アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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9.アンバー・エクストリーム-Ambre Extrême-

翌朝も蛍光灯の光は変わらなかった。

目黒合同庁舎の廊下は、昨夜と同じ廊下だった。昨夜から変わっていないのか、同じ廊下が毎朝作り直されているのかが、サクラにはたまに区別できなくなる。そういう廊下だった。

「待機していてください」

Qが言った。

「取り調べが終わるまで、この廊下にいてください」

「……分かりました」

「ロビーに自動販売機があります。何かあれば」

Qが言って、資料を抱えたまま廊下の奥に行った。A1も続いた。Jは昨夜から現地にいて、今日は別の部屋に直接入るらしかった。

サクラは廊下に一人残った。

廊下の突き当たりに窓があって、東向きで、朝の光が入っていた。K機関の邸宅の窓とは違う向きの光だった。光は均一に白くて、カーテンがなかった。

取り調べ室は三部屋あった。全部、サクラのいる廊下の側にドアがある。扉は木製で、厚い。音が出てこなかった。

サクラは廊下の壁に背中をつけて、立っていた。

昨夜のことを整理しようとした。整理というより、ただ並べようとした。「今夜、4人が拘束されました」。「全員が変身を解除されました」。「その後バスに乗せられました」。「今、この廊下にいます」。

並べると、意味が出てくると思っていたが、並べてみると意味はなかった。出来事が並んでいるだけだった。

「向こう」のことを少し考えた。

——昨夜の結果だけ言うと、4人が拘束されて、今朝から取り調べが始まります。ワタシは廊下にいます。廊下にいる、ということが今の仕事なのかどうか、ちょっとよく分かっていません。

後ろから声は来なかった。

A1がいなかった。

「そっか」とサクラは声に出さずに思った。「A1がいないと、ツッコミが来ない」。

ツッコミが来ないと、語りかけの意味が少し変わる。伝えたいのか、確認したいのか、どちらとも決まらない言葉が、廊下に出て、廊下に残った。

 

最初のドアが動いたのは、一時間ほど経った後だった。

Qが出てきた。資料を持ったまま、廊下に出た。サクラの方に一度目をやって、「今から別の部屋に入ります。まだ時間がかかります」と言った。

「……どうでしたか」

「整理してから話します」

Qが別のドアに向かった。

また静かになった。

 

ドアが内側から動いた。

開いた。

Jが出てきた。Jは昨夜から着替えていなくて、でも乱れていない格好をしていた。Jが整えたのか、最初から乱れないのかが、サクラには分からなかった。

「サクラ」

「……はい」

「水を持ってきてください。二本」

Jが言って、またドアの中に入った。

サクラが自動販売機のある方向に歩いた。

水を二本買った。買いながら、「二本は誰と誰のためか」と考えた。J自身は水を飲まない。ということは、部屋の中にいるミドリのための水と、もう一本は——もしかしてJが飲むのかもしれない、とも思った。

ドアをノックした。「水、持ってきました」と言ったらJが開けた。

一本をJに渡した。もう一本を「こちらへ」とJが示した方向、椅子に座っているミドリの前のテーブルに置いた。

ミドリがサクラを見た。

目が合った。

サクラが「……お疲れ様です」と言った。言ってから、「お疲れ様、というのが正しいか分からないですが」と続けた。

ミドリが「ありがとうございます」と言った。

それだけだった。

サクラが廊下に戻った。ドアが閉まった。

 

三つ目のドアが開いた。

A1だった。

廊下に出てきて、サクラの方を見た。資料を持っていない。両手が空だった。

「サクラ」

「……はい」

「終わった。記録を取りに行く。ここにいろ」

「記録というのは」

「カノンが言ったこと。聞いてたか」

「……聞いていませんでした」

「記憶のことを言った」

A1が言って、廊下の奥に行った。

記憶のこと、という言葉が廊下に残った。

カノンの記憶が、昨夜の取り調べで出てきた。その「出てきた」という意味が、サクラにはまだ分からなかった。「焦げた感じがする」とカノンが昨夜バスの中で言っていた言葉が、A1の無線越しに聞こえていたのを思い出した。「記憶が焦げた感じがする」。

