。頬の感触が今夜は正確だった。感覚過敏が落ち着いている夜は、たいてい、何かがある夜だ。

スマートフォンが震えた。

妖精から。

「今夜、危ないかもしれない場所に、誰かがいます」

ミドリは通知を読んで、もう一度夜の公園の方向を見た。

「誰が」

「分からない。でも、います」

分からない、という妖精の言い方が正直だった。ミドリの妖精は正直だった。「絶対大丈夫」と言ったことがほとんどない。「危ないかもしれない」と言うとき、本当に危ないかもしれない。本当に危ないかもしれないから、行かないといけない。

行かないといけない、という動機の形がミドリには少し不思議だった。

自分は別に怪我をしたいわけではない。怪我は嫌だ。でも「誰かがいます」と言われると、確認しないまま家に帰れない。確認する、というのが「守る」になるかどうかも分からないのに。

「場所は」

「今います。すでに、来ています」

来ている。

ミドリは変身した。地面に向かって「ここにいて」と言った。地面から来る感触が足元から上がって、膝、腰、胸。変身が完了するとき、空気が変わった。自分の場所になった。変身している間だけ、場所が自分のものになる。変身していない間は、場所はただの場所だ。

「誰かが、いる、と思った。複数」と呟いた。

誰にも聞こえなかった。それでよかった。

 


 

「今夜、K機関が来ます」

妖精が言ったとき、ユカリはマンションの一室の窓の前に立っていた。変身していなかった。変身する理由を今夜は探していた。探していたが見つからなかった。見つからないまま夜になった。

「…………」

妖精が待っている。ユカリが答えるのを待っている。

窓の外に夜の東京が見えた。光の集合体。光の一つひとつに誰かがいて、誰かの夜が動いていた。その中のどこかに、K機関がいる。今夜、一斉に動く。そういう夜だと妖精は言っている。

変身する理由——今夜は、ある。

その思考が来た瞬間、ユカリは変身していた。

考えたから変身したのか、変身が先にあって考えがついてきたのか、どちらだったか正確には分からなかった。こういうことがある。変身というのは、意志より少し速く来ることがある。それが怖かった時期がある。今は、怖いとも思わない。怖くないことが怖いかどうかも考えない。

変身した状態で、ユカリは窓の前に立ち続けた。

出るか。

出ない方がいいか。

——変わる、とあの夜に言った。変わることを、続けるか。

「出ます」と言った。誰にも聞こえない部屋の中で。

それでも言葉にすると、出る気になった。

 

 


 

「K機関が来るよ」

妖精が言った。カノンは屋根の端に寝そべったまま、夜空を見ていた。星は見えなかった。東京の夜空には星がない。でも「ない」ということは分かる。あるはずのものがないことは、分かる。

「あー、そう」

変身したままだった。変身を解く理由がなかったから、解いていなかった。それだけのことだ。炎が指先を舐めていた。熱くはない。熱を感じないまま、炎がある。

「どこ」

「代々木公園の方向」

カノンは起き上がった。屋根の端に足を出して、下を見た。かなり高い。高い場所が好きだ。なぜ好きかは考えたことがない。考えなくても好きだから好きだ。

「……行ってみよ」

特に感情がなかった。感情がないまま、立った。感情がないまま、下を見た。感情がないまま、地面まで降りる最短ルートを計算した。

計算が終わる前に身体が動いていた。

「あー、来たよ」というのは、もう少し後で、地面に降り着いてから言った言葉だ。誰も聞いていなかった。でも言った。声に出すと、今夜の始まりになる。

 

 


 

 

本郷のビルの一室ではなく、今夜は別の場所だった。

代々木公園から離れた、どこかの車の中。ヨグがノートパソコンを膝の上に開いていた。モニターに複数の変身者の位置情報が映っていた。

「今夜、K機関が動く」

ヨグが言った。数字として言った。感情として言ったわけではない。

「K機関が一斉展開した記録を映像で残せれば」

「ネガキャンの第三波に使える」と小牧が続けた。

声が低く、ゆっくりしていた。怒らない人の声だ。怒らない人の声で、夜の計画を話している。

「誰かに現場にいてもらう必要がある」

「ユカリへのDMへの返信は来ていません」

「……では、別のルートで」と小牧は言った。

間が一拍あった。

小牧が外を見た。夜の道路を白い光が走っていた。普通の車の光だったが、「白」という色がある種の形として見えた瞬間だった。

「記録されれば、それが映像になる。映像になれば、見た人が判断する」

「数字は道徳より正直だから」とヨグが言った。

「そうですね」と小牧が言った。

二人が同じ方向を向いていた。

 


