アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
重い靴の音が来た。
A1とカノンの間に割って入った直後——サクラはその音に気づいた。ひとつではなかった。複数の足音が、公園の外周に沿って近づいてきていた。木立の向こうから来ていた。葉が揺れる前に音が届いた。
「A1」
「聞こえてる」
Qからの通信が来た。
「北側と西側に機動隊が展開中。東側に警視庁特殊部隊——封鎖ライン、形成しています」
「……全部で何人ですか」
「数えてもしょうがない」とA1が言った。「動く」
カノンが止まった。
木立の方を見ていた。炎が指先で揺れたまま、でも攻撃はしなかった。「……数えてもしょうがない、か」と言った。感情がなかった。感情がないまま「そうかもしれないな」と言った。
「ヒノデ・カノン——」
「やめてその呼び方。堅い」
「任意同行をお願いします」
カノンがA1を見た。「今夜は変わった言い方するね、さっきより」
「今夜はそういう夜です」
「へー」とカノンが言った。前に出るか後ろに引くか決めていない足の位置のまま、機動隊の音の方向を見ていた。「……多いな。ちゃんと来たんだな」
「来ました」
「じゃあ——」
カノンが前に出た。後ろに引かなかった。
サクラが後ろから線を引いた。
カノンの足元に、二本。
「邪魔」とカノンが言ったが止まった。止まって、でも消耗して突っ切る気配だった。
「サクラ、下がれ」とA1が言った。
「……どこまで」
「十メートル」
サクラが下がった。線は下がっても効いていた。カノンの前進が二歩分重くなっていた。
A1が細い棒を取り出した。
展開した。光が短く出た。カノンが「それ知ってる」と言った。「効くんでしょ、俺に」
「はい」
「——来るな、って言っても来るんでしょ」
「来ます」
「そうか」とカノンが言った。「まあ、いいか」
攻撃が来た。
右手の炎が前に伸びた。A1が棒を縦に立てた。当たった瞬間に光が出た。炎の輪郭がわずかに乱れた——でも消えなかった。「へー」とカノンが言った。「全部は消えないんだ」
「全部じゃないです」
「じゃあ次」
また来た。
A1が動いた。線を回り込んで、カノンの側面に入ろうとした。カノンが向きを変えた。向きを変えた瞬間に、Qから通信が来た。
「変身者、三名確認——黄、現在公園北東・東側封鎖ラインに接触中。緑、外周の西側——機動隊と接触、結界展開中。紫は公園内——どこかに消えた。追えていない」
「J、紫を探せ」
「探しています」
「見つかるか」
「……分からない」という返答だった。JがA1に「分からない」を返したのは珍しかった。サクラには分かった。見つからないかもしれない、ということだった。
キヅキが声を出した。
機動隊のいる方向に向かって、出した。
声が広がった——それは分かった。空間の空気の動き方が変わった。でも機動隊のシールドは動かなかった。前進も後退もしなかった。「……あれ」とキヅキが思った。声が「入っていかない」という感触があった。「届いてる。でも、変わらない」
防具の中にいる人間に、声は届く。でも声が届いた先で「向く」という選択が起きない。シールドが変わらない。
「……届いてるのに、変わらない」
キヅキがもう一度声を出した。今度は横の方向に向けた。木立の外に、スマートフォンの光が見えた。白い画面が夜の中で光っていた。「あそこなら——」
声が向かった。
白い光が動いた。画面がキヅキの方向に向いた。
でも機動隊は動かなかった。
「——音の向く先を変えても、封鎖ラインは変わらない」
自分の内側で言った。誰かに向けて言ったのではなかった。イヤーカフの中で妖精が「キヅキ」と言った。「今夜は——届かせる感じじゃないのかも」
「……そうかもしれない」とキヅキは言った。「でも声が出てる。それだけで、ある」
出ることが先で、届くかどうかは後。
今夜はそういう夜かもしれない、と思いながら、もう一度声を出した。出た。誰も向かなかった。でも出た。
ミドリが「ここにいて」と言って地面に手を当てた。
足元から来た。場所が自分のものになった。
西側の機動隊が封鎖ラインを保っていた。突進してこない。ただ囲んでいる。「……何を待ってるんですか」とミドリは思った。でも言わなかった。言っても返ってこない相手に言葉は出しなかった。
結界が広がった。半径四メートル——その内側に、誰もいなかった。
ミドリは守るために変身した。守るためには誰かがここにいる必要があった。誰もいなければ、守れない。結界を展開している間は動けない。
「……来てほしい」
誰かに向けて言ったのではなかった。
「来ないなら——ここにいるだけだ」
機動隊が動かない。
ミドリが動けない。
