アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
白いバスの後部コンパートメントに入ったのは、南平台分室を出て五分後のことだった。
A1が先に乗り込んで、シートに座って端末を確認した。ワタシが続いて入ってドアが閉まった。バスが動き始めた。ここから川口まで、首都高を使えば四十分ほどだとQが言っていた。
バスの中は白くて明るかった。天井の照明が均一に当たっている。シートが二列、向かい合わせに並んでいて、A1がこちら側、ワタシが向かい側に座った。運転席との間に仕切りがある。インターフォンで繋がっているが、こちらから話しかけない限り向こうからは声が来ない。
窓の外に夜の渋谷が流れていった。
端末の画面にQの声が来たのは、バスが首都高の入り口に差しかかる前だった。
「ブリーフィングを始めます」
短い声で言った。確認でも、挨拶でもなかった。始まるから始める、という声の出し方。
「了解」とA1が言った。
ワタシも聞くために座り直した。
「今夜の事案の概要です」とQが言った。「埼玉・川口市内の物流倉庫で、橙色の変身者の出現が確認されました。確認は今夜二十一時五分。倉庫の監視カメラの映像解析から、能力による高速移動の痕跡が出ています」
「変身者の特定は」とA1が言った。
「まだできていません。倉庫の夜間シフトに今夜登録しているギグワーカーが八名。その中に該当者がいると推定しています。八名のうち六名は男性、二名が女性。橙の変身者は映像から体型・動作を確認した限り、若い女性である可能性が高い」
「二人に絞れる」
「絞れます。ただし能力を使用中の映像なので、確実性は高くない」
A1が「進めて」と言った。
「同じ倉庫に関連する人物として——」とQが続けた。「フューチャーペイ株式会社、代表取締役、蒲原禄二。四十三歳。ギグワーカー向けの給料先物取引サービスを運営しています」
「給料先物取引」とワタシが繰り返した。声に出したのは、言葉として落とすためだった。
「ギグワーカーが翌月以降の稼働予定分を担保に当月現金を受け取れるサービスです。法的な分類としては給与ファクタリングの変形になります。手数料は、登録時の説明では十五パーセント前後。ただし——」
Qが少し止まった。
「ただし」
「手数料の構造が複利的に積み上がる設計になっており、翌月の収入から当月の先払い分の返済と手数料を引くと手元に残りにくい。残らなければ翌月もまた先払いを申請することになる。その繰り返しが発生している登録者が複数確認できています」
「法的には問えますか」とワタシが聞いた。
「今夜の時点では難しい。詳細は移動中に追加で報告します」
「分かりました」
「蒲原の今夜の所在ですが」とQが言った。「同じ川口の倉庫付近、別棟に本人の車が確認されています。今夜はそこにいると推定しています」
「別棟に来ている理由は」
「監視カメラのリアルタイム確認のためだと思われます。倉庫のカメラ映像を遠隔で見る権限を持っています。ただし——」
「ただし」
「今夜の映像は、能力を使用中の変身者ではなく、誰もいないところに荷物が動く映像として見えているはずです」
A1が少し止まった。処理をしている間、という止まり方だった。
「蒲原は今夜の変身者が誰か把握していないと考えていい」
「把握していないと思います」
「分かった」
バスが首都高に入った。
東京の光が流れ始めた。高架の上から見下ろす夜の街は、光の点が集まって何かの形を作っている。何の形かは判断しにくい。光が多すぎて、どこに何があるかが分からない。
ワタシはシートに背中をつけて天井を少し見た。
「橙の子が変身したのは」とワタシが言った。「フューチャーペイへの怒りからですか」
Qが一拍置いた。
「妖精の通知が先だと推定しています」
「通知が先」
「はい。妖精が『あなたの職場に怪人がいる』と通知して、それで変身した流れだと思います。動機として怒りがないとは言えませんが——怒りより先に、妖精の誘導があった。その順序で考えています」
窓の外の光が後ろに流れていった。
妖精が「怪人がいる」と言った、その言葉の形が頭の中に引っかかった。妖精がそう言ったから変身した。妖精が「リソースを奪った」と言ったから行こうとした。でも怒りがなかったわけじゃない——怒りがあったから妖精の言葉が刺さった、ということでもある。どちらが先か、という話は「どちらが原因か」とは少し違う気がした。
言わなかった。
Qに言っても今夜の動きが変わるわけではないと思ったので、頭の中だけで止めた。
