アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
翌朝も蛍光灯の光は変わらなかった。
目黒合同庁舎の廊下は、昨夜と同じ廊下だった。昨夜から変わっていないのか、同じ廊下が毎朝作り直されているのかが、サクラにはたまに区別できなくなる。そういう廊下だった。
「待機していてください」
Qが言った。
「取り調べが終わるまで、この廊下にいてください」
「……分かりました」
「ロビーに自動販売機があります。何かあれば」
Qが言って、資料を抱えたまま廊下の奥に行った。A1も続いた。Jは昨夜から現地にいて、今日は別の部屋に直接入るらしかった。
サクラは廊下に一人残った。
廊下の突き当たりに窓があって、東向きで、朝の光が入っていた。K機関の邸宅の窓とは違う向きの光だった。光は均一に白くて、カーテンがなかった。
取り調べ室は三部屋あった。全部、サクラのいる廊下の側にドアがある。扉は木製で、厚い。音が出てこなかった。
サクラは廊下の壁に背中をつけて、立っていた。
昨夜のことを整理しようとした。整理というより、ただ並べようとした。「今夜、4人が拘束されました」。「全員が変身を解除されました」。「その後バスに乗せられました」。「今、この廊下にいます」。
並べると、意味が出てくると思っていたが、並べてみると意味はなかった。出来事が並んでいるだけだった。
「向こう」のことを少し考えた。
——昨夜の結果だけ言うと、4人が拘束されて、今朝から取り調べが始まります。ワタシは廊下にいます。廊下にいる、ということが今の仕事なのかどうか、ちょっとよく分かっていません。
後ろから声は来なかった。
A1がいなかった。
「そっか」とサクラは声に出さずに思った。「A1がいないと、ツッコミが来ない」。
ツッコミが来ないと、語りかけの意味が少し変わる。伝えたいのか、確認したいのか、どちらとも決まらない言葉が、廊下に出て、廊下に残った。
最初のドアが動いたのは、一時間ほど経った後だった。
Qが出てきた。資料を持ったまま、廊下に出た。サクラの方に一度目をやって、「今から別の部屋に入ります。まだ時間がかかります」と言った。
「……どうでしたか」
「整理してから話します」
Qが別のドアに向かった。
また静かになった。
ドアが内側から動いた。
開いた。
Jが出てきた。Jは昨夜から着替えていなくて、でも乱れていない格好をしていた。Jが整えたのか、最初から乱れないのかが、サクラには分からなかった。
「サクラ」
「……はい」
「水を持ってきてください。二本」
Jが言って、またドアの中に入った。
サクラが自動販売機のある方向に歩いた。
水を二本買った。買いながら、「二本は誰と誰のためか」と考えた。J自身は水を飲まない。ということは、部屋の中にいるミドリのための水と、もう一本は——もしかしてJが飲むのかもしれない、とも思った。
ドアをノックした。「水、持ってきました」と言ったらJが開けた。
一本をJに渡した。もう一本を「こちらへ」とJが示した方向、椅子に座っているミドリの前のテーブルに置いた。
ミドリがサクラを見た。
目が合った。
サクラが「……お疲れ様です」と言った。言ってから、「お疲れ様、というのが正しいか分からないですが」と続けた。
ミドリが「ありがとうございます」と言った。
それだけだった。
サクラが廊下に戻った。ドアが閉まった。
三つ目のドアが開いた。
A1だった。
廊下に出てきて、サクラの方を見た。資料を持っていない。両手が空だった。
「サクラ」
「……はい」
「終わった。記録を取りに行く。ここにいろ」
「記録というのは」
「カノンが言ったこと。聞いてたか」
「……聞いていませんでした」
「記憶のことを言った」
A1が言って、廊下の奥に行った。
記憶のこと、という言葉が廊下に残った。
カノンの記憶が、昨夜の取り調べで出てきた。その「出てきた」という意味が、サクラにはまだ分からなかった。「焦げた感じがする」とカノンが昨夜バスの中で言っていた言葉が、A1の無線越しに聞こえていたのを思い出した。「記憶が焦げた感じがする」。
