アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
Kからの返信は、短かった。
「了解。——釈放の手続きに入ってください」
Qが画面を見た。
文字が変わらなかった。見ている間も変わらなかった。「了解」という一語と「釈放の手続きに入ってください」という一文が並んでいた。「了解」の後に「——」があった。その記号の意味が何なのか、Qには分からなかった。記号を追っても、意味は来なかった。
「……釈放、ですか」
Qがモニターに向けて言った。
声に出すことで確認になる。確認したことで次が来る。でも今夜は「次」がどこに向かうのかが、確認した後でも決まらなかった。
Qがキーボードを打った。通信ラインを開く。Kへの返信フォームに文字を打った。
「釈放の判断について——事情聴取は途中で止まっています。大人たちへの捜査継続のためにも、もう数日の拘束が有効だと判断します」
送信した。
資料室のモニターには、今夜の取り調べ記録が出ている。左のモニターにキヅキの、中央にカノンの、右にミドリのデータが並んでいる。ユカリのは空白が多かった。
送信してから一分と少しで、Kから返信が来た。
「理解しています。それでも釈放してください」
Qがもう一度文字を見た。「理解しています」という言葉があった。「それでも」という言葉があった。「理解している」なら、Qの判断の妥当性は認識されている。でも「それでも」があった。
Qがキーボードを打った。
「理由を教えていただけますか」
送信した。
返信が来た。
「事情があります」
それだけだった。
「事情」
Qが声に出した。
モニターの光が、資料室の壁を薄く照らしていた。窓がない部屋だから、今が何時かは時計を見なければ分からない。時計は確認しなかった。今夜が終わっていないことだけが分かった。
Jが資料室のドアの近くにいた。今夜は庁舎に残っている。
「Qさん」
Jが言った。
「なんですか」
「Kが事情を言わないことは……多いですか」
Qが少し考えた。
「たまに、ある」
「今回の事情は何だと思いますか」
「……分からない。だから従います」
「従うことと、納得することは、違いますか」
Qが少し止まった。
「今は関係ありません」
「……そうですか」
Jが何も言わなくなった。「そうですか」という言葉が、「納得した」の意味なのか「続けなかった」の意味なのか、Qには分からなかった。Jの「そうですか」はいつも、どちらにも聞こえる。
通信音がした。A1だった。
「同意見です」
A1の通信は短かった。Qがきっちり一秒のあとで「何についてですか」と返すと、A1から「釈放に反対します」と来た。「カノンの記憶消失の事実は重大です。能力者に対して記憶操作が行われている可能性があります。それを確認するためにも、もう数日——」という一文の後が続かなかった。
Qが待った。
続きは来なかった。
来ないことが、A1の答えだと思った。「続きを送ってこなかった」——A1が結論を保留した。Kへの反対意見が確定したあと、次の一文を送ることをやめた。
Qが「A1の意見を添えてKに報告します」と返すと、「お願いします」が来た。
Kへの通信にA1の意見を追記した。送信した。
返信が来るまでの時間が、少し長かった。
「理解しています。それでも釈放してください」
同じ文字だった。
Qが椅子の背にもたれた。
「Kが『事情がある』という形で打ち止めにしたことは——以前にもあった」
声に出した。確認のための独言だった。声に出して「あった」という事実が確定した。その時は、と続けようとして、止めた。「その時」の話は今夜には関係ない。関係ないものを持ち込むと、判断がずれる。
「J」
「はい」
「あなたはどう思いますか」
Jが少し間を置いた。
「私は……Kの判断が間違っているとは思いたくない」
「思いたくない、か」
「はい。でも——正しいかどうかは、別の問題だと思います」
Qが「……そうですね」と言った。
「間違っていないと思いたい」と「正しい」は違う。Jが言ったことは、小さいようで正確だった。「間違っていないこと」は「間違いの不在」を確認することで成立する。「正しいこと」は「正しいという根拠」が必要だ。今夜、Kが出した根拠は「事情」一語だった。
「事情の内側が見えなければ」
Qが続けた。
「正しいかどうかは判断できない」
「そうです」とJが言った。「でも従うことはできます」
「そうです」とQが返した。
サクラとA1を呼んだ。
