アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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3.ブラック・サフラン-Black Saffron-

バスが高速を降りた。

一般道に入ると揺れ方が変わった。路面の継ぎ目が細かく来る。外の街灯が窓を流れるペースが遅くなった。

端末からQの声が来た。

「カノンの位置です。江戸川区内。対象者——匿流の指示役と見られる人物——は今夜、同区内のアパートにいます。カノンが向かっている方向と一致しています」

A1が「今夜の変身状況は」と言った。

「断罪行動開始から三十分。変身は継続中です。配信はオフ。今夜は記録していないと見られます」

「分かった」

Qの声が切れた。

後部コンパートメントが静かになった。バスの揺れだけが来ていた。

ワタシは窓の外を見ていた。夜の住宅地。街灯が等間隔に並んでいる。信号機が赤から青に変わって、バスが動き出した。

「A1」

「何だ」

「カノンが止まらなかった場合は」

A1がすぐには答えなかった。端末を見ていた。

「今夜は任意だ。止まらなかった場合、追わない」

「追わない」

「今夜は、だ」

バスが右折した。住宅地の道が狭くなった。低い建物が続いていた。夜になっても窓に明かりが点いている部屋があった。

*向こう——ワタシが今から何をしに行くのか、ワタシ自身にも——*

「今夜の語りかけはもう少し後にしてほしい」とA1が言った。

「もう少し後」

「現場が近い」

バスが速度を落とした。

 

路地は、思ったより狭かった。

バスは手前の道で止まった。ワタシとA1は徒歩で路地に入った。夜のアスファルトが熱を持ったままだった。昼間に蓄えた熱が、夜になっても逃げ場を見つけていない。足の裏に、それが伝わってきた。

路地の突き当たりに、オレンジ色の光の揺らぎが見えた。

カノンだった。変身したままだった。両手の炎の覆いが路地の壁を照らしていた。壁のコンクリートが橙色に染まっていた。

カノンはこちらを見ていた。立ち止まっていた。向こうから来る気配はなかった。

A1が先に歩き出した。ワタシはその後ろについた。

路地の奥、アパートの外廊下に面した壁の前だった。外廊下の上の方の電球が切れていて暗かった。アパートの窓はどこも電気が消えていた。

A1が立ち止まった。カノンとの距離は七、八メートルだった。

「ヒノデ・カノン」

A1の声は変わった。法執行の声になった。

「今夜は任意同行をお願いします」

カノンがA1を見た。ワタシも見た。視線がどちらに向いているのか、少し分からなかった。

「……また来たよ」

平坦な声だった。驚きがない声だった。確認として出た声だった——また来た、という事実を、声に出して確認した、という感じだった。

A1が言った。「今夜の行動は傷害罪に問われる可能性があります」

カノンが少し止まった。

「……傷害」

繰り返した。繰り返してから、どこか遠い方向を見た。

「断罪は終わってない」

「今夜は止まってほしい」

「……なんで」

感情のない声だった。声に感情がないのではなく——本当に分からない、という声だった。なぜ止まらなければならないのかが、カノンには分からない。その「分からない」が、言葉として出てきた。

ワタシはカノンの顔を見ていた。

前に会った時と、どこかが違った。変わっていた。何かが減っていた——でも何が減ったのかが分からなかった。目の焦点は合っていた。壁の構造も視線が追えていた。それなのに、どこかが違った。

