アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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3.カフェ・ソサエティ-Café Society-

 夕方の公園は、光の捨て場だった。

 西の空が燃えさかるわけでもない。どこかの観光パンフレットが刷り込んだ「渋谷の夕景」でもない。ただ、午後六時の中途半端な明度が街全体を等しく薄汚れた橙色に染め、コンビニの看板も、自販機のパネルも、公園の砂も、同じ色の汚濁にまぶされて、どこからどこまでが夜なのかを曖昧にしていた。

 それでも少女————×××××は、いつもより三分だけ遠回りをしていた。

 正確な距離にすると二十メートルにも満たない。改札を出て左に折れるところを右に、横断歩道を渡って路地に入るはずのところを直進する。それだけのことが、十三年間生きてきた自分の習慣とどれほど格闘したかを、×××××は後から考えることになる。しかし今この瞬間は、その格闘に気づいていなかった。ただ足が、右に折れた。

 公園の入口から、もっとも遠い側のベンチに、藍色の制服の少女がいた。

 今日も、いた。

 いつもより遅い時間のはずなのに——×××××は内ポケットに入れたiPodの画面で時刻を確認する習慣があった。スマートフォンを持っていないかわりの代替品で、母親のお下がりの第六世代、もう製造も終わって久しいやつだ——午後六時十一分。昨日の同じ場所には、四時半には誰もいなかった。しかし今日のその少女は、いつもより遅い時間まで公園にいた。それだけのことが、×××××の足を路地の角に縫い止めた。

 その少女——アオイ——は、今日もイヤホンをしていた。両耳に。昨日は片耳だけだった気がする。一昨日は確かめていなかった。今日は両耳で、スマートフォンの画面を膝の上に伏せて、何かを聴いていた。何を聴いているのかは分からない。あの距離では、音の漏れひとつ届かない。ただ、「聴いている」ということだけが見えた。

 集中している人間の顔、と×××××は思った。聴くことに全部を使っている顔だ。

 

 その少女のまわりに、人が集まり始めたのは、六時を少し回ったあたりからだった。

 最初に来たのは、コンビニの白い袋をぶら下げた少女だった。

 緑が多い、と×××××は思った。薄い色ではなかった。苔みたいな、重たい緑。スウェットの緑、リュックのファスナーの緑。一つひとつは意図しているのかもしれないが、重なると「この色に囲まれていなければ落ち着かない」という強迫に見えた。少女はベンチから十歩ほど手前で立ち止まり、あたりを一度見回した。そのとき、遠くで車のドアが閉まる音がして、少女の肩が跳ねた。

 一瞬だった。ほんの一瞬、両肩が耳元まで迫り上がって、それからゆっくり落ちた。

 少女はそのまま、ベンチまで歩いた。アオイの斜め後ろ、二メートルほどの位置に立った。座らなかった。立ったまま、コンビニの袋をぶら下げたまま、何かを確認するように周囲を見た。スマートフォンを取り出すでも、誰かに声をかけるでもなかった。ただいた。立ったまま、その場所にいることを確認するように、いた。

 次に来たのは、まったく反対の種類の子だった。

 声が先に来た。笑い声だった。誰かの返しに笑い飛ばす、よく響く声。その声の主が路地の角から現れたとき、×××××はすぐに気がついた——よく笑うのに、目が笑っていない。黄色いピアス、黄色いシュシュ、黄色いスニーカーのライン。アクセサリーを選んでいる手に、「これにしたい」ではなく「これにしなければいけない」という種類の力が入っているように見えた。

 その少女はスマートフォンを持ちながら歩いてきて、公園に入りながらも視線を画面から外さなかった。画面の中の誰かと話しながら、笑いながら、歩いてきた。そしてアオイのそばのベンチに腰かけて、膝の上でスマートフォンを持ち、声のトーンを一段下げた。笑いが消えたのではなかった。笑い方が変わった。画面の外の空気に合わせた笑いに、切り替わった。

 アオイはその子と目を合わせなかった。

 挨拶もなかった。でも「そこにいることを知っている」という気配だけが、二人の間に薄くあった。×××××にはそれが分かった。知り合いかどうか、というより——同じ場所にいることに慣れている、という種類の共存。

 その後も、ぽつりぽつりと来た。

 路地の入口に立ったまま動かない子がいた。スマートフォンを顔の前に掲げて、ほとんど動かなかった。爪が紫だった。深い紫——何度も重ね塗りを繰り返したような、沈殿した色。誰とも話さなかった。視線を上げなかった。路地と公園のちょうど境目に立って、どちらにも入らないまま、ただそこにいた。

