アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
鉄とコンクリートが日中の熱を蓄えていた。
夜になっても壁が温かかった。手を伸ばして外壁に触れると、昼間の太陽がまだそこにいる感触があった。工場の敷地を囲むフェンスの向こう、廃屋になって久しい建物のシルエットが月明かりで輪郭だけ出ていた。
白いバスが手前の道路で止まった。
「カノンの位置を特定しました」とQの声が来た。「東京郊外、廃工場内。今夜の断罪対象を追ってここに来た模様です。対象者はすでに工場から逃げています——カノンだけが中にいます」
「対象者は」とA1が言った。
「工場の南側の路地から逃走を確認。現在追跡中ですが、今夜の案件は——」少し止まった。「カノンを確保することが優先です」
「分かった」
バスの後部コンパートメントを出た。外の空気が来た。夜の熱が来た。バスの中の冷気が一瞬体から抜けて、代わりに夏の夜が体にかかった。
特殊部隊が展開していた。
紺色の戦闘服にボディアーマー。盾。工場のフェンス沿いに間隔を置いて並んでいた。顔が見えなかった——バイザーで全部覆われていた。足音が揃っていた。どこから来てどこへ向かうか、指示がなくても分かっているように動いていた。
捜査一課の担当者が少し離れた場所に立っていた。こちらを一度見た。何も言わなかった——「あなたたちはここにいる」という確認だけがあって、それ以上は来なかった。
Kからの通信が来た。
「A1。許容します。ただし——」
「分かっています」
A1がKが言い終わる前に言った。
端末の向こうで一拍の間があった。それだけだった。通信が切れた。
A1が工場のゲートに向かって歩き出した。
「ワタシは」とワタシは言った。
A1が振り返らずに「今は動かない方がいい」と言った。
「今は」
「外で待っていてほしい」
A1の足が止まらなかった。ゲートに近づいていく速さは変わらなかった。
ワタシはその背中を見ていた。
——今夜、ワタシは外にいます。待っている。A1が中に入っていく。鉄とコンクリートが熱を持ったまま、夜になっても冷めていない。
言いかけて、止まった。
言葉の形が決まらないまま、口だけが動いて止まった。
A1がゲートをくぐった。
工場の暗がりに入っていく背中が、一歩、二歩で見えなくなった。
夏の虫の声が来ていた。フェンスの向こう、廃工場の壁の割れ目から、外の夜に向かって虫が鳴いていた。止まらなかった。
Qの声が来た。
「A1が工場内に入りました。カノンの変身は未確認。工場内部の熱源を追跡中です」
ワタシはフェンスの外側に立っていた。
工場の建物の側面に、窓があった。ガラスが割れていた。月明かりが黒い穴として見えていた。その穴の向こうに何があるか、外からは分からなかった。
「Q」
「はい」
「A1に今から連絡を」
「連絡は——Kが制限しています。今夜は内部の状況をA1の判断に任せる方針です」
Kの判断、という言葉が来た。
「分かりました」
ワタシは返した。分かりました、という言葉が返ってきた——分かったかどうかは別として、返した。
特殊部隊の一人が少し動いた。フェンスに沿って位置を変えた。足音が来た。夜の熱の中で、その足音だけが規則正しかった。
廃工場の中は、外より暗かった。
月明かりが天井の穴から入っていた。金属フレームが剥き出しになっていた——かつて何かを支えていたが、今は何も支えていない骨だけが残っていた。床はコンクリートで、割れている場所があった。ガラスの破片が踏む度に音を立てた。
カノンは中にいた。
変身していない状態だった。普通の服。普通の顔。工場の暗がりの中に、ただ立っていた。月明かりが穴から差して、その輪郭だけが出ていた。
A1が入口から入ってきた。
カノンがこちらを見た。
「……また来たよ」
声が平坦だった。
驚きがなかった——警戒でも歓迎でもなかった。また来た、という事実を声に出した。それだけだった。前に路地で会った時と同じ声の質だった。さらに平坦になっているかもしれなかったが、外から判断する基準がなかった。
A1が中に入ってきた。ガラスを踏む音が来た。歩みの速さを変えなかった。
「一緒に来てほしい」とA1が言った。
カノンが少し止まった。
「……終わってないから」
「今夜は——終わりにしましょう」
カノンが首を少し傾けた。「どういう意味」と言った。
感情のない聞き方だった。怒っているわけでも警戒しているわけでもなかった——本当に意味が分からないから聞いた声だった。
A1が少し止まった。
廃工場の中に間があった。天井の穴から虫の声が降りてきた——外の夜の音が、穴を通って中に入ってきていた。
「……今夜、あなたを止めに来ました」
A1が言った。
カノンが A1 を見ていた。
