アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

36 / 45
10.テ・ノワール29-THÉ NOIR 29-

Kからの返信は、短かった。

「了解。——釈放の手続きに入ってください」

Qが画面を見た。

文字が変わらなかった。見ている間も変わらなかった。「了解」という一語と「釈放の手続きに入ってください」という一文が並んでいた。「了解」の後に「——」があった。その記号の意味が何なのか、Qには分からなかった。記号を追っても、意味は来なかった。

「……釈放、ですか」

Qがモニターに向けて言った。

声に出すことで確認になる。確認したことで次が来る。でも今夜は「次」がどこに向かうのかが、確認した後でも決まらなかった。

Qがキーボードを打った。通信ラインを開く。Kへの返信フォームに文字を打った。

「釈放の判断について——事情聴取は途中で止まっています。大人たちへの捜査継続のためにも、もう数日の拘束が有効だと判断します」

送信した。

資料室のモニターには、今夜の取り調べ記録が出ている。左のモニターにキヅキの、中央にカノンの、右にミドリのデータが並んでいる。ユカリのは空白が多かった。

送信してから一分と少しで、Kから返信が来た。

「理解しています。それでも釈放してください」

Qがもう一度文字を見た。「理解しています」という言葉があった。「それでも」という言葉があった。「理解している」なら、Qの判断の妥当性は認識されている。でも「それでも」があった。

Qがキーボードを打った。

「理由を教えていただけますか」

送信した。

返信が来た。

「事情があります」

それだけだった。

 

「事情」

Qが声に出した。

モニターの光が、資料室の壁を薄く照らしていた。窓がない部屋だから、今が何時かは時計を見なければ分からない。時計は確認しなかった。今夜が終わっていないことだけが分かった。

Jが資料室のドアの近くにいた。今夜は庁舎に残っている。

「Qさん」

Jが言った。

「なんですか」

「Kが事情を言わないことは……多いですか」

Qが少し考えた。

「たまに、ある」

「今回の事情は何だと思いますか」

「……分からない。だから従います」

「従うことと、納得することは、違いますか」

Qが少し止まった。

「今は関係ありません」

「……そうですか」

Jが何も言わなくなった。「そうですか」という言葉が、「納得した」の意味なのか「続けなかった」の意味なのか、Qには分からなかった。Jの「そうですか」はいつも、どちらにも聞こえる。

通信音がした。A1だった。

「同意見です」

A1の通信は短かった。Qがきっちり一秒のあとで「何についてですか」と返すと、A1から「釈放に反対します」と来た。「カノンの記憶消失の事実は重大です。能力者に対して記憶操作が行われている可能性があります。それを確認するためにも、もう数日——」という一文の後が続かなかった。

Qが待った。

続きは来なかった。

来ないことが、A1の答えだと思った。「続きを送ってこなかった」——A1が結論を保留した。Kへの反対意見が確定したあと、次の一文を送ることをやめた。

Qが「A1の意見を添えてKに報告します」と返すと、「お願いします」が来た。

Kへの通信にA1の意見を追記した。送信した。

返信が来るまでの時間が、少し長かった。

「理解しています。それでも釈放してください」

同じ文字だった。

 

Qが椅子の背にもたれた。

「Kが『事情がある』という形で打ち止めにしたことは——以前にもあった」

声に出した。確認のための独言だった。声に出して「あった」という事実が確定した。その時は、と続けようとして、止めた。「その時」の話は今夜には関係ない。関係ないものを持ち込むと、判断がずれる。

「J」

「はい」

「あなたはどう思いますか」

Jが少し間を置いた。

「私は……Kの判断が間違っているとは思いたくない」

「思いたくない、か」

「はい。でも——正しいかどうかは、別の問題だと思います」

Qが「……そうですね」と言った。

「間違っていないと思いたい」と「正しい」は違う。Jが言ったことは、小さいようで正確だった。「間違っていないこと」は「間違いの不在」を確認することで成立する。「正しいこと」は「正しいという根拠」が必要だ。今夜、Kが出した根拠は「事情」一語だった。

「事情の内側が見えなければ」

Qが続けた。

「正しいかどうかは判断できない」

「そうです」とJが言った。「でも従うことはできます」

「そうです」とQが返した。

 

サクラとA1を呼んだ。

二人が会議室に来るまでの間、Qは釈放の手続き書類を処理していた。帳票形式のデータ入力。「釈放理由」の欄に「嫌疑不十分」を入力した。「担当者」の欄に自分のコードを入れた。「決裁者」の欄を開いた。

