アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
橙がラックの上から消えた。
消えた、という言い方が正確かどうか分からない。でも次に目が追いついた時、橙はもうそこにいなかった。ラックの最上段に着地した音がして、その音が消える前に別の場所への加速が始まっていた。着地点を経由しているが、着地していない、という動き方だった。
A1が細い棒を展開しながら別の列へ動いた。足音が少なかった。
ワタシはその場で止まった。
「Q、橙の移動ルートを追えますか」
「……試みます」とQが言った。「ただし倉庫内の監視カメラが橙の姿を映していません。能力の影響だと思います」
「映らない」
「位置把握は音と、Jさんの目視に頼っています。リアルタイムの正確な位置は出せません」
天井に近い高さから、金属と金属が擦れるような音が来た。ラックを踏む音ではなく、ラックの上の荷物がずれる音だった。橙が通過した後の残響だった。
「中央の方向に向かっています」とJが言った。「蒲原のいる別棟に繋がる出口、その付近です」
A1がラックの外側を回り込んでいた。
先を塞ぐ動線だった。橙が今いる場所ではなく、橙が次に向かう場所を塞ぐ。A1が判断するのが速かった——「どこに向かうか」を読んでいた。橙の動きが「出口を探している」という一本の線を持っていることに気づいていた。
ワタシも気づいていた。
逃げているのではなかった。出口に向かっていた。出口の先に蒲原がいた。
「A1さん」とワタシは通信した。「先回りしてから——もう一度、話しかけてみてもいいですか」
A1が少し止まった。動きながら考えている間の止まり方だった。
「やってみる」
フォークリフトが通れる通路を、橙が横切った。
通路の幅は狭かった。人が一人通れる余裕が荷物とラックの間にある程度で、フォークリフトが走ればそれで塞がる幅だった。
そこを橙が横切った時、フォークリフトが一台、通路の奥から走ってきていた。
ワタシは息を止めた。
ぶつかる。
ぶつからなかった。
橙がフォークリフトの前で止まった——止まったのではなかった。慣性が一度、切れた。正確にそういう感触だった。走っていた速度が「なくなった」瞬間があって、次の瞬間には別の方向への加速が始まっていた。フォークリフトが通り過ぎた後の空気の揺れを追い越す形で、また高い場所に戻っていった。
「……どういう動き方をしているんだ」
A1の声が来た。通信ではなく、A1が近くにいる列の反対側から来た声だった。独り言ではなく、確認として出てきた声の形だった。答えを求めていなかった。
「倉庫で働いてきた時間が、あの子の中で」とワタシは思った。声に出さなかった。
A1が先回りに成功したのは、四列目のラックの行き止まりだった。
ラックが壁際まで続いていて、その突き当たりに橙が来た。着地の音がして、立っていた。天井近くから一度下りていた。なぜ下りたのかは分からなかった。前に出口がなかったのかもしれない。
A1と橙が向かい合った。
ワタシは別の列の端から、その場面が見える位置に立っていた。動かなかった。
「関係ない人ですよね」
橙が言った。
声が低かった。怒りではなかった——声の形が、怒りの形をしていなかった。確認として出てきた声だった。「K機関という言葉を聞いたことがある。関係ない人ということはないかもしれない」という計算が一瞬で終わった後の、確認。
「私はK機関の要員です」とA1が言った。
橙が少し黙った。
「……ああ」という声が来た。一語で、その一語に何かが入っていた。驚きではなかった。「やっぱり」でもなかった。「知っている言葉が出てきた」という、ただそれだけの声だった。
「ここには何をしに来ましたか」とA1が聞いた。
「蒲原を——」
「橙の変身者に警告します——」
別の方向からJの声が来た。
橙が動いた。
反射的に、という動き方ではなかった。
Jの声を聞いた一瞬後に、次の方向への加速が始まった。止まっていたのが嘘のようだった、という言い方が一番近かった。慣性が一度切れて、別の慣性に入り直した。向かい合っていたA1の側ではなく、別の列の方向へ。
「Jさん、止めてください」とワタシが通信した。