 

 

K機関の庁舎でQから通信が来たのは、夕方の仕事が終わってから、だいたい一時間後のことだった。

「今夜、K機関が展開します」

一度言っておくと——

この展開、ワタシはわりと急に聞いた。急に聞いたので、説明する順番に困る。何から言うのが一番正確なのか、言いながら考えないといけない。

「サクラ」

A1が来た。廊下から。足音がなかったが、来たことは分かった。

「誰に向けて喋ってるんだ?」

「向こうです」

「は?」

A1が少し間を置いた。今夜で何回目だろう。毎回ツッコミが来るが、毎回少し違う形のツッコミが来る。今夜のは「誰に向けて」という形だった。「誰に向けてなのか」という形は、今夜が初めてだった気がする。

「今夜は一人で動かない」とA1が言った。

「……分かりました」

Qからの通信が続いていた。

「現在確認中の変身者:黄・緑・赤。紫は気配あり、未確定。集結点は代々木公園付近の一帯」

全員が、同じ方向に向かっている。

妖精が全員を向かわせている——それが「妖精のプログラム」なのか、誰かが「動かした」のか、今夜の時点ではまだ分からない。Qも分からない。A1も、少なくとも今夜は「まだ分かりません」と言う。

「全員が同じ場所に来るって——おかしくない?」

「妖精のプログラムだろう、恐らくは」とA1が言った。

「誰かが動かした?」

「……可能性はある」

「誰が」

「これから捜査する」

——「これから捜査する」という言葉が今夜のA1の中で一番重たい言葉だった、とワタシは思っている。

 

だから、少し怖かった。

 


 

 

白いバスが出発した。

目黒合同庁舎の地下駐車場から、夜の道路へ。出口のシャッターが上がる音が、コンクリートの壁に反響して来る。その音が耳に届く前に、バスはもう動いていた。

サクラはバスの後部の座席に座っていた。向かいにA1がいる。

車内は静かだった。機材のファンが低く回っている音と、タイヤが路面を踏む感触。それだけが夜の交通の中にあった。

窓の外に夜の道路が流れていく。

 

一つだけ言わせてほしいんだけど。

今夜のこの感じ——白いバスが夜の道を走っているこの感じは、「始まる前の静けさ」というより「始まった後の最初の一歩」に近かった。Qからの通信があって、A1が来て、「行きます」と言って、バスに乗った。その間、サクラは何かを決めたわけじゃない。でも気がついたら動いていた。カノンが計算の前に動いていたのと、少し似てるかもしれない。似てるかどうかはよく分からないけど。

「またどこかに話しかけてる」

A1が言った。質問じゃなかった。確認だった。向かいの座席から、サクラを見ていた。

「今の話、聞こえてた」

「え、声に出てましたか」

「一言目から」

「……すみません」

A1が少し間を置いた。

「謝らなくていい」

それだけ言って、また窓の外を見た。今夜のツッコミは確認のかたちで来た。「誰に向けてなのか」でも「また始まった」でもなく、ただ「聞こえてた」という形。毎回少し違う。

 

Qからの通信が来た。

「現在、代々木方向の各ルートを確認中。変身者の位置:黄は公園北東、緑は外周に到達済み、赤は——南側から接近中。紫は公園内部に気配。全員が今夜、同一エリアに集まっています」

A1が短く確認の応答を返した。

「全員が同じ場所に向かってる」とサクラは言った。

「さっきも言った」

「分かってます。でも言いたくなる」

「言いたくなる理由は」

「実感が遅れてくる感じがするんです。頭で分かってから、しばらくして——ああ、本当にそうなんだ、って来る」

A1が返事をしなかった。返事をしない方の間だった。

数秒後、「それは——」と言いかけて、止まった。

「それは?」

「処理の順番の話だ。頭が先に動いて、体が後からついてくる」

「A1もそういうことありますか」

「ない」

「……そうか」

「ログが全部同時に処理される。遅延はない」

「羨ましいような、そうでもないような」

A1が少し首を動かした。「そうでもない、というのは」

「なんか——ちゃんと間が空かないと、来たことが来たって分からない気がして」

「間が空かない方が効率的だが」

「効率が全部じゃないんじゃないですか」

A1が少し止まった。止まって、答えなかった。

 