焦げた感じ、という言い方が、カノンらしかった。
カノンが「らしい」と感じること自体、「少しだけ知っている」ということだとサクラは気づいた。
Qが廊下に出てきたのは昼を少し過ぎた頃だった。
資料が増えていた。両手に抱えていた。
「整理できました。報告します」
サクラが立ち直った。
「今日の取り調べで確認できた情報を整理します」
Qが言いながら、廊下の窓のそばまで来た。窓の外の光が、昼になって白から少し黄みを帯びていた。
「四人から聞き取りを行いました。Jがミドリを、A1がカノンを、私がキヅキとユカリを担当しました」
「……はい」
「順に言います」
Qが手元の資料を一枚めくった。
「キヅキから——黄瀛貢一との関係を確認しました。SNS経由での協働。能力については貢一は知らないと本人が言っています。それから——サーカスという名前を、貢一から聞いたことがあると言いました。貢一の言葉として——『いい子たちだ』と」
サクラが「いい子たち」と繰り返した。
「はい」
「それだけですか」
「それだけです。核心がない情報です」
Qが言って、また一枚めくった。
「ミドリから——森山慶介との接触を確認しました。変身は知られていない状態での接触。Jが『森山の組織がサーカスと関係があることを知っていましたか』と聞いたとき——ミドリは初めて表情を動かしました」
「……」
「知らなかった、と言いました。それから独り言のように——『通らない感触は、そういうことだったんですか』と言いました。Jが『何ですか』と聞くと、『いえ』と言いました。それ以上は出ませんでした」
サクラは廊下の床を見た。
「通らない感触、というのは」とサクラが言った。
「ミドリが以前から言っていたことだと思います。今日初めて出てきた言葉ではない」
「……はい」
Qがまた一枚めくった。
「カノンから——関係する大人を持たないと言いました。妖精からのみ情報を受け取っている。怪人のリストに大人が含まれていたか確認したところ——記憶が出てこないと言いました。感触について確認したところ——『燃えた後みたいな、焦げた感じがして、そこから先が出てこない』という言葉が出ました」
「焦げた」
「はい」
「……それは、どういうことですか」
Qが少し間を置いた。
「現段階では分かりません。記憶の消失か、記憶の改変か、能力の消耗に伴う自然な欠落か——どれとも断定できません。A1が今、その記録を整理しています。後でKに報告します」
「カノンは——やばいやつですか、と聞いたんですか」
Qが少し止まった。
「……どこで聞きましたか」
「A1の無線が少し入っていました。昨夜」
「そうですか」Qが言った。「A1が『情報です』と答えました」
「……情報」
「記録として受け取った、ということです」
サクラは窓の外を見た。光の向きが変わっていた。
「カノンには、どういう意味に聞こえましたか」
「……それは分かりません」
「A1には」
「A1に聞いてみてください」
Qが一枚めくった。
「ユカリから——何も聞けませんでした。最初に録音の有無を確認してから、なぜ確認したか問うと、『この取り調べで集めた情報は何に使われますか』と聞いてきました。捜査に使うと答えると——根拠を作りたくないから、今日は何も言わない、と言いました」
「根拠を作りたくない」
「はい」
「……それは、誰かを守るためですか」
Qが資料を止めた。
少し間があった。
「分からない、というのが正直なところです。誰かを守るためなのか、自分を守るためなのか、あるいは——根拠というものそのものを、今は作りたくないという判断なのか。どれとも取れます」
「ユカリが守りたい大人が、います?」
「いる可能性があります。ただし確認できていません。黙秘した以上、確認の方法が今はない」
「……そうですか」
Qが資料をまとめた。
「Kへの報告:三人から情報を取得しました。大人たちとの接続は確認できました。貢一はサーカスと間接的に接触している可能性がある。森山はサーカスの外郭と関係がある。カノンの記憶に消失の痕跡がある——これが今日の収穫です。ただし、どれも決定的ではない」