A1が少し間を置いた。

「被害者を守ることと、加害者を焼くことは、同じことではありません」

カノンが聞いていた。

「……そっか」

納得でも反論でもない声だった。「そっか」という音が出た、という感じだった。

「でも」

続いた。

「ワタシには、そっちが分からない。被害者のこととか、守るとか——そういう話の感触が、ワタシにはない」

言ってから、少しだけ自分で止まった。言葉を選んだわけではなかった。出てきた言葉が止まった。

「あの人たちが捕まっても」

続けた。

「すぐに出てくる。ワタシ、それを何回も見た。捕まえて、出てきて、また来る。今夜じゃなくても、また来る。それが分かってるから——」

A1が少し止まった。

「……それは、正しいと思います」

カノンが止まった。

ワタシも止まった。

A1が「正しいと思います」と言った——その言葉が、路地の空気に一拍だけ残った。

「じゃあなんで止めるの」

カノンが言った。声に何もなかった。問い詰める声ではなかった。答えを求める声でもなかった——本当に分からないから聞いた、という声だった。

A1が少し間を置いた。

「……法治の話をしているからだ」

路地が静かだった。

外廊下の暗い電球の下で、夏の虫の声だけが来ていた。

「法治」

カノンが繰り返した。繰り返して、少し下を向いた。その言葉を頭の中で確かめているような止まり方だった。

「……そっか」

感触がない声だった。言葉の意味は分かった。でもそれが自分の中にある何かと繋がらなかった——そういう「そっか」だった。

一拍、路地が静かになった。

それから——

「……今夜はいいや」

カノンが言った。

A1が「止まってほしい」と言った。

「止まらない。まだ終わってないから」

カノンが動いた。

変身したまま、路地の横の壁に向かった。壁に手をかけた。炎の覆いが壁のコンクリートに触れた瞬間、接触面が赤く光った。そのままカノンが壁を走った——垂直に、上に向かった。外廊下の上の屋根を越えた。向こう側に消えた。

ワタシが走り出そうとした。

「今夜は追いません」

A1の声が来た。

ワタシが止まった。

路地の暗い壁を見ていた。カノンが壁を走った軌跡が、わずかに焼け跡として残っていた。コンクリートがほんの少し、変色していた。

端末がA1の手で動いた。

「K、こちらA1。接触しました。今夜の任意同行は不成立です」

短い通信音が来た。Kからの了解の応答だった。言葉はなかった。

ワタシは路地の先を見ていた。カノンが消えた方向を見ていた。

真夏のアスファルトが、ずっと熱を持ったままだった。

 

バスに戻ってから、しばらく誰も喋らなかった。

A1が端末を開いて何かを入力していた。報告書だと分かった——接触の記録を残している。

外の住宅地が後部の窓を流れていた。行きより速度が出ていた。首都高に戻る道だった。

Qの声が来た。

「カノンの変身は継続中です。位置が移動しています。対象者のアパートから離れる方向に動いています——今夜の断罪は中断したと見られます」

「了解」とA1が言った。

「任意同行を断った場合の次のステップについて、確認を入れますか」

「Kに判断を仰ぐ。今夜のところは」

「了解しました」

通信が切れた。

ワタシはシートの背に当たったままだった。

「A1」

「何だ」

「さっき、正しいと思います、って言った」

「言った」

「……カノンの言ったことが、正しいと思うなら」

「正しい、と認めた。止める理由とは別だ」

ワタシは少し考えた。

「その二つが別でいられる理由が、ワタシには——」

「法治がそういうものだからだ」

A1が端末から目を離さないまま言った。

「法治は正しいかどうかと、合法かどうかを分けて動く。カノンが言ったことが正しいとしても、今夜の行動の合法性は別に判断される」

「それは——」

ワタシは止まった。

「それは、カノンに届きましたか」

A1が少し止まった。端末への入力が止まった。

「届かなかった、と思っている」

届かなかった。

その言葉が後部コンパートメントの空気に残った。A1が「届かなかった」という判断を持っている——確認として、情報として持っている——それだけだった。残念だという声ではなかった。残念だという感情がないわけでもない——そういう声だった。

ワタシは窓の外を見た。

バスが首都高の入り口に差し掛かった。速度が上がった。夜景が横に流れ始めた。

——「法治」という言葉は、ワタシにも感触が薄い。A1は感触が薄い言葉を正確に使う。カノンは感触がない言葉を「そっか」と受け取った。その「そっか」と、ワタシの「感触が薄い」の間にある距離が——

