アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
バスが高速を降りた。
一般道に入ると揺れ方が変わった。路面の継ぎ目が細かく来る。外の街灯が窓を流れるペースが遅くなった。
端末からQの声が来た。
「カノンの位置です。江戸川区内。対象者——匿流の指示役と見られる人物——は今夜、同区内のアパートにいます。カノンが向かっている方向と一致しています」
A1が「今夜の変身状況は」と言った。
「断罪行動開始から三十分。変身は継続中です。配信はオフ。今夜は記録していないと見られます」
「分かった」
Qの声が切れた。
後部コンパートメントが静かになった。バスの揺れだけが来ていた。
ワタシは窓の外を見ていた。夜の住宅地。街灯が等間隔に並んでいる。信号機が赤から青に変わって、バスが動き出した。
「A1」
「何だ」
「カノンが止まらなかった場合は」
A1がすぐには答えなかった。端末を見ていた。
「今夜は任意だ。止まらなかった場合、追わない」
「追わない」
「今夜は、だ」
バスが右折した。住宅地の道が狭くなった。低い建物が続いていた。夜になっても窓に明かりが点いている部屋があった。
*向こう——ワタシが今から何をしに行くのか、ワタシ自身にも——*
「今夜の語りかけはもう少し後にしてほしい」とA1が言った。
「もう少し後」
「現場が近い」
バスが速度を落とした。
路地は、思ったより狭かった。
バスは手前の道で止まった。ワタシとA1は徒歩で路地に入った。夜のアスファルトが熱を持ったままだった。昼間に蓄えた熱が、夜になっても逃げ場を見つけていない。足の裏に、それが伝わってきた。
路地の突き当たりに、オレンジ色の光の揺らぎが見えた。
カノンだった。変身したままだった。両手の炎の覆いが路地の壁を照らしていた。壁のコンクリートが橙色に染まっていた。
カノンはこちらを見ていた。立ち止まっていた。向こうから来る気配はなかった。
A1が先に歩き出した。ワタシはその後ろについた。
路地の奥、アパートの外廊下に面した壁の前だった。外廊下の上の方の電球が切れていて暗かった。アパートの窓はどこも電気が消えていた。
A1が立ち止まった。カノンとの距離は七、八メートルだった。
「ヒノデ・カノン」
A1の声は変わった。法執行の声になった。
「今夜は任意同行をお願いします」
カノンがA1を見た。ワタシも見た。視線がどちらに向いているのか、少し分からなかった。
「……また来たよ」
平坦な声だった。驚きがない声だった。確認として出た声だった——また来た、という事実を、声に出して確認した、という感じだった。
A1が言った。「今夜の行動は傷害罪に問われる可能性があります」
カノンが少し止まった。
「……傷害」
繰り返した。繰り返してから、どこか遠い方向を見た。
「断罪は終わってない」
「今夜は止まってほしい」
「……なんで」
感情のない声だった。声に感情がないのではなく——本当に分からない、という声だった。なぜ止まらなければならないのかが、カノンには分からない。その「分からない」が、言葉として出てきた。
ワタシはカノンの顔を見ていた。
前に会った時と、どこかが違った。変わっていた。何かが減っていた——でも何が減ったのかが分からなかった。目の焦点は合っていた。壁の構造も視線が追えていた。それなのに、どこかが違った。
A1が少し間を置いた。
「被害者を守ることと、加害者を焼くことは、同じことではありません」
カノンが聞いていた。
「……そっか」
納得でも反論でもない声だった。「そっか」という音が出た、という感じだった。
「でも」
続いた。
「ワタシには、そっちが分からない。被害者のこととか、守るとか——そういう話の感触が、ワタシにはない」
言ってから、少しだけ自分で止まった。言葉を選んだわけではなかった。出てきた言葉が止まった。
「あの人たちが捕まっても」
続けた。
「すぐに出てくる。ワタシ、それを何回も見た。捕まえて、出てきて、また来る。今夜じゃなくても、また来る。それが分かってるから——」