「……継続捜査ですか」
「そうなる、と思っていました」
Qが言った。「が」と続けた。
「先ほどKから通信が来ました」
「……はい」
「釈放してください、と言われました」
廊下が静かだった。
蛍光灯が、いつもと同じ音を立てていた。
「……今、ですか」
「はい」
「なぜですか」
「事情があると言われました。それだけです」
Qが資料を持ち直した。
「……Q」
「なんですか」
「Qは——釈放していいと思いますか」
Qが少し止まった。
「思いません」
「でも」
「はい。でも従います」
Qが廊下の奥に行った。
Jが部屋から出てきた。
ミドリが後ろにいた。
ミドリが廊下に出てくると、廊下が少し違う空気になった。「誰かを守っている感触が来る」という感触が来る人間がいると、空気が変わる、ということを、サクラは気づいていなかったが、この瞬間に気づいた。
「ミドリさん」
「……はい」
「水、飲めましたか」
「少し飲みました」
ミドリが廊下を見た。出口の方向を確認するように見た。
Jが「本日の取り調べは以上です」と言った。「手続きが整い次第、退出できます」
ミドリが「退出」と繰り返した。「帰れるんですか」
「手続きが整い次第」
「……手続きって」
「少しだけ待っていてください」
Jが廊下の奥に行った。
ミドリとサクラが残った。
しばらく何も言わなかった。
ミドリが右の袖を引っ張った。
サクラがそれを見た。
「……緊張しますか、こういう場所は」とサクラが聞いた。
ミドリが「袖を引っ張っていましたか」と言った。
「少し」
「……癖です」
「そうですか」
また少し静かになった。
「森山さんのこと」とミドリが言った。
サクラが「はい」と言った。
「サーカスと関係があるって、今日教えてもらって」
「……はい」
「知らなかったんです。ずっと——通らない感触はあったんですけど、それが何なのか分からなかった」
「通らない、というのは」
「なんか、入ってこない感触、みたいなもの」ミドリが言った。「正しいことを言っているのに、通らない。全部正しいのに、どこかが来ない感じ」
「……森山さんは」サクラが言った。「正しいことを言っていましたか」
「言っていたと思います」
「でも通らなかった」
「通らなかったです」
二人がしばらく廊下にいた。
「知らなかったことが——」ミドリが言いかけて、止まった。「知らなかったから、何か変わりますか」
「……何が、ですか」
「森山さんがサーカスと繋がっていたという事実が、知らなかったから、私には関係ないことになりますか」
サクラが答えられなかった。
「なりません、とは言えないです」とサクラが言った。「でも——なります、とも言えないです」
ミドリが「そうですか」と言った。
「通らない感触は」ミドリが続けた。「知って、それがサーカスのせいだと分かっても——変わらないんだろうなと思います。感触は同じです。正しいことを言っていたのに通らなかった、という事実は変わらない」
サクラがミドリを見た。
「……ミドリさん」
「はい」
「それは、どういう意味ですか」
「どういう意味、かどうか分からないです」ミドリが袖を引っ張りながら言った。「ただ——通らなかった感触を、全部サーカスのせいにすると、何か足りない気がします。サーカスが悪かったのはそうかもしれない。でも通らなかった感触は、サーカスが原因じゃなかったかもしれない」
「どういう」
「分からないです。だから言葉にできないんです」
ミドリが廊下の光を見た。
「誰かを守りたくて変身してきたのに、今日は誰も守れなかったので、それだけ言えます」
A1が廊下に来た頃には、四人全員が廊下に出ていた。
キヅキが壁に背中をつけて立っていた。ミドリが窓の方向を向いていた。カノンがその辺をうろうろしていた。ユカリが一人離れた場所に立っていた。
A1がサクラに書類を渡した。「嫌疑不十分による釈放だ」と言った。
サクラが書類を見た。
「嫌疑不十分」とサクラが繰り返した。
「そう」
「……昨夜あんなに——」