「また向こうに話しかけてる」とA1が言った。

「……話しかけていました」

「今夜の分は今夜のうちに整理してほしい」

「今夜のうちに」

「処理できなくても、今夜動かしておくと明日が少し楽になる」

ワタシは少し止まった。それはA1自身の話をしているのかもしれなかった。端末への入力が再開していた。報告書が続いていた。

バスが首都高のカーブに入った。夜景が一度大きく傾いた。

ワタシは整理しようとした。

カノンの「なんで」という声が残っていた。感情のない「なんで」。答えを求めていなかった「なんで」。本当に分からないから出た「なんで」——それに対して「法治の話をしているからだ」という言葉が置かれた。

カノンが「そっか」と言った。

感触がない「そっか」。

届かなかった。A1がそう判断している。

ワタシには、届かなかったのが正しかったのかどうかが分からなかった。届いていたとしても、今夜は変わらなかったかもしれない。届かなかったから、何かが守られたのかもしれない。

分からないまま、バスは走っていた。

 

 


 

 

繁華街は夜になっても人の声があった。

深夜の路地に入ると、少し静かになった。大通りの声が遠くなった分だけ、アスファルトの熱だけが残る感じがした。夜になっても地面が冷めていない——夏の路地は昼間の熱を手放さない。

キヅキは路地を歩いていた。

特に目的はなかった。カラオケ個室からとりあえず出た——それだけだった。個室の冷房が強すぎた、というより、貢一からの通知の後に一人で画面を前にしているのが、どこかに収まらなかった。

「今夜の動画、すごいね。あなたにも出来ると思う」

画面を伏せてから、その言葉が頭の中に残り続けていた。

出来る、という言い方が、何かを前提にしていた。前提の中身がどこにあるか、キヅキには言語化できなかった。「なんか、な」と路地に向かって言って、それ以上は来なかった。

角を曲がったところで、気配があった。

人の気配というより——慣れた感触として来た。他の変身者に近づいたときの、あの輪郭のずれ。ただ今夜は変身していない。変身していない状態でも、気配の形は分かった。

「あ」

声が先だった。

キヅキが足を止めた。

路地の先に、カノンが立っていた。変身していない。普通の服だった。夏の夜に汗もかいていない——変身していなくても体温が少し違う、という話を聞いたことがあった。

「動画、見た?」

カノンが聞いた。

開口一番、それだった。

あいさつでも「久しぶり」でも「また会ったね」でもなかった。「動画、見た?」——情報の確認として来た声だった。

「……見た」

キヅキが答えた。

カノンが「どうだった」と言った。

感情のない声だった。「良かった」という答えを期待している聞き方でも、「悪かった」という答えを恐れている聞き方でもなかった——本当に分からないから聞いた、という聞き方だった。

キヅキは少し止まった。

「声が変わってた」

言った。

言ってから、少し止まった。言いすぎたかもしれない、という止まり方ではなかった——言ったことの意味が、自分でも返ってきていた。

カノンが「そっか」と言った。

繰り返しが来なかった。「そっか」で止まって、少し下を向いた。頭の中で何かを確かめているような止まり方だった。確かめているか、確かめる場所がないかのどちらかだった——外からは分からなかった。

「ワタシも最近、何か分からないものがある」

カノンが言った。

路地の空気に言葉が出た、という感じだった。誰かに向けた言葉というより、声に出してみて確認しようとした言葉。

キヅキが「……何が」と言った。

カノンがこちらを見た。

「分からないから分からないって言ってる」

声の抑揚が全部なかった。笑えたら笑おうとした、という感じの顔の動き方があった——笑い方の手順を知らない人間が、それに近い何かをしようとした形だけが来た。

キヅキはその顔を見ていた。

動画の中と同じ声が、今この路地にあった。感情の音がない——怒りとか悲しみとかが声の質に出てこない。「何か分からないものがある」と言ったとき、それはカノン自身の話のはずだった。でも声の形が確認として来ていた。