Kのコードを入力した。

入力が完了するとシステムが「確認しました」と出た。Qがその画面を閉じようとして、止まった。

決裁欄の下に、もう一段あった。

いつもはない段だった。「追加決裁」という小さな表記があった。空欄ではなかった。何かが入っていた。

コードではなかった。

ハンコの画像だった。印影のスキャンデータが、そこに貼付されていた。Qが見たことのない印だった。K機関の内部コードではない。Qが知っている印章の形ではなかった。

「……誰の」

言いかけた。

やめた。

言葉を出さなかった。出そうとして、途中で戻した。「誰の」という問いを声に出すと、その問いが「今夜、この部屋に存在した事実」になる。今夜この部屋に存在させない方がいい問いがある。そういう判断がいつ来るか、Qには理解できていなかった。でも今夜はその判断が先に来た。

ファイルを閉じた。

閉じる前に、もう一秒だけ見た。印影の形が目に入った。

画面が消えた。

 

サクラとA1が来た。

A1が先に扉を開けた。サクラが後から入った。二人が並んで会議室の椅子に座った。

Qがサクラを見た。サクラが「呼ばれたので来ました」というような顔をしていた。今夜何が起きたか、廊下でかなりの部分を聞いている顔だった。

「Kの判断で今夜釈放します」

Qが言った。

「理由は——事情があるということだけ、私は聞いています」

サクラが「事情、ですか」と言った。

「はい」

「……Kに聞いていいですか」

「聞いてみてください」

サクラが通信端末を取り出した。打った。Qはそれを見ていた。

「釈放の理由を教えていただけますか」

サクラが打ち込んだ内容が、Qの画面にも通知として流れた。Kへの通信は全員の共有ラインを通る。

Kからの返信が来た。Qの画面にも出た。

「事情があります。あなたが知るべき事情ではないですが——私が判断した事情です」

「……分かりました」

サクラが返した。

会議室が静かだった。

A1が何も言わなかった。サクラが端末を机に置いた。

「A1」

Qが言った。

「なんですか」

「今夜の判断は——今後の報告書にどう書きますか」

A1が少し止まった。

「……Kの判断で釈放した、と書きます」

「それだけですか」

「それだけです」

Qが「分かりました」と言った。

「カノンの記憶消失の件は、別途継続案件として記録します。本日の取り調べで得た情報——黄・緑・赤の三名分——も保管します。釈放は今夜、手続き上問題なく完了しています」

「……はい」

サクラが言った。「問題なく」という部分が廊下の空気と合わない感触を持ったが、言わなかった。Qには言っても届かないのではなく——届く場所にはある、でも今夜は受け取る方法が合わない、という感触だった。

それを言語化することをしないまま、サクラが立ち上がった。

「……Qは、今夜の判断が正しいと思いますか」

サクラが聞いた。

Qが少し間を置いた。

「Kの判断が正しいと思います」

「それは、どういう意味で」

「Kが下した判断を、正しい判断として受け取る、という意味です」

サクラが「……そうですか」と言った。

「正しいという確認ではないんですね」

「現時点では、できません」

サクラが何も言わなかった。

Qもそれ以上は言わなかった。会議室のエアコンの音だけがあった。

A1が立った。

「では戻ります」

「はい」

二人が会議室を出ていった。

 

Qが一人になった。

モニターを開いた。釈放手続きの完了通知が来ていた。「処理済み」の表記が出ていた。

Qが「処理済み」という文字を見た。

今夜処理したことが「処理済み」になった。処理したことと、処理できなかったことと、処理しようとして止めたことがある。その三つは全部、同じ「処理済み」の通知の後ろにある。

今夜の資料をまとめながら、一つだけ手が止まった。

決裁欄のことを、どこにも書かなかった。

書こうとしたのではなかった。書かないことを選んだのでもなかった。「書く」と「書かない」の間で止まったまま、手続きを進めた結果、書かれていなかった。

「……名前のつかないファイル、か」

Qが小さく言った。

前に一度、Jに言った言葉だった。処理できないものに名前がつかないまま積まれていくことを、そう呼んだことがあった。

今夜もう一つ、積まれた。

「誰の」という問いに名前がついていない。

Qがモニターの電源を落とした。

資料室が暗くなった。

 

 


 

 

