アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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11.ブルー・ドゥ・ミニット-Bleu de Minuit-

車が来たのは、昼前だった。

普通の乗用車だった。K機関の邸宅の前に、特に音もなく来て、止まった。白くも黒くもない色の、どこにでもある型の車だった。

サクラが玄関の窓から見ていた。

ナンバープレートを確認する理由はなかった。でも確認した。習慣が先に来た。

 

A1が玄関に出た。

サクラが後から続いた。

車から降りたのは二人だった。男性と女性。四十代くらい。「普通の親の顔」という言い方がサクラの中に来て、でも「普通の親の顔」がどんな顔なのか、自分では分からなかった。特別に心配そうではなかった。特別に怒っているわけでもなかった。何かを期待している顔でもなかった。

来た、という顔だった。

「遠くからお越しいただきありがとうございます」

A1が言った。

父親が少し止まって、「……娘がお世話になりました」と言った。「お世話になりました」の意味が、どこを向いているか分からなかった。K機関に向いているのか、サクラに向いているのか、あるいはどこにも向いていないのか——サクラには判断できなかった。

母親は何も言わなかった。

 

アオイが荷物を持って玄関に出てきた。

荷物は少なかった。K機関の邸宅に来てからの日数より、ずっと少なかった。K機関が用意したものがあったはずだが、それは置いていくらしかった。持っていくのは、来た時に持っていたものだけのように見えた。

「アオイさん」

サクラが言った。

アオイが振り向いた。サクラを見た。

「……行きます」

「……どこへ」

「社会に戻るための訓練、と、両親は言っています」

「社会に戻るための訓練」という言葉が、玄関の前の空気に出た。

A1がその言葉を聞いていた。両親もそこにいた。誰も訂正しなかった。訂正するべき言葉ではないのか、訂正する方法がないのか——どちらかは分からなかった。

「……それは、アオイさんが選んだことですか」

サクラが聞いた。

アオイが少し間を置いた。

荷物を持ち直した。視線が下に行って、戻った。

「選んだわけじゃない、かな」

アオイが言った。「でも——断る理由が、なかった」

「断る理由がなかった」という言葉が残った。

「なかった」という過去形が、選ばなかったということとは少し違うことを、サクラは聞きながら感じた。理由が欲しかったのかどうかも分からないまま、「なかった」だけが残った。

 

両親が先に車の方へ向かった。

アオイがまだ玄関の前にいた。

「サクラは——K機関にいる理由、あるの」

アオイが聞いた。

「……あります」

「それでいいね」

羨ましい、という声ではなかった。妬ましい、でもなかった。確認していた。「それでいいね」が「そういうことか」という言葉と同じ形で来た。アオイが何かを確かめて、確かめたことをそのまま口に出した、という感触だった。

サクラが「……はい」と言った。

それ以上、何も出なかった。

 

車に乗り込む前に、アオイが振り返った。

「妖精が——いなくなりました」

「……」

「能力が消えてから、もうメッセージが来なくなった」

サクラが「……それは」と言いかけた。

アオイが続けた。

「寂しいかどうかも分からない。ただ、静かになった」

「静か」とアオイが言った時の声が、特別に暗くなかった。特別に明るくもなかった。「静かになった」という事実を、そのままの声で言っていた。

サクラが何を返すべきか分からなかった。

「そうですか」と言いかけて、その言葉が今夜の小牧の声と重なった。重なったので、言わなかった。

アオイが車に乗った。

ドアが閉まった。

 

車が動き出した。

ゆっくり動いて、角を曲がって、見えなくなった。

A1が玄関の横に立っていた。

二人で、車が消えた方向を少し見ていた。

「……訓練、か」

サクラが言った。独り言のつもりではなかったが、誰かに向けた言葉でもなかった。

A1が何も言わなかった。

「K機関にいることは——訓練じゃない、と思います。でも、社会に戻ることとも——違う、と思います」

「そうだな」

A1が言った。

「では、何ですか」

「分からない」

A1が「分からない」と言った。「調べればわかります」でも「それが問いというものです」でもなく、ただ「分からない」と言った。「今分からない」という状態をそのまま置いた声だった。