「変身行為は現行法で規定されていない。公道での暴行・器物損壊の記録がない。公園内も立入禁止区域の証明が難しい。法的に起訴の根拠が薄い」
「じゃあ最初から」
「最初から薄かった。K機関が申請した動員は特別措置としての行政権限によるものだ」
サクラが書類をA1に返した。
「……正しい形、ですね」とサクラが言った。
「形としては、な」とA1が言った。
カノンが「帰っていいの?」と聞いた。
「はい」とA1が言った。
「……なんか拍子抜け」
カノンが言った。「なんか、捕まった感じもしなかったし、帰っていい感じもしない。なんか全体的に変な感じ」
「帰っていいです」
カノンが少し考えて、「そっか」と言って歩き始めた。
キヅキがサクラの方を見た。一度だけ。目が合った。
「……また」とキヅキが言った。
「はい」とサクラが言った。
二文字だった。
キヅキが歩き始めた。
ミドリが通り過ぎる前に止まった。
「……森山さんのことは、知りませんでした」とサクラに言った。
「……はい」
「知らなかったことが——どういう意味か、まだ分からないけど、知りませんでした」
「……はい」
ミドリが歩いた。
ユカリが最後だった。サクラの前を通り過ぎるとき、一度止まった。
「また来ますか」
「……状況によります」
ユカリが少し間を置いた。
「正直ですね」
「……そうですか」
ユカリが出口に向かった。
サクラは廊下に残った。
四人が出ていった廊下は、少し前より静かだった。静かさの質が変わった。「誰もいなくなった静けさ」ではなくて、「誰かがいた後の静けさ」だった。似ているが、違う。
A1が隣にいた。
「A1」
「なに」
「今日のことは——正しかったですか」
A1が少し止まった。
「Kの判断だ」
「Kの判断が正しいかどうかは」
「……分からない」
「ワタシも」
二人しばらく廊下にいた。
廊下の蛍光灯が、今日もずっと同じ音を立てていた。光が均一に白くて、影が薄かった。
「A1」
「なに」
「カノンが——記憶のことを、今日言ったんですよね」
「言った」
「焦げた感じがする、という言い方でしたか」
「そういう言い方だった」
「それを——A1は、情報だと言ったんですよね」
A1が少し間を置いた。
「そう言った」
「カノンには、どういう感じで聞こえたと思いますか」
「……分からない」
サクラが廊下の先を見た。
「焦げた感じがする、というのが——カノンの記憶の全部じゃないかもしれない、と思いました」
「どういう意味だ」
「焦げた感じがする、ということを知ったのは、取り調べで記憶を確認しようとしたからで——普段は焦げているかどうか分からないかもしれない。確認しようとしたから、焦げていることが分かった」
「……そうかもしれないな」
「でも確認しようとしたのは、取り調べで聞かれたからで」
「……ああ」
「K機関が聞いたから——カノンは自分の記憶が焦げていると知った、かもしれない」
A1が止まった。
「……それ、Kに言うか」
「いいえ」とサクラが言った。「まだ形がないです。形になったら言います」
A1が「そうしろ」と言った。
Qが廊下に出てきた。
手に書類があった。書類の、一番下のページを少しだけ見ていた。見ながら止まった。
「Q」とサクラが言った。
Qが顔を上げた。
「……なんですか」
「何を見ていますか」
Qが少し間を置いた。
「釈放の書類を整理していました」
「……何かありましたか」
Qが書類を見た。もう一度、下のページを見た。
「……いえ」
そう言って、ファイルを閉じた。
閉じ方が、少しだけ速かった。
Qが「Kへの報告を作ります」と言って、資料室の方向に行った。
サクラはその背中を見た。
ファイルを閉じた速さが、いつもの速さと少し違った。
何が違ったのかが分からなかった。分からないまま、廊下に残った。
光は均一で、音は蛍光灯だけだった。
書類が来た。
A1がサクラに渡した。
紙だった。普通の紙に、普通の文字が印刷されていた。「嫌疑不十分による釈放」という表記があった。
「……嫌疑不十分、ですか」
サクラが言った。
