アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
バスが動き始めてから、しばらく誰も口を開かなかった。
ダイダが窓際に座っていた。こちら側、A1とワタシの向かい側。膝の上に両手を置いて、窓の外を見ていた。見ているのか、見ていないのかは分からなかった。川口の夜の街が後ろに流れていって、首都高の手前の高架道路の明かりが窓に反射した。
A1が端末を確認していた。
ワタシは何もしていなかった。
「……どこに行くんですか」
ダイダが言った。
窓の外を向いたまま言った。ワタシとA1のどちらに向けて言ったのか、分からない言い方だった。
「K機関の施設に一度行きます」とA1が言った。「話を聞かせてほしい」
「……帰れますか」
「手続きが終われば」
ダイダが少し止まった。
「……何時になりますか」と言った。
「何時までに帰らないといけませんか」
今度はダイダの方が止まった。止まり方が、さっきとは違った。さっきは「次の言葉を選んでいる」間だったが、今度は「言うかどうかを決めている」間だった。少しあって、ダイダが言った。
「……弟が、一人で寝てるので」
窓の外の明かりが、ダイダの横顔に少し当たった。
「お父さんとお母さんは」とワタシが聞いた。
A1が確認したいことを聞くより、そちらの方が先だとワタシが思ったから言った。A1が言わなかったのは、後で言うつもりだったからかもしれないし、聞き方として先ではないと判断したからかもしれなかった。
ダイダが答えた。
「父が——入院中で。母は夜シフト」と言って、少し間を置いた。「ワタシが帰らないと弟が一人になる」
「弟さんはいくつですか」
「中2です」
「……名前、聞いていいですか」
ダイダが少し止まった。「カズヒコ」と言った。「聞いて何をするんですか」と続けなかった。聞いた後に何もしないと分かっていたから、続けなかった、というふうに聞こえた。
「なんでもないです」とワタシが言った。「今夜のことを聞かせてもらう前に、聞いておきたかった」
ダイダが少し顔をこちらに向けた。顔は向けたが、視線はどこかずれた場所にあった。「……そうですか」と言った。
「三時間以内に帰れますか」
A1が通信のマイクに向けて言った。
Qへの問いだった。
「確認します」とQの声が来た。「施設での手続きが最低でも四十分。移動が往復で二時間弱。現時点では——少し厳しい」
「最短で」
「もし移動中に話せる範囲で確認ができれば、施設への立ち寄りを省略できます」とQが言った。「法的な問題はありません。任意の状況です」
A1がダイダを見た。
「移動中に話せますか。バスの中で」
ダイダが少し考えた。「……話せます」と言った。計算して答えた、という言い方だった。
ダイダが窓の外を見た。
首都高の入口が来て、バスが合流した。東京に向かう方向の車線は少なかった。深夜だった。
「フューチャーペイに登録したのは」とダイダが言った。
誰も聞いていないのに、言った。自分の方から始めた。
「お金が先に必要だったから、です」と続けた。「父の入院費が急に上がって。夜間の個室費が——保険で落ちない部分が思ったより多くて」
「先払いしてくれると書いてあった」
「……書いてありました。翌月の稼働分を担保に、今月現金で受け取れるって。最初は手数料も十五パーセントって書いてあったから。多いとは思ったけど——他に間に合う方法がなかった」
A1が何も言わなかった。
ワタシも何も言わなかった。
言う前に、もう少し来ると思ったから。
「翌月の精算の時に——」
ダイダが続けた。
「先払い分の返済と、手数料を引くと、手元に残らなかった」
声の量が変わらなかった。怒りが声に出てこなかった。事実として言っていた。
「翌月どうするか考えて、また先払いを申請したら——次の月も同じになった。その次の月も」
「三ヶ月ですか」とワタシが聞いた。
「……三ヶ月で、手数料だけで二十万以上払ってます」
二十万という数字が、バスの中の空気に置かれた。
それだけの数字だった。二十万が、働いた時間から消えた。消えたというより、先に取られた分として毎月差し引かれた。毎月「足りない」から「また申請する」になる、その構造が三ヶ月続いた。
「……やめたかったけど」とダイダが言った。少し間があった。「やめると、その月の収入がゼロになる。止められなかった」
「妖精は——なんて言いましたか」
ワタシが聞いた。
A1が確認したいことを先に聞くより、それを先に聞くべきだと思った。今夜の話をするなら、妖精が来たところから聞かないといけない。
ダイダが少し間を置いた。「……言われたの、一週間前で」と言った。「急に出てきて」
「どこに」
「倉庫に行く前、駅のホームにいたら。こっちが話しかける前に——声だけ来た」
「何を言いましたか」
ダイダが少し止まった。正確に再現しようとしている間の止まり方だった。
「……『あなたが毎晩働いている倉庫に、怪人がいます。あなたのリソースを奪っている怪人です』って言った」
「蒲原のことを」