数日後、という言い方をQはした。

「数日後、サーカスとの直接接触を行います」

会議室で、サクラとA1に向けて言った。Jは別の棟にいた。

「法的根拠は公職選挙法違反の疑いです。坂口という捜査員の捜査と、形の上では連動する形になります」

「形の上では」とサクラが繰り返した。

「坂口は私たちの存在を知りません。捜査の目的は一致していますが、接触はありません」

「分かりました」

「接触は本郷外周で行います。サクラさんとA1、二名で。Q・Jは別ルートで待機します」

 

数日後の夜は、曇っていた。

本郷のキャンパス外周の道は、夜になると人が少なかった。昼間は自転車と学生で埋まる通りが、夜十時を過ぎると静かになる。街灯の間隔が少し広くて、木の葉が暗い側に重なっている。

A1がサクラの左斜め前を歩いていた。

「Qから通信」

A1が言った。声は変わらない。

「小牧とヨグが確認されました。東門側、今から接触します」

A1が歩調を変えなかった。サクラも合わせた。

 

二人は、いた。

街灯のひとつの下に、並んで立っていた。どちらも女性の服を着ていた。小牧は白いシャツと、細い織りのスラックス。ヨグは薄い色のパーカーに、裾が長めのスカート。二人とも荷物を持っていた。逃げる体勢ではなかった。

「——K機関の方々ですね」

小牧が言った。

声が低かった。ゆっくりしゃべった。「来ると思っていた」というよりも「予定通りに来た」という感触で、驚く素振りがまったくなかった。

ヨグがスマートフォンを出した。

「今この会話、録音してるんですよね」

A1に向けて言った。

「はい」

「こちらもしています」

「知っています」

ヨグが少し止まった。

「……スマートですね」

「情報として扱います」

 

「私たちが何をしたか、聞きますか」

小牧がA1に言った。「それとも、すでにご存じですか」

「概要は把握しています」

「では——」

小牧が少し間を置いた。置き方が、慌てている感触ではなかった。次に言う言葉を選んでいる、というよりも、「次に言う言葉がすでにある」という間だった。

「私たちが、間違ったことをしたと思いますか」

A1が答えなかった。

一秒。

「公職選挙法の観点では、問題があります」

「それは制度の話ですね」

小牧が言った。「私は——正しいことをしているかどうかを聞いています」

沈黙があった。

木の葉が動いた。車が一台、遠くの道を通り過ぎた。

「……正しいかどうかは、A1が決められないと思います」

サクラが言っていた。

言ってから気づいた。

小牧がサクラの方を見た。初めて、サクラを見た。

「あなたは——タチバナ・サクラさん、でしたね」

「……はい」

「魔法少女の桃色の変身者。でも、K機関の側にいる」

「……そうです」

「そうですか」

小牧が少し顎を引いた。「そうですか」は同意の形ではなかった。確認して、次に進む形だった。

 

「あなたは界隈の子どもたちと同じ立場でありながら、K機関として彼女たちを制圧している」

小牧がサクラに言った。

「それは——あなたには、正しいことですか」

サクラが答えられなかった。

一秒。

「……K機関の判断で動いています」

「それは答えではない」

「……今は、それしか言えないです」

「そうですか」

また、あの確認の形だった。「そうですか」で受け取った、という声だった。受け取った後どこに置くかは、小牧が決める。

A1がサクラの方を向いた。

「もういい」

短かった。指示でも命令でもなく、「今夜の判断はここで終わり」という種類の声だった。

サクラが「はい」と言った。

 

ヨグがスマートフォンの画面をA1に差し出した。

「380万再生」

A1が画面を見た。

「K機関への批判コメントが21万件。『秘密警察を廃止せよ』という署名が、48時間で6万筆集まっています」

ヨグが言った。「これが——アテンションです」

A1の表情が変わらなかった。

「数字は道徳より正直だから」

ヨグが言った。「これを見て、何か感じますか」

「確認しました」

A1がスマートフォンから視線を外した。

「何か感じますか、と聞いています」

「感じません」

ヨグが少し止まった。

「……」

何かが少し変わった気配だった。ヨグが「感じません」という答えを予測していなかったか、していたとしても「そう返してくる」という事実に何かが動いたか——どちらなのかは、サクラには分からなかった。

「数字は、そうだな」

A1が言った。

「でも——」

ヨグが言いかけた。止まった。続きが来なかった。

 

A1が小牧とヨグを交互に見た。

「任意同行をお願いします」

声が変わった。

取引の声ではなかった。業務の声でもなかった。法執行の声、とだけ言える種類の声だった。

「公職選挙法違反の疑いと、未成年者を対象とした情報操作の予備的調査のため」

小牧が少し間を置いた。

「……分かりました」

驚かなかった。「分かりました」が想定していた答えの一つだったように見えた。

「弁護士を呼んでいいですか」

ヨグが言った。

「任意同行中はそうしていただいて構いません」

「……」

ヨグがスマートフォンをしまった。

木の葉がまた動いた。今度は少し長く。

 