「……A1も、分からないことがあるんですね」

「ある」

「そうですか」

「——」

短い沈黙があった。

「アオイの妖精が——なくなった」

A1が続けた。

「「いなくなる」というのが正確な言い方かどうかは分からない。リソースが消えて、接続が切れた——という処理をしている。でも、いなくなった、という言い方の方が——近い気がする」

「……気がする」とA1が言った。「気がする」という言い方がA1から来るのが、サクラには少し予想外だった。何か言おうとして、言わなかった。

 

邸宅の中に戻った。

廊下が静かだった。昼前の光が、細長い窓から入ってきていた。

「社会に戻るための訓練」という言葉が、歩きながらまた来た。

訓練の先に何があるか——アオイの両親が言ったその言葉の向こうに、どこへ行き着くかを、誰が決めるかを、サクラは知らなかった。知らないまま、その言葉だけが繰り返し来た。

「ただないのか、欠けているのか、あるいは——」

サクラが廊下に向けて言った。

A1が振り返らずに歩いた。

「今日また向こうに喋りかけてるのか」

「……向こうに言っています」

「何を」

「断る理由がなかった——という言葉のことです。選んだわけじゃないけど断る理由がなかった、というのが——どういう状態なのかを、考えています」

「整理できそうか」

「……できないです。でも、整理できないことを——向こうに言うと、少し変わる気がします」

「変わる」

「整理できないということが、整理できない、というか——はっきりします」

A1が少し止まった。

「はっきりするなら、いいんじゃないか」

サクラが「……はい」と言った。

廊下が続いていた。

アオイがいた部屋の前を通った。ドアは閉まっていた。誰かが後で開けて、片付けるだろうと思った。誰が、というのは考えなかった。

 

昼を過ぎた時間に、Qから通信が来た。

「アオイの引き渡し、確認しました。記録は完了しています」

「分かりました」

「一点——」

Qが少し止まった。通信の中の間だった。

「アオイが持っていたリソースの状態について、改めて確認が取れました。完全に消失しています。再接続の可能性はありません」

「……はい」

「以上です」

通信が切れた。

「再接続の可能性はありません」という言葉が、通信が切れた後も続いていた。

可能性がない——という言い方は、正確だと思った。正確な言い方だと思った。でも「寂しいかどうかも分からない。ただ、静かになった」というアオイの声が、「可能性がありません」の後に来て、どちらも本当のことを言っていた。

どちらも本当で、違う場所にある感触があった。

 

「向こう、少し話します」

廊下の角のあたりで、サクラが言った。

A1が通信の確認をしていた。少し間を置いた後「どうぞ」と言った。「どうぞ」がA1から来るのも予想外だったが、言わなかった。

「アオイさんが言った——断る理由がなかった——というのを、ワタシはずっと引っかかっています。選んだわけじゃないけど断る理由がなかった、というのは、選ばされた、ということとも違う気がします。でも自分で決めた、とも違う。ちょうど間みたいなところにある感触で——ワタシにも、そういうことがあるのかもしれないと思います。K機関にいることが、選んだのか選ばなかったのかを、今はっきり言えるかどうか分からないです。それが困るかというと——今は特に困っていない。でも、それは理由がはっきりしているから困っていないのか、はっきりしなくていいから困っていないのかが、分からないです」