「……そう、みたいでした。『その怪人のリソースをあなたが回収すれば、あなたが失ったものが戻ります』って」
「その言い方が——合っていると思いましたか」
ダイダが窓の外を少し見た。
「……蒲原が怪人っていうのは、合ってると思った」と言った。「リソースとか、そういう言い方は——よく分からなかった。でも妖精が蒲原のことを怪人と呼んだのは、間違っていないと思った」
「変身したのは今夜が初めてですか」
A1が聞いた。
「……違います」とダイダが言った。「最初に変身したのは一年前で」と言って、少し止まった。「配達の仕事をしてた時に、転びそうになって。その時に——急に慣性が切れた感触があって。それからです」
「一年前に」
「一年前です。妖精が来たのはその後。変身してみたら声が来て——怪人の倒し方を教えてくれた」
「今夜まで、倉庫では変身しなかった」
「……倉庫で変身する理由がなかったから」とダイダが言った。「怪人が蒲原だって妖精に言われるまでは、倉庫はただのバイト先だった」
「……そうですか」とA1が言った。
ワタシはダイダを見ていた。
話す量が少なかった。声が低かった。感情を外に出さないまま、事実だけを言っていた。
A1に似ている、とワタシは思った。
また思った。さっき倉庫でも思ったが、また思った。怒りを次の行動に変換するまでの速さが似ていた。言い方が似ていた。感情を声の外側に置いておく選び方が似ていた。
言わなかった。
言っても今夜の何かが変わるわけではなかった。それに——似ているかどうかは、ワタシが決めることではない、という気がした。
「手数料の構造について——」とQの声が来た。
通信が割り込んできた。
「確認しました。フューチャーペイの手数料は、法的な分類では給与ファクタリングの変形です。翌月の給与債権を買い取る形式になっているため、貸金業法の適用対象外になります。手数料が実質的に高金利に相当していても、売買の形式を取っているため利息制限法も適用されません」
ダイダが少し顔を向けた。
Qの声を聞いていた。
「行政処分や刑事捜査の根拠が、現時点では薄い」とQが続けた。「ただし——」
少し止まった。
「ただし」とA1が繰り返した。
「登録者の契約書に不実記載の疑いがある箇所が複数あります。景品表示法の対象になる可能性があり、時間をかければ行政ルートで対処できます。今夜では無理です」
「捜査二課の動きとは」とA1が聞いた。
「捜査二課が今週、給料ファクタリング絡みの別件で蒲原の名前を掴んでいます。ただし——蒲原への法的な執行余地は、今夜の時点では捜査二課も同じ壁に当たっています。任意同行の形で接触することはできますが、今夜の段階で立件できるかは——」
Qが少し止まった。言いかけて、止まった。
少しの間があった。
「今夜は変身者の保護が優先です」とQが言った。
「そうだよ」とA1が言った。
Qの声が切れた。
「……捕まりますか」
ダイダが言った。
Qの話が終わった後の、少しの間があってから言った。法律の話をQが終えるのを待ってから言った、という順序だった。
「今夜は捕まりません」とA1が言った。「変身による今夜の行為は、現行法上の捜査対象として扱う根拠が薄い。嫌疑の程度が低い、という判断です」
「でも——記録には残りますか」
「残ります。変身者との接触として、処理します」
ダイダが「……そうですか」と言った。承服した声ではなかった。事実を受け取った、という声だった。
「蒲原は」と言った。「今夜、どうなりますか」
「捜査二課が今夜、蒲原に接触する予定があります。フューチャーペイの別件での捜査です」とA1が言った。「今夜の時点で蒲原を法的に問える根拠は薄い。ただし捜査二課の動きは続きます。時間はかかります」
「……時間はかかる」とダイダが繰り返した。
「かかります」
ダイダが窓の外を見た。
首都高の明かりが流れていった。どこかで首都高を下りて、南に向かうはずだった。川口から渋谷まで、折り返しの道がある。
「……時間がかかっている間も、手数料は取られますか」とダイダが言った。
答えが来なかった。
A1が止まった。処理しているわけではなかった。答えがないから止まっていた。
「……今夜の時点では」とA1が言った。「今夜の範囲では、回答できません」
ダイダが「分かりました」と言った。
しばらく誰も話さなかった。
バスが首都高を走っていた。
ワタシはシートに背中をつけて、少し天井を見た。天井の照明が均一に当たっていた。白くて明るい。倉庫の天井とは全然違う明かりだった。倉庫は場所によって光が強かったり弱かったりした。バスの中は均一だった。
「……カズヒコ、夜中に起きることがあって」とダイダが言った。
唐突に言った。話の続きではなかった。急に出てきた、という言い方だった。
「父が事故に遭ってから、夜中に起きるようになった。泣かないけど、起きる。ワタシが帰ってきたかどうか確認しに来る。毎晩じゃないけど——確認しに来る」
「……帰ってきてるか、確認しに来るんですか」とワタシが聞いた。
「来る」と言った。「大丈夫だと分かったら帰る」
ワタシは何も言わなかった。