何も言わなかった。
「……断罪は終わってない」
カノンが言った。
路地で聞いた時と同じ言い方だった。でも同じ声ではなかった——同じ言葉の形で、中に入っているものが違う声だった。感情がないのではなく、感情を通す場所が見つからなくなった声、という感じがした。
A1が「今夜は」と言いかけた。
「終わってない。だからここにいる。それだけだよ」
カノンが言った。
確認だった。自分がなぜここにいるかを、声に出して確認した。声が工場の中に出た。コンクリートに反響した。
その直後だった。
カノンがスマートフォンを取り出した。胸の前にかざした——液晶面を外に向けた。
サイドボタンを押した。
乾いた音が三つ来た。
右拳を胸の前で強く握り締めた。
指先から火花が散った。マッチを擦ったときに似た速さで、小さな赤い火花が指の腹を走った。走りながら手首に上がり、前腕、肘——炎が身体を伝っていった。熱は来ない。カノン自身には来ない。外からは「燃えている」ように見えていたが、その熱の感触は一切こちらに届かなかった。
走り方が速かった。
髪が横に跳ねた。炎が横に広がるように——上ではなく、横に。
右拳が前方に突き出された。
その拳から、変身が完了した。
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魔法少女 クリムゾン・インパルス-CRIMSON IMPULSE-
ヒノデ・カノン
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——燃やす
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緋色の光が廃工場の壁を染めた。炎の覆いが両手を包んでいた。待機状態の炎が指先で揺れていた。壁のコンクリートがオレンジ色に揺れた。
A1が動いた。
「変身」
声に出した。一語だった。感情がなかった。スマートフォンを取り出し、胸の前にかざした。サイドボタンを押した。
単音が三回来た。
次の行には、白くなっていた。
廃工場の内壁を、赤い光が走った。
ワタシは外から聞いていた。
最初の爆発音は、閉じた空間の中で起きた音が壁を通して出てきた音だった。くぐもっていた。次に、金属が何かに当たる音が来た。それから、ガラスが割れる音が来た。
「赤の変身を確認しました」とQの声が来た。「A1も変身を確認。戦闘が始まっています」
ワタシはフェンスの外に立ったまま聞いていた。
工場の割れた窓から、一度光が走った。赤い光だった。壁の向こうで何かが燃えた光が、穴から出てきた。
次の音が来た。
赤が動いた。
腕を引いた瞬間に来た——炎の覆いが前方に押し出された。空気が圧縮されて前に出る感触があった。A1は右に踏んだ。
熱が来た。
肩の横を通り過ぎた。壁のコンクリートが音を立てた。そこが焦げた。
カノンはすでに次の動作に入っていた。
待機していない——動き続けながら出している。炎の覆いが手から腕まで広がっていた。強い状態だった。だが強いことと、制御できていることは別だった。軌道が固定されていなかった。どこへ向かうかが、出した後に決まっていた。
A1は警棒を縦に構えた。
電撃音が一瞬鳴った。カノンの次の動作が来る前に、警棒の先端を手首の方向に向けた。触れなかった——一センチ外れた。カノンがすでに引いていた。引くのが速かった。
壁際まで来ていた。
工場の北側の壁だった。金属フレームが露出していた。月明かりが天井の穴から斜めに入っていた。フレームの影が床に格子状に落ちていた。
カノンが止まった。
一瞬だけ止まった——次の動作を確認している間だった。その間があった。
A1はその間を使わなかった。
使えた。使えたが、使わなかった——間に合うかどうかではなく、どう終わらせるかの問題だった。一撃で仕留めることが今夜の目的ではない。
カノンが動いた。
工場の中央に向かって走った。
走りながら両手を前に出した。炎の覆いが腕から前方へ伸ばされた——投擲ではなく、接触を狙った動き方だった。空間を閉じようとしていた。自分との間にある距離を、炎で埋めようとしていた。
A1は後ろに引いた。引いて——引いた量が足りなかった。
右腕に熱が来た。
直接ではなかった。炎の覆いの外縁部が通過した熱が、腕の表面に来た。バイザーの中の数字が一瞬跳ねた。処理として受けた——ダメージの数値が出た。白い衣装の肩から袖にかけて、焦げた線が一本走った。
カノンが止まった。
今度は少し長く止まった。
当たったかどうかを確認していた——確認してから、次の動作が来た。感情で動いているわけではなかった。感情の処理を経ずに確認が先に来ていた。この動き方の性質が、A1には分かっていた。
分かった上で、距離を保った。