焦げた感じ、という言い方が、カノンらしかった。

カノンが「らしい」と感じること自体、「少しだけ知っている」ということだとサクラは気づいた。

 

Qが廊下に出てきたのは昼を少し過ぎた頃だった。

資料が増えていた。両手に抱えていた。

「整理できました。報告します」

サクラが立ち直った。

「今日の取り調べで確認できた情報を整理します」

Qが言いながら、廊下の窓のそばまで来た。窓の外の光が、昼になって白から少し黄みを帯びていた。

「四人から聞き取りを行いました。Jがミドリを、A1がカノンを、私がキヅキとユカリを担当しました」

「……はい」

「順に言います」

Qが手元の資料を一枚めくった。

「キヅキから——黄瀛貢一との関係を確認しました。SNS経由での協働。能力については貢一は知らないと本人が言っています。それから——サーカスという名前を、貢一から聞いたことがあると言いました。貢一の言葉として——『いい子たちだ』と」

サクラが「いい子たち」と繰り返した。

「はい」

「それだけですか」

「それだけです。核心がない情報です」

Qが言って、また一枚めくった。

「ミドリから——森山慶介との接触を確認しました。変身は知られていない状態での接触。Jが『森山の組織がサーカスと関係があることを知っていましたか』と聞いたとき——ミドリは初めて表情を動かしました」

「……」

「知らなかった、と言いました。それから独り言のように——『通らない感触は、そういうことだったんですか』と言いました。Jが『何ですか』と聞くと、『いえ』と言いました。それ以上は出ませんでした」

サクラは廊下の床を見た。

「通らない感触、というのは」とサクラが言った。

「ミドリが以前から言っていたことだと思います。今日初めて出てきた言葉ではない」

「……はい」

Qがまた一枚めくった。

「カノンから——関係する大人を持たないと言いました。妖精からのみ情報を受け取っている。怪人のリストに大人が含まれていたか確認したところ——記憶が出てこないと言いました。感触について確認したところ——『燃えた後みたいな、焦げた感じがして、そこから先が出てこない』という言葉が出ました」

「焦げた」

「はい」

「……それは、どういうことですか」

Qが少し間を置いた。

「現段階では分かりません。記憶の消失か、記憶の改変か、能力の消耗に伴う自然な欠落か——どれとも断定できません。A1が今、その記録を整理しています。後でKに報告します」

「カノンは——やばいやつですか、と聞いたんですか」

Qが少し止まった。

「……どこで聞きましたか」

「A1の無線が少し入っていました。昨夜」

「そうですか」Qが言った。「A1が『情報です』と答えました」

「……情報」

「記録として受け取った、ということです」

サクラは窓の外を見た。光の向きが変わっていた。

「カノンには、どういう意味に聞こえましたか」

「……それは分かりません」

「A1には」

「A1に聞いてみてください」

Qが一枚めくった。

「ユカリから——何も聞けませんでした。最初に録音の有無を確認してから、なぜ確認したか問うと、『この取り調べで集めた情報は何に使われますか』と聞いてきました。捜査に使うと答えると——根拠を作りたくないから、今日は何も言わない、と言いました」

「根拠を作りたくない」

「はい」

「……それは、誰かを守るためですか」

Qが資料を止めた。

少し間があった。

「分からない、というのが正直なところです。誰かを守るためなのか、自分を守るためなのか、あるいは——根拠というものそのものを、今は作りたくないという判断なのか。どれとも取れます」

「ユカリが守りたい大人が、います?」

「いる可能性があります。ただし確認できていません。黙秘した以上、確認の方法が今はない」

「……そうですか」

Qが資料をまとめた。

「Kへの報告:三人から情報を取得しました。大人たちとの接続は確認できました。貢一はサーカスと間接的に接触している可能性がある。森山はサーカスの外郭と関係がある。カノンの記憶に消失の痕跡がある——これが今日の収穫です。ただし、どれも決定的ではない」