どちらも「動かない」という状態が続いていたが、それは同じ意味ではなかった。ミドリは選んで動かなかった。機動隊は待って動かなかった。その違いだけが、今この場所にあるものだった。
防具の上の方から光が照らされた。
——A1のマグライトではなかった。機動隊の車両についたライトだった。照らされた範囲が広く、白かった。結界の輪郭が光の中に浮かんだ。「……きれいだな」とミドリは思った。きれいだと思ったことに、あまり根拠がなかった。でもそう思った。
「撮れてる、撮れてる」という声が遠くの方で聞こえた。
サーカスの人間が来ていた。封鎖ラインの外側に押し出されたまま、スマートフォンを向けていた。ミドリの結界が光の中に浮かんでいる場面を撮っていた。
ミドリには関係がなかった。
「ここにいて」と地面に向かってもう一度言った。
Qから通信が来た。
「東側の撮影者——封鎖ラインの外に押し出されました。建物の角の陰から引き続き撮影中ですが、中の映像は撮れていません。サーカスの記録は現時点で『外側の包囲の輪郭』のみです」
「中が撮れないことを分かってるか」とA1が言った。カノンとの戦闘の間に聞いていた。
「おそらく把握していない。想定外だと思われます」
「——そうか」
「機動隊そのものが壁になってる、ということです。今夜のKの判断の一つがそこにあります」
A1が棒でカノンの炎を一本いなした。「記録させることより、完遂することを選んだ」
「そうです」
カノンが「何の話してんの」と言った。戦闘の間に通信が続いていたことへの、あきれた質問だった。
「今夜の話です」
「ふーん」
「逃げ道がありません」
「知ってる」とカノンが言った。「知ってて来てる」
「なぜ」
「——なんとなく」
棒がカノンの前腕をかすめた。炎が散った。瞬間的に周囲の草が焦げた匂いがした。カノンが「熱くないんだけど、散るのは嫌だ」と言った。感情として言っているようではなかった。事実として言っていた。
「今夜は諦めてください」
「まだ分かんない」
「分かりません」
「A1も分かんないんじゃん」
「……俺が分かんないのとは別の話だ」
カノンが少し止まった。「——じゃあ、A1は分かってんの。今夜のこと」
「動けばわかります」
「答えになってない」
「今夜はそれだけです」とA1が言った。
カノンが「……まあいいか」と言って、また前に出てきた。
Qからの通信が来た。
「現在の状況——4名の包囲が完了しました。J・機動隊・特殊部隊で三重の封鎖ライン。A1、次の段階へ。Kの許可が出ています」
「了解」
「サクラ、後方で待機。今夜は見ていてください」
サクラが「……はい」と言った。
下がりながら、サクラは4人の方向を見た。
キヅキが声を出している。届いていない。でも出ている。
ミドリが結界を張っている。誰も来ていない。でも張っている。
ユカリがどこかにいる。姿が見えない。見えなくなってから、まだ見つかっていない。
カノンがA1に向かっていく。前に出続けている。止まらない。
4人がそれぞれ動いている。でも逃げ道がない。封鎖ラインは動かない。
「どちらの側にも近づく権限がない」とサクラは思った。
今夜は、見ている夜だ。見ているだけの夜が、ある。
サクラが見ていた。
「ユカリ——見つけました」
Jの通信が来た。
「どこにいますか」
「公園の中央に近い木の上——変身を維持しています。動いていない。ただ見ています」
「接触できますか」
「……分かりません。近づくと消えます。消えた後、また別の木にいます」
「繰り返すか」
「繰り返しています。逃げているのか、観察しているのか——判断できません」
「どちらでもいい。今夜は制圧優先です」
Jが少し間を置いた。
「——J」
「把握しています」
通信が切れた。
サクラはユカリがいると言われた方向を見た。木が暗くて、何も見えなかった。どこかに誰かがいる、という感触だけが、暗い葉の輪郭に乗っていた気がした。
「今夜——ユカリは何を見てるんだろう」
声に出した。A1に向けたのでもなかった。
通信の向こうでA1がカノンを押し留めながら「知らん」と言った。
「知りたいわけじゃないんですが」
「それならなぜ言う」
「——なんとなくです」
「……そうか」
ユカリが二方向から同時に来た。
Jの方向と、木の上から。
Jが通信車両の方向に転がった。通信が一拍、乱れた。Qが「——J、回線切り替え」と言った。10秒で戻った。準備されていた。
「やっぱりそうか」とユカリが言った。
声が暗い木立から来た。どこから来たか分からなかった。
「どこにいても、バックアップがある」
「K機関はそういう組織です」とサクラは言った。
「……そうだね」
静かな声だった。怒っていなかった。確認した声だった。
「それで——続けますか」とサクラが言った。
長い間があった。
「……今夜は、まだ」
