アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
昼になった。
コンビニで買ったサンドイッチを食べてから、A1がトイレに行くと言って先に席を立ち、ワタシは一人でノートを閉じた。何も書いていなかった。閉じてから廊下に出た。
廊下は静かだった。昼の光が窓から入っている。窓の外に見えるのは別のビルの壁で、光は高い角度から来るので廊下の床まで届く。午前中よりも明るい。廊下が白くなる時間。
窓際に立って、外を見ていた。
外に見えるものは何もない。ビルの壁。空が少しだけ。春の空は白い青で、雲があるのかどうかも判断しにくい。
A1が戻ってきた。廊下のこちらに向かってくる足音がして、止まった。
「何か見えるものがあるのか」とA1が言った。
「ないです」
「なんで見てる」
「……考えていました」
「何を」
言い出せないでいたことが、それで少し動いた。
考えていたのはそれで正しい。廊下に出る前から、サンドイッチを食べながら、もしかしたら午前中ずっと——考えていた。「聞いていいか」ということを。
A1が横に来て、同じように窓の外を見た。
ビルの壁を見ながら、A1は何も言わなかった。
「……A1」
「うん」
「過去を聞いていいですか」
間があった。「判断している間」と「返す言葉がない間」のどちらか分からない間が、二秒か三秒来た。
「どの過去」
「西南戦争の話をしたことがありましたよね」
「した」
「あれって」と言いかけて、少し止まった。「——本当の話ですか」
A1が窓から目を離した。ビルの壁から離れた視線が、廊下の床のどこかに落ちた。
「本当だよ」
短い言い方だった。「本当だよ」という四文字だけで、それ以上ついてこなかった。でも嘘をついている感触はなかった。こういう時の感触がだいぶ分かってきている——A1が「判断している間」の気配と、A1が「言い切った」時の気配。今のは後者だった。
「どこから話してもらえますか」
「どこから、か」とA1が言った。
繰り返した。聞き返しでも、あしらいでもなく——「どこから」という言葉を自分で一度確かめているような繰り返し方だった。
廊下を誰かが通った。ルーム3に来ている他の子どもが一人、どこかに向かって歩いていった。ワタシたちの横を通り過ぎる時に視線をよこした——よこして、それだけだった。気にしているでも、気にしていないでもない、ただ通り過ぎた。
廊下がまた静かになった。
「一から、というのは」とA1が言った。「どこから数えることになるか、ちょっと整理がいる」
「整理できますか」
「——できるかどうか分からない」
A1が窓の方に視線を戻した。またビルの壁を見ている。処理をしている目になっていた。
ワタシは待った。
待つのには慣れている。A1との会話では、間が来る前に次の言葉を出しても何も変わらない。間は間として来る。来るだけ来てから、A1が言葉を出す。
「西南戦争は一八七七年だ」とA1が言った。
「はい」
「田原坂で、十六日間戦った。薩摩軍と。警視庁抜刀隊として」
「警視庁抜刀隊」
「警察官が刀を持って戦った。銃が主流になっていた時代に——当時の警視庁の部隊が、刀を使った」
A1の言い方は淡々としていた。「感情を押しつぶして淡々としている」という重さではなく、ただ記録を確認するような声だった。昨日どこかに行ったことを話す声と、同じ高さで言っている。でも話している内容は百五十年前のことだ。
「A1はその戦いにいたんですか」
「いた」
「田原坂に」
「そうだよ」
確認していた。
確認しないといけないと思って聞いたというより、本当に確かめないと頭の中で落ちていかなかった。
A1が西南戦争の話を最初にしたのは、いつのことだったか。正確な場面は覚えていないが、3章の頃——長い夜の後のどこかで、断片的に出てきた言葉だったと思う。その時は「聞いてはいけない気がした」という感触があって、それ以上進まなかった。
今日は違った。
なんで今日だったのか、自分でもよく分からない。サンドイッチを食べていた時に、「今日だ」という感触が来た。感触というより——「今聞かないと次のタイミングが来ない気がした」という、少し焦りに近いもの。焦りでもないかもしれないが、そういう種類の動き。
「一八七七年」とワタシが言った。「今からどのくらい前ですか」
「百五十年くらい前だ」