「……継続捜査ですか」

「そうなる、と思っていました」

Qが言った。「が」と続けた。

「先ほどKから通信が来ました」

「……はい」

「釈放してください、と言われました」

廊下が静かだった。

蛍光灯が、いつもと同じ音を立てていた。

「……今、ですか」

「はい」

「なぜですか」

「事情があると言われました。それだけです」

Qが資料を持ち直した。

「……Q」

「なんですか」

「Qは——釈放していいと思いますか」

Qが少し止まった。

「思いません」

「でも」

「はい。でも従います」

Qが廊下の奥に行った。

 

Jが部屋から出てきた。

ミドリが後ろにいた。

ミドリが廊下に出てくると、廊下が少し違う空気になった。「誰かを守っている感触が来る」という感触が来る人間がいると、空気が変わる、ということを、サクラは気づいていなかったが、この瞬間に気づいた。

「ミドリさん」

「……はい」

「水、飲めましたか」

「少し飲みました」

ミドリが廊下を見た。出口の方向を確認するように見た。

Jが「本日の取り調べは以上です」と言った。「手続きが整い次第、退出できます」

ミドリが「退出」と繰り返した。「帰れるんですか」

「手続きが整い次第」

「……手続きって」

「少しだけ待っていてください」

Jが廊下の奥に行った。

ミドリとサクラが残った。

しばらく何も言わなかった。

ミドリが右の袖を引っ張った。

サクラがそれを見た。

「……緊張しますか、こういう場所は」とサクラが聞いた。

ミドリが「袖を引っ張っていましたか」と言った。

「少し」

「……癖です」

「そうですか」

また少し静かになった。

「森山さんのこと」とミドリが言った。

サクラが「はい」と言った。

「サーカスと関係があるって、今日教えてもらって」

「……はい」

「知らなかったんです。ずっと——通らない感触はあったんですけど、それが何なのか分からなかった」

「通らない、というのは」

「なんか、入ってこない感触、みたいなもの」ミドリが言った。「正しいことを言っているのに、通らない。全部正しいのに、どこかが来ない感じ」

「……森山さんは」サクラが言った。「正しいことを言っていましたか」

「言っていたと思います」

「でも通らなかった」

「通らなかったです」

二人がしばらく廊下にいた。

「知らなかったことが——」ミドリが言いかけて、止まった。「知らなかったから、何か変わりますか」

「……何が、ですか」

「森山さんがサーカスと繋がっていたという事実が、知らなかったから、私には関係ないことになりますか」

サクラが答えられなかった。

「なりません、とは言えないです」とサクラが言った。「でも——なります、とも言えないです」

ミドリが「そうですか」と言った。

「通らない感触は」ミドリが続けた。「知って、それがサーカスのせいだと分かっても——変わらないんだろうなと思います。感触は同じです。正しいことを言っていたのに通らなかった、という事実は変わらない」

サクラがミドリを見た。

「……ミドリさん」

「はい」

「それは、どういう意味ですか」

「どういう意味、かどうか分からないです」ミドリが袖を引っ張りながら言った。「ただ——通らなかった感触を、全部サーカスのせいにすると、何か足りない気がします。サーカスが悪かったのはそうかもしれない。でも通らなかった感触は、サーカスが原因じゃなかったかもしれない」

「どういう」

「分からないです。だから言葉にできないんです」

ミドリが廊下の光を見た。

「誰かを守りたくて変身してきたのに、今日は誰も守れなかったので、それだけ言えます」

 

A1が廊下に来た頃には、四人全員が廊下に出ていた。

キヅキが壁に背中をつけて立っていた。ミドリが窓の方向を向いていた。カノンがその辺をうろうろしていた。ユカリが一人離れた場所に立っていた。

A1がサクラに書類を渡した。「嫌疑不十分による釈放だ」と言った。

サクラが書類を見た。

「嫌疑不十分」とサクラが繰り返した。

「そう」

「……昨夜あんなに——」

「変身行為は現行法で規定されていない。公道での暴行・器物損壊の記録がない。公園内も立入禁止区域の証明が難しい。法的に起訴の根拠が薄い」

「じゃあ最初から」

「最初から薄かった。K機関が申請した動員は特別措置としての行政権限によるものだ」

サクラが書類をA1に返した。

「……正しい形、ですね」とサクラが言った。

「形としては、な」とA1が言った。

カノンが「帰っていいの?」と聞いた。

「はい」とA1が言った。

「……なんか拍子抜け」

カノンが言った。「なんか、捕まった感じもしなかったし、帰っていい感じもしない。なんか全体的に変な感じ」

「帰っていいです」

カノンが少し考えて、「そっか」と言って歩き始めた。

キヅキがサクラの方を見た。一度だけ。目が合った。

「……また」とキヅキが言った。

「はい」とサクラが言った。

二文字だった。

キヅキが歩き始めた。

ミドリが通り過ぎる前に止まった。

「……森山さんのことは、知りませんでした」とサクラに言った。

「……はい」

「知らなかったことが——どういう意味か、まだ分からないけど、知りませんでした」

「……はい」

ミドリが歩いた。

ユカリが最後だった。サクラの前を通り過ぎるとき、一度止まった。

「また来ますか」

「……状況によります」

ユカリが少し間を置いた。

「正直ですね」

「……そうですか」

ユカリが出口に向かった。

サクラは廊下に残った。

四人が出ていった廊下は、少し前より静かだった。静かさの質が変わった。「誰もいなくなった静けさ」ではなくて、「誰かがいた後の静けさ」だった。似ているが、違う。

A1が隣にいた。

「A1」

「なに」

「今日のことは——正しかったですか」

A1が少し止まった。

「Kの判断だ」

「Kの判断が正しいかどうかは」

「……分からない」

「ワタシも」

二人しばらく廊下にいた。

廊下の蛍光灯が、今日もずっと同じ音を立てていた。光が均一に白くて、影が薄かった。

「A1」

「なに」

「カノンが——記憶のことを、今日言ったんですよね」

「言った」

「焦げた感じがする、という言い方でしたか」

「そういう言い方だった」

「それを——A1は、情報だと言ったんですよね」

A1が少し間を置いた。

「そう言った」

「カノンには、どういう感じで聞こえたと思いますか」

「……分からない」

サクラが廊下の先を見た。

「焦げた感じがする、というのが——カノンの記憶の全部じゃないかもしれない、と思いました」

「どういう意味だ」

「焦げた感じがする、ということを知ったのは、取り調べで記憶を確認しようとしたからで——普段は焦げているかどうか分からないかもしれない。確認しようとしたから、焦げていることが分かった」

「……そうかもしれないな」

「でも確認しようとしたのは、取り調べで聞かれたからで」

「……ああ」

「K機関が聞いたから——カノンは自分の記憶が焦げていると知った、かもしれない」

A1が止まった。

「……それ、Kに言うか」

「いいえ」とサクラが言った。「まだ形がないです。形になったら言います」

A1が「そうしろ」と言った。

 

Qが廊下に出てきた。

手に書類があった。書類の、一番下のページを少しだけ見ていた。見ながら止まった。

「Q」とサクラが言った。

Qが顔を上げた。

「……なんですか」

「何を見ていますか」

Qが少し間を置いた。

「釈放の書類を整理していました」

「……何かありましたか」

Qが書類を見た。もう一度、下のページを見た。

「……いえ」

そう言って、ファイルを閉じた。

閉じ方が、少しだけ速かった。

Qが「Kへの報告を作ります」と言って、資料室の方向に行った。

サクラはその背中を見た。

ファイルを閉じた速さが、いつもの速さと少し違った。

何が違ったのかが分からなかった。分からないまま、廊下に残った。

光は均一で、音は蛍光灯だけだった。

 

 

 


 

 

書類が来た。

A1がサクラに渡した。

紙だった。普通の紙に、普通の文字が印刷されていた。「嫌疑不十分による釈放」という表記があった。

「……嫌疑不十分、ですか」

サクラが言った。

「でも昨夜、あんなに」

続かなかった。「あんなに」の後に何を言えばいいか分からなかった。制圧した、は言える。変身を解除した、も言える。でもその事実が「嫌疑不十分」という言葉と並んで、どうつながるのかが出てこなかった。

「変身行為自体は現行法で規定されていません」

A1が言った。

「暴行・器物損壊の事実は公道での記録がなく、公園内の立入禁止区域でもありません。法的に——起訴の根拠が薄い」

「……じゃあ最初から」

「法的に拘束できる根拠は最初から薄かった。K機関が申請した動員は、特別措置としての行政権限によるものです」

サクラが何も言わなかった。

A1から書類を受け取って、もう一度「嫌疑不十分」という文字を見た。文字は変わらなかった。

 

廊下で待った。

目黒合同庁舎の廊下は長かった。端から端まで歩けば、何分かかるか測ったことはなかった。そういうことを測ったことが一度もなかった。

扉が開く音がした。

カノンが出てきた。

制服だった。昨夜の、変身が解ける前の格好ではなかった。昨夜より一段、普通に見えた。変身も、拘束のワイヤーも、なかった。

「帰っていいの?」

カノンがA1に言った。

「はい」

「……なんか拍子抜け」

カノンが廊下を見回した。長い廊下を端まで見た。

「一晩でこれ?」

「手続きとしては、そういうことになる」

「手続き」とカノンが繰り返した。「そっか」と言って、出口の方向に歩き始めた。途中で一度だけ振り返った。サクラとA1の方を見た。何かを言いかけた気がした。でも何も言わずに、また歩いた。

 

次にキヅキが出てきた。

廊下に出た瞬間に、少し眩しそうな顔をした。蛍光灯の光が、取り調べ室の光より明るいわけではないはずだった。でもキヅキはそういう顔をした。

キヅキがサクラを一度見た。

「……また」

とだけ言って、通り過ぎた。

サクラが「はい」と言った。

二文字だった。二文字で終わった。

それ以上が出なかった。「また、か」と思った。また、という言葉はどこに向かっているか分からない言葉だった。次に会うということか、また来るということか、それとも全部まとめてそう言っただけなのか。聞き返さなかった。

 

ミドリが出てきた。

廊下を出る前に一歩止まった。止まってからサクラを見た。

「……森山さんのことは、知りませんでした」

ミドリが言った。

「……はい」

「知らなかったことが——どういう意味か、まだ分からないけど」

ミドリが少し間を置いた。右の袖を少し引っ張った。

「知りませんでした」

もう一度言った。最初と同じ言葉だった。でも最初と同じではない言い方だった。確認しているような、それとも何かを切り取っているような、どちらにも聞こえた。

「……はい」とサクラはまた言った。

同じ言葉しか出なかった。ミドリの「知りませんでした」に対して何を言えばいいか、分からなかった。「分かりました」では違った。「そうですか」でも違った。「はい」も正直なところ違う気がしたが、それしか出なかった。

ミドリが通り過ぎた。

「誰も怪我しませんでしたか」

通り過ぎながら、前の方向に向けて言った。廊下の先に誰もいなかった。答える人間がいなかった。

ミドリは聞こえていないことを知って聞いたのか、それとも聞こえると思って聞いたのか、サクラには分からなかった。

 

ユカリが最後に出てきた。

廊下に出た瞬間に、サクラを一瞥した。何かを確認するような見方だった。

「また来ますか」

ユカリが言った。

「……状況によります」

「正直ですね」

「……そうですか」

ユカリが少し止まった。サクラの返し方を何かに照らしているような間だった。

「取り調べで録音した内容は、どうなりますか」

「捜査の記録として保管されます」

「使うかどうかは決まっていますか」

「現時点では」

「正直ですね」

ユカリがまた言った。今度は最初と同じ声の質ではなかった。

それ以上は言わなかった。出口の方向に向かった。歩き方に急ぐ感じはなかった。どこへ行くかを決めているような歩き方でもなかった。ただ廊下を歩いていった。

扉が閉まった。

 

廊下に、サクラとA1だけが残った。

蛍光灯の音がした。

細くて、ずっとある音だった。今まで聞こえていなかったが、4人がいなくなって聞こえた。

「嫌疑不十分、か」

サクラが言った。

「でも——変身を解除して拘束したのは本当で、取り調べたのも本当で、それで『嫌疑不十分』になった。何が足りなかったんですか」

A1が少し間を置いた。

「法的に決定的な嫌疑が存在しなかった」

「昨夜の段階から、そうでしたか」

「そうだった」

「じゃあ——昨夜から変わっていない」

「変わっていない」

サクラが廊下の端の方を見た。ユカリが歩いていった方向だった。もう誰もいなかった。

「A1、今夜のことは——正しかったですか」

A1が少し止まった。

「Kの判断だ」

「Kの判断が正しいかどうかは」

「……分からない」

「……ワタシも」

二人しばらく廊下にいた。

蛍光灯の音が続いていた。

 

「ミドリが——『知りませんでした』と言いました」

しばらくしてサクラが言った。

「聞いてた」

「知らなかったことは——免責されますか」

A1が答えなかった。

答えが来ないことを、サクラは予想していた。予想していたが、聞いた。聞かないと「聞けなかった」という事実が残る気がしたので、聞いた。

「……A1は」

「なに」

「取り調べで——カノンが、記憶のことを言っていましたか」

「言っていた」

「燃えた後みたいな感触、と」

「そう記録されている」

「記録、か」

サクラが小さく言った。

「記録として残ったんだ」と思った。「記録として残ることと、カノンにとっての記憶が焦げているということは——同じじゃないな」と続けて思った。続きはどこにも向けなかった。

 

通信が来た。Qだった。

「釈放手続き完了を確認しました。4名、帰宅しています」

「分かりました」

「お疲れ様でした」

また出た。「お疲れ様でした」という言葉が。昨夜もQが言った。今夜もQが言った。「お疲れ様でした」という言葉が正しいかどうか、サクラにはまだ分からなかった。

「Q」

「なんですか」

「今夜——釈放した理由を、ワタシは聞いていいですか」

少し間があった。

「続きは——Kに確認してください。私には言える範囲がない」

通信が切れた。

サクラがA1を見た。A1はサクラを見ていた。見ていたが、何も言わなかった。

「——聞いた方がいいですか」

「聞きたいならどうぞ」

「どちらでもない、という顔をしていますね」

「そういう機能はない」

「……そうですか」

サクラがKへの通信端末を取り出した。打った。「釈放の理由を教えていただけますか」。

返信が来た。

「事情があります。あなたが知るべき事情ではないですが——私が判断した事情です」

サクラが「……分かりました」と返した。

分かりませんでした、と打つべきかどうか、少し考えた。でも「分かりませんでした」と打っても、Kが「事情」以上の言葉を返してくる確率は分からなかった。「分かりました」を打った。

「事情があります」

声に出した。

「事情がある、か」

廊下の蛍光灯の音がした。

「Kが言う事情と、Qが言う範囲と、A1が言うKの判断と」

並べてみた。「全部、同じ一つの事情を指しているはずなのに——ワタシにはどこからも触れない」

A1が何も言わなかった。

正確には、何も言わなかったのではなく、何かを考えている間だったのかもしれなかった。でもサクラには区別できなかった。A1の間は、いつも区別できない。

「A1」

「なに」

「向こうに何か言おうとしてますか、って、今夜はまだ聞いてないですね」

「……聞いてない」

「聞かないんですか、今夜は」

「今夜のあなたは、向こうに何かを言おうとしている顔をしていない」

サクラが少し止まった。

「そうですか」

「そう」

A1が何も言わなかった。

「あったとしても」とサクラが続けた。「まだ形になっていない。『嫌疑不十分』と、4人の顔と、Kの事情と、ミドリの『知りませんでした』が——まだどこにも行っていない」

廊下を歩き始めた。

A1が後からついた。

バスの方向に向かって、二人で廊下を歩いた。

蛍光灯の音が、ついてきた。消えなかった。廊下の端まで、ずっとそういう音だった。

 

 

 

 

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