「警察の動きについても報告します」とQが言った。
A1が姿勢を少し直した。
「警察の動きとも重複しています。捜査二課が今週、給料ファクタリング絡みの別件捜査で蒲原の名前を掴んでいます。K機関への正式な情報共有はまだ来ていませんが、今夜、同じ倉庫への接触を検討している可能性が高い」
「今夜、現場で重なる可能性がある」
「あります」
A1が「蒲原への対処はそちらに任せる方向で」と言った。確認ではなく、決めている言い方だった。
「それが適切だと思います」とQが言った。「蒲原への法的な執行余地は今夜の時点では薄い。捜査二課の動きが先行した方が——」と言いかけて、止まった。少しの間があった。「今夜は変身者の保護が優先です」
「そうだよ」
Qの通信が一度切れた。
コンパートメントが静かになった。バスのエンジン音と、首都高の路面の音だけが来ていた。
ワタシはA1を見た。
A1は端末に視線を落としていた。何かを確認しているのか、ただ置いているだけなのか、判断しにくい。
「A1は——」とワタシが言った。
「うん」
「今夜の相手のこと、何か思いますか」
A1が少し止まった。「何を思えばいい?」と言った。
「なんでも」
「……倉庫の中は、動きにくい」
「……作戦の話ですか」
「そうだよ」
「……そうですよね」
A1が端末を少し動かした。地図か何かを見ているようだった。「四千平米弱の中型倉庫。自動仕分け機が稼働中。ラックが複数列。橙の慣性能力者が相手なら、直線で追っても意味がない」
「直線で追わなければ」
「先読みする。ラックの行き止まりを使う。それでも難しいかもしれない」とA1が言った。「難しいかもしれない」という言い方は珍しかった。難しいと思っていることを声に出すのが、A1にしては少し違う言い方だった。
「追いかけなくてもいいかもしれないですよね」とワタシが言った。
A1が端末から顔を上げた。こちらを見た。
「止まるタイミングを待つ、という方法もある」とワタシが続けた。「蒲原を探しているなら、蒲原のところに行こうとするはずで——」
「そうだな」とA1が言った。
「そうですか」
「それは正しいと思う」
短い言い方だった。ただ確認した、という声の質。でもその確認の中に何かが一瞬混じった気がした。何なのかは分からなかった。
Qの通信が再び来た。
「追加の情報です。今夜の出動について、Jが現地に先行して周辺の地上確認に入っています。倉庫の外周を確認中。内部への侵入はK機関のバスが到着してから」
「了解」とA1が言った。
「もう一点」
「うん」
「今夜の変身者ですが——妖精の通知は今夜で確認できた最初ではない可能性があります。過去に別の通知があって、今夜が二回目以降、という状況も考えられます」
「それが今夜の判断に影響するか」とA1が言った。
「変身の練度と、妖精との関係の深さに影響します。今夜が初変身と今夜が複数回目では、現場での対応が変わる」
A1が少し考えた。「今夜に分かることを見てから判断する」
「分かりました」
通信がまた切れた。
倉庫の側面の扉は、鍵が開いていた。
Jが先行して解錠していた、とQが事前に伝えていた。それでも扉を引いた瞬間に、ワタシは少し躊躇った。開けたことで何かが始まる、という感触があった。バスの中にいた間はまだ何も始まっていなかった。扉を開けたら始まる。
A1が先に入った。ワタシが続いた。
倉庫の内部は、広かった。
天井が高い。蛍光灯の白い照明が均一に当たっていて、影の向きが分からない。自動仕分け機のベルトが遠くの方で動いていて、ゴムが擦れるような低い音が途切れずに来ていた。ラックが何列も奥まで続いている。積み上がった段ボールの上の方は、照明の光が少し届いていなかった。
紙と接着剤の匂いがした。それと、少し油の匂い。
「橙の変身者、ラック三列目の奥にいます。現在は停止中」
Jの声が耳に来た。倉庫のどこかから。顔が見えない。「蒲原は別の棟にいます。今夜の目的は変身者の確保です」
「了解」とA1が言った。
A1が動いた。
ラック一列目の端を回り込む動線で、素早く、音が少なかった。ワタシはその後ろについた。ラックとラックの間の通路は、フォークリフトが一台通れる幅しかない。荷物の壁に挟まれた細い道が続いている。
三列目の奥。
A1が少し止まった。
ワタシも止まった。
何もいなかった。段ボールの積み上がりと、ラックのパイプと、天井の照明が反射する金属の光だけだった。
「そこにいます」とJが言った時には、もうそこにいなかった。
音が来たのは、天井に近い方からだった。