「でも昨夜、あんなに」
続かなかった。「あんなに」の後に何を言えばいいか分からなかった。制圧した、は言える。変身を解除した、も言える。でもその事実が「嫌疑不十分」という言葉と並んで、どうつながるのかが出てこなかった。
「変身行為自体は現行法で規定されていません」
A1が言った。
「暴行・器物損壊の事実は公道での記録がなく、公園内の立入禁止区域でもありません。法的に——起訴の根拠が薄い」
「……じゃあ最初から」
「法的に拘束できる根拠は最初から薄かった。K機関が申請した動員は、特別措置としての行政権限によるものです」
サクラが何も言わなかった。
A1から書類を受け取って、もう一度「嫌疑不十分」という文字を見た。文字は変わらなかった。
廊下で待った。
目黒合同庁舎の廊下は長かった。端から端まで歩けば、何分かかるか測ったことはなかった。そういうことを測ったことが一度もなかった。
扉が開く音がした。
カノンが出てきた。
制服だった。昨夜の、変身が解ける前の格好ではなかった。昨夜より一段、普通に見えた。変身も、拘束のワイヤーも、なかった。
「帰っていいの?」
カノンがA1に言った。
「はい」
「……なんか拍子抜け」
カノンが廊下を見回した。長い廊下を端まで見た。
「一晩でこれ?」
「手続きとしては、そういうことになる」
「手続き」とカノンが繰り返した。「そっか」と言って、出口の方向に歩き始めた。途中で一度だけ振り返った。サクラとA1の方を見た。何かを言いかけた気がした。でも何も言わずに、また歩いた。
次にキヅキが出てきた。
廊下に出た瞬間に、少し眩しそうな顔をした。蛍光灯の光が、取り調べ室の光より明るいわけではないはずだった。でもキヅキはそういう顔をした。
キヅキがサクラを一度見た。
「……また」
とだけ言って、通り過ぎた。
サクラが「はい」と言った。
二文字だった。二文字で終わった。
それ以上が出なかった。「また、か」と思った。また、という言葉はどこに向かっているか分からない言葉だった。次に会うということか、また来るということか、それとも全部まとめてそう言っただけなのか。聞き返さなかった。
ミドリが出てきた。
廊下を出る前に一歩止まった。止まってからサクラを見た。
「……森山さんのことは、知りませんでした」
ミドリが言った。
「……はい」
「知らなかったことが——どういう意味か、まだ分からないけど」
ミドリが少し間を置いた。右の袖を少し引っ張った。
「知りませんでした」
もう一度言った。最初と同じ言葉だった。でも最初と同じではない言い方だった。確認しているような、それとも何かを切り取っているような、どちらにも聞こえた。
「……はい」とサクラはまた言った。
同じ言葉しか出なかった。ミドリの「知りませんでした」に対して何を言えばいいか、分からなかった。「分かりました」では違った。「そうですか」でも違った。「はい」も正直なところ違う気がしたが、それしか出なかった。
ミドリが通り過ぎた。
「誰も怪我しませんでしたか」
通り過ぎながら、前の方向に向けて言った。廊下の先に誰もいなかった。答える人間がいなかった。
ミドリは聞こえていないことを知って聞いたのか、それとも聞こえると思って聞いたのか、サクラには分からなかった。
ユカリが最後に出てきた。
廊下に出た瞬間に、サクラを一瞥した。何かを確認するような見方だった。
「また来ますか」
ユカリが言った。
「……状況によります」
「正直ですね」
「……そうですか」
ユカリが少し止まった。サクラの返し方を何かに照らしているような間だった。
「取り調べで録音した内容は、どうなりますか」
「捜査の記録として保管されます」
「使うかどうかは決まっていますか」
「現時点では」
「正直ですね」
ユカリがまた言った。今度は最初と同じ声の質ではなかった。
それ以上は言わなかった。出口の方向に向かった。歩き方に急ぐ感じはなかった。どこへ行くかを決めているような歩き方でもなかった。ただ廊下を歩いていった。
扉が閉まった。
廊下に、サクラとA1だけが残った。
蛍光灯の音がした。