二人が会議室に来るまでの間、Qは釈放の手続き書類を処理していた。帳票形式のデータ入力。「釈放理由」の欄に「嫌疑不十分」を入力した。「担当者」の欄に自分のコードを入れた。「決裁者」の欄を開いた。
Kのコードを入力した。
入力が完了するとシステムが「確認しました」と出た。Qがその画面を閉じようとして、止まった。
決裁欄の下に、もう一段あった。
いつもはない段だった。「追加決裁」という小さな表記があった。空欄ではなかった。何かが入っていた。
コードではなかった。
ハンコの画像だった。印影のスキャンデータが、そこに貼付されていた。Qが見たことのない印だった。K機関の内部コードではない。Qが知っている印章の形ではなかった。
「……誰の」
言いかけた。
やめた。
言葉を出さなかった。出そうとして、途中で戻した。「誰の」という問いを声に出すと、その問いが「今夜、この部屋に存在した事実」になる。今夜この部屋に存在させない方がいい問いがある。そういう判断がいつ来るか、Qには理解できていなかった。でも今夜はその判断が先に来た。
ファイルを閉じた。
閉じる前に、もう一秒だけ見た。印影の形が目に入った。
画面が消えた。
サクラとA1が来た。
A1が先に扉を開けた。サクラが後から入った。二人が並んで会議室の椅子に座った。
Qがサクラを見た。サクラが「呼ばれたので来ました」というような顔をしていた。今夜何が起きたか、廊下でかなりの部分を聞いている顔だった。
「Kの判断で今夜釈放します」
Qが言った。
「理由は——事情があるということだけ、私は聞いています」
サクラが「事情、ですか」と言った。
「はい」
「……Kに聞いていいですか」
「聞いてみてください」
サクラが通信端末を取り出した。打った。Qはそれを見ていた。
「釈放の理由を教えていただけますか」
サクラが打ち込んだ内容が、Qの画面にも通知として流れた。Kへの通信は全員の共有ラインを通る。
Kからの返信が来た。Qの画面にも出た。
「事情があります。あなたが知るべき事情ではないですが——私が判断した事情です」
「……分かりました」
サクラが返した。
会議室が静かだった。
A1が何も言わなかった。サクラが端末を机に置いた。
「A1」
Qが言った。
「なんですか」
「今夜の判断は——今後の報告書にどう書きますか」
A1が少し止まった。
「……Kの判断で釈放した、と書きます」
「それだけですか」
「それだけです」
Qが「分かりました」と言った。
「カノンの記憶消失の件は、別途継続案件として記録します。本日の取り調べで得た情報——黄・緑・赤の三名分——も保管します。釈放は今夜、手続き上問題なく完了しています」
「……はい」
サクラが言った。「問題なく」という部分が廊下の空気と合わない感触を持ったが、言わなかった。Qには言っても届かないのではなく——届く場所にはある、でも今夜は受け取る方法が合わない、という感触だった。
それを言語化することをしないまま、サクラが立ち上がった。
「……Qは、今夜の判断が正しいと思いますか」
サクラが聞いた。
Qが少し間を置いた。
「Kの判断が正しいと思います」
「それは、どういう意味で」
「Kが下した判断を、正しい判断として受け取る、という意味です」
サクラが「……そうですか」と言った。
「正しいという確認ではないんですね」
「現時点では、できません」
サクラが何も言わなかった。
Qもそれ以上は言わなかった。会議室のエアコンの音だけがあった。
A1が立った。
「では戻ります」
「はい」
二人が会議室を出ていった。
Qが一人になった。
モニターを開いた。釈放手続きの完了通知が来ていた。「処理済み」の表記が出ていた。
Qが「処理済み」という文字を見た。
今夜処理したことが「処理済み」になった。処理したことと、処理できなかったことと、処理しようとして止めたことがある。その三つは全部、同じ「処理済み」の通知の後ろにある。
今夜の資料をまとめながら、一つだけ手が止まった。
決裁欄のことを、どこにも書かなかった。
書こうとしたのではなかった。書かないことを選んだのでもなかった。「書く」と「書かない」の間で止まったまま、手続きを進めた結果、書かれていなかった。
「……名前のつかないファイル、か」
Qが小さく言った。
前に一度、Jに言った言葉だった。処理できないものに名前がつかないまま積まれていくことを、そう呼んだことがあった。
今夜もう一つ、積まれた。
「誰の」という問いに名前がついていない。
Qがモニターの電源を落とした。
資料室が暗くなった。
数日後、という言い方をQはした。
「数日後、サーカスとの直接接触を行います」
会議室で、サクラとA1に向けて言った。Jは別の棟にいた。