「百五十年」
「そうだよ」
百五十年というのが、どのくらいの長さなのか。
数字としては分かる。でも「その時間をA1が生きている」というのが、何かとして落ちてこない。落ちてこないままワタシは窓の外を見ていた。ビルの壁。空の白い青。
「それより前は」とワタシが言った。
A1が少し止まった。
「別の話だ」
「……そうですか」
「そうだよ」
止まり方が少し違った——「考えている間」でも「返す言葉がない間」でもなく、別の種類の止まり方だったと思う。でもその種類に名前をつけられない。こういう間は初めてか、前にも来たことがあるのに気づいていなかったか、どちらか分からない。
別の話だ、と言った声は静かだった。閉じた声ではなかった。「別の話だ」という言い方は、「教えない」ではなく「別の話」として本当に分けているような言い方だった。
「川路利良という人は——」とワタシが聞きかけた。
廊下に足音が来た。成瀬が奥から歩いてきた。
「今日も来てるね」と成瀬が言った。ワタシたちの横を通りながら。
「はい」とワタシが返した。成瀬は止まらずに教室の方に向かっていった。
足音が遠くなってから、A1が言った。
「川路のことは——また今度にしてもいいか」
「……また今度」
「少し長くなる」
「長くなるなら」とワタシが言った。「ここじゃない方がいいかもしれないですね」
「そうだな」
廊下は静かだった。昼の光が、さっきよりも床の奥まで入ってきていた。
「そういうことで、また今度」とA1が言った。
「はい」
「川路の話は長い」
「そうですか」
「…………うん」
その「うん」は少し違う質だった。確認の「うん」ではなく、自分に言った「うん」のような。A1が自分に向けた言葉がこちらに来た、という感触。
なんで長いのか、とは聞かなかった。
午後が始まった。
教室に戻ってから、ワタシはノートを開いて何かを書こうとしたが、書く内容が出てこなかった。田原坂のことが頭の中にある。百五十年という数字がある。落ちてきていないものがまだある。
ノートの端に「1877」と書いた。書いてから消した。消した跡が少し残った。
隣でA1が座っている。A1が何をしているのかよく分からない、というのは午前中と変わらなかった。ノートに視線を落としているが、何かを書いているようには見えない。見ているのか、見ていないのか、判断がつかない。
窓から光が入っていた。午後の光は午前中より少し傾いていた。
「A1」
声を出したら、低くなった。廊下で話していた時より低い声が出た。教室の静かさが声を変えた。
A1が少し首を向けた。こちらを見た。
「K機関の『K』って——何のKですか」
間があった。
「どの」とA1が言いかけた。止まった。言いかけて止まった、というのは珍しかった。
「聞いたことがあるんですか、K機関という名前の由来を」
「……ない」
「じゃあ」
「ない、から——考えたことはある」
A1が窓の外に視線を向けた。ビルの壁を見ている。午前中も廊下でビルの壁を見ていた。見慣れているのか、何も見ていないのか、どちらか分からなかった。
少し長い間が来た。
判断している間、か、返す言葉がない間か、どちらか分からない間だった。でも今回はその二つ以外の間のような気もした。何か別の種類の止まり方。
「川路、だと思う」とA1が言った。
「川路」
「そうだよ。Kが何のKか、説明されたことはない。でも——そう思っている」
「川路利良のK、ということですか」
「そう思っている」
繰り返した。「そう思っている」という言い方を、A1は二回使った。「確かめたことはないが、そう思っている」という形の言い方。言い切っていない。でも言い切れない、というわけでもない感触がある。
「確認したことは」
「ない」
「Kに聞いたら答えてくれますか」
A1が少し止まった。「……答えてくれるかどうか分からない」
「分からない、というのは——答えてくれない可能性があるということですか」
「答えてくれるかどうかを判断できない、ということだ」
川路機関。
頭の中でその二文字を並べてみた。K機関、ではなく、川路機関。
川路利良が、A1に「この戦いの後に何が来るかを見なければならない」と言った。田原坂の話。百五十年前の話。その川路利良の名前が、今この組織の名前に入っているかもしれない——というのが、A1が「そう思っている」こと。