A1が通信を閉じた。

「長かった」

「……長かったですか」

「まあ」

サクラが「すみません」と言いかけて、止めた。謝ることではないかもしれないと思った。

「A1は——K機関にいることが、自分で選んだことか、分かりますか」

A1が歩きながら少し止まった。歩調だけが一瞬変わった。

「……分からない」

「そうですか」

「でも——ここにいる。それだけは今の事実だ」

サクラが「そうですね」と言った。

廊下の突き当たりに、窓があった。昼過ぎの光が入っていた。車が来た時より、少しだけ傾いた光だった。

アオイが庭に来ていた日のことを思い出した。木の根元に座っていた。「次に何をすればいいかが分かると思っていた」と言っていた。

分からないまま庭にいた。

それがあの日の事実だった。

「……アオイさんが庭にいた日のことを思い出しました」

「覚えてる」

「あの時も——分からないまま、でも、いた」

「そうだな」

「今も——どこかで、いるんですね」

「いる」

「……そうか」

サクラが言った。

「そうか」という言葉が、廊下に出た。

アオイが言った「それでいいね」と同じ形の言葉だと思った。確認している言葉。何かを確かめて、確かめた事実だけを置く言葉。

窓の光がそのままあった。

廊下がそのまま続いていた。

 

 

 


 

 

Qからの通信が来たのは、邸宅に戻って二時間後だった。

「渋谷エリアで変身反応。青の系統です」

サクラは廊下の窓の外を見ていた。昼過ぎの光が夕方の光に変わっていた。アオイが乗った車が来た頃より、ずっと傾いていた。

「青」

繰り返した。繰り返してから「そうか」と思った。そうか、という感触が来るのが、少し遅かった。

「来ましたね、新しい」

A1がいた。廊下の壁際にいて、通信を受けていた。

「早いな」

「早いですか」

「アオイが出てから、まだ今日だ」

サクラが「……そうですね」と言った。今日だった。確かに今日だった。アオイが車に乗ったのも今日で、アオイの妖精がいなくなったのも今日で、Qが「再接続の可能性はありません」と言ったのも今日だった。

「出向きます」とA1が言った。

「今から」

「変身反応の継続が確認されています。放置は適切でない」

「……分かりました」

 

渋谷の路地は夜になっていた。

大通りから一本入ると、人の密度が落ちる。飲食店の換気扇が低く回っている。どこかの店の音楽が、壁越しに聞こえていた。道路の継ぎ目に水が残っていて、街灯を反射していた。

青い輪郭は、路地の奥にいた。

水色に近い色だった。

アオイの変身は暗い藍だった。そこと全然違う。こちらは明るい。軽い。輪郭の出方が違う。アオイは「染み込む」感触で変身していたが、目の前のそれは「ぶつかってきた」という感触が外側に出ていた。

能力者の方が、先に口を開いた。

「あ、桃色。K機関の人ですか」

驚いた様子がなかった。来ると思っていたか、来なくても別に構わなかったか、そのどちらかだった。

「そうです」

「妖精が教えてくれました。今日変身したら来るかもしれないって」

「……そうですか」

「あなたたちって——全員に来るんですか」

「今夜はあなたの反応が出ました」

「じゃあ今夜はワタシだけか」

「そうです」

「まあ」と能力者が言った。「まあ、そっか。じゃあ——」

話しながら、路地を少し見渡した。見渡すというより、空間を確認している感じだった。どこに何があるかを、目で触れている。「観察」よりも「接触の準備」に近い確認の仕方だった。

「任意同行をお願いします」とサクラが言いかけた。

「行かなかったらどうなりますか」

「対処します」

「対処ってどうするんですか」

「来ていただくことになります」

「つまり強制」

「任意同行です」

「同じじゃないですか」

「手続きが違います」

能力者が少し考えた。考えるというより、目の前のものを計算している顔だった。計算が速かった。

「ちょっと戦ってみていいですか」

「……」

「敵対してるとかじゃないです。単純に——どういう感じか試したくて」

サクラはA1を見た。A1は「判断をどうぞ」という顔ではなかった。「見ています」という顔だった。

「試す、というのは」

「触ってみていいですか。この変身でできることが、まだよく分かってないので」

「……」

「返します。壊しませんから」

 

