アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
夏の夜は溜まる。
ガラス扉の向こう側——カンファレンスセンターのロビーに、空調の冷気が層を作っていた。外廊下にいると、ドアが開くたびにその冷気が漏れ出してきた。でもすぐに夏の熱気に押し返されて、消えた。
羽根川クロエは外廊下の壁際に立っていた。スマートフォンを持っていたが、画面は暗かった。
「今夜のシンポジウムには、誰が来ていますか」
隣に立っていた男性が少し頭を傾けた。調査記者だった。名刺を受け取ったことはあるが、名前はまだ頭の中の浅いところにしか入っていない。こちらが呼ぶ前に相手が来るタイプで、それは信頼の基準の一つだとクロエは思っている。
「記録はしないでください、今夜は」とクロエは言った。
「分かりました」と相手は言った。驚きがない返し方だった。
二人は並んでガラス扉の方向を見ていた。ロビーを通り越してメインホールへ続く廊下が見えた。そこには人が動いていた。スーツの背中が複数、名刺を出す動作が複数、笑顔の向きが複数。
「VCの人が何人か。不動産の方も。暗号資産のアドバイザーと——」
「経産省の方は」
相手が少し止まった。「……いるとしたら珍しいんですが」
「珍しい、と言いましたね」
「今夜来るとしたら、ですけど——来てますよ。毛利さんという方。珍しい」
クロエは「へえ」と言った。感情のない「へえ」だった。どこを向いているとも分からない目のまま言った。
「毛利さん」
「経産省の方です。珍しい——本当に珍しい。こういう場に直接顔を出す方ではないので」
ガラス扉が開いた。スーツ姿の男性が二人、外廊下に出てきた。電話している。クロエは視線を変えなかった。二人が外に出てガラス扉が閉まると、また冷気が引いた。
クロエはロビーの奥の方向を見た。メインホールへの廊下の先に、会場の入り口が見えた。人が動いていた。
「中に入ります」とクロエが言った。
「記録は」
「しません」
メインホールは冷えていた。
外は三十五度超の夏の夜だった。中の空調は過剰だった——上着がないと肩に来るくらいの温度。それでも汗ばんでいる人間と、汗をまったくかいていない人間が、同じ空間にいた。
クロエは会場の後方に立った。席には着かなかった。壁際。人の背中の列の向こうに壇上が見える位置。
壇上にはパネリストが四人いた。左端の席の人物が今、話していた。
「レジリエントな都市インフラへの分散投資は、単一のアセットクラスに依存しないポートフォリオ構成として——」
水道事業の民営化の話。
クロエは内心でそう置き換えた。声には出なかった。
「非代替資産のトークン化によって、小口の参加者が従来型の機関投資家と同じテーブルに——」
不動産を小口に分けて売る話。
壇上の一番右の席に、一人だけ少し違う人間がいた。他の三人より少し年上に見える。スーツの色が、他の三人と一段違う。光の加減でなく、布の質が違う。拍手はしていなかった——パネリストたちが言葉を切るたびに拍手が来るのに、一人だけしていなかった。
クロエはその人物から目を離さなかった。
司会者が「毛利さん、いかがでしょうか」と言った。
毛利が少し体を前に向けた。マイクを取った。
「その事業の許認可ルートは、現行法でどこに当たりますか」
会場の空気が少し変わった。変わったというより——会場の温度がどこかに寄った。前傾みになった。
壇上のパネリストの一人が「現行法では、金融商品取引法の枠組みの中で——」と言い始めた。説明が来た。長い説明だった。毛利は聞いていた。うなずきは一回だけあった。
そのうなずき一回で、会場の別のどこかから微かに息が出た。
「補助金スキームとの整合性は確認済みですか」
また別のパネリストが答え始めた。
クロエは壁に寄りかかった。体重を少しだけ壁に預けた。
発言がすべて毛利の方向に向かっている。毛利が「そうですね」と言うタイミングで、発言者が少し力を抜く。毛利が「それは」と言いかけると、会場の空気が固まる。
これは投資家同士のパネルディスカッションではなかった。
毛利への説明だった。
全員が毛利に向かって話していた。会場の参加者も含めて——毛利の反応を見ていた。毛利がどこを向くかを見ていた。
毛利は場の外から来ているように見えた。「異物」というわけではない。場の外から来て、この場に天井を決めに来ている——そういう人間だった。
「方向性としては理解しました」と毛利が言った。「制度設計の詳細を詰めれば、後押しできる可能性があります」
拍手が来た。
毛利は拍手しなかった。マイクをテーブルに置いた。
