アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
車が来たのは、昼前だった。
普通の乗用車だった。K機関の邸宅の前に、特に音もなく来て、止まった。白くも黒くもない色の、どこにでもある型の車だった。
サクラが玄関の窓から見ていた。
ナンバープレートを確認する理由はなかった。でも確認した。習慣が先に来た。
A1が玄関に出た。
サクラが後から続いた。
車から降りたのは二人だった。男性と女性。四十代くらい。「普通の親の顔」という言い方がサクラの中に来て、でも「普通の親の顔」がどんな顔なのか、自分では分からなかった。特別に心配そうではなかった。特別に怒っているわけでもなかった。何かを期待している顔でもなかった。
来た、という顔だった。
「遠くからお越しいただきありがとうございます」
A1が言った。
父親が少し止まって、「……娘がお世話になりました」と言った。「お世話になりました」の意味が、どこを向いているか分からなかった。K機関に向いているのか、サクラに向いているのか、あるいはどこにも向いていないのか——サクラには判断できなかった。
母親は何も言わなかった。
アオイが荷物を持って玄関に出てきた。
荷物は少なかった。K機関の邸宅に来てからの日数より、ずっと少なかった。K機関が用意したものがあったはずだが、それは置いていくらしかった。持っていくのは、来た時に持っていたものだけのように見えた。
「アオイさん」
サクラが言った。
アオイが振り向いた。サクラを見た。
「……行きます」
「……どこへ」
「社会に戻るための訓練、と、両親は言っています」
「社会に戻るための訓練」という言葉が、玄関の前の空気に出た。
A1がその言葉を聞いていた。両親もそこにいた。誰も訂正しなかった。訂正するべき言葉ではないのか、訂正する方法がないのか——どちらかは分からなかった。
「……それは、アオイさんが選んだことですか」
サクラが聞いた。
アオイが少し間を置いた。
荷物を持ち直した。視線が下に行って、戻った。
「選んだわけじゃない、かな」
アオイが言った。「でも——断る理由が、なかった」
「断る理由がなかった」という言葉が残った。
「なかった」という過去形が、選ばなかったということとは少し違うことを、サクラは聞きながら感じた。理由が欲しかったのかどうかも分からないまま、「なかった」だけが残った。
両親が先に車の方へ向かった。
アオイがまだ玄関の前にいた。
「サクラは——K機関にいる理由、あるの」
アオイが聞いた。
「……あります」
「それでいいね」
羨ましい、という声ではなかった。妬ましい、でもなかった。確認していた。「それでいいね」が「そういうことか」という言葉と同じ形で来た。アオイが何かを確かめて、確かめたことをそのまま口に出した、という感触だった。
サクラが「……はい」と言った。
それ以上、何も出なかった。
車に乗り込む前に、アオイが振り返った。
「妖精が——いなくなりました」
「……」
「能力が消えてから、もうメッセージが来なくなった」
サクラが「……それは」と言いかけた。
アオイが続けた。
「寂しいかどうかも分からない。ただ、静かになった」
「静か」とアオイが言った時の声が、特別に暗くなかった。特別に明るくもなかった。「静かになった」という事実を、そのままの声で言っていた。
サクラが何を返すべきか分からなかった。
「そうですか」と言いかけて、その言葉が今夜の小牧の声と重なった。重なったので、言わなかった。
アオイが車に乗った。
ドアが閉まった。
車が動き出した。
ゆっくり動いて、角を曲がって、見えなくなった。
A1が玄関の横に立っていた。
二人で、車が消えた方向を少し見ていた。
「……訓練、か」
サクラが言った。独り言のつもりではなかったが、誰かに向けた言葉でもなかった。
A1が何も言わなかった。
「K機関にいることは——訓練じゃない、と思います。でも、社会に戻ることとも——違う、と思います」
「そうだな」
A1が言った。
「では、何ですか」
「分からない」
A1が「分からない」と言った。「調べればわかります」でも「それが問いというものです」でもなく、ただ「分からない」と言った。「今分からない」という状態をそのまま置いた声だった。
「……A1も、分からないことがあるんですね」
「ある」
「そうですか」
「——」
短い沈黙があった。
「アオイの妖精が——なくなった」
A1が続けた。
「「いなくなる」というのが正確な言い方かどうかは分からない。リソースが消えて、接続が切れた——という処理をしている。でも、いなくなった、という言い方の方が——近い気がする」