バスが国道を抜けて、代々木方向に向かう道に入った。

信号が赤になって、バスが止まった。止まった瞬間、後ろから低い音が来た。エンジン音より重い。路面を振動が伝わってくる感触。

窓の外を見た。

車線の後方に、光が並んでいた。

赤灯だった。

赤と青が交互に、夜道に溶けていた。パトカーの赤灯ではなかった。もっと横に広い。幅がある。一台ではなく、複数台。

「A1、あれは」

「Kの指令で動員された部隊だ。今夜は総がかりになる」

サクラは窓に顔を近づけた。

車線の右端を、青と白の縦縞が走っていた。機動隊のバスだった。横幅があって、角張っていて、白いラインが夜の中で光って見えた。その後ろに、黒い車が続いていた。普通の車より低くて、四角い。防弾仕様のSUVだと分かった。並走するように、覆面パトカーが走っている。屋根の赤灯が上がっていた。隠す気が今夜はないらしかった。

さらに後ろに、もう一台。

装甲車だった。四角い箱が、夜の道路の上にそのまま置かれているような形をしていた。

これが全部、同じ方向に向かっている。

「……多い」とサクラは言った。

「今夜は多い」とA1が言った。

それだけだった。「今夜は多い」と言って、窓の外を見た。見ている間に、信号が青になった。バスが動き出した。

「Kが集めたんですか、全部」

「Kの指令だよ」

「こんなに動かすことが——普通なんですか」

「普通じゃない」

「でも今夜は」

「今夜は、そう判断された」

Qからの通信が来た。「東側に迂回路を確認。障害なし。代々木公園外周まで、現在の速度で約十二分」

十二分。

サクラは窓の外を見た。黒い防弾SUVが並走している。その車の中に、誰かがいる。窓が暗くて見えない。でも、いる。

「A1は——こういう夜に、何か感じますか」

「感じる」

「何を」

「処理量が増える。通信の数が増えて、判断の頻度が上がる。それが処理量として増える」

「それだけですか」

「……」

「処理量、以外に」

A1が少し間を置いた。窓の外を見たまま、間を置いた。

「動く前と、動いた後で——重さが変わることがある」

「重さ?」

「事案の重量、とでも言えばいいか。今夜は、重い方の夜だな」

「そういう感覚があるんですね」

「たまに来るさ」

サクラは「そうですか」と言いかけて、止めた。止めて、もう少し考えた。

「そんな時どうするんですか」

「動き回る」

「それだけ?」

「それだけ。動きながら処理する」

「動きながら処理する——それ、ちょっと分かります」

A1がサクラを見た。直接見てきた。

「なんか、似てる気がする。さっき言ってた、実感が遅れてくるの——それに似てます。走りながら、後から来る」

「……そうかもしれない」

A1がまた窓の外を見た。「そうかもしれない」という言い方をしたのは、珍しかった。断言でも否定でもなく、「かもしれない」という形で返ってきた。

 

代々木に近づくにつれて、道路から雑音が減っていった。

夜中なのに人が少ない。コンビニの光が一つ、二つ、通り過ぎる。その向こうに暗い木立が見えてきた。公園の輪郭が、夜の中でぼんやりと形をとっている。

バスのヘッドライトが前方を照らしている。

その光の先に、道路が続いていた。

Qからの通信が来た。「外周に変身者の気配が複数。Jは現在、公園南東側で待機中。接近してください」

「分かりました」とA1が答えた。

「今夜の作戦方針は」

「制圧優先。ただし——」A1が少し間を置いた。「今夜は状況が変動しやすい。現場判断を優先してください」

「Kの指示ですか」

「Kの方針です」

サクラは頷いた。

「今夜は一人で動かない」と言っていた。さっきのA1の言葉。「今夜は」という言い方が、今夜だけに限定しているようでいて、もっと広い話をしていたような気がした。気がしただけかもしれない。