ホワイエは会場より温度が高かった。
シンポジウムが終わった後、人がロビー方向へ動き始めた。名刺交換の速さが上がった。笑顔の数が増えた。毛利に近づこうとしている人間が何人かいた。毛利は動かなかった——近づかなかった。近づいてくる人間への対応はした。短く、正確に、条件付きで。
クロエはホワイエの端を歩いた。
出口に向かっていた。途中で、毛利の位置を視野の端で確認した。
毛利は壁際に立っていた。スマートフォンを手に持っていた。画面を見ていた。
クロエがその横を通り過ぎた。通り過ぎる速さを変えなかった。
画面の角が視野に入った。
「給料ファクタリング、規制の空白地帯——」
という見出しの断片が見えた。
毛利がスマートフォンを伏せた。クロエと視線が合った。毛利が会釈した。
クロエが会釈を返した。
それだけだった。
クロエはホワイエを出た。外廊下を通って、ガラス扉から外に出た。夏の熱気が来た。空調の冷気が体から抜けた。
歩きながら、クロエは少しだけ考えた。
フューチャーペイ。
その名前をどこかで見た気がした。どこで見たか——すぐには出てこなかった。出てこないまま、歩いた。
面白い夜だった。
七時間で、七百万回。
Qがその数字を声に出したのは、午後十一時を少し過ぎた頃だった。声に出すと数字の実感が返ってくる——七百万、は、どこかに収まらない数だった。
「ヒノデ・カノンとみられる変身者による断罪行為の映像が拡散しています」
端末を前に、Qは声の速さを変えなかった。
「推定七時間で七百万再生。コメントの感情スコアは——怒り、ではない」
少し止まった。
「興奮、が一番近い数字が出ています。ただ」
また少し止まった。
「興奮と怒りの区別が、数字では難しい。感情スコアは両者を分けることを前提に作っていない。怒りと興奮が同時に来ている場合の処理は、現在の分類では意図通りではないかもしれない」
留保として声に出した。確認として声に出した。誰かに向けた言葉ではなかった——Qが自分に向けて、数字の限界を明示している声だった。
三面モニターの右端に、感情スコアのグラフが出ていた。折れ線が右肩上がりに動き続けていた。
「K・Q・A1・J——」
端末の通信が開いた。Kからだった。
「対応会議を設定します。現状の把握と、K機関としての方針の確認を」
「了解しました」とQが答えた。
フューチャーペイの債権バンドルを含む労働力ファンド案が今夜のシンポジウムで議題に上がっていた可能性について、Qの「確認中」のフォルダに一行追加した。確認中、という状態のままだった。
確認できていないものを確認中として置いておく——それはQが今夜、複数の案件で同時にやっていることだった。
折れ線がまた上がった。
白いバスが動いていた。
夜の首都高を、バスは速度を一定に保って走っていた。外の気温は三十一度。バスの後部コンパートメントは冷えていた——外の熱を全部遮断した人工的な冷たさ。
ワタシは向かい合わせのシートの、A1と反対側に座っていた。
端末からQの声が来た。
「カノンによるとみられる映像の拡散状況を報告します。現時点で七百万再生を超えました。映像には、変身者が複数の人間に対して炎の攻撃を行う場面が含まれています。被害者に重傷者はいませんが、軽傷者が三名確認されています」
A1が「軽傷者の情報はどこから」と言った。
「捜査一課の内部回覧が、今夜入りました。捜一の担当者から、K機関への非公式接触がありました」
「どんな内容で」
「『変身者と見られる人物による一般人への傷害及び脅迫行為が複数件確認されています。K機関として情報共有をお願いしたい』——という内容です」
A1が少し止まった。
「Kの返答は」
「『情報共有は行います。現場での直接関与については、法的手続きの範囲で調整します』と返しています」
ワタシはシートの背に当たったまま、Qの声を聞いていた。
情報共有。法的手続きの範囲。
捜査一課がカノンの行動に対して使う言葉と、カノン自身の中にあるものとの間に、どれだけ距離があるのかがワタシには分からなかった。分からないまま、バスは走り続けた。
「正義執行」と「傷害行為」が、機関によって分類が違う——Qが言ったわけではなかったが、通信の言葉を聞いていると、そういうことが聞こえてきた。
——今夜もバスに乗っています。七百万人が見た動画のことを、ワタシはまだ見ていません。
「今夜の語りかけはここまでにしてほしい」とA1が言った。
「今夜はどう止めるつもりですか」と言い方を少し変えた。
「話しながら考える」
「……それは答えですか」
「考えながら動く、ということだ」
バスが首都高のカーブに入った。外の夜景が一度横に流れた。