端末が鳴った。

カノンがスマートフォンを見た。視線が一瞬だけそちらに落ちて、また前を向いた。

「また」とカノンが言った。

走り出した。路地の先に向かって、変身しないまま走った。変身しないのか変身する場所を選んでいるのか、外からは分からなかった。あっという間に角を曲がって、消えた。

路地に夏の熱だけが残った。

キヅキが立っていた。

壁があった。路地の右側の、コンクリートの壁。

「聴こえてる?」と言おうとして、止まった。

出なかった。

声を出そうとして、出所が分からなくなった——誰に向けるかが分からなかったから、出す前に止まった。カノンに向ける声ではなかった。壁に向けるのかも分からなかった。どこかに向けようとすると、方向が消えた。

キヅキは路地の地面を見た。

アスファルトが夜になっても熱を持っていた。


公園の木が夏の重さで葉を垂らしていた。

深夜になっても虫の声だけが来ていた。

ミドリは公園のベンチに先に来ていた。スマートフォンを手に持っていたが、画面は消えていた。あの動画は一度見た。見てから、再生を止めた。怪我した人はいなかった——コメント欄でそれを確認した。確認してから、ここに来た。

なぜここに来たのかは、あまり分からなかった。

地面が近い場所に来たかった——それだけは分かった。

「ここにいて」と言おうとして、止まった。変身していなかった。変身せずに「ここにいて」と言うと何が起きるか分からなかった——起きないかもしれない。起きないことを確認するのが少し怖かった、というより、今夜は確認したくなかった。ただベンチの端に座って、地面を足で触れていた。

人の気配が来た。

ミドリが顔を上げた。

ユカリが公園の入り口から来ていた。こちらを見た。少し止まった。「先にいた」と分かって少し止まった、という感じの止まり方だった。

それから歩いてきた。ベンチの、ミドリとは反対の端に座った。

どちらも何も言わなかった。

虫の声が来ていた。夏の深夜の虫の声は止まらない——昼間より大きい気がした。木の葉が重さで垂れていた。

「見た?」

ユカリが聞いた。

「見ました」とミドリが答えた。

また少し間があった。

「……どう思いましたか」

ユカリが言った。

ミドリは少し考えた。考えてから、声に出した。

「誰も怪我していない動画だったので」

そこで止まった。

「でも——」

「でも」とユカリが繰り返した。

「次の動画で、誰かが怪我するかもしれない」

声に出してから、ミドリは自分の言葉を聞いていた。「かもしれない」という言い方をした——確認できていないことを声に出したときの言い方。

「……そうですね」

ユカリが言った。

また沈黙が来た。

どちらも動かなかった。木の葉がわずかに揺れた。風があるのか虫の翅がそう見せているのか、判断できなかった。

ミドリが口を開いた。

「止めに行くことはできますか」

ユカリが少し止まった。

「……できると思います。でも」

止まった。

「でも」とミドリが言った。

「止めに行くことが、正しいかどうか分からない」

ユカリの声は平坦だった。言えた言葉が声の外に出た、という感じだった。

ミドリが一拍置いた。

「私も分かりません」

答えではなかった。ユカリの言葉と同じものを持っている、という確認として来た。

沈黙が続いた。

今夜の「できる」と「正しい」の間にある距離が、ベンチとベンチの間の距離と同じくらいの大きさで来ていた。どちらも動かなかった。

ユカリが立ち上がった。

「また」と言って、歩き始めた。

公園の入り口の方向に向かった。歩き方は変わらなかった——来た時と同じ速さで、同じ方向を見たまま歩いていった。

足音が遠くなった。

また虫の声だけが来た。

ミドリが残った。

ベンチから少し身体をずらして、ベンチの下のコンクリートに手を置いた。夜のコンクリートは少し冷たかった。昼間の熱が、地面より先に逃げていた。

「ここにいて」

コンクリートに向かってだけ言った。

変身していない。変身していないから能力として何かが起きるかどうか分からない。それでも言った——言う場所を地面にするということだけが、今夜できることとして分かっていた。

虫の声が続いていた。

木が揺れた。

誰も来なかった。

 

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