「……気がする」とA1が言った。「気がする」という言い方がA1から来るのが、サクラには少し予想外だった。何か言おうとして、言わなかった。
邸宅の中に戻った。
廊下が静かだった。昼前の光が、細長い窓から入ってきていた。
「社会に戻るための訓練」という言葉が、歩きながらまた来た。
訓練の先に何があるか——アオイの両親が言ったその言葉の向こうに、どこへ行き着くかを、誰が決めるかを、サクラは知らなかった。知らないまま、その言葉だけが繰り返し来た。
「ただないのか、欠けているのか、あるいは——」
サクラが廊下に向けて言った。
A1が振り返らずに歩いた。
「今日また向こうに喋りかけてるのか」
「……向こうに言っています」
「何を」
「断る理由がなかった——という言葉のことです。選んだわけじゃないけど断る理由がなかった、というのが——どういう状態なのかを、考えています」
「整理できそうか」
「……できないです。でも、整理できないことを——向こうに言うと、少し変わる気がします」
「変わる」
「整理できないということが、整理できない、というか——はっきりします」
A1が少し止まった。
「はっきりするなら、いいんじゃないか」
サクラが「……はい」と言った。
廊下が続いていた。
アオイがいた部屋の前を通った。ドアは閉まっていた。誰かが後で開けて、片付けるだろうと思った。誰が、というのは考えなかった。
昼を過ぎた時間に、Qから通信が来た。
「アオイの引き渡し、確認しました。記録は完了しています」
「分かりました」
「一点——」
Qが少し止まった。通信の中の間だった。
「アオイが持っていたリソースの状態について、改めて確認が取れました。完全に消失しています。再接続の可能性はありません」
「……はい」
「以上です」
通信が切れた。
「再接続の可能性はありません」という言葉が、通信が切れた後も続いていた。
可能性がない——という言い方は、正確だと思った。正確な言い方だと思った。でも「寂しいかどうかも分からない。ただ、静かになった」というアオイの声が、「可能性がありません」の後に来て、どちらも本当のことを言っていた。
どちらも本当で、違う場所にある感触があった。
「向こう、少し話します」
廊下の角のあたりで、サクラが言った。
A1が通信の確認をしていた。少し間を置いた後「どうぞ」と言った。「どうぞ」がA1から来るのも予想外だったが、言わなかった。
「アオイさんが言った——断る理由がなかった——というのを、ワタシはずっと引っかかっています。選んだわけじゃないけど断る理由がなかった、というのは、選ばされた、ということとも違う気がします。でも自分で決めた、とも違う。ちょうど間みたいなところにある感触で——ワタシにも、そういうことがあるのかもしれないと思います。K機関にいることが、選んだのか選ばなかったのかを、今はっきり言えるかどうか分からないです。それが困るかというと——今は特に困っていない。でも、それは理由がはっきりしているから困っていないのか、はっきりしなくていいから困っていないのかが、分からないです」
A1が通信を閉じた。
「長かった」
「……長かったですか」
「まあ」
サクラが「すみません」と言いかけて、止めた。謝ることではないかもしれないと思った。
「A1は——K機関にいることが、自分で選んだことか、分かりますか」
A1が歩きながら少し止まった。歩調だけが一瞬変わった。
「……分からない」
「そうですか」
「でも——ここにいる。それだけは今の事実だ」
サクラが「そうですね」と言った。
廊下の突き当たりに、窓があった。昼過ぎの光が入っていた。車が来た時より、少しだけ傾いた光だった。
アオイが庭に来ていた日のことを思い出した。木の根元に座っていた。「次に何をすればいいかが分かると思っていた」と言っていた。
分からないまま庭にいた。
それがあの日の事実だった。
「……アオイさんが庭にいた日のことを思い出しました」
「覚えてる」
「あの時も——分からないまま、でも、いた」
「そうだな」
「今も——どこかで、いるんですね」
「いる」
「……そうか」
サクラが言った。
「そうか」という言葉が、廊下に出た。
アオイが言った「それでいいね」と同じ形の言葉だと思った。確認している言葉。何かを確かめて、確かめた事実だけを置く言葉。
窓の光がそのままあった。
廊下がそのまま続いていた。
Qからの通信が来たのは、邸宅に戻って二時間後だった。
「渋谷エリアで変身反応。青の系統です」
サクラは廊下の窓の外を見ていた。昼過ぎの光が夕方の光に変わっていた。アオイが乗った車が来た頃より、ずっと傾いていた。
「青」
繰り返した。繰り返してから「そうか」と思った。そうか、という感触が来るのが、少し遅かった。
「来ましたね、新しい」
A1がいた。廊下の壁際にいて、通信を受けていた。