「まだ続けますか」
「まだ、考えてる」
封鎖ラインが完成した。
北・西・東の三方向から、機動隊と特殊部隊のラインが公園の外周に沿って揃った。
内側に4人がいた。
逃げる方向が、ない。
「Kより確認——今夜は完遂します。A1、次段階の許可を与えます」
「了解」
サクラが見ていた。
4人が——それぞれの動機で、それぞれの場所に、それぞれのまま、ここにいた。
合意してここに来たのではなかった。言葉を交わしてここに立っているのでもなかった。妖精が全員をここに集めた。「誰かが動かした」という言葉がサクラの頭の中に残っていた。
誰が、何のために——今夜はまだ分からない。
でも4人はここにいる。
そして制度が来た。
A1が動き始めた。
「移動901、状況開始」
Qの声が来た。
A1がケースを開いた。
光が展開された。懐中電灯より少し大きくて、でも懐中電灯よりずっと白い光が、夜の公園に広がった。
サクラは後方から見ていた。
A1が動いた。
カノンの方向に向かって、まっすぐ。迂回しなかった。迷わなかった。A1の動きは迷わない。迷う機能がどこかに入っていないみたいに、いつもまっすぐ動く。
光がカノンに当たった。
「——え?」
カノンが言った。
炎の輪郭が崩れ始めた。崩れ方が、戦闘のときの散り方と違った。散るのではなく、消える。消えていく。衣装の端から、色が抜けていくように。
「なんで」
カノンが言った。「なんでいきなり消えるの」
驚いた顔だった。戦っている顔じゃなかった。「え、何、これ」という顔だった。変身が解けて、制服に戻った。普通の制服。普通の少女の格好。
その一瞬の、カノンの姿が、サクラには何かに似ていた気がした。
何に似ているか、すぐには出てこなかった。
飛んできたものがあった。特殊部隊の方向から来た細いワイヤーが、カノンの手首に巻きついた。
「……え」とカノンが言った。
手首を見た。繋がれていることを確認した。確認してから、また顔を上げた。
「本当に?本当に捕まえるの?」
拍子抜けしたような声だった。
「マジで?」
A1が動いた。次の方向へ。
光の届く範囲が変わった。
サクラは見ていた。
キヅキがいる方向。
声が出ていた。木立の上の方に向けて、出ていた。でも光の方が速かった。A1の光がキヅキに当たる前に、キヅキは声を出しかけていた。出かけた声が、途中でなくなった。
変身が解けた瞬間に、キヅキの顔が少し変わった。
何かを気づいた顔だった。
「——あ」
普通の声で、一言だけ出た。
さっきまでの声と、明らかに違った。壁から返ってこない。空間に満ちない。ただそこにある声。キヅキの声。
ワイヤーが飛んだ。
「分かった、分かった。抵抗しない」
キヅキが両手首を前に差し出しながら言った。手を差し出す動作が、速かった。考えてから差し出したのではなかった。「抵抗しない」という判断が、もう終わっていた。
イヤーカフは変身が解けた後もまだ右耳にあった。妖精がそこから「キヅキ」と言った。
キヅキは答えなかった。答える余裕がなかったのかもしれないし、今は答えたくなかったのかもしれない。どちらか、サクラには分からなかった。
ミドリのところまで、少し時間がかかった。
結界の中にA1が踏み込んでいく。
ミドリが「ここにいて」と言った。もう一度、地面に向かって。来てほしいから言った。でも結界に向かって入ってくるのは制圧のための人間で、守るための人間ではなかった。
光が当たった。
足元から来た変身が、足元から解けていく感触があった——と後でミドリは思ったかもしれない、とサクラは考えた。地面との接続が断たれた感触。ミドリの「場所」が終わった。
「ここにいて」
また言った。言ったが、誰も来なかった。
変身が解けて、膝をついた。
特殊部隊員が近づいてきた。
「……大丈夫です」
ミドリが言った。先に言った。聞かれる前に。「立てます」と言って、立った。立ってから、手首を差し出した。差し出す前に一度だけ、部隊員の顔を見た。
「誰も怪我しませんでしたか」
ミドリが聞いた。
部隊員が答えなかった。
ユカリを見つけるのが最後だった。
Jが「ここにいます」と通信してきた。座標を言った。木の上。変身を維持したまま動かない。近づくと消える、の繰り返しが終わって、ただ一ヶ所に止まっていた。
「なぜ止まったんですか」とA1が通信で聞いた。
「……分かりません。止まることにしたのかと思いますが、確認できていません」
A1が向かった。
ユカリの方向に光を向けた。
光が当たる前に、ユカリが変身を解いた。
自分で解いた。
光が当たる前に。
「……拘束するなら、自分でします」
ユカリが言った。
両手首を前に出した。表情がなかった。A1の光が当たっていない状態で変身を解いたのに、変身が解けていた。手錠を持った部隊員が近づいてきた。ワイヤーがかかった。