言えることが、なかった。「それは大変ですね」と言う気になれなかった。「分かります」と言えるものでもなかった。
ただ、カズヒコが夜中に廊下を歩いて、ダイダの部屋のドアを確認しに来る、という絵だけが頭の中にあった。確認して、大丈夫だと分かって、また戻る。それを、ダイダが知っている。知っているから今夜も「三時間以内に帰れますか」と聞いた。
バスが首都高を下りていった。
東京の夜の街に入った。首都高の上から見ていた光の集まりが、地面に降りると個別の看板や街灯に分かれた。一個一個は小さかった。上から見ていると大きい形だったのに、中に入ると小さい個別のものの集まりだった。
「K機関って」とダイダが言った。
「はい」
「警察とは違うんですか」
「……警察の『外側』に位置する機関です」とA1が言った。「変身者の保護を主な任務としています」
「保護」とダイダが繰り返した。
「はい」
「……今夜みたいなことが、保護なんですか」と言った。声が変わらなかった。嫌みではなかった。本当に聞いていた。
A1が少し止まった。
「今夜の形が正しいかどうかは——」と言いかけて、止まった。「今夜は、接触と事情確認です」と言った。「保護の判断は、この後です」
「この後」
「はい」
ダイダが「分かりました」と言った。
分かったかどうか、ワタシには分からなかった。
でも「分かりました」という言い方が、「では次に何があるか教えてください」という意味で使われていた。どんな状況でも次の動きを確認する、そういう出し方だった。
バスが渋谷の方向に向かって走っていた。
南平台の手前まで、あと少しだった。
「弁護士の話を——」とA1が言った。
「聞きましたか」とダイダが言った。「Qって人の話」
「フューチャーペイの件で、法的な相談先を紹介できます」とA1が続けた。「最初の相談は無料のところを」
「……お金はかかりますか」とダイダが聞いた。
「最初の相談は無料のところを、紹介できます」とA1が繰り返した。同じ言葉を二回言った。質問に対して、同じ答えを正確に繰り返した。
ダイダが少し止まった。
「……今夜は帰らないといけない」と言った。「弟が一人だから。弁護士の話は——また聞いてもいいですか」
「連絡先を残していきますか」とA1が言った。
ダイダが少し考えた。「……残します」と言った。
バスが停まった。
施設の前ではなかった。Qからの通信が来た。「今夜は移動中で確認が取れています。直接帰宅の方向でいいと思います。K機関への立ち寄りは省略できます」という内容だった。
A1がダイダに「書類の確認だけ、この場でさせてください」と言った。
ダイダが「……分かりました」と言った。
A1が端末を取り出して、画面をダイダに向けた。「今夜の記録の内容です。変身者との接触、事情確認済み、釈放。この形で処理します」
ダイダが画面を見た。読んでいた。
「……蒲原の名前も入りますか」と聞いた。
「蒲原禄二との関連として記録します。ただし今夜の段階では、蒲原を直接の対象とした捜査ではありません」
「分かりました」
「サインはいりません。確認だけです」
「……確認しました」とダイダが言った。
バスのドアが開いた。
ダイダが立った。立ち方が早かった。座っている状態から立つまでに余分な動作がなかった。そういう動き方が身についている人間の、立ち方だった。
A1が連絡先のカードを渡した。カードには何も書いていなかった。番号だけだった。
「フューチャーペイの件で相談したくなったら、この番号に連絡してください。弁護士を紹介します」
ダイダがカードを受け取った。
「……なんで」と言った。
「なんで」
「なんで紹介してくれるんですか」
A1が少し止まった。
「K機関の業務です」と言った。
ダイダが「……そうですか」と言った。納得した声ではなかった。受け取った声だった。
「カズヒコによろしく」とワタシが言った。
言ってから、出しすぎたかもしれないと思った。でも言ってしまった。
ダイダが少し止まった。
「……起きてたら、言います」と言った。
バスのドアが閉まった。
バスが動き出した。
窓の外で、ダイダが立っていた。カードを持ったまま立っていた。バスが動き出しても、少し立っていた。遠くなってから、動いた。どこかに向かって歩いていった。
ワタシはシートに背中をつけた。
「……向こう、ワタシは今夜——」と言いかけた。
「また言おうとしてる」とA1が言った。今夜三回目の、そういう言い方だった。毎回少しずつ言い方が違った。今夜三回目は、指摘というより確認に近い声だった。
「……言おうとしてました」とワタシが言った。
「言えばいい」
「……今夜のことを」とワタシが言った。「どう説明したらいいのか、まだ分からなくて。でも——カズヒコが夜中に廊下を歩いて確認しに来る、っていう話だけが、頭にあります。それをどこかに置きたかった」
A1が「……そうか」と言った。
「向こうに届くかどうか分からないけど」とワタシが言った。「置いておきたかった」
「置いておけばいい」
バスが走った。
首都高に向かう道に入った。南平台まで、あと少しだった。