 ×××××は、その子たちを、路地の角から見ていた。

 

 「見ている」という行為が、なんだか悪いことのように感じられてきた。

 盗み見している、という感覚ではなかった。むしろその逆——見ることに慣れていないから、見ること自体が重たくなってくる、という感じだった。自分が「外にいる」ことが、だんだん明確になってきた。あの子たちは公園にいて、自分は路地の角にいて、二十メートルの距離が壁みたいに感じられた。

 あの人たちは、何をしているんだろう、と×××××は思った。

 何かを待っているのか。何かから逃げているのか。あるいは、待っているのか逃げているのかも決めていないまま、ただ「ここにいる」だけなのか。

 答えは出なかった。考えて出るような問いではなかった。

 一人ひとりを見るほど、「ひとまとめに分からない」という感触が増した。コンビニの袋を持った子と、笑っている子と、路地の境目に立っている子は、見た目にも雰囲気にも共通点がなかった。なのに×××××には、何か一つのことが重なって見えた。それが何なのか、言葉にならなかった。ただ、「重なっている」という感触だけが残った。

 そしてアオイは、その中にいた。

 中にいたのに、誰とも交わっていなかった。声をかけなかった。かけられなかった。挨拶もなく、目配せもなく、ただ「同じ空間に、それぞれが別々にいる」という状態で、全員が公園にいた。×××××がこれまで知っている「群れ」や「一人」のどちらでもなかった。もっと別の状態——それぞれが孤立したまま、同じ場所にいる、という状態。

 一語では言えなかった。一語で言える気がしなかった。

 

 六時二十分を過ぎたあたりで、自販機が一台、新しい光を点けた。

 公園の端、ベンチのそばの自販機が、オレンジと白の光を混ぜながら点灯した。その瞬間、公園の空気がわずかに変わった。一段、明るくなったのではない。明るくなったのに、暗くなった。西の空の橙色が自販機の光に飲み込まれて、夜が確定した、という感じだった。

 コンビニの袋を持った少女が、ようやく座った。自販機の横のベンチの端に、荷物を置くような静かさで、座った。袋の中からペットボトルを取り出して、キャップを開けて、飲んだ。それだけだった。それだけのことが、一つの動作として完結していた。

 ×××××は、気づかないうちに路地から踏み出していた。

 歩道の端に立って、公園の方を見ていた。距離は縮まっていなかった。けれど「路地の陰」ではなくなっていた。

 アオイが、その瞬間に顔を上げた。

 ×××××の方を向いたのではなかった。自販機の光の方を見たのかもしれなかった。あるいは、何かの音がしたのかもしれなかった。ただ顔が上がって、イヤホンの向こうで何かを聴きながら、一度だけ公園の外の方を見た。

 ×××××と目が合ったかどうかは、分からなかった。

 二十メートルの距離では、目が合っているかどうかも判断できなかった。ただ、アオイの顔が上を向いた。そしてすぐに、また膝の上のスマートフォンに落ちた。

 ×××××は、歩き始めた。

 公園の方向ではなく、家の方向に。いつもの道に戻って、いつものペースで歩いた。背中が少し重かった。重い理由は分からなかった。ただ重かった。

 背中の重さを抱えながら、×××××は横断歩道を渡った。

 あの子たちは何をしているんだろう、という問いが、頭の中にいつまでも残っていた。電車に乗っても残っていた。改札を出ても残っていた。答えが出ないまま、残っていた。

 答えが出ないことを、なぜか×××××は急かそうとしなかった。

 

 

 


 

 

 

 雨が降り始めたのは、改札を出て三分後だった。

 天気予報を確認する手段がなかった。スマートフォンを持っていないかわりに、今朝の空の色から判断しようとしたのかもしれないが、少女はそういったことを習慣的に確認しない。だから雨は、少女にとって常に「始まってから知る」ものだった。今日もそうだった。最初の一滴が額に当たって、少女はやっと顔を上げた。

 空は白かった。

 薄い雲が天頂から水平線まで均一に張り詰めていて、どこに雲の核があるのかも、どこから雨が来ているのかも判然としない、情報量ゼロの白さだった。光源がどこにもないのに明るい。陰影がどこにもないのに暗い。鉛色、と形容する文学的センスが少女にはまだなかったから、ただ「白くて暗い」とだけ思った。

