アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
南平台に着いたのは深夜だった。
バスが停まった。A1が先に降りた。ワタシが続いた。塀の内側に入ると、洋館は暗かった。一階の台所に明かりが一つだけついていた——タイマーで点いている明かりだ。誰かが帰ってくることを知っていて点いているわけではない。
「今夜はここまで」とA1が言った。
「はい」
玄関に入った。A1が先に靴を脱いだ。ワタシも脱いだ。
廊下は静かだった。昼間とは違う静かさ——昼間も静かなのに、夜はさらに別の種類の静かさがある。昼間は空気が止まっている静かさで、夜は空気ごとなくなっている静かさだ、とワタシは思っている。正確かどうかは分からない。
「報告書がある」とA1が言った。廊下の途中で言った。二階に向かう方向を向いたまま。
「分かりました」
「Kに送るものだから少し時間が、な」
「……お疲れ様です」
A1が少し止まった。止まってから「疲れない」と言った。
「そうでした」とワタシが言った。
A1が二階の方向に行った。ワタシも二階に向かった。
部屋に戻った。
荷物を置いた。変身後の装備を片付けた。窓の外を少し見た。夜の欅は、葉の形が昼間と違う——光がないので輪郭が黒くて、どこまでが木でどこからが空かが分かりにくい。でも木があることは分かる。大きいから。
倉庫の中を思い出していた。
ダンボールが落ちてきた音。フォークリフトが壁の方向に走り始めた時の音。それを止めた時の、右手のものを出した時の感触。ダイダが「降ります」と言った声。作業着の少女がラックの上に座っていた。声が低くて、怒りではなくて確認として言葉が出てくる人だった。
A1に似ている、とバスの中でも思った。
言わなかった。言ってよかったかどうかも分からない。
カズヒコによろしくと言ったら、起きてたら言います、と返ってきた。今頃カズヒコは寝ているのかもしれない。ダイダが帰って、弟が起きていたら話したのかもしれない。起きていなかったら話さなかったのかもしれない。明日の朝に言ったのかもしれない。
何も分からない。
ワタシは窓から離れた。
寝られないかもしれないと思っていたが、寝られる気もした。眠気があった。倉庫の中を走った分だけ、身体が疲れていた。
でも何かが少し引っかかっていた。
ダイダさんの三ヶ月分の手数料は、というワタシの言葉をA1に遮られた時のことを、考えていた。遮られた、というより——A1が「制度の問題だ」と言った、ということだ。それは本当のことだと思う。今夜の出動の範囲で解決できることではない。Qの分析もそう言っていた。蒲原は捜査二課が動いている。行政ルートも時間をかければある。
分かっている。
でもダイダが「繰り返した」と言った時の、あの短さが頭にある。繰り返した。その四文字。感情が外に出ない人間が感情の代わりに出してきた四文字。
A1の報告書には「異状なし」と書かれる。
バスの中でそう確認した。そうだよ、と言われた。
異状なし。
それは本当のことで、同時に、ダイダの三ヶ月分の手数料は異状なしの後ろにある。同時に成立している。どちらかが間違っているわけではない。
でもなんか、分からなかった。
窓の外で、風が来た音がした。
欅の葉が揺れた気がした——暗いので見えなかったけど、揺れた気がした。音が来たから。
ワタシはベッドに入った。
一階で、明かりが一つついた。
夜中の一時を少し過ぎていた。
書斎に端末が一台ある。
二階の、回転するデスクのある部屋。A1がよく座っている部屋。昼間は窓から庭が見える部屋だが、今は夜なので庭は見えない。端末の画面の光だけが部屋の中にある。
A1が報告書を打っていた。
画面は白くて、文字が並んでいった。
「今夜の出動記録」と始まる報告書。K機関の書式に沿った形式。日付。時刻。要員。出動先。接触した変身者の属性。事情聴取の概要。釈放の根拠。連携した捜査機関。K機関の直接関与の程度。
「橙色の変身者との接触。事情聴取済み。釈放。フューチャーペイとの債務連鎖を背景とした変身行為。倉庫内への不法侵入に近い状態だが、対象者への直接的な暴力行為なし。嫌疑の程度低。釈放時に弁護士連絡先を提供済み」
「蒲原禄二の任意同行は捜査二課が担当。K機関の直接関与なし。別件捜査との接触は二回目。担当捜査員との交錯あり、口頭確認のみ」
「変身者の保護を提案。本人が弟の帰宅を理由に断った。釈放。連絡先を残した」
ここまで打って、A1は少し止まった。
止まった理由は分からない——A1自身にも分からなかったかもしれない。文章として抜けているものがあるか確認したのかもしれない。あるいは別のことを確認したのかもしれない。
止まっている間、何かが来た。
痛みではなかった。A1の身体を何かが横切った——横切った、というより、通った。通った感触があった。暖かいとも冷たいとも判断がつかないもの。
(サクラが起きている)
分かった。確認として分かった。感じ、ではなく。
二階で、起きている。窓の外を見ているか、天井を見ているか、何かを考えているか——それは分からない。でも起きていることは分かった。
A1は端末に向き直った。
「今夜の案件における異状の報告——」
打って、少し止まった。
「異状——」
そこで、また止まった。
(サクラが起きている。ダイダのことを考えているかもしれない。あるいは蒲原のことを。あるいはどちらでもないことを)
A1は打った。
「異状なし」
送信した。Kへの送信。既読がつくのは朝か、あるいはKが起きている時間であれば今夜かもしれない——Kがいつ起きているのか、いつ寝ているのかは、A1にも分からない。