サクラが杖を出した。

右手のそれが伸びた。路地の幅に合わせて、境界線を引いた。横に。「ここまで」という線を空気の中に引く。

能力者が「わあ」と言った。感嘆の声だった。

「これ、どうなってるんですか」

「私の能力の境界線です」

「境界線——どのくらいの強さですか」

「試してみれば分かります」

能力者がこちらを見た。確認する目だった。「いいですか」という問いの目だった。サクラが「どうぞ」と言う前に、能力者の手が線の方に伸びていた。

触れた。

触れた瞬間に、何かが起きた。

「吸われた」とサクラが思うより先に、体が後ろに引かれた。路地の地面に踵をつけて、二歩、下がった。

「——え?」

境界線が、なくなっていた。

吸収された。引かれた。「あの線」が、触れた瞬間に能力者の中に入っていた。消えたのではなく、行先が変わっていた。

A1が動こうとした。

能力者が先に変身を解いた。

自分から解いた。「もういいです」という感じで、水色の輪郭がすっと引いた。

「分かった」と能力者が言った。

「何が」とサクラが言った。踵を戻しながら言った。

「こういう使い方するんだ、これ」

「返す」という意味が分かった、ということらしかった。サクラの境界線を吸収して、それを「ためた」——その感触で、自分の能力の使い方が分かったと言っている。

「面白かったです」

能力者が言った。事実として言っていた。感謝でも謝罪でもなく、確認だった。

「また」

路地の奥の方に向かって走り出した。

速かった。

「追いかけますか」とサクラはA1に言った。

A1が少し止まった。

「今夜は」と言った。「今夜は——こんなもんだな」

「今夜は、ってどういう意味ですか」

 

応える前にA1は無線機を取る。

「移動901より警視庁、209のマルK重要参考人情報、10代女性、髪は青、身長は——」

「それだけですか」

無線を終えたA1が応えた。

 

「今はね」

 

路地から大通りに戻ると、人の声が戻ってきた。

サクラはさっきの「え?」という感触を、まだ引きずっていた。

境界線が吸収された。「あの線」が通じなかった。通じなかった経験は、今まで一度もなかった。避けられたことはある。届かなかったことはある。でも触れた瞬間に「取られる」という経験はなかった。

「A1」

「なに」

「ワタシの線が——通じませんでした」

「見ていたよ」

「初めてです」

「そうだな」

「……どういう能力ですか、あれ」

「吸収してカウンターする系統だろうね。Qの解析が出ればもっと詳しくなる」

「吸収」

「来た力を受け取って、ためて、返す。そういう能力の方向性だった」

サクラは少し歩いた。歩きながら考えた。

「アオイさんとは、全然違いますね」

「違う」

「同じ色なのに」

「使い手が違う」

それだけだった。「使い手が違う」という四語が、説明のすべてだった。

Qからの通信が来た。

「新・青の適合者について。年齢16。能力特性は旧・青との継続性を持ちながら、まったく異なる攻撃的な表現。旧アオイが保有していたリソースの再配分が確認されました」

「再配分」とサクラが繰り返した。

声に出すのと、意味が来るのが、少しずれた。

「アオイさんのリソースが——次の人に行った、ということですか」

「そう捉えてよいかと」

「……」

何も言わなかった。

何かが「分かった気がした」という感触はあった。何が、かを言葉にしようとすると、もう少し遠くなった。

「以上です」とQが言った。

通信が切れた。

 

A1が通信を終えてから、少し黙った。

路地の出口に二人で立っていた。大通りの人の流れが、目の前を横切っていた。

「アオイさんのリソースが——」とサクラは言いかけた。言いかけて、続かなかった。

「言いたいことが固まっていない場合は、固まってから言ってもいい」

聞いていますか。ワタシは今——アオイさんがいなくなって、今日の夜に新しい青が来て——その人はアオイさんとは全然違う感じで、アオイさんのリソースが行ったと言われて、リソースって何なのか、ワタシにはよく分からなくて、でも行った、というのは分かって——それが寂しいのか、そうじゃないのかも、ちょっと分からないです。アオイさんは『静かになった』と言っていました。ワタシは今、静かかどうかも分からないです」