A1が少し止まった。
「……それは、正しいと思います」
カノンが止まった。
ワタシも止まった。
A1が「正しいと思います」と言った——その言葉が、路地の空気に一拍だけ残った。
「じゃあなんで止めるの」
カノンが言った。声に何もなかった。問い詰める声ではなかった。答えを求める声でもなかった——本当に分からないから聞いた、という声だった。
A1が少し間を置いた。
「……法治の話をしているからだ」
路地が静かだった。
外廊下の暗い電球の下で、夏の虫の声だけが来ていた。
「法治」
カノンが繰り返した。繰り返して、少し下を向いた。その言葉を頭の中で確かめているような止まり方だった。
「……そっか」
感触がない声だった。言葉の意味は分かった。でもそれが自分の中にある何かと繋がらなかった——そういう「そっか」だった。
一拍、路地が静かになった。
それから——
「……今夜はいいや」
カノンが言った。
A1が「止まってほしい」と言った。
「止まらない。まだ終わってないから」
カノンが動いた。
変身したまま、路地の横の壁に向かった。壁に手をかけた。炎の覆いが壁のコンクリートに触れた瞬間、接触面が赤く光った。そのままカノンが壁を走った——垂直に、上に向かった。外廊下の上の屋根を越えた。向こう側に消えた。
ワタシが走り出そうとした。
「今夜は追いません」
A1の声が来た。
ワタシが止まった。
路地の暗い壁を見ていた。カノンが壁を走った軌跡が、わずかに焼け跡として残っていた。コンクリートがほんの少し、変色していた。
端末がA1の手で動いた。
「K、こちらA1。接触しました。今夜の任意同行は不成立です」
短い通信音が来た。Kからの了解の応答だった。言葉はなかった。
ワタシは路地の先を見ていた。カノンが消えた方向を見ていた。
真夏のアスファルトが、ずっと熱を持ったままだった。
バスに戻ってから、しばらく誰も喋らなかった。
A1が端末を開いて何かを入力していた。報告書だと分かった——接触の記録を残している。
外の住宅地が後部の窓を流れていた。行きより速度が出ていた。首都高に戻る道だった。
Qの声が来た。
「カノンの変身は継続中です。位置が移動しています。対象者のアパートから離れる方向に動いています——今夜の断罪は中断したと見られます」
「了解」とA1が言った。
「任意同行を断った場合の次のステップについて、確認を入れますか」
「Kに判断を仰ぐ。今夜のところは」
「了解しました」
通信が切れた。
ワタシはシートの背に当たったままだった。
「A1」
「何だ」
「さっき、正しいと思います、って言った」
「言った」
「……カノンの言ったことが、正しいと思うなら」
「正しい、と認めた。止める理由とは別だ」
ワタシは少し考えた。
「その二つが別でいられる理由が、ワタシには——」
「法治がそういうものだからだ」
A1が端末から目を離さないまま言った。
「法治は正しいかどうかと、合法かどうかを分けて動く。カノンが言ったことが正しいとしても、今夜の行動の合法性は別に判断される」
「それは——」
ワタシは止まった。
「それは、カノンに届きましたか」
A1が少し止まった。端末への入力が止まった。
「届かなかった、と思っている」
届かなかった。
その言葉が後部コンパートメントの空気に残った。A1が「届かなかった」という判断を持っている——確認として、情報として持っている——それだけだった。残念だという声ではなかった。残念だという感情がないわけでもない——そういう声だった。
ワタシは窓の外を見た。
バスが首都高の入り口に差し掛かった。速度が上がった。夜景が横に流れ始めた。
——「法治」という言葉は、ワタシにも感触が薄い。A1は感触が薄い言葉を正確に使う。カノンは感触がない言葉を「そっか」と受け取った。その「そっか」と、ワタシの「感触が薄い」の間にある距離が——
「また向こうに話しかけてる」とA1が言った。
「……話しかけていました」
「今夜の分は今夜のうちに整理してほしい」
「今夜のうちに」