「A1」

「なに」

「今夜、うまくいくと思いますか」

A1が「うまくいく」という言葉を少し検討するような間があった。

「うまくいく、というのを、どう定義するかによって変わります」

「K機関として、の意味で」

「全員の制圧ができれば、うまくいった、になる」

「できると思いますか」

「今夜は——難しいかもしれない」

「なんで」

「全員が同じ場所にいる夜は、変数が多すぎる。把握できない動きが出る可能性が高い」

「さっき言ってた、誰かが動かしたかもしれないって——それが関係してますか」

「関係しているかもしれない。でも証明できない」

「証明できないまま動くんですか」

「動くしかない場面があります」

窓の外に、暗い木立が近づいてきた。公園の外周の街灯が、点々と続いている。その光が水の上の反射みたいに揺れて見えた。バスの振動のせいだ。

「サクラ」とA1が言った。

「はい」

「今夜——無理に前に出るな」

「前に?」

「俺が動いている間、後ろから状況を見ていろ。動く必要があると判断したときだけ動け」

「……それって、信用されてないってことですか」

「違う」

「じゃあ」

「今夜の現場は、ゆとりがない。ゆとりがない場所でサクラが動くと——俺の処理が増える」

「それは」とサクラは言った。「つまり心配してるってことですか」

A1が少し止まった。

「心配、という語彙が正確かどうかは分からない」

「でも気にはしてる」

「……処理の優先順位として、サクラの安全は上位に入っています」

「言い方が機械的ですが」

「機械的ですよ」

「でも聞こえた」

A1が返事をしなかった。返事をしない間が、今夜は少し長かった。

窓の外で、代々木公園の木立が横に流れていく。バスのヘッドライトが先に届いて、暗い葉のシルエットを照らした。光が届いた先に何かがあるような気がして——でも何もなかった。光が届いてから分かることが、今夜はある。

バスが速度を落とした。

外周路に入ったらしかった。

「降ります」とA1が言った。

「はい」とサクラは言った。

バスが止まった。ドアが開いた。夜の空気が入ってきた。公園の夜は、道路の夜より少し湿っていた。草の匂いが混じっていた。

踏み出す前に、サクラは一度だけ向こうを見た。

向こうに向かって最後に言わせてほしいんだけど——こういう夜が、「普通の夜」との区別がだんだんなくなってくる気がする。前は、バスに乗って夜の道を走るたびに、これは特別な夜だと思っていた。今はそう思わない。普通の夜に、普通に乗って、普通に降りる。「普通」が変わってしまった。それが怖いかどうかは、まだ分からない。

「サクラ」

A1が先に降りていた。振り返ってサクラを見ていた。

「行くぞ」

「はい」と言いながら、サクラはドアから降りた。

夜の公園が、目の前にあった。

 

カノンはすでに来ていた。

外周の木に一本、うまい位置で枝が張り出しているのを見つけたらしく、そこに座って足をぶらぶらさせていた。変身したままだった。炎が指先を舐めていた。

「遅いじゃん」とカノンが言った。

誰に向けているかは分からなかった。サクラに向けているようでも、A1に向けているようでも、どちらにも向けていないようでもあった。

「ヒノデ・カノン」とサクラは言った。「今夜は——」

「知ってる」とカノンが言った。「任意同行でしょ」

「そうです」

「断る」

「だろうと思いました」

カノンが少し首を傾けた。「今日は諦め早いな」

「早くないです。断られるのが分かってても、言わないといけないので」

「そういうもんか」とカノンが言った。特に感情が乗らない言い方だった。「……A1も来たんだ、今夜は」

「来ました」

「へー」

カノンの足が止まった。ぶらぶらさせていた足が、空中で止まった。

「今夜——なんか多い気がする」とカノンが言った。公園の外、サクラたちが来た方向を見ていた。「あのバス一台じゃないよね」

「一台じゃないです」

「何台」

「機動隊のバスが来ています。車両も複数」

カノンが「へー」ともう一度言った。今度は少し違う質感だった。「ふーん」に近い言い方だった。

「そんなに集めたんだ」と言って、枝から飛び降りた。地面に着地した。一切音がしなかった。変身した状態での着地は音がしない、ということを、サクラはまだ慣れていなかった。

カノンが正面に立った。

「別に関係ないけど」とカノンが言った。「なんか今夜——つまんない気がする。なんでだろ」

「つまんない?」

「そういう気分の夜ってある。そういう夜は、やってても面白くない」

「面白くないならやめればいいじゃないですか」

「やめる理由もない」

「……」

「来たから、やる。それだけ」

カノンが前に出てきた。

 

サクラは右手のものを短く持った。

線を一本、引く。

前に出てくるカノンとの間に、境界を置く。境界は攻撃じゃない。一度引いたら一度分の仕事はする。それだけのことだ。

カノンが線を踏んだ瞬間に、熱が来た。

リソースが一拍、押された感触があった。押されて、でも通った。境界を突き破るより、少し消耗して越えてきた、という感触。カノンの消耗はさらに大きいはずだった。でもカノンは止まらなかった。