金属を打つ音、というより、荷物がずれる音。ラックの最上段の高さを何かが走った。人間にしては速かった。速すぎた。止まるべき場所で止まらずに、次の方向に折れ曲がっていた。関節の使い方が違う。止まることを予定していない動き方だった。
一瞬だけ目に入った。
作業着だった。支給されたような、濃い紺色の。動き方が、その作業着の用途に見合っていなかった。
「待ってください」
声が出たのは、考える前だった。ワタシが言っていた。
A1が止まった。
「逃げようとしているわけじゃないかもしれない」とワタシが続けた。「蒲原を探しているなら——蒲原のところに向かおうとしているだけかもしれない」
A1が少し間を置いた。
「蒲原への接触は今夜、坂口の側が先に動く可能性がある」と言った。「橙の子が蒲原に先に到達した場合、何をするか分からない」
「……そうですね」
「だから動く」
ラックの列を離れた橙が、倉庫の中央エリアの方向に移動していた。高い場所を走っている。ラックの最上段から最上段へ、段ボールを踏み台にして跳んでいる。下に落ちていない。荷物が少しずつずれているが、崩れていない。慣れた空間の使い方だった。
A1が「細い棒」を取り出した。
「追いかけるより先読みします」
「ラックの行き止まり——さっきの話ですね」
「うん」
A1が別のルートで動き始めた。ラックの列の外側を回る。奥に向かう。回り込んで、先を塞ぐ動線。
ワタシはその場でQに通信を入れた。「橙の変身者、現在も倉庫内を移動中。行き先は蒲原のいる別棟側の方向ですか」
「確認します」とQが言った。「……倉庫内の地図から見ると、現在の移動方向は別棟側の出口に向かっている可能性があります」
「出口に近い場所で止まるかもしれない」
「可能性はあります」
A1が先回りに成功したのは、四列目のラックの行き止まりだった。
ラックが壁際まで続いていて、その突き当たりに橙が来た。着地の音がして、立っていた。天井近くから一度下りていた。なぜ下りたのかは分からなかった。前に出口がなかったのかもしれない。
A1と橙が向かい合った。
「関係ない人ですよね」
橙が言った。声が低かった。怒りではなく、確認として出てきた声の形だった。
「私はK機関の要員です」とA1が言った。
橙が少し黙った。「……ああ」という声が来た。一語で、その一語にいくつかのことが入っていた。
「ここには何をしに来ましたか」とA1が聞いた。
「蒲原を——」
「橙の変身者に警告します——」
Jの声が別の方向から来た。
橙が動いた。
反射的に、という動き方ではなかった。Jの声を聞いた一瞬後に、次の方向への加速が始まった。止まっていたのが噓のようだった。慣性が一度切れて、別の慣性に入り直すような動き方。
「Jさん、止めてください」とワタシが通信した。
「——了解しました」とJの声が引いた。
橙はもう動いていた。ラックの間を抜けて、また高い場所へ戻っていった。
「逃げてはいない」とワタシは思った。
声に出さなかった。A1が判断していた。ワタシが口を出す順番ではなかった。でも、橙の「蒲原を——」という言いかけた声が、まだ空気の中にあった。怒りではなかった。怒っている声の形をしていなかった。確認しようとしていた、という声だった。
「蒲原はどこか」と聞こうとしていた、ということだ。
怪人に報復しようとしていた、ということかもしれない。でもそれだけかどうかも、まだ分からなかった。
「Qさん」とワタシが通信した。
「はい」
「橙の変身者、今のところ蒲原への直接的な接触はまだ。でも向かおうとしています。A1さんが先回りを続けているけど——しばらく先回りを続けながら、様子を見てもいいですか」
「……A1の判断です」とQが言った。
A1がその通信を聞いていた。少し止まってから、「そうするつもりだ」と言った。
倉庫の奥から、自動仕分け機のベルトの音が変わった気がした。
気がしただけかもしれなかった。変わっていないかもしれなかった。それでも、何かが少し違う音になった感触があった。
橙がまた動いていた。
今度は方向が変わっていた。出口の方向ではなく、倉庫の中央、広いエリアの方向だった。ラックの最上段から、開けた場所へ降りようとしている。
降りたら、立ち止まることになる。
立ち止まって、何かを言おうとしているのかもしれなかった。あるいは、別棟への別の出口を探しているのかもしれなかった。
ワタシはA1の位置を確認した。A1は別の列の端にいた。橙の動線が見える位置に入っていた。
倉庫の中が静かだった。
自動仕分け機だけが動いていた。