A1が少し止まった。

止まった時間が、今日の中で一番長かった気がした。

「長かった」とA1が言った。

「……長かったですか」

「まあ」

「すみません」

「謝らなくていい」と言った。今日の昼にも同じことを言った。二回目だった。

大通りの人の流れが続いていた。

サクラは「向こう」の方向を少し見た。見ても向こうは見えない。でも、言った。「整理できないということが、整理できた、という気がします。それだけでいいか、今夜は」

A1が「行くぞ」と言った。

「はい」

二人でバスの方向に歩き出した。

 

バスに乗り込む前に、サクラはもう一度路地の奥の方向を見た。

能力者が走って消えた方向だった。もういない。

「また」と言っていた。

「また」という言い方が、「次もある」という意味なのか「今夜はおしまい」という意味なのか、どちらかは分からなかった。でも言い方に「終わり」の感触はなかった。

「何か」とA1が聞いた。

「いえ」とサクラが言った。「なんか——あの子は」

「あの子は」

「全然困ってなさそうでした」

A1が少し考えた。

「そうかもしれない」

「アオイさんは——どちらかというと、ずっと困ってた気がします」

「そうだな」

「同じ色なのに」

「使い手が違う」

二度目だった。同じことを言った。今度は少し違う重さで来た気がした。

サクラはバスに乗った。

 

 


 

 

