アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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4.ルージュ・カオティック-Rouge Chaotique-

橙がラックの上から消えた。

消えた、という言い方が正確かどうか分からない。でも次に目が追いついた時、橙はもうそこにいなかった。ラックの最上段に着地した音がして、その音が消える前に別の場所への加速が始まっていた。着地点を経由しているが、着地していない、という動き方だった。

A1が細い棒を展開しながら別の列へ動いた。足音が少なかった。

ワタシはその場で止まった。

 

「Q、橙の移動ルートを追えますか」

「……試みます」とQが言った。「ただし倉庫内の監視カメラが橙の姿を映していません。能力の影響だと思います」

「映らない」

「位置把握は音と、Jさんの目視に頼っています。リアルタイムの正確な位置は出せません」

天井に近い高さから、金属と金属が擦れるような音が来た。ラックを踏む音ではなく、ラックの上の荷物がずれる音だった。橙が通過した後の残響だった。

「中央の方向に向かっています」とJが言った。「蒲原のいる別棟に繋がる出口、その付近です」

 

A1がラックの外側を回り込んでいた。

先を塞ぐ動線だった。橙が今いる場所ではなく、橙が次に向かう場所を塞ぐ。A1が判断するのが速かった——「どこに向かうか」を読んでいた。橙の動きが「出口を探している」という一本の線を持っていることに気づいていた。

ワタシも気づいていた。

逃げているのではなかった。出口に向かっていた。出口の先に蒲原がいた。

「A1さん」とワタシは通信した。「先回りしてから——もう一度、話しかけてみてもいいですか」

A1が少し止まった。動きながら考えている間の止まり方だった。

「やってみる」

 

フォークリフトが通れる通路を、橙が横切った。

通路の幅は狭かった。人が一人通れる余裕が荷物とラックの間にある程度で、フォークリフトが走ればそれで塞がる幅だった。

そこを橙が横切った時、フォークリフトが一台、通路の奥から走ってきていた。

ワタシは息を止めた。

ぶつかる。

ぶつからなかった。

橙がフォークリフトの前で止まった——止まったのではなかった。慣性が一度、切れた。正確にそういう感触だった。走っていた速度が「なくなった」瞬間があって、次の瞬間には別の方向への加速が始まっていた。フォークリフトが通り過ぎた後の空気の揺れを追い越す形で、また高い場所に戻っていった。

「……どういう動き方をしているんだ」

A1の声が来た。通信ではなく、A1が近くにいる列の反対側から来た声だった。独り言ではなく、確認として出てきた声の形だった。答えを求めていなかった。

「倉庫で働いてきた時間が、あの子の中で」とワタシは思った。声に出さなかった。

 

A1が先回りに成功したのは、四列目のラックの行き止まりだった。

ラックが壁際まで続いていて、その突き当たりに橙が来た。着地の音がして、立っていた。天井近くから一度下りていた。なぜ下りたのかは分からなかった。前に出口がなかったのかもしれない。

A1と橙が向かい合った。

ワタシは別の列の端から、その場面が見える位置に立っていた。動かなかった。

 

「関係ない人ですよね」

橙が言った。

声が低かった。怒りではなかった——声の形が、怒りの形をしていなかった。確認として出てきた声だった。「K機関という言葉を聞いたことがある。関係ない人ということはないかもしれない」という計算が一瞬で終わった後の、確認。

「私はK機関の要員です」とA1が言った。

橙が少し黙った。

「……ああ」という声が来た。一語で、その一語に何かが入っていた。驚きではなかった。「やっぱり」でもなかった。「知っている言葉が出てきた」という、ただそれだけの声だった。

「ここには何をしに来ましたか」とA1が聞いた。

「蒲原を——」

「橙の変身者に警告します——」

別の方向からJの声が来た。

橙が動いた。

 

反射的に、という動き方ではなかった。

Jの声を聞いた一瞬後に、次の方向への加速が始まった。止まっていたのが嘘のようだった、という言い方が一番近かった。慣性が一度切れて、別の慣性に入り直した。向かい合っていたA1の側ではなく、別の列の方向へ。