四人で歩いた。

A1がサクラの斜め前を歩き、小牧とヨグを視野に収める位置に立った。小牧が一番後ろで、ゆっくり歩いた。急がなかった。「急ぐ理由がない」のではなく「急がないことを選んでいる」歩き方だった。

本郷の通りは静かだった。

赤門が見える方向に、門灯が灯っていた。

「あなたに、一つ聞いてもいいですか」

小牧がサクラに言った。A1が振り向かなかった。問いを聞いていた。

サクラが歩きながら振り向いた。

「……なんですか」

「あなたは——正しいことをしていると、思いますか」

「K機関の判断を、と言いましたよね」

「聞いていません」

小牧が静かに言った。「K機関のことを聞いていません。あなた自身のことを聞いています」

サクラが前を向いた。

答えなかった。

「あなたは、正しいことをしていると思いますか」

小牧がもう一度言った。言い方が変わらなかった。同じ声量で、同じ速さで、同じ問いを言った。

答えが来ないと分かって言い直したのではなかった。ただ、もう一度言った。

「……今は、答えられないです」

サクラが言った。

「そうですか」

また、その声だった。

受け取った。

どこに置くかは、小牧が決める。

 

目黒合同庁舎への車が来た。

小牧とヨグが乗った。A1が後部座席のドアを開けた。小牧が乗り込む前に、一度サクラの方を見た。何かを言うかもしれない、とサクラは思った。

何も言わなかった。

乗り込んだ。ドアが閉まった。

車が走り出した。

 

Qから通信が来た。

サクラの端末に出た。

「任意同行を確認しました。手続きは庁舎で処理します。サクラさんは戻ってください」

「分かりました」

通信を切った。

A1がサクラの隣に立った。

「……お疲れ様でした」

サクラが言った。

A1が「疲れない」と言った。

「そうですよね」

「……まあ」

A1が少し止まった。

「今夜は、長かった」

サクラが「はい」と言った。

本郷の通りが静かだった。門灯が遠かった。車のエンジン音が消えた後も、しばらく、どちらも動かなかった。

 

後日、Qが記録した。

小牧とヨグは任意同行に応じた。取り調べでは「言論と研究活動の範囲内の行為」という主張を通した。法的判断は保留、釈放。担当弁護士は三名。「白に近いグレー」という評価を、法務担当が文書に残した。

任意同行から三日後、ヨグがSNSに動画を公開した。タイトルは「K機関に連行されました」。

動画には、本郷の夜の映像があった。A1とサクラの後ろ姿があった。任意同行を告げる声があった。

記録には「ヨグ自身がスマートフォンで撮影していたと推定される」と書かれた。

初日で200万を超えた。

Qがその数字を見た。

「……」

何も言わなかった。

数字を見た後、モニターの別の場所に視線を移した。「サーカスの陣地戦、継続中」という項目に、今日の日付でQが入力した一行があった。

「一回の接触では取り崩せない。これは双方の了解事項として記録する」

Qが入力した。

送信した。

 

「小牧に聞かれたことを」

その夜、サクラが廊下でA1に言った。

「……正しいことをしているか、という問いです」

「聞いてた」

「答えられなかったです」

「そうだな」

A1が前を向いたまま言った。

「A1は——答えられますか」

A1が少し止まった。

「俺は」

A1が言った。

「法的手続きの範囲で動いてる。それが正しいかどうかは——別の話だ」

「それは、小牧が言ったことと同じ構造ですね」

A1が何も言わなかった。

「……同じかもしれない」

少ししてから言った。

廊下が静かだった。

サクラが「そうですか」と言った。

今度は自分が使った。

小牧と同じ使い方ではなかったかもしれない。でも言ってみたら、受け取る場所がなかった。「そうですか」で受け取った後、どこに置くか、サクラには分からなかった。

さっきの話ですが——

「ワタシが答えられなかったのは、今夜だけの話じゃないと思います。でも今夜は特に、だったかな、と思います。それだけです」

後ろからA1の声が来た。

「また独り言か。話しかけると、何か整理されるのか」

「……たまに」

「そうか」

A1が「そうか」と言った。

廊下でその言葉が出ると、今夜の小牧の声と並んで聞こえた。「そうか」と「そうですか」は、同じ意味ではなかった。

どう違うのか、サクラには言えなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。