「来るな」とサクラは言いながら、もう一本引いた。

「来ちゃうんだよな」とカノンが言った。「来ないでいる理由が、今夜は特にない」

「理由なく来てるんですか」

「理由がないってことが理由みたいなもんでしょ」

線を三本引いた。カノンが三本越えるごとに、少しずつ歩みが重くなっていくのが分かった。積み上がっていく。でもカノンは止まらなかった。

A1が横から出てきた。

カノンとサクラの間に入ってきた。入ってきて、カノンの前に立った。

「……」とカノンが止まった。

A1を見た。

「A1」とカノンが言った。名前として言った。何かを呼んだ言い方ではなくて、ただ確認した言い方。

「ヒノデ・カノン。今夜の状況は——」

「分かってる」とカノンが言った。「バスがいっぱい来てる。全員でかかってくる気でしょ」

「状況に応じた動員です」

「えらいじゃん」とカノンが言った。「えらいと思う。ちゃんとやってる」

「やめてほしいなら、今夜は自分から動くな」

「やめない」

「なぜ」

「やめる気分じゃない」

A1が少し間を置いた。

「A1って、疲れないの」

カノンが突然言った。攻撃をするかしないかの位置から、構えを変えないまま。

「疲れません」

「そう」

「……何故、その質問を」

「なんとなく」とカノンが言った。「さっきから見てたら——疲れてないんだなって」

「疲れない設計です」

「いいな」

それが小さく出た。「いいな」という言葉が、声に出る前に処理されなかったみたいに、出てきた。カノンが「いいな」と言ったことで、カノン自身が少し止まった。

「……いいな」とカノンがもう一度言った。今度は確認みたいに。自分が言った言葉を確かめるみたいに。「疲れないって、いいな」

「疲れないことで、失うものもある」とA1が言った。

「なにを」

「疲れないと——休む理由がない」

カノンが少し止まった。

「休む理由がない、か」

「はい」

「……それは、嫌だな」

カノンがそう言って、また前に出てきた。

「でも、いいな、とは思う。疲れないって——よこせ」

最後の言葉が来た瞬間に、カノンの右手が来た。

A1が動いた。

サクラが後ろから線を引いた。

夜の公園の外周で、三つの動きが同時に始まった。

 

Qからの通信が来た。

「東側——人間が複数います。変身者ではない。スマートフォンで撮影しています」

「撮影?」とサクラは動きながら言った。

「意図的な記録です。サーカスの手配した人員だと思われます。排除できますか」

サクラが線を引きながら、東の方向を一度だけ見た。

木立の向こうに、人影があった。暗くて顔は見えない。でもスマートフォンの光が見えた。画面が、夜の中で白く光っていた。

「……ちょっと待ってください」とサクラは言った。

「時間がありません」

「一秒だけ」

一秒で、考えた。

「Qは今夜、ここで何が起きているか全部把握してますか」

「把握中です」

「撮影している人たちが撮っているのは——K機関の動きですか。それとも変身者ですか」

「……おそらく、K機関の動員状況と見られます。A1の制圧行為を中心に記録しています」

「排除したら——」

「記録が残らない可能性が上がります」

「排除しなかったら」

「記録が残ります」

サクラは右手のものを一本引きながら、答えた。

「Kに確認を取ってください。ワタシは判断できないです、これは」

一拍の沈黙があった。

「……了解しました。Kへ確認します」

通信が一時的に切れた。

切れた間に、カノンとA1の動きが続いていた。カノンが「よこせ」と言いながら動いている。A1が細い棒を出して、カノンの動きを止めようとしている。光が出た棒が、夜の中で一瞬白く見えた。

サクラは線を引き続けた。

線を引くのが仕事だから、引く。判断できないものは判断を待つ。動ける間は動く。

東の方向の木立の向こうに、白いスマートフォンの光がまだあった。

 

「Kより回答」とQが来た。

「今夜は排除しない。記録は残る。その上で動け。以上」

「分かりました」

サクラは前を向いた。

カノンがA1の棒を一度かわして、また前に出てきた。「疲れないっていいな」と言ったカノンの声が、まだどこかに残っていた。サクラの頭の中に残っていた。

線を一本、引いた。

夜の公園の空気が、少し重かった。

草の匂いと、排気ガスの匂いが混じっていた。その向こうに、機動隊のバスのエンジン音が低く続いていた。

今夜が重い方の夜だ、とA1が言っていた。

そうかもしれなかった。

 

 

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