アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
1.サンデー・コローニュ-Sunday Cologne-
三面のモニターが夜中も動いていた。
Qは端末から目を離さなかった。一番左のモニターには被害報告のタグが流れていた。一番右のモニターには感情スコアのグラフが積み上がっていた。真ん中のモニターには何もなかった——何もない、というより、Qが今夜の分析の作業場として使っている画面で、そこだけ光の種類が違う。
廊下のコンクリートは冷たかった。外の温度計は午前二時で三十一度を示していたが、目黒合同庁舎の地下廊下はその熱を遮断していた。暑さと冷たさが階段一段で入れ替わる場所にQはいた。
「怒り係数が、九・二」
声に出した。独り言だった。確認として声に出した——音にすると、数字の意味が耳から返ってくる。
九・二。過去三十日で最高値。
タグの流れを止めて、一つのタグを拡大した。「匿流」。匿名で仕事を請け負う、闇のアルバイト。実行犯の逮捕映像が複数出回っていた。見た目から判断された国籍への言及が、コメントに多かった。Qはそのコメント群を一つのフォルダに収めた。名前をつけかけて、止めた。
「移民」と書きかけたフォルダは、書きかけのまま閉じた。
「外国人の実行犯」と「背後にいる指示役」は、同じ量で報道されていなかった。実行犯の映像は出回った。指示役の映像は出なかった——指示役がどこにいるかを、捜査機関も把握できていない。Qが確認しているのは「決済と通信だけで動いた指示役がいる」という事実の輪郭だけだ。
右のモニターで、感情スコアが少し上がった。
「……分離できていない」
また独り言として声に出した。被害者への同情と実行犯への憎悪が同じタグの中を流れていた。被害者と実行犯が同じ器で流通していた——この「分離できていない」状態がタグの拡散を加速させていた。どちらを受け取るかは、受け取る側に委ねられていた。
フューチャーペイの債権バンドルを含む労働力ファンド案が、今夜のシンポジウムで議題に上がっていた可能性をQは確認していた。確認中、という状態だった。「確認中」のフォルダに一行追加した。確認中のフォルダが増えていた。
捜査一課から通信が来たのは午前二時を少し過ぎたころだった。
「捜一は動き始めています。今週中に指示役ルートを——」
途切れた。
Qが「捜一さん」と呼びかけた。返事が来なかった。別の用件が入ったのか、無線の状態が悪かったのか、判断できなかった。Qは通信の記録だけ残した。「今週中に指示役ルートを」という未完の一文が、記録の中に置かれた。
「名前のつかないファイル」をQは開いた。
一つ追加した。何を追加したか——「捜一からの未完の通信」と書きかけて、止めた。タイトルを書かずに閉じた。ファイルが名前のないまま積まれた。
三面のモニターが動き続けていた。
Qは端末に向かっていた。廊下の冷たさと外の熱さが、階段の向こう側で別々に存在していた。感情スコアのグラフが九・二から九・三に動いた。Qは記録した。
何かを閉じる速さが、今夜はいつもより少し速かった。
翌朝、東京は三十四度になった。
欅が茂っていた。
庭に出て上を見ると、春先とは葉の密度が違う——重い。光を受けながら、一枚一枚が夏の重さで少し垂れていた。あの朝は薄い緑だったのに、今は濃い。同じ木だった。
ワタシは庭から建物に戻って、支度をした。
フリースクール「ルーム3」は渋谷区内のビルの三階にある。
エレベーターで上がると、廊下の窓から外の光が見える。今日は直射日光が廊下まで入ってきていた。床に光の四角が一つ落ちていて、少し白く光っていた。
教室のドアを開けると、成瀬先生がいた。
「今日も来てるね」
廊下を立ち止まらずに通り過ぎながら言う。これがいつもの言い方だった。答えを待たない言い方。ワタシは「おはようございます」と返した。成瀬先生はすでに別の方向に向かっていた。
A1が先に席に着いていた。
ワタシが隣の席に荷物を置いた。A1は端末を手元に置いたまま、画面から目を離していた。端末は動いていた——画面は暗くしていたが、通知設定で動かしていることは分かった。出動通知が来たらすぐに動ける状態。今日も、それが前提として教室にいる。
窓の向こうに空があった。夏の空は白っぽい。東京の真夏の空はどこか白くにじんでいる——熱のせいだ、とQが以前言っていた。数字ではなく言葉で言っていた。
成瀬先生が正面のテーブルで新聞を読んでいた。
教室の他の子どもたちはそれぞれ別のことをしていた。ワタシはノートを開いた。開いたが、何も書かなかった。
窓から入る光が少し動いた。A1が端末を手元で少し傾けた。確認する動作だった。出動通知ではなかった——確認した後で端末を戻した。
「何か来ましたか」とワタシが言った。
「まだない」
そうですか、とワタシが返した。A1が「そうだよ」と言った。
成瀬先生が新聞をめくる音がした。
少し時間が経ってから、成瀬先生が「今日は外が騒がしいね」と言った。
教室の全員に言ったのか、特定の誰かに言ったのかが分からない言い方だった。新聞を見ながら言っていた。
ワタシは新聞の方向を見た。角度があって見出しは読めなかった。横文字が見えた——「匿流」というルビが振られているらしい漢字の見出し。昨夜Qのモニターに流れていたのと同じタグだ、とワタシは思った。
ルーム3にいる子どもたちが、どういう事情でここにいるのかをワタシは聞かない。ここは聞かない場所だった——成瀬先生が「来た理由を聞かない方針」の場所として運営していた。だから子どもたちの事情は分からないが、今日「外が騒がしい」という言葉を受け取った時の、各自の顔の向きがそれぞれ少し違った。
新聞に向かった子がいた。窓の方に向かった子がいた。向かなかった子がいた。
ワタシはどこを向けばいいか、少し分からなかった。
「向こうに——」とワタシが言いかけた。
「教室ではやめてほしい」とA1が言った。
いつもと違う形のツッコミだった。「また向こうに」ではなく「教室では」——場所を指定する言い方。
「……はい」
「今日の午前の通知はまだない、とさっき言った」
「そうでした」
「出た時はすぐ動く」
「はい」
A1が端末を手元に置き直した。窓から光が入り続けていた。成瀬先生がブラインドを半分下ろした——「直射日光が入ってきましたね」と言いながら。半分下ろすと、光の四角が床から消えた。
教室の空気が、少し落ち着いた。
成瀬先生が「外は今日も暑いそうだよ」と言った。
新聞から顔を上げないで言った。「三十五度は超えるかもって書いてある」と続けた。
だれも答えなかった。ワタシも答えなかった。A1も答えなかった。
成瀬先生は新聞を少し折って、手元に置いた。見出しが伏せられた。ルビが振られた漢字が見えなくなった。
外の光がブラインドを透かして、やわらかく教室に入っていた。
ワタシはノートを見た。何も書いていないノート。何かを書こうとして書かなかったのか、書こうとしていなかったのかが、自分でも分からなかった。
昨夜のQのモニターの数字が少し頭にあった。三十日で最高値、とQが声に出していた。でもここでは数字は出てこない。ここには成瀬先生と、ブラインドと、ノートと、A1がいる。
向こうに言おうとした言葉が、言えなかったまま、ワタシの中に少し残っていた。