「Jさん、止めてください」とワタシが通信した。

「——了解しました」とJの声が引いた。

橙はもう動いていた。

ラックの間を抜けて、また高い場所へ戻っていった。

 

「Q、橙の今の動き——Jの声に反応して逃げたんだと思いますが、その前に話していた内容を聞きましたか」

「……聞いていました」

「蒲原を、と言いかけました」

「はい」

「逃げているわけじゃない、と思います。蒲原を探していて、蒲原に向かおうとしていた。A1さんとの会話を止められたから、別のルートを探した——そういう動きに見えます」

Qが少し間を置いた。「……そう見えますね」と言った。珍しい言い方だった。「そうです」と断言するのではなく「そう見えます」という形で返ってきた。

「A1さん」とワタシは続けた。「もう一度先回りできますか」

「動いてる」

A1が別の方向に走っていた。

 

橙の動線が変わった。

出口の方向ではなく、倉庫の中央、広いエリアの方向だった。ラックの最上段から、開けた場所へ登っていった。降りようとしているのではなかった——より高い場所に戻ろうとしていた。

ワタシも動いた。中央エリアが見える位置まで。

橙がラックの最上段の端に立った。倉庫の照明が下から当たっていて、作業着の上半身が白く見えた。高さがあった。倉庫の天井まで、あと一列分くらいの距離だった。

 

「蒲原はどこですか」

橙が倉庫の空間に向けて言った。

呼びかけではなかった。「蒲原はどこか」という問いを声に出した、それだけだった。でも声の量が、その一言に必要な量より多かった。

周囲のラックに積まれた段ボールが、一斉に揺れた。

一瞬だった。何が起きたか理解するより先に、揺れが来た。橙が声を出した瞬間に、橙の周囲の荷物に慣性の余波が走った——橙自身が気づいていない形で、能力が外に漏れ出していた。

段ボールが落ち始めた。

最初の一個が倒れて、次の一個を押して、という崩れ方ではなかった。複数のラックから、ほぼ同時に落ちてきた。雨のように、という言い方が正確かどうか分からないが、上から来ていた。

 

「何だ」という声が遠くから来た。

夜間シフトのギグワーカーたちの声だった。倉庫の奥の方にいた人たちが、音に反応して動き始めた気配があった。

「変身者の周囲への影響が出ています」とJが通信に言った。「民間人がいます」

A1が走った。

ワタシも走った。

段ボールが落ちてくる中を走った。当たらなかったのは、運が良かったのか、A1が速かったのかどちらか分からなかった。

中央エリアのフォークリフト用通路に、フォークリフトが一台、停めてあった。

停めてあったはずだった。

フォークリフトが動いていた。

制動が消えた、という動き方だった。エンジン音ではなく、ただ滑り始めた感じで、壁の方向に向かって走っていた。橙の慣性制御の余波が、フォークリフトの制動を消した。そういう理解の仕方しかできなかった。

壁の方向に、ギグワーカーが一人いた。

走って避けようとしていたが、間に合わない速度だった。

 

右手のものが伸びた。

考えてから動いたのではなかった。手が動いていた。バトンが伸びて、通路の幅に、透明な面を一枚引いた。フォークリフトの前に、床から天井に向かう境界が一枚立った。

フォークリフトが止まった。

壁に当たったのではなかった。境界に当たって、慣性が境界に少し食われて、止まった。フォークリフトの前面が境界の面に押し当たる形で、止まった。

ギグワーカーが振り返った。フォークリフトを見た。ワタシを見た。透明な面を見た。透明な面だから見えないはずだったが、フォークリフトが止まった位置が目印になっていた。

「……K機関です」とA1が倉庫の空間に向けて声を上げた。「全員、出口に向かってください」

「逃げます?」とギグワーカーの一人が言った。

「歩いて出てください」

 

段ボールが落ちるのが、少しずつ収まっていった。

最初の数秒が最も多く、その後は散発的になって、止まった。荷物が地面に積み上がっていた。ラックの棚が剥き出しになっている場所があった。

橙が止まっていた。

ラックの最上段に、座り込んでいた。

さっきまでの動き方ではなかった。立っているより、座り込んでいた。ワタシの位置から顔が見えた。顔に、「やりすぎた」という感触があった——怒りでも恐怖でもなかった。自分が何をしたかを確認している、という顔だった。