路地は、夜になっても冷めていなかった。
アスファルトが昼間の熱を蓄えたままだった。足の裏に、下からくる熱があった。
カノンは歩いていた。変身していない状態で、路地を歩いていた。
妖精の声が来た。
「次の怪人はここにいます。被害者が待っています」
「そっか」とカノンが言った。
感情のない声だった——感情がないのではなく、感情を確認する前に声が出た、という感じだった。
怒りが先にあれば燃えやすい。でも怒りがあったかどうかが、最近よく分からない。
それでも足は動いていた。妖精の声が示す方向に、足が向かっていた。
スマートフォンを取り出した。胸の前に持った。液晶面を外側に向けた。
サイドボタンを押した。
乾いた三連打が来た。右拳を胸の前で握り——前方に突き出した。
指先から赤い火花が走った。手首、前腕、肘——炎が身体を伝い始めた。熱は来ない。カノン自身には来ない。外からは確かに「燃えている」ように見えるらしい。それがカノンの代償の一つだということも、今は知っている。知っているが、知っていることが何かを変えるわけではない。
炎の覆いが両手を包んだ。
「——燃やす」とカノンは言った。
脅しでも宣言でもなかった。自分が何をしようとしているかを、確認している声だった。
カラオケ個室の冷房が強すぎた。
キヅキはモニターを前に、イヤホンを外した状態でスマートフォンの画面を見ていた。冷房の風が肩に直接当たっていたが、動かなかった。
カノンの動画だった。七百万、という数字は知っていた——自分のダッシュボードに入ってきたから。
画面の中のカノンが、炎の覆いを纏った手で何かを壁に押しつけていた。壁が崩れた。その向こうで何かが叫んだ。カノンは振り返らずに歩き続けた。
声が変わってる、とキヅキは思った。
動画越しでも分かった——感情がなくなった声で喋っている。怒っているはずの場面で、怒りの音がしていない。カノンが怒りを持っていないのか、怒りが別のものに変換されているのか、キヅキには判断できなかった。ただ「変わってる」という確認だけが残った。
「聴こえてる?」と壁に向かって言った。
言ってから自分でも止まった。誰に向けたか分からない声だった。
端末に通知が来た。貢一からだった。
「今夜の動画、すごいね。あなたにも出来ると思う」
キヅキは画面を伏せた。
公園のベンチが夜になっても熱を持っていた。
ミドリはスマートフォンを手に持って、画面から顔を少し遠ざけて見ていた。遠ざけたのは画面が明るすぎたからではなく——近づきすぎると何かが変わりそうだった、という感触があったから。
カノンが変身したまま路地を走り去る場面で、ミドリは再生を止めた。
「……怪我した人はいますか」
スマートフォンに向かって言った。答えが来なかった。
「誰も怪我していない方の動画だ」
コメント欄を確認して、声に出した。確認として声に出した。
ベンチから降りて、ベンチの下のコンクリートに手を置いた。夜のコンクリートは少しだけ、ベンチよりも冷たかった。
「ここにいて」とは言わなかった。変身もしなかった。ただ手を置いておいた。
ユカリは一人で夜の道を歩きながら、イヤホンで音声だけを聞いていた。
映像は見なかった。音声だけで聞くと——声だけで聞くと、怒っていない。
怒っているはずなのに、怒っていない声で言っている。
立ち止まって、一度だけ映像を確認した。確認してから、また歩き始めた。
「……これは長くない」
独り言のように言った。何が長くないのかは言わなかった。言う必要がなかった——自分には聞こえていた。
アオネはSNSのダッシュボードを自分でも持っていた。
数字を確認した。七百万。コメントの感情スコアを自分でざっくり読んだ。分析ツールを持っているわけではない——目でざっくり読んだ。
「伸びる。でも反転する」
声に出した。予測として声に出した。
感情スコアが高いほど、反転のエネルギーも大きい。怒りは方向が変わるだけで消えない——これはアオネが自分のダッシュボードで繰り返し確認してきたことだった。
「赤のリソースが——増えてる」
スマートフォンを閉じた。
サーカスの人間に連絡を入れる選択肢が一度浮かんだ。検討して、しない、と判断した。今夜は、まだ早い。
カノン自身は、自分の動画を見ていなかった。
妖精の声が来た。「よかった。届いてる」
「そっか」とカノンが言った。
それだけだった。届いているかどうかを確認する手段を、カノンは持っていなかった。妖精の「届いてる」という言葉が、確認として受け取られた。感情の処理を経ずに、確認として。
夜の路地の熱が、足の裏から上がってきていた。