「早いな」
「早いですか」
「アオイが出てから、まだ今日だ」
サクラが「……そうですね」と言った。今日だった。確かに今日だった。アオイが車に乗ったのも今日で、アオイの妖精がいなくなったのも今日で、Qが「再接続の可能性はありません」と言ったのも今日だった。
「出向きます」とA1が言った。
「今から」
「変身反応の継続が確認されています。放置は適切でない」
「……分かりました」
渋谷の路地は夜になっていた。
大通りから一本入ると、人の密度が落ちる。飲食店の換気扇が低く回っている。どこかの店の音楽が、壁越しに聞こえていた。道路の継ぎ目に水が残っていて、街灯を反射していた。
青い輪郭は、路地の奥にいた。
水色に近い色だった。
アオイの変身は暗い藍だった。そこと全然違う。こちらは明るい。軽い。輪郭の出方が違う。アオイは「染み込む」感触で変身していたが、目の前のそれは「ぶつかってきた」という感触が外側に出ていた。
能力者の方が、先に口を開いた。
「あ、桃色。K機関の人ですか」
驚いた様子がなかった。来ると思っていたか、来なくても別に構わなかったか、そのどちらかだった。
「そうです」
「妖精が教えてくれました。今日変身したら来るかもしれないって」
「……そうですか」
「あなたたちって——全員に来るんですか」
「今夜はあなたの反応が出ました」
「じゃあ今夜はワタシだけか」
「そうです」
「まあ」と能力者が言った。「まあ、そっか。じゃあ——」
話しながら、路地を少し見渡した。見渡すというより、空間を確認している感じだった。どこに何があるかを、目で触れている。「観察」よりも「接触の準備」に近い確認の仕方だった。
「任意同行をお願いします」とサクラが言いかけた。
「行かなかったらどうなりますか」
「対処します」
「対処ってどうするんですか」
「来ていただくことになります」
「つまり強制」
「任意同行です」
「同じじゃないですか」
「手続きが違います」
能力者が少し考えた。考えるというより、目の前のものを計算している顔だった。計算が速かった。
「ちょっと戦ってみていいですか」
「……」
「敵対してるとかじゃないです。単純に——どういう感じか試したくて」
サクラはA1を見た。A1は「判断をどうぞ」という顔ではなかった。「見ています」という顔だった。
「試す、というのは」
「触ってみていいですか。この変身でできることが、まだよく分かってないので」
「……」
「返します。壊しませんから」
サクラが杖を出した。
右手のそれが伸びた。路地の幅に合わせて、境界線を引いた。横に。「ここまで」という線を空気の中に引く。
能力者が「わあ」と言った。感嘆の声だった。
「これ、どうなってるんですか」
「私の能力の境界線です」
「境界線——どのくらいの強さですか」
「試してみれば分かります」
能力者がこちらを見た。確認する目だった。「いいですか」という問いの目だった。サクラが「どうぞ」と言う前に、能力者の手が線の方に伸びていた。
触れた。
触れた瞬間に、何かが起きた。
「吸われた」とサクラが思うより先に、体が後ろに引かれた。路地の地面に踵をつけて、二歩、下がった。
「——え?」
境界線が、なくなっていた。
吸収された。引かれた。「あの線」が、触れた瞬間に能力者の中に入っていた。消えたのではなく、行先が変わっていた。
A1が動こうとした。
能力者が先に変身を解いた。
自分から解いた。「もういいです」という感じで、水色の輪郭がすっと引いた。
「分かった」と能力者が言った。
「何が」とサクラが言った。踵を戻しながら言った。
「こういう使い方するんだ、これ」
「返す」という意味が分かった、ということらしかった。サクラの境界線を吸収して、それを「ためた」——その感触で、自分の能力の使い方が分かったと言っている。
「面白かったです」
能力者が言った。事実として言っていた。感謝でも謝罪でもなく、確認だった。
「また」
路地の奥の方に向かって走り出した。
速かった。
「追いかけますか」とサクラはA1に言った。
A1が少し止まった。
「今夜は」と言った。「今夜は——こんなもんだな」
「今夜は、ってどういう意味ですか」
応える前にA1は無線機を取る。
「移動901より警視庁、209のマルK重要参考人情報、10代女性、髪は青、身長は——」
「それだけですか」
無線を終えたA1が応えた。
「今はね」
路地から大通りに戻ると、人の声が戻ってきた。
サクラはさっきの「え?」という感触を、まだ引きずっていた。
境界線が吸収された。「あの線」が通じなかった。通じなかった経験は、今まで一度もなかった。避けられたことはある。届かなかったことはある。でも触れた瞬間に「取られる」という経験はなかった。