能力が収まっていた。

橙がラックの上から、A1の方を見た。

「……蒲原は、今夜は来ていますか」と低い声で言った。

 

ギグワーカーたちが出口に向かっていた。走っていなかった。歩いていた。A1が「歩いてください」と言ったから歩いていた、という感じで歩いていた。

Jが出口付近で誘導しているはずだった。

倉庫が、少しずつ静かになっていった。

自動仕分け機のベルトだけが、奥でまだ動いていた。

 

「降りますか」とA1が言った。

橙を下から見上げながら言った。命令ではなかった。確認として言った。「降りますか」と「降りてください」は、A1の声の中では別の言葉だった。

橙が「……蒲原は来ていますか」と繰り返した。さっきと同じ問いだった。答えが来ていないから繰り返した、という繰り返し方だった。

「今夜、別の捜査担当者が接触する予定があります」とA1が答えた。

「警察ですか」

「そうです」

橙が少し間を置いた。

「……先に着いてたら」と言った。「どうしてた」

声が低かった。怒りではなく、確認として言った声だった。「先に着いていたら、自分はどうするつもりだったか」という問いを、A1に向けて言った。答えを求めているのかどうかも、分からない言い方だった。

「何をしようとしていましたか」とA1が聞いた。

 

橙が倉庫の床を見た。

ラックの最上段から床まで、高さがあった。それだけの高さから床を見下ろして、橙が言った。

「お金を返してもらおうとしていた」

答えが来るまでに、少し時間があった。計算ではなかった。言葉が形になるのに時間がかかっていた。

「法的な手続きを使いましたか」

「……使えるかどうか、分からなかった」と橙が言った。「弁護士に相談する時間が——」

言いかけて止まった。

言い切る前に止まった理由が、ワタシには分からなかった。「なかった」という言葉を言わなかった。「なかった」は分かっていた。でも言わなかった。

倉庫が静かだった。

自動仕分け機だけが動いていた。

 

「……降ります」と橙が言った。

「変身は維持しますか」

橙が少し考えた。「……解除します」と言った。

変身が解けた。

作業着の少女が、ラックの上に座っていた。

濃い紺色の、仕分け作業の支給品らしい服だった。この服を着たまま、さっきまであの動き方をしていた。あの動き方は、この服で毎日働いてきた時間から来ていた。

「降りるのを手伝いますか」とA1が言った。

「……いいです」と少女が言った。

ラックの棚板を踏んで、一段ずつ降りてきた。普通の降り方だった。変身が解けたら、普通の降り方になった。最後の棚から床に降りた時に、少し着地の音がした。

「手錠などは今すぐには必要ありません」とA1が言った。

「名前を教えてもらえますか」とワタシが言った。

少女が、ワタシを見た。一拍置いてから、「……ナガタ・ダイダです」と言った。

声が低かった。

A1に似ていた、とワタシは思った。

言わなかった。

 

倉庫の床に、段ボールが散乱していた。

荷物の中身が出ているものはなかった。箱が崩れているだけで、中身は守られていた。荷物の仕事をしてきた人間が変身して、荷物を崩した。そういう夜だった——

「声に出てる」とA1が言った。

「……出てましたか」

「出てた」

「……今夜のことを、どう言えばいいのか」とワタシは言った。「蒲原のことも、フューチャーペイのことも、まだ何もできていない。でもダイダさんは今夜ここにいて、ワタシたちもここにいて——それだけが今夜起きたことだと思います。それが届くかどうかは分からないけど」

A1が何も言わなかった。

少し間があった。

「……今夜はそれだけだ」とA1が言った。

「はい」

「行くぞ」

ダイダが立っていた。ラックが崩れた倉庫の中で、まっすぐに立っていた。どこかへ向かうつもりのある立ち方だった。

「……バスに乗ってもらいます」とA1がダイダに言った。「話を聞かせてほしい」

「……帰れますか」とダイダが聞いた。

「手続きが終われば」

ダイダが少し考えた。「……分かりました」と言った。

三人で出口に向かった。

自動仕分け機のベルトが、ワタシたちの後ろでまだ動いていた。

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