「向こうに言おうとすると」とワタシが思った。「また説明が難しくなる」。
川路利良がいて、A1がいて、田原坂があって、百五十年があって、K機関があって、今日フリースクールの教室にいる——その繋がりを、どう整理して向こうに伝えるのかが分からなかった。整理しなくていい、とさっきA1が言った。でも向こうに言おうとすると、何かひとつ形にしないといけない気がした。
「川路機関か」とワタシは声に出さずに思った。声に出すと廊下に響いた、というA1の言葉が残っていたので、今回は出さなかった。
「Kという人は」とワタシが言った。「川路利良を知っていますか」
A1が少し止まった。
「知っていると思う」
「知っていると思う、というのは——知っているかどうかA1が判断できない、ということですか」
「知っているかどうかを、私がKに確認していない。だから私には分からない。でも——」とA1が少し止まった。「知っていると思う」と繰り返した。
「それ以上は」
「それ以上は、今日の昼休みの話じゃないかもしれない」
「また今度、ということですか」
A1が少し考えた。「……今日の昼休みで消化できる量は、超えてきている」
「ですね」とワタシが言った。「田原坂で、百五十年で、K=川路で、もう十分です」
「そうだよ」
A1の声に何かが混じった気がした。何なのかは分からなかった。軽くなった、ということでも、重くなった、ということでもない。ただ少し変わった。
教室の中が静かだった。
成瀬が前の方に座って何かを読んでいた。窓際で、別の子が手元の作業を続けていた。誰も誰かのことを見ていない静かさ、というのは午前中と変わらなかった。
ワタシはノートを開いたまま、特に何も書かずにいた。
川路機関、という言葉が頭の中に残っていた。A1が「そう思っている」という形で出した言葉が、質量を持っているような感触があった。「確認されたことではない」という重さと、「でもA1がそう思っている」という重さが両方ある。二つの重さが違う方向に引っ張っている感触。
「向こう、ワタシは今日の昼に——」と始めかけて、止まった。
何を言おうとしているのかが自分でも分からなかった。
A1の端末が鳴った。
鳴り方が違った。
着信の音、ではなかった。通知の音でもなかった。もう少し短くて、もう少し高い。聞いたことがある音だった。出動の通知の音。
A1がすぐに端末を出した。確認した。ほとんど間を置かずに確認した。
「Q、情報来てる?」
端末を耳に当てずに、無線のように言った。小さい音でQの声が来た。教室の静かさの中で、かろうじて聞こえた。
「来ています。埼玉、川口の物流倉庫です。橙色の変身者が確認されました。ブリーフィングは移動中に」
「分かった」とA1が言った。
立った。
立つのが速かった。椅子が鳴らなかった。出動の準備が体の中にすでにある、という動き方だった。
ワタシも立った。ノートを閉じた。
荷物が一瞬で切り替わる。ここにいる、という状態から、行く、という状態に切り替わる。切り替わりの速さは3章から変わっていなかった。むしろ少し速くなっている気がした。慣れた、ということかもしれない。慣れていい、ということかどうかは別として。
成瀬が顔を上げた。
A1がそちらを向いた。「出ます」とだけ言った。
成瀬が頷いた。「分かった。また来てね」と言った。「気をつけて」も「どこへ行くの」も言わなかった。
「はい」とワタシが返した。
廊下に出た。
廊下を歩きながら、A1が「川口方面へのルートを確認する。バスは南平台分室から出る。十分で分室に戻れるか」と端末に向かって言っていた。Qの声が返ってきた。細かい数字が来た。聞こえたが頭には入らなかった。
フリースクールの出口が近くなった。
「A1」とワタシが言った。
歩きながらA1が振り向いた。振り向き方が「歩きながら振り向く」という動作の最小限だった。
「川路機関の話の続きは——」
「また今度」
即答だった。
即答の速さが、拒否の速さとは少し違った。「また今度」という言葉の処理が既に終わっていた——質問が来る前から答えが決まっていた、という種類の速さ。
「……また今度、ですね」
「そうだよ」
「整理が終わったら、教えてください」
A1が少し止まった。歩きながら止まらずに、でも何かが一瞬止まった。「……どのくらいかかるか分からない」と言った。
「分かりました」とワタシが言った。「また今度で」