「A1」
「なに」
「ワタシの線が——通じませんでした」
「見ていたよ」
「初めてです」
「そうだな」
「……どういう能力ですか、あれ」
「吸収してカウンターする系統だろうね。Qの解析が出ればもっと詳しくなる」
「吸収」
「来た力を受け取って、ためて、返す。そういう能力の方向性だった」
サクラは少し歩いた。歩きながら考えた。
「アオイさんとは、全然違いますね」
「違う」
「同じ色なのに」
「使い手が違う」
それだけだった。「使い手が違う」という四語が、説明のすべてだった。
Qからの通信が来た。
「新・青の適合者について。年齢16。能力特性は旧・青との継続性を持ちながら、まったく異なる攻撃的な表現。旧アオイが保有していたリソースの再配分が確認されました」
「再配分」とサクラが繰り返した。
声に出すのと、意味が来るのが、少しずれた。
「アオイさんのリソースが——次の人に行った、ということですか」
「そう捉えてよいかと」
「……」
何も言わなかった。
何かが「分かった気がした」という感触はあった。何が、かを言葉にしようとすると、もう少し遠くなった。
「以上です」とQが言った。
通信が切れた。
A1が通信を終えてから、少し黙った。
路地の出口に二人で立っていた。大通りの人の流れが、目の前を横切っていた。
「アオイさんのリソースが——」とサクラは言いかけた。言いかけて、続かなかった。
「言いたいことが固まっていない場合は、固まってから言ってもいい」
聞いていますか。ワタシは今——アオイさんがいなくなって、今日の夜に新しい青が来て——その人はアオイさんとは全然違う感じで、アオイさんのリソースが行ったと言われて、リソースって何なのか、ワタシにはよく分からなくて、でも行った、というのは分かって——それが寂しいのか、そうじゃないのかも、ちょっと分からないです。アオイさんは『静かになった』と言っていました。ワタシは今、静かかどうかも分からないです」
A1が少し止まった。
止まった時間が、今日の中で一番長かった気がした。
「長かった」とA1が言った。
「……長かったですか」
「まあ」
「すみません」
「謝らなくていい」と言った。今日の昼にも同じことを言った。二回目だった。
大通りの人の流れが続いていた。
サクラは「向こう」の方向を少し見た。見ても向こうは見えない。でも、言った。「整理できないということが、整理できた、という気がします。それだけでいいか、今夜は」
A1が「行くぞ」と言った。
「はい」
二人でバスの方向に歩き出した。
バスに乗り込む前に、サクラはもう一度路地の奥の方向を見た。
能力者が走って消えた方向だった。もういない。
「また」と言っていた。
「また」という言い方が、「次もある」という意味なのか「今夜はおしまい」という意味なのか、どちらかは分からなかった。でも言い方に「終わり」の感触はなかった。
「何か」とA1が聞いた。
「いえ」とサクラが言った。「なんか——あの子は」
「あの子は」
「全然困ってなさそうでした」
A1が少し考えた。
「そうかもしれない」
「アオイさんは——どちらかというと、ずっと困ってた気がします」
「そうだな」
「同じ色なのに」
「使い手が違う」
二度目だった。同じことを言った。今度は少し違う重さで来た気がした。
サクラはバスに乗った。
カラオケの個室は、いつも同じ温度だった。
廊下の声も、隣の部屋の低音も、関係なかった。部屋の外で何が起きていても、この部屋の空気は変わらなかった。
キヅキはソファに横になっていた。
天井を見ていた。天井は何も言わなかった。
「なんか、今夜——変な夜だったな」
声に出した。
妖精が「うん」と言った。
「なんかうん、じゃないな」
「……何が変だったの」
「分からない」
天井を見たまま言った。
「捕まって、話して、帰された。悪いことした感じ、ない。でも——守れた感じも、ない」
「守ろうとしてた?」
「してなかった、と思う。でも——誰かが守れたのかどうかが、なんか気になる。おかしくないか、それ」
妖精が少し間を置いた。
「おかしくないと思う」
「そっかな」
壁を一回見た。
声を出したくなった。出す場所があった。出した。
音が個室の壁に当たって、戻ってきた。壁が受け取って返しただけの声だった。
でも出た。
「——聴こえてる?」
返事は来なかった。
「出た。それでいい」
公園に人はいなかった。
夜の遅い時間の公園は、人がいないことで別の場所になる。昼間とは別の、という意味ではなく、何かがない、という意味で。
ミドリはベンチに座っていた。
右の袖を引っ張った。引っ張ったまま、しばらく止まった。
「今夜——守れたか、守れなかったか」
声に出した。公園に向けて言った。
「分からない。でも——いた。私はいた」