「処理できなくても、今夜動かしておくと明日が少し楽になる」
ワタシは少し止まった。それはA1自身の話をしているのかもしれなかった。端末への入力が再開していた。報告書が続いていた。
バスが首都高のカーブに入った。夜景が一度大きく傾いた。
ワタシは整理しようとした。
カノンの「なんで」という声が残っていた。感情のない「なんで」。答えを求めていなかった「なんで」。本当に分からないから出た「なんで」——それに対して「法治の話をしているからだ」という言葉が置かれた。
カノンが「そっか」と言った。
感触がない「そっか」。
届かなかった。A1がそう判断している。
ワタシには、届かなかったのが正しかったのかどうかが分からなかった。届いていたとしても、今夜は変わらなかったかもしれない。届かなかったから、何かが守られたのかもしれない。
分からないまま、バスは走っていた。
繁華街は夜になっても人の声があった。
深夜の路地に入ると、少し静かになった。大通りの声が遠くなった分だけ、アスファルトの熱だけが残る感じがした。夜になっても地面が冷めていない——夏の路地は昼間の熱を手放さない。
キヅキは路地を歩いていた。
特に目的はなかった。カラオケ個室からとりあえず出た——それだけだった。個室の冷房が強すぎた、というより、貢一からの通知の後に一人で画面を前にしているのが、どこかに収まらなかった。
「今夜の動画、すごいね。あなたにも出来ると思う」
画面を伏せてから、その言葉が頭の中に残り続けていた。
出来る、という言い方が、何かを前提にしていた。前提の中身がどこにあるか、キヅキには言語化できなかった。「なんか、な」と路地に向かって言って、それ以上は来なかった。
角を曲がったところで、気配があった。
人の気配というより——慣れた感触として来た。他の変身者に近づいたときの、あの輪郭のずれ。ただ今夜は変身していない。変身していない状態でも、気配の形は分かった。
「あ」
声が先だった。
キヅキが足を止めた。
路地の先に、カノンが立っていた。変身していない。普通の服だった。夏の夜に汗もかいていない——変身していなくても体温が少し違う、という話を聞いたことがあった。
「動画、見た?」
カノンが聞いた。
開口一番、それだった。
あいさつでも「久しぶり」でも「また会ったね」でもなかった。「動画、見た?」——情報の確認として来た声だった。
「……見た」
キヅキが答えた。
カノンが「どうだった」と言った。
感情のない声だった。「良かった」という答えを期待している聞き方でも、「悪かった」という答えを恐れている聞き方でもなかった——本当に分からないから聞いた、という聞き方だった。
キヅキは少し止まった。
「声が変わってた」
言った。
言ってから、少し止まった。言いすぎたかもしれない、という止まり方ではなかった——言ったことの意味が、自分でも返ってきていた。
カノンが「そっか」と言った。
繰り返しが来なかった。「そっか」で止まって、少し下を向いた。頭の中で何かを確かめているような止まり方だった。確かめているか、確かめる場所がないかのどちらかだった——外からは分からなかった。
「ワタシも最近、何か分からないものがある」
カノンが言った。
路地の空気に言葉が出た、という感じだった。誰かに向けた言葉というより、声に出してみて確認しようとした言葉。
キヅキが「……何が」と言った。
カノンがこちらを見た。
「分からないから分からないって言ってる」
声の抑揚が全部なかった。笑えたら笑おうとした、という感じの顔の動き方があった——笑い方の手順を知らない人間が、それに近い何かをしようとした形だけが来た。
キヅキはその顔を見ていた。
動画の中と同じ声が、今この路地にあった。感情の音がない——怒りとか悲しみとかが声の質に出てこない。「何か分からないものがある」と言ったとき、それはカノン自身の話のはずだった。でも声の形が確認として来ていた。
端末が鳴った。
カノンがスマートフォンを見た。視線が一瞬だけそちらに落ちて、また前を向いた。