「法的根拠は公職選挙法違反の疑いです。坂口という捜査員の捜査と、形の上では連動する形になります」
「形の上では」とサクラが繰り返した。
「坂口は私たちの存在を知りません。捜査の目的は一致していますが、接触はありません」
「分かりました」
「接触は本郷外周で行います。サクラさんとA1、二名で。Q・Jは別ルートで待機します」
数日後の夜は、曇っていた。
本郷のキャンパス外周の道は、夜になると人が少なかった。昼間は自転車と学生で埋まる通りが、夜十時を過ぎると静かになる。街灯の間隔が少し広くて、木の葉が暗い側に重なっている。
A1がサクラの左斜め前を歩いていた。
「Qから通信」
A1が言った。声は変わらない。
「小牧とヨグが確認されました。東門側、今から接触します」
A1が歩調を変えなかった。サクラも合わせた。
二人は、いた。
街灯のひとつの下に、並んで立っていた。どちらも女性の服を着ていた。小牧は白いシャツと、細い織りのスラックス。ヨグは薄い色のパーカーに、裾が長めのスカート。二人とも荷物を持っていた。逃げる体勢ではなかった。
「——K機関の方々ですね」
小牧が言った。
声が低かった。ゆっくりしゃべった。「来ると思っていた」というよりも「予定通りに来た」という感触で、驚く素振りがまったくなかった。
ヨグがスマートフォンを出した。
「今この会話、録音してるんですよね」
A1に向けて言った。
「はい」
「こちらもしています」
「知っています」
ヨグが少し止まった。
「……スマートですね」
「情報として扱います」
「私たちが何をしたか、聞きますか」
小牧がA1に言った。「それとも、すでにご存じですか」
「概要は把握しています」
「では——」
小牧が少し間を置いた。置き方が、慌てている感触ではなかった。次に言う言葉を選んでいる、というよりも、「次に言う言葉がすでにある」という間だった。
「私たちが、間違ったことをしたと思いますか」
A1が答えなかった。
一秒。
「公職選挙法の観点では、問題があります」
「それは制度の話ですね」
小牧が言った。「私は——正しいことをしているかどうかを聞いています」
沈黙があった。
木の葉が動いた。車が一台、遠くの道を通り過ぎた。
「……正しいかどうかは、A1が決められないと思います」
サクラが言っていた。
言ってから気づいた。
小牧がサクラの方を見た。初めて、サクラを見た。
「あなたは——タチバナ・サクラさん、でしたね」
「……はい」
「魔法少女の桃色の変身者。でも、K機関の側にいる」
「……そうです」
「そうですか」
小牧が少し顎を引いた。「そうですか」は同意の形ではなかった。確認して、次に進む形だった。
「あなたは界隈の子どもたちと同じ立場でありながら、K機関として彼女たちを制圧している」
小牧がサクラに言った。
「それは——あなたには、正しいことですか」
サクラが答えられなかった。
一秒。
「……K機関の判断で動いています」
「それは答えではない」
「……今は、それしか言えないです」
「そうですか」
また、あの確認の形だった。「そうですか」で受け取った、という声だった。受け取った後どこに置くかは、小牧が決める。
A1がサクラの方を向いた。
「もういい」
短かった。指示でも命令でもなく、「今夜の判断はここで終わり」という種類の声だった。
サクラが「はい」と言った。
ヨグがスマートフォンの画面をA1に差し出した。
「380万再生」
A1が画面を見た。
「K機関への批判コメントが21万件。『秘密警察を廃止せよ』という署名が、48時間で6万筆集まっています」
ヨグが言った。「これが——アテンションです」
A1の表情が変わらなかった。
「数字は道徳より正直だから」
ヨグが言った。「これを見て、何か感じますか」
「確認しました」
A1がスマートフォンから視線を外した。
「何か感じますか、と聞いています」
「感じません」
ヨグが少し止まった。
「……」
何かが少し変わった気配だった。ヨグが「感じません」という答えを予測していなかったか、していたとしても「そう返してくる」という事実に何かが動いたか——どちらなのかは、サクラには分からなかった。
「数字は、そうだな」
A1が言った。
「でも——」
ヨグが言いかけた。止まった。続きが来なかった。
A1が小牧とヨグを交互に見た。
「任意同行をお願いします」
声が変わった。
取引の声ではなかった。業務の声でもなかった。法執行の声、とだけ言える種類の声だった。
「公職選挙法違反の疑いと、未成年者を対象とした情報操作の予備的調査のため」