「——了解しました」とJの声が引いた。
橙はもう動いていた。
ラックの間を抜けて、また高い場所へ戻っていった。
「Q、橙の今の動き——Jの声に反応して逃げたんだと思いますが、その前に話していた内容を聞きましたか」
「……聞いていました」
「蒲原を、と言いかけました」
「はい」
「逃げているわけじゃない、と思います。蒲原を探していて、蒲原に向かおうとしていた。A1さんとの会話を止められたから、別のルートを探した——そういう動きに見えます」
Qが少し間を置いた。「……そう見えますね」と言った。珍しい言い方だった。「そうです」と断言するのではなく「そう見えます」という形で返ってきた。
「A1さん」とワタシは続けた。「もう一度先回りできますか」
「動いてる」
A1が別の方向に走っていた。
橙の動線が変わった。
出口の方向ではなく、倉庫の中央、広いエリアの方向だった。ラックの最上段から、開けた場所へ登っていった。降りようとしているのではなかった——より高い場所に戻ろうとしていた。
ワタシも動いた。中央エリアが見える位置まで。
橙がラックの最上段の端に立った。倉庫の照明が下から当たっていて、作業着の上半身が白く見えた。高さがあった。倉庫の天井まで、あと一列分くらいの距離だった。
「蒲原はどこですか」
橙が倉庫の空間に向けて言った。
呼びかけではなかった。「蒲原はどこか」という問いを声に出した、それだけだった。でも声の量が、その一言に必要な量より多かった。
周囲のラックに積まれた段ボールが、一斉に揺れた。
一瞬だった。何が起きたか理解するより先に、揺れが来た。橙が声を出した瞬間に、橙の周囲の荷物に慣性の余波が走った——橙自身が気づいていない形で、能力が外に漏れ出していた。
段ボールが落ち始めた。
最初の一個が倒れて、次の一個を押して、という崩れ方ではなかった。複数のラックから、ほぼ同時に落ちてきた。雨のように、という言い方が正確かどうか分からないが、上から来ていた。
「何だ」という声が遠くから来た。
夜間シフトのギグワーカーたちの声だった。倉庫の奥の方にいた人たちが、音に反応して動き始めた気配があった。
「変身者の周囲への影響が出ています」とJが通信に言った。「民間人がいます」
A1が走った。
ワタシも走った。
段ボールが落ちてくる中を走った。当たらなかったのは、運が良かったのか、A1が速かったのかどちらか分からなかった。
中央エリアのフォークリフト用通路に、フォークリフトが一台、停めてあった。
停めてあったはずだった。
フォークリフトが動いていた。
制動が消えた、という動き方だった。エンジン音ではなく、ただ滑り始めた感じで、壁の方向に向かって走っていた。橙の慣性制御の余波が、フォークリフトの制動を消した。そういう理解の仕方しかできなかった。
壁の方向に、ギグワーカーが一人いた。
走って避けようとしていたが、間に合わない速度だった。
右手のものが伸びた。
考えてから動いたのではなかった。手が動いていた。バトンが伸びて、通路の幅に、透明な面を一枚引いた。フォークリフトの前に、床から天井に向かう境界が一枚立った。
フォークリフトが止まった。
壁に当たったのではなかった。境界に当たって、慣性が境界に少し食われて、止まった。フォークリフトの前面が境界の面に押し当たる形で、止まった。
ギグワーカーが振り返った。フォークリフトを見た。ワタシを見た。透明な面を見た。透明な面だから見えないはずだったが、フォークリフトが止まった位置が目印になっていた。
「……K機関です」とA1が倉庫の空間に向けて声を上げた。「全員、出口に向かってください」
「逃げます?」とギグワーカーの一人が言った。
「歩いて出てください」
段ボールが落ちるのが、少しずつ収まっていった。
最初の数秒が最も多く、その後は散発的になって、止まった。荷物が地面に積み上がっていた。ラックの棚が剥き出しになっている場所があった。
橙が止まっていた。
ラックの最上段に、座り込んでいた。
さっきまでの動き方ではなかった。立っているより、座り込んでいた。ワタシの位置から顔が見えた。顔に、「やりすぎた」という感触があった——怒りでも恐怖でもなかった。自分が何をしたかを確認している、という顔だった。