「また」とカノンが言った。
走り出した。路地の先に向かって、変身しないまま走った。変身しないのか変身する場所を選んでいるのか、外からは分からなかった。あっという間に角を曲がって、消えた。
路地に夏の熱だけが残った。
キヅキが立っていた。
壁があった。路地の右側の、コンクリートの壁。
「聴こえてる?」と言おうとして、止まった。
出なかった。
声を出そうとして、出所が分からなくなった——誰に向けるかが分からなかったから、出す前に止まった。カノンに向ける声ではなかった。壁に向けるのかも分からなかった。どこかに向けようとすると、方向が消えた。
キヅキは路地の地面を見た。
アスファルトが夜になっても熱を持っていた。
公園の木が夏の重さで葉を垂らしていた。
深夜になっても虫の声だけが来ていた。
ミドリは公園のベンチに先に来ていた。スマートフォンを手に持っていたが、画面は消えていた。あの動画は一度見た。見てから、再生を止めた。怪我した人はいなかった——コメント欄でそれを確認した。確認してから、ここに来た。
なぜここに来たのかは、あまり分からなかった。
地面が近い場所に来たかった——それだけは分かった。
「ここにいて」と言おうとして、止まった。変身していなかった。変身せずに「ここにいて」と言うと何が起きるか分からなかった——起きないかもしれない。起きないことを確認するのが少し怖かった、というより、今夜は確認したくなかった。ただベンチの端に座って、地面を足で触れていた。
人の気配が来た。
ミドリが顔を上げた。
ユカリが公園の入り口から来ていた。こちらを見た。少し止まった。「先にいた」と分かって少し止まった、という感じの止まり方だった。
それから歩いてきた。ベンチの、ミドリとは反対の端に座った。
どちらも何も言わなかった。
虫の声が来ていた。夏の深夜の虫の声は止まらない——昼間より大きい気がした。木の葉が重さで垂れていた。
「見た?」
ユカリが聞いた。
「見ました」とミドリが答えた。
また少し間があった。
「……どう思いましたか」
ユカリが言った。
ミドリは少し考えた。考えてから、声に出した。
「誰も怪我していない動画だったので」
そこで止まった。
「でも——」
「でも」とユカリが繰り返した。
「次の動画で、誰かが怪我するかもしれない」
声に出してから、ミドリは自分の言葉を聞いていた。「かもしれない」という言い方をした——確認できていないことを声に出したときの言い方。
「……そうですね」
ユカリが言った。
また沈黙が来た。
どちらも動かなかった。木の葉がわずかに揺れた。風があるのか虫の翅がそう見せているのか、判断できなかった。
ミドリが口を開いた。
「止めに行くことはできますか」
ユカリが少し止まった。
「……できると思います。でも」
止まった。
「でも」とミドリが言った。
「止めに行くことが、正しいかどうか分からない」
ユカリの声は平坦だった。言えた言葉が声の外に出た、という感じだった。
ミドリが一拍置いた。
「私も分かりません」
答えではなかった。ユカリの言葉と同じものを持っている、という確認として来た。
沈黙が続いた。
今夜の「できる」と「正しい」の間にある距離が、ベンチとベンチの間の距離と同じくらいの大きさで来ていた。どちらも動かなかった。
ユカリが立ち上がった。
「また」と言って、歩き始めた。
公園の入り口の方向に向かった。歩き方は変わらなかった——来た時と同じ速さで、同じ方向を見たまま歩いていった。
足音が遠くなった。
また虫の声だけが来た。
ミドリが残った。
ベンチから少し身体をずらして、ベンチの下のコンクリートに手を置いた。夜のコンクリートは少し冷たかった。昼間の熱が、地面より先に逃げていた。
「ここにいて」
コンクリートに向かってだけ言った。
変身していない。変身していないから能力として何かが起きるかどうか分からない。それでも言った——言う場所を地面にするということだけが、今夜できることとして分かっていた。
虫の声が続いていた。
木が揺れた。
誰も来なかった。