 折り畳み傘は、鞄の底にあった。

 入れた理由は覚えていない。今日の朝、なんとなく持った。持った理由が分からないままそれを今、取り出して、広げた。傘が開く音——骨が伸びて生地が張るあの小さな音——が、雨音に打ち消された。降り方が少し強くなっていた。

 少女は歩き出した。

 いつもの道を。いつものように。

 

 


 

 

 

 公園の縁石に、青い少女がいた。

 傘を持っていなかった。

 それだけのことが、×××××の足を停止させた。正確には「停止させた」ではない——歩速が、何かに粘つかれたように、落ちた。落ちながら、落ちていることに気づいた。気づいたときにはすでに、縁石の少女との距離が二十メートルを切っていた。

 傘を持っていなかった。

 それは事実だった。事実として少女の目に入った。入ってから三秒ほど、×××××の内側で何かが議論した。議論は短く、結論は出なかった。出なかったまま、足が一歩、また一歩と、いつものルートではなく公園の方向へ向かった。

 意識して曲がったのかどうか、後から考えても分からなかった。

 

 

 


 

 

 近づくと、雨がよく見えた。

 傘の外で、雨粒が細かく斜めに流れていた。縁石の少女——アオイ——の制服の肩が、数秒ごとに色が変わるように濡れていった。最初は点々と、やがて面として、藍色の生地が少しずつ重みを帯びた色に変わっていく。それでもアオイは動かなかった。顔を上げなかった。スマートフォンを膝に伏せたまま、イヤホンを両耳に入れたまま、雨の中にいた。

 ×××××は十歩手前で立ち止まった。

 立ち止まってから、気がついた。近づきすぎた。ここから声をかけることも、引き返すことも、どちらも変だった。「変」の定義を考え始めたところで、考えること自体が無意味だとも気がついた。もうここにいるのだから。

 傘を貸せばいい。

 それだけのことだった。そう思った瞬間、それだけのことが途方もなく複雑に思えてきた。貸す、とはどういうことか。声をかけるのか。声をかけるとしたら何と言うのか。「傘、使いますか」か「傘、いりますか」か。どちらも変な気がした。そもそも知らない人間に話しかけた経験が、×××××にはほとんどなかった。

 なかったが。

 こんなに近くに来てしまった。

 

 傘を「置く」ことを思いついたのは、一分近く経ってからだった。

 置いて、立ち去ればいい。声をかけなくていい。知らない人間から声をかけられるのは、相手にとっても困るかもしれない。それよりは、傘だけそこに置いておけば、気づいた時点で使えばいい。気づかなければそれはそれで仕方がない。

 論理的な解決策だった——少なくとも、×××××にはそう思えた。

 三歩、近づいた。縁石の端から一メートルほどの位置で屈んで、傘の柄をコンクリートに立てかけた。雨が縁石を濡らしていて、傘の先端が少し滑った。手で押さえて、角度を調整した。その間、アオイは動かなかった。気づいていないのか、気づいていて無視しているのか、聴いているものに集中していて外が見えていないのか——判断できなかった。

 ×××××は立ち上がりかけた。

 「……ありがとう」

 声が来た。

 

 低かった。

 想像していたより——想像などしていなかったが、もし想像していたとすれば——ずっと低い声だった。台詞のある声だと思っていなかった。置いて去るつもりだった。置いたのに、声が来た。その組み合わせの意外さに、×××××の身体が反射で動いた。

 振り返っていた。

 アオイが顔を上げていた。

 片耳のイヤホンを外していた——左耳のものを。右耳にはまだ入っていて、その非対称さが何か意味を持つような気がしたが、何の意味なのかは分からなかった。スマートフォンは膝の上に伏せたままだった。顔が、×××××の方を向いていた。

 ×××××は、すぐに言葉が出なかった。

 アオイの顔を、まともに見たのが初めてだと気づいた。今まで横顔しか見ていなかった。正面から見ると——正確には少し斜め、×××××が縁石の端に立って見下ろす角度から——顔の印象が違った。目が大きかった。大きいというより、開いていた。眠そうでも疲れていそうでもなく、ただ、開いていた。雨が髪に散っていて、前髪の先から細い雫が垂れた。

「学校の帰り?」

 アオイが言った。

 質問のトーンではなかった。確認に近かった。×××××は反射的に「そう」と答えた。答えてから、「そう」の短さが失礼だったかもしれないと思ったが、長くする言葉が思い浮かばなかった。