「冷たい」とユカリが思った——それはサクラには聞こえなかったが、後で分かる言葉だった。冷たい、という感触を、ユカリはただ温度として認識した。怒りとして認識しなかった。
サクラが後方から見ていた。
4人が順に変身を解除されて、普通の格好に戻っていった。一人ずつ。丁寧に、A1が一人ずつ制圧していった。制圧という言葉が正しいかどうか、サクラには分からなかった。
「……終わった」
という感触が来た。
「終わった、という言葉の意味が分からない」
声に出てはいなかった。A1に向けた言葉でもなかった。どこにも向けられないまま、頭の中で出た。「終わって、何が始まるんですか」という問いが続いた。
答えが来なかった。
当然だった。
「A1」と無線で呼んだ。
「なに」
「A1って——今夜、疲れましたか」
間が少しあった。
「疲れはしない」
声は変わらなかった。今夜ずっとそうだったように、いつもの声だった。制圧の前と後で、声の温度が変わらない。
「……そうですか」とサクラは言った。
「いいな」とは言わなかった。
でも、思った。少しだけ。
カノンが手首を繋がれたまま立っていた。
「……まあ、いっか」
言った。独り言のように言った。「捕まった感じがしない」という顔だった。怒っていなかった。悲しんでいなかった。「まあいっか」という状態が、カノンの今の正直な場所だった。
A1が近づいた。
カノンが気づいて顔を上げた。
「A1って」カノンが言った。「疲れないんですか」
「疲れません」
カノンが少し止まった。
「……いいな」
小さい声だった。それだけだった。戦う気もなかった。怒る気もなかった。「いいな」という言葉が、次の感情に行く前に出てきてしまった、という感じだった。
「いいな」という言葉が、無線越しにサクラの方向にも届いた。
サクラが聞こえた、と思った瞬間、少し前に自分が「いいな」と思ったことを、思い出した。
音の種類が違った。カノンが言った「いいな」と、サクラが思った「いいな」は、同じ言葉だったが、どこか違う場所から来ていた。どこが違うのかを整理しようとしたが、機動隊の車両がエンジンをかけた音がして、それが途切れた。
バスに4人が乗せられた。
別々の車両だった。一緒にしなかった。理由はサクラには分からなかった。Qの通信に聞いていいか考えて、やめた。今聞く必要がないことのような気がした。
カノンが乗り込む前に聞いた。「行き先は?」
誰も答えなかった。
「……まあいいか」
乗った。
キヅキが乗せられる直前に、空を見た。見上げた。東京の夜空で、星は見えなかった。
「——聴こえてる?」
キヅキが言った。誰に向けるともなく。イヤーカフに向けたのでもなかった。答えは来なかった。
「出た、それでいい」
キヅキが言って、乗った。
ミドリが乗る前に「誰も怪我しませんでしたか」をもう一度言った。今度も誰も答えなかった。ミドリが乗った。
ユカリが最後だった。
乗り込む前に一度だけ振り返った。どこを見ているか分からなかった。代々木公園の木立の方向でも、機動隊の方向でも、K機関のバスの方向でも、なかった気がした。
どこにもない何かを見ていた。
それから乗った。
車両が動き始めた。
サクラが立っていた。
公園の外周のあたりに、K機関のバスとサクラと、A1と、Qからの通信と。それだけが残った。
「……終わりましたか」とサクラは通信に向かって言った。
「はい」とQが言った。「Kより確認——制圧完了。お疲れ様でした」
お疲れ様でした、という言葉が、今夜初めて出てきた言葉だった。
「……Q」
「なんですか」
「今夜は——正しかったですか」
Qが少し間を置いた。
「Kの判断です」
「Kの判断が正しいかどうかは」
「……現時点では判断できません。続きは庁舎で話しましょう」
通信が切れた。
A1が近くにいた。ケースを閉じていた。閉じた音がした。
「A1」
「なに」
「カノンが——『いいな』って言ってました」
「聞こえてた」
「……そうですか」
「なに」
「いえ」
A1がケースを持って、バスに向かって歩き始めた。サクラが後からついた。
木立の間から、ビルの灯りが見えた。東京の夜は光が多くて、空が暗くならない。何かが終わっても、光は変わらなかった。光は続いていた。
サクラが歩きながら、なんとなく「向こう」の方向に思った。
——結果だけ言うと、4人が拘束されました。負けた夜、だと思う。誰が負けたのかが、ちょっとよく分からないんですが。
後ろからA1の声が来た。
「また何か言おうとしてる」
「……声に出してないんですけど」
「顔に出てる」
「顔に出るんですか」
「今夜だけ」
「……今夜だけ、どういうことですか」
A1が答えなかった。
今夜だけ、の意味は教えてもらえなかった。
サクラはバスに乗った。