それだけだった。
守れたかどうかより先に「いた」という事実の方が来た。来てから、それが今夜の答えでいいかどうかを少し考えた。
考えて——いいかもしれない、と思った。「いた」だけで今夜を閉じることが、逃げなのかどうか、今夜は判断しなくていい気がした。
「森山さん」とミドリは言った。
「——あの人は、知っていて声をかけてきたんですか。それとも本当に偶然でしたか」
答えは来なかった。
「……どっちでも」
どっちでも、通らない感触は変わらない。知っていたとしても、偶然だとしても、「体制を整えること」が「今日行けなくなること」と同じだと感じた感触は変わらない。
袖を離した。
「それだけでいいか、今夜は」
立ち上がった。
歩きながら考えていた。
ユカリは商店街の端の方を歩いていた。夜の商店街は半分シャッターが下りていて、空いている店と閉まっている店が交互に並んでいた。光と暗い部分が繰り返した。
「今夜、黙秘した」
言った。
「黙秘する理由は——あった。あの瞬間は、あった」
それは本当だった。「この取り調べで集めた情報は何に使われますか」と聞いた。聞いてから「根拠を作りたくないから」と言った。
「でも——なぜ黙秘したんだろう」
自分でした選択を、自分で問い直していた。おかしい、と思った。おかしいと思うのに、止められなかった。
「根拠を作りたくなかった」
それは本当だった。
「本当——だけじゃなかった、かもしれない」
光のある店の前を通った。閉まっている店の前を通った。
「変わる、と言った」
変わる、と言ったのは今夜より前だった。何度か言った。言うたびに少しずつ違う意味になっていた気がした。
「黙秘が変わることなのかどうか、まだ分からない」
分からないまま、歩いた。答えを出す必要があるかどうかも、まだ分からなかった。
屋根は、夜の方が見晴らしがよかった。
カノンは端の方に座っていた。足を下に向けて。落ちそうで落ちない場所に、当たり前のように座っていた。
夜風が来た。受けた。
「捕まって、帰された。なんか変な感じ」
今夜を一言で言うとそれだった。
「『いいな』って言ってしまった」
A1が「疲れない」と言った時。
口から出た。止める前に出た。「疲れないっていいな」と言った。止めようとした、かどうかも、よく分からなかった。「止めるべきだった」という気持ちもなかった。ただ出た。
「——私は疲れてる?」
自分に聞いた。
夜風が来た。答えは来なかった。
「まあ、いいか」
いいか、という言葉が出た。前よりも平坦な声で出た。
「記憶が焦げた感じがする」と言ったのを思い出した。「情報です」とA1が言った。
「情報、か」
受け取った。
「情報になったんだ、ワタシの記憶が」
傷ついているかどうか、を考えようとした。考えかけて、止まった。
傷、という言葉が合うかどうか分からなかった。
「焦げた感じ」の方が合っていた。傷ではなく、焦げ。「もうそこは戻らない」という感触の方が、傷よりも正確だった。
夜風がまた来た。
今度は受けなかった。
廊下は静かだった。
邸宅に戻ってからずっとそうだった。昼の光が夕の光になって、夜になって、廊下は変わらなかった。
サクラは廊下に立っていた。立っていて、並べていた。
「アオイさんが行った。新しい青が来た。4人が拘束されて、釈放された。取り調べが何かを引っ張り出した。Kが事情があると言って釈放した。坂口という人が捜査している。サーカスはまだある」
言い終わった。
「……多い」
それだけだった。「多い」以外の言葉が、今夜は出なかった。
廊下の奥からA1の足音が来た。
来て、通り過ぎようとした。
「今日、疲れましたか」
サクラが言った。
A1が少し止まった。
「疲れたりはしない」
「……私は、疲れた気がします」
A1がまた少し止まった。今度は少し長かった。
「そうか」
それだけ言った。「それだけですか」とサクラは思ったが、言わなかった。
A1が歩いていった。
廊下に残った。
聞いてもらえた、という感触が来た。
解決されたわけではなかった。何かが答えられたわけでもなかった。「疲れた」と言って、「そうか」と受け取られた。それだけだった。
それだけで、廊下が少し違った。
どこかから、見ていた人間がいた。
高いところだった。特定できない場所だった。ビルの屋上か、橋の上か、あるいはそれ以外の場所か——場所は分からなかった。
黒い服だった。
スマートフォンを持っていた。
撮影していなかった。録音していなかった。
ただ見ていた。
この夜に起きたことのいくつかを、その人間は見ていた。どこから見ていたのか。どのくらい見ていたのか。何を見て、何を見ていなかったのか。
それは分からなかった。
ただ、見ていた、という事実だけが残った。
見ていた、と誰も気づかないまま、夜が終わった。