細くて、ずっとある音だった。今まで聞こえていなかったが、4人がいなくなって聞こえた。
「嫌疑不十分、か」
サクラが言った。
「でも——変身を解除して拘束したのは本当で、取り調べたのも本当で、それで『嫌疑不十分』になった。何が足りなかったんですか」
A1が少し間を置いた。
「法的に決定的な嫌疑が存在しなかった」
「昨夜の段階から、そうでしたか」
「そうだった」
「じゃあ——昨夜から変わっていない」
「変わっていない」
サクラが廊下の端の方を見た。ユカリが歩いていった方向だった。もう誰もいなかった。
「A1、今夜のことは——正しかったですか」
A1が少し止まった。
「Kの判断だ」
「Kの判断が正しいかどうかは」
「……分からない」
「……ワタシも」
二人しばらく廊下にいた。
蛍光灯の音が続いていた。
「ミドリが——『知りませんでした』と言いました」
しばらくしてサクラが言った。
「聞いてた」
「知らなかったことは——免責されますか」
A1が答えなかった。
答えが来ないことを、サクラは予想していた。予想していたが、聞いた。聞かないと「聞けなかった」という事実が残る気がしたので、聞いた。
「……A1は」
「なに」
「取り調べで——カノンが、記憶のことを言っていましたか」
「言っていた」
「燃えた後みたいな感触、と」
「そう記録されている」
「記録、か」
サクラが小さく言った。
「記録として残ったんだ」と思った。「記録として残ることと、カノンにとっての記憶が焦げているということは——同じじゃないな」と続けて思った。続きはどこにも向けなかった。
通信が来た。Qだった。
「釈放手続き完了を確認しました。4名、帰宅しています」
「分かりました」
「お疲れ様でした」
また出た。「お疲れ様でした」という言葉が。昨夜もQが言った。今夜もQが言った。「お疲れ様でした」という言葉が正しいかどうか、サクラにはまだ分からなかった。
「Q」
「なんですか」
「今夜——釈放した理由を、ワタシは聞いていいですか」
少し間があった。
「続きは——Kに確認してください。私には言える範囲がない」
通信が切れた。
サクラがA1を見た。A1はサクラを見ていた。見ていたが、何も言わなかった。
「——聞いた方がいいですか」
「聞きたいならどうぞ」
「どちらでもない、という顔をしていますね」
「そういう機能はない」
「……そうですか」
サクラがKへの通信端末を取り出した。打った。「釈放の理由を教えていただけますか」。
返信が来た。
「事情があります。あなたが知るべき事情ではないですが——私が判断した事情です」
サクラが「……分かりました」と返した。
分かりませんでした、と打つべきかどうか、少し考えた。でも「分かりませんでした」と打っても、Kが「事情」以上の言葉を返してくる確率は分からなかった。「分かりました」を打った。
「事情があります」
声に出した。
「事情がある、か」
廊下の蛍光灯の音がした。
「Kが言う事情と、Qが言う範囲と、A1が言うKの判断と」
並べてみた。「全部、同じ一つの事情を指しているはずなのに——ワタシにはどこからも触れない」
A1が何も言わなかった。
正確には、何も言わなかったのではなく、何かを考えている間だったのかもしれなかった。でもサクラには区別できなかった。A1の間は、いつも区別できない。
「A1」
「なに」
「向こうに何か言おうとしてますか、って、今夜はまだ聞いてないですね」
「……聞いてない」
「聞かないんですか、今夜は」
「今夜のあなたは、向こうに何かを言おうとしている顔をしていない」
サクラが少し止まった。
「そうですか」
「そう」
A1が何も言わなかった。
「あったとしても」とサクラが続けた。「まだ形になっていない。『嫌疑不十分』と、4人の顔と、Kの事情と、ミドリの『知りませんでした』が——まだどこにも行っていない」
廊下を歩き始めた。
A1が後からついた。
バスの方向に向かって、二人で廊下を歩いた。
蛍光灯の音が、ついてきた。消えなかった。廊下の端まで、ずっとそういう音だった。