能力が収まっていた。
橙がラックの上から、A1の方を見た。
「……蒲原は、今夜は来ていますか」と低い声で言った。
ギグワーカーたちが出口に向かっていた。走っていなかった。歩いていた。A1が「歩いてください」と言ったから歩いていた、という感じで歩いていた。
Jが出口付近で誘導しているはずだった。
倉庫が、少しずつ静かになっていった。
自動仕分け機のベルトだけが、奥でまだ動いていた。
「降りますか」とA1が言った。
橙を下から見上げながら言った。命令ではなかった。確認として言った。「降りますか」と「降りてください」は、A1の声の中では別の言葉だった。
橙が「……蒲原は来ていますか」と繰り返した。さっきと同じ問いだった。答えが来ていないから繰り返した、という繰り返し方だった。
「今夜、別の捜査担当者が接触する予定があります」とA1が答えた。
「警察ですか」
「そうです」
橙が少し間を置いた。
「……先に着いてたら」と言った。「どうしてた」
声が低かった。怒りではなく、確認として言った声だった。「先に着いていたら、自分はどうするつもりだったか」という問いを、A1に向けて言った。答えを求めているのかどうかも、分からない言い方だった。
「何をしようとしていましたか」とA1が聞いた。
橙が倉庫の床を見た。
ラックの最上段から床まで、高さがあった。それだけの高さから床を見下ろして、橙が言った。
「お金を返してもらおうとしていた」
答えが来るまでに、少し時間があった。計算ではなかった。言葉が形になるのに時間がかかっていた。
「法的な手続きを使いましたか」
「……使えるかどうか、分からなかった」と橙が言った。「弁護士に相談する時間が——」
言いかけて止まった。
言い切る前に止まった理由が、ワタシには分からなかった。「なかった」という言葉を言わなかった。「なかった」は分かっていた。でも言わなかった。
倉庫が静かだった。
自動仕分け機だけが動いていた。
「……降ります」と橙が言った。
「変身は維持しますか」
橙が少し考えた。「……解除します」と言った。
変身が解けた。
作業着の少女が、ラックの上に座っていた。
濃い紺色の、仕分け作業の支給品らしい服だった。この服を着たまま、さっきまであの動き方をしていた。あの動き方は、この服で毎日働いてきた時間から来ていた。
「降りるのを手伝いますか」とA1が言った。
「……いいです」と少女が言った。
ラックの棚板を踏んで、一段ずつ降りてきた。普通の降り方だった。変身が解けたら、普通の降り方になった。最後の棚から床に降りた時に、少し着地の音がした。
「手錠などは今すぐには必要ありません」とA1が言った。
「名前を教えてもらえますか」とワタシが言った。
少女が、ワタシを見た。一拍置いてから、「……ナガタ・ダイダです」と言った。
声が低かった。
A1に似ていた、とワタシは思った。
言わなかった。
倉庫の床に、段ボールが散乱していた。
荷物の中身が出ているものはなかった。箱が崩れているだけで、中身は守られていた。荷物の仕事をしてきた人間が変身して、荷物を崩した。そういう夜だった——
「声に出てる」とA1が言った。
「……出てましたか」
「出てた」
「……今夜のことを、どう言えばいいのか」とワタシは言った。「蒲原のことも、フューチャーペイのことも、まだ何もできていない。でもダイダさんは今夜ここにいて、ワタシたちもここにいて——それだけが今夜起きたことだと思います。それが届くかどうかは分からないけど」
A1が何も言わなかった。
少し間があった。
「……今夜はそれだけだ」とA1が言った。
「はい」
「行くぞ」
ダイダが立っていた。ラックが崩れた倉庫の中で、まっすぐに立っていた。どこかへ向かうつもりのある立ち方だった。
「……バスに乗ってもらいます」とA1がダイダに言った。「話を聞かせてほしい」
「……帰れますか」とダイダが聞いた。
「手続きが終われば」
ダイダが少し考えた。「……分かりました」と言った。
三人で出口に向かった。
自動仕分け機のベルトが、ワタシたちの後ろでまだ動いていた。