「ここ、よく来るの?」

 またアオイが言った。

 今度は少し間があった。「よく来る」の定義を一瞬考えた——意識して来たわけではなく、帰り道がここを通るから通っていただけで、それは「よく来る」と言えるのか——しかしそれを説明する気力が出なかったので、「うん」と言った。

 沈黙になった。

 悪い沈黙ではなかった、と後から思う。雨の音が、沈黙を埋めていた。雨は隙間のない均一な音で、その中に二人が立っていた。アオイは傘に手を伸ばしていなかった。濡れたまま、膝の上のスマートフォンを見ていた。見ていたというより、視線を落とす場所がそこしかなかった、という感じに見えた。

 ×××××は何を聞くべきか、考えた。

 何も思い浮かばなかった。

 「じゃあ」と言った。

 

 歩き出してから、三秒後に気がついた。

 名前も聞かなかった。

 それだけのことが、歩きながら引っかかり続けた。名前を聞く必要があったか、と問われれば——ない。知らなくても何も困らない。傘を置いて、二言三言交わして、立ち去った。それだけのことだった。それ以上でも以下でもなかった。

 なのに。

 名前も聞かなかった、という事実が、やけにはっきりとした輪郭で残った。

 傘が雨を受ける音を聞きながら、×××××は横断歩道を渡った。信号の電子音が鳴って、止まって、また鳴った。渡りながら、背後を——振り返りはしなかった。振り返る理由がなかった。振り返る理由がないのに、振り返りたいという感覚が何かの形で背中にあった。「感覚」と呼んでいいのかどうかも分からなかった。

 声が、低かった。

 それだけが、なぜか鮮明に残った。あの「ありがとう」の低さが、ほかの誰かの声とは違う場所から来ていたような気がした。「違う場所」がどこなのかは言葉にならなかった。言葉にならないまま、少女は雨の中を歩き続けた。

 傘の内側に、雨の音がいつまでも続いた。

 

 

 坂の途中で、×××××はある事実に気がついた。

 傘を一本しか持っていなかった。

 貸してしまった。今、雨の中を歩いているのはアオイではなく×××××の方で、貸した傘の内側にいるのはアオイの方で、つまり今、×××××は傘なしで雨の中にいる。

 気づいた時点で、雨はやや弱くなっていた。

 大した量ではなかった——この程度なら、家に着くまでに濡れてもたかが知れている。だからこれは問題ではなかった。問題ではなかったが、少しおかしかった。おかしいというより、自分の行動の順序が一つずれていたような気がした。傘を貸す前に、帰りの自分の傘を考えるべきだった——という思考が、済んだ後にしか来なかった。

 それが何かを意味しているのかどうか、少女には分からなかった。

 ただ、雨が頭に当たった。

 それが不快かと問われれば——そうでもなかった。冷たかった。冷たいだけだった。少女は少しだけ歩速を上げて、いつもの坂を下り始めた。

 

 夕方の渋谷は、雨の日にも変わらなかった。

 人の流れが少し速くなっただけで、密度は変わらなかった。傘を持っている人間と持っていない人間が等分に存在していて、持っていない人間の方が少し足が速かった。その中に、今日の少女もいた。

 あの声は、低かった。

 「ありがとう」。

 たった一語だった。二語だったかもしれない——「……ありがとう」だから、「……」も含めればもう少し長いが、言葉の数は一つだった。その一語が、なぜこんなに後を引くのか——引いているとすれば——×××××には分からなかった。分からないまま、坂を下りて、住宅街の入口に入って、屋根のある路地で雨を避けた。

 少し立ち止まった。

 別に雨を避ける必要があったかどうかも分からない。ただ足が止まった。立ち止まって、手のひらを外に出してみた。雨粒が二つ、三つ落ちてきた。冷たかった。そこまで冷たくなかった。どちらとも言えた。

 ×××××は手のひらを引っ込めて歩き出した。

 今日、あの縁石の青い少女と言葉を交わした。それは事実だった。会話と呼べるかどうかは分からなかった。名前を聞かなかった。聞いてどうするつもりもなかった。

 ただ、声が低かった。

 声の低さが、どこかに留まっていた。留まっていることを、×××××は確認した。確認して、どこにも置けないまま、それを抱えて歩いた。

 いつも通りの月曜日の終わりだった——いや、今日は何曜日だったか。×××××は思い出そうとして、やめた。曜日は今、関係なかった。

 雨が、少し弱くなっていた。

 

 

 

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