カラオケの個室は、いつも同じ温度だった。

廊下の声も、隣の部屋の低音も、関係なかった。部屋の外で何が起きていても、この部屋の空気は変わらなかった。

キヅキはソファに横になっていた。

天井を見ていた。天井は何も言わなかった。

「なんか、今夜——変な夜だったな」

声に出した。

妖精が「うん」と言った。

「なんかうん、じゃないな」

「……何が変だったの」

「分からない」

天井を見たまま言った。

「捕まって、話して、帰された。悪いことした感じ、ない。でも——守れた感じも、ない」

「守ろうとしてた?」

「してなかった、と思う。でも——誰かが守れたのかどうかが、なんか気になる。おかしくないか、それ」

妖精が少し間を置いた。

「おかしくないと思う」

「そっかな」

壁を一回見た。

声を出したくなった。出す場所があった。出した。

音が個室の壁に当たって、戻ってきた。壁が受け取って返しただけの声だった。

でも出た。

「——聴こえてる?」

返事は来なかった。

「出た。それでいい」


公園に人はいなかった。

夜の遅い時間の公園は、人がいないことで別の場所になる。昼間とは別の、という意味ではなく、何かがない、という意味で。

ミドリはベンチに座っていた。

右の袖を引っ張った。引っ張ったまま、しばらく止まった。

「今夜——守れたか、守れなかったか」

声に出した。公園に向けて言った。

「分からない。でも——いた。私はいた」

それだけだった。

守れたかどうかより先に「いた」という事実の方が来た。来てから、それが今夜の答えでいいかどうかを少し考えた。

考えて——いいかもしれない、と思った。「いた」だけで今夜を閉じることが、逃げなのかどうか、今夜は判断しなくていい気がした。

「森山さん」とミドリは言った。

「——あの人は、知っていて声をかけてきたんですか。それとも本当に偶然でしたか」

答えは来なかった。

「……どっちでも」

どっちでも、通らない感触は変わらない。知っていたとしても、偶然だとしても、「体制を整えること」が「今日行けなくなること」と同じだと感じた感触は変わらない。

袖を離した。

「それだけでいいか、今夜は」

立ち上がった。


歩きながら考えていた。

ユカリは商店街の端の方を歩いていた。夜の商店街は半分シャッターが下りていて、空いている店と閉まっている店が交互に並んでいた。光と暗い部分が繰り返した。

「今夜、黙秘した」

言った。

「黙秘する理由は——あった。あの瞬間は、あった」

それは本当だった。「この取り調べで集めた情報は何に使われますか」と聞いた。聞いてから「根拠を作りたくないから」と言った。

「でも——なぜ黙秘したんだろう」

自分でした選択を、自分で問い直していた。おかしい、と思った。おかしいと思うのに、止められなかった。

「根拠を作りたくなかった」

それは本当だった。

「本当——だけじゃなかった、かもしれない」

光のある店の前を通った。閉まっている店の前を通った。

「変わる、と言った」

変わる、と言ったのは今夜より前だった。何度か言った。言うたびに少しずつ違う意味になっていた気がした。

「黙秘が変わることなのかどうか、まだ分からない」

分からないまま、歩いた。答えを出す必要があるかどうかも、まだ分からなかった。


屋根は、夜の方が見晴らしがよかった。

カノンは端の方に座っていた。足を下に向けて。落ちそうで落ちない場所に、当たり前のように座っていた。

夜風が来た。受けた。

「捕まって、帰された。なんか変な感じ」

今夜を一言で言うとそれだった。

「『いいな』って言ってしまった」

A1が「疲れない」と言った時。

口から出た。止める前に出た。「疲れないっていいな」と言った。止めようとした、かどうかも、よく分からなかった。「止めるべきだった」という気持ちもなかった。ただ出た。

「——私は疲れてる?」

自分に聞いた。

夜風が来た。答えは来なかった。

「まあ、いいか」

いいか、という言葉が出た。前よりも平坦な声で出た。

「記憶が焦げた感じがする」と言ったのを思い出した。「情報です」とA1が言った。

「情報、か」

受け取った。

「情報になったんだ、ワタシの記憶が」

傷ついているかどうか、を考えようとした。考えかけて、止まった。

傷、という言葉が合うかどうか分からなかった。

「焦げた感じ」の方が合っていた。傷ではなく、焦げ。「もうそこは戻らない」という感触の方が、傷よりも正確だった。

夜風がまた来た。

今度は受けなかった。


廊下は静かだった。

邸宅に戻ってからずっとそうだった。昼の光が夕の光になって、夜になって、廊下は変わらなかった。

サクラは廊下に立っていた。立っていて、並べていた。

「アオイさんが行った。新しい青が来た。4人が拘束されて、釈放された。取り調べが何かを引っ張り出した。Kが事情があると言って釈放した。坂口という人が捜査している。サーカスはまだある」

言い終わった。

「……多い」

それだけだった。「多い」以外の言葉が、今夜は出なかった。

廊下の奥からA1の足音が来た。

来て、通り過ぎようとした。

「今日、疲れましたか」

サクラが言った。

A1が少し止まった。

「疲れたりはしない」

「……私は、疲れた気がします」

A1がまた少し止まった。今度は少し長かった。

「そうか」

それだけ言った。「それだけですか」とサクラは思ったが、言わなかった。

A1が歩いていった。

廊下に残った。

聞いてもらえた、という感触が来た。

解決されたわけではなかった。何かが答えられたわけでもなかった。「疲れた」と言って、「そうか」と受け取られた。それだけだった。

それだけで、廊下が少し違った。


どこかから、見ていた人間がいた。

高いところだった。特定できない場所だった。ビルの屋上か、橋の上か、あるいはそれ以外の場所か——場所は分からなかった。

黒い服だった。

スマートフォンを持っていた。

撮影していなかった。録音していなかった。

ただ見ていた。

この夜に起きたことのいくつかを、その人間は見ていた。どこから見ていたのか。どのくらい見ていたのか。何を見て、何を見ていなかったのか。

それは分からなかった。

ただ、見ていた、という事実だけが残った。

見ていた、と誰も気づかないまま、夜が終わった。

 

 

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