画面に「受信しました」と返ってきた。
それだけだった。それだけの返信。
A1は画面を閉じた。
画面の光がなくなると、書斎が暗くなった。暗いというより、端末が光っていた分だけ周囲が引いた——もともとの暗さに戻っただけ。
(異状は、ある)
声に出さなかった。
報告書には書かなかった。「異状なし」と打った、その後ろにある事実として、「ある」という事実がある。両方が本当のことだ。でも報告書に書けるのは、制度の外に出ない範囲でのことだ。制度の外に出ることを、報告書には書かない。書く欄がない。
書く欄がないから書かなかったのか、書く欄があっても書かなかったのか、それは分からない。
判断として「書かなかった」という事実だけがある。
A1は立った。椅子が鳴らなかった。
書斎を出た。廊下を歩いた。廊下は暗くて静かだった。A1の足音が廊下に少しあって、それだけだった。
二階の、サクラの部屋の前を通った。
ドアは閉まっていた。
A1は止まらなかった。止まらずに歩いた。自分の部屋の方向へ。
廊下を半分ほど過ぎたところで、少し止まった。
止まった理由は——分からない。
(起きている)
分かった。さっきと同じ感触。変わっていない。
A1はまた歩いた。部屋に入った。今度は音が少し出た——ドアの蝶番が古いせいで、入る時だけかすかに音がした。
それだけだった。
夜中の一時半を過ぎて、洋館の明かりが全部消えた。
庭の欅は暗い中に立っていた。
風が来るたびに、葉が少し揺れた。揺れた音は、建物の中には届かない。届かないくらいの小さな音だった。
翌朝、六時を少し過ぎたころに、ワタシは目が覚めた。
昨夜よく寝られたかどうかは、分からない。寝た、という感触はあった。でも何回か目が覚めた気もする。覚えていない。
窓から光が入っていた。春の朝の光は早くて、六時でもう外が白い。
欅が見えた。
昨夜は暗くて輪郭しか分からなかった。今朝は葉の形が分かる。薄い緑——まだ春先なので濃くない。一枚一枚の葉がそれぞれ別の向きを向いて、光を受けている。
同じ木だ。
昨夜と同じ木。昨夜からずっとそこにいた木。旧内務大臣がいた頃からずっとそこにいたはずの木。
ワタシは少し見ていた。
着替えてから、庭に出た。
庭のドアは一階の廊下の奥にある。鍵はかかっていない。庭に出ると、朝の空気がある。春の朝の空気は冷たい。でも昨夜より冷たくはない——昨夜は川口の倉庫の外に立っていたから。あの路上の方が冷たかった。
欅の根元まで歩いた。
根元に来ると、上が遠い。こんなに大きかったのかと思う——建物の中から窓越しに見ていると、ちょうどいいサイズに見える。実際に近づくと、太い幹で、根元が地面を少し盛り上げている。根がある。地面の下で伸びている根がある。
見上げた。
葉の向こうに空がある。薄い青。朝の青。
Qからの通信が来たのは、ワタシがそこに立ってから数分後だった。
「おはようございます」
「おはようございます」とワタシが返した。欅を見上げながら言った。
「ダイダさんから、昨夜——バスを降りた後——弁護士の事務所に連絡があったようです」
止まった。
「フューチャーペイの件で、相談を予約したそうです」とQが続けた。「A1さんが渡した連絡先経由で、今朝一番で確認が取れました」
「……そうですか」
「はい」
昨夜、カードを渡した。番号だけ書いてあるカード。カズヒコによろしくと言ったら、起きてたら言います、と返ってきた。帰って、弟が寝ていたのかもしれない。でも弁護士には連絡した。
「相談の時期はいつ頃ですか」
「来週の初回相談の予約が入っています。費用は初回無料のところを案内しました」
「分かりました」
少し間があった。Qの間は、情報が終わった後の間で、次に情報が来るか来ないかを判断している間だ、とワタシは思っている。
「蒲原の件は——捜査二課さんの別件捜査と、景品表示法の行政ルートの両方で継続します」とQが言った。「時間はかかります」
「どのくらいかかりますか」
「行政ルートで半年から一年。捜査ルートは——現時点では見通しが立っていません」
「そうですか」
「そうです」
ダイダの三ヶ月分の手数料は返ってこないかもしれない。返ってくるかもしれない。どちらになるか、今は分からない。でも動いている人がいる。Qが言っていた景品表示法という言葉。捜査二課という警察の別の部署が、別の方向から動いている。
「分かりました」とワタシが言った。
Qの通信が切れた。
欅の幹に手を触れてみた。
ごつごつしていた。樹皮が厚い。指先で触れると、凹凸があって、どこかに小さな虫の跡みたいなものがある。古い木の感触。
この木は、何を見てきたんだろう。
内務大臣が庭を歩いているのを見た。警視庁の幹部が朝の光の中に立っているのを見た。K機関が来てからは——何を見たのか。
Kが庭に来ることはあるのだろうか。
Kが庭の欅を見たことがあるのかどうか、Qに聞いたことがない。聞けばQは答えるかもしれないが、聞かなかった。
「また何かに話しかけてる」
振り向いたら、A1が庭のドアのところに立っていた。
「……立ってただけです」
「欅に向けて立ってた」
「そうかもしれません」
A1が庭に入ってきた。ドアが音を立てて閉まった。足音が近づいてきた。欅の根元のところまで来て、ワタシの隣に立った。
二人で欅を見上げた。
しばらく、何も言わなかった。
少し間があった。
庭が静かだった。遠くで何かの音がした——首都高か、遠い道路か——でもすぐに消えた。
「今日の出動の通知は」とワタシが聞いた。
「まだない」
「そうですか」
「そうだよ」
欅の葉が揺れた。光が少し動いた。
二人が庭にいた。
しばらく、そのままだった。