小牧が少し間を置いた。
「……分かりました」
驚かなかった。「分かりました」が想定していた答えの一つだったように見えた。
「弁護士を呼んでいいですか」
ヨグが言った。
「任意同行中はそうしていただいて構いません」
「……」
ヨグがスマートフォンをしまった。
木の葉がまた動いた。今度は少し長く。
四人で歩いた。
A1がサクラの斜め前を歩き、小牧とヨグを視野に収める位置に立った。小牧が一番後ろで、ゆっくり歩いた。急がなかった。「急ぐ理由がない」のではなく「急がないことを選んでいる」歩き方だった。
本郷の通りは静かだった。
赤門が見える方向に、門灯が灯っていた。
「あなたに、一つ聞いてもいいですか」
小牧がサクラに言った。A1が振り向かなかった。問いを聞いていた。
サクラが歩きながら振り向いた。
「……なんですか」
「あなたは——正しいことをしていると、思いますか」
「K機関の判断を、と言いましたよね」
「聞いていません」
小牧が静かに言った。「K機関のことを聞いていません。あなた自身のことを聞いています」
サクラが前を向いた。
答えなかった。
「あなたは、正しいことをしていると思いますか」
小牧がもう一度言った。言い方が変わらなかった。同じ声量で、同じ速さで、同じ問いを言った。
答えが来ないと分かって言い直したのではなかった。ただ、もう一度言った。
「……今は、答えられないです」
サクラが言った。
「そうですか」
また、その声だった。
受け取った。
どこに置くかは、小牧が決める。
目黒合同庁舎への車が来た。
小牧とヨグが乗った。A1が後部座席のドアを開けた。小牧が乗り込む前に、一度サクラの方を見た。何かを言うかもしれない、とサクラは思った。
何も言わなかった。
乗り込んだ。ドアが閉まった。
車が走り出した。
Qから通信が来た。
サクラの端末に出た。
「任意同行を確認しました。手続きは庁舎で処理します。サクラさんは戻ってください」
「分かりました」
通信を切った。
A1がサクラの隣に立った。
「……お疲れ様でした」
サクラが言った。
A1が「疲れない」と言った。
「そうですよね」
「……まあ」
A1が少し止まった。
「今夜は、長かった」
サクラが「はい」と言った。
本郷の通りが静かだった。門灯が遠かった。車のエンジン音が消えた後も、しばらく、どちらも動かなかった。
後日、Qが記録した。
小牧とヨグは任意同行に応じた。取り調べでは「言論と研究活動の範囲内の行為」という主張を通した。法的判断は保留、釈放。担当弁護士は三名。「白に近いグレー」という評価を、法務担当が文書に残した。
任意同行から三日後、ヨグがSNSに動画を公開した。タイトルは「K機関に連行されました」。
動画には、本郷の夜の映像があった。A1とサクラの後ろ姿があった。任意同行を告げる声があった。
記録には「ヨグ自身がスマートフォンで撮影していたと推定される」と書かれた。
初日で200万を超えた。
Qがその数字を見た。
「……」
何も言わなかった。
数字を見た後、モニターの別の場所に視線を移した。「サーカスの陣地戦、継続中」という項目に、今日の日付でQが入力した一行があった。
「一回の接触では取り崩せない。これは双方の了解事項として記録する」
Qが入力した。
送信した。
「小牧に聞かれたことを」
その夜、サクラが廊下でA1に言った。
「……正しいことをしているか、という問いです」
「聞いてた」
「答えられなかったです」
「そうだな」
A1が前を向いたまま言った。
「A1は——答えられますか」
A1が少し止まった。
「俺は」
A1が言った。
「法的手続きの範囲で動いてる。それが正しいかどうかは——別の話だ」
「それは、小牧が言ったことと同じ構造ですね」
A1が何も言わなかった。
「……同じかもしれない」
少ししてから言った。
廊下が静かだった。
サクラが「そうですか」と言った。
今度は自分が使った。
小牧と同じ使い方ではなかったかもしれない。でも言ってみたら、受け取る場所がなかった。「そうですか」で受け取った後、どこに置くか、サクラには分からなかった。
さっきの話ですが——
「ワタシが答えられなかったのは、今夜だけの話じゃないと思います。でも今夜は特に、だったかな、と思います。それだけです」
後ろからA1の声が来た。
「また独り言か。話しかけると、何か整理されるのか」
「……たまに」
「そうか」
A1が「そうか」と言った。
廊下でその言葉が出ると、今夜の小牧の声と並んで聞こえた。「そうか」と「そうですか」は、同じ意味ではなかった。
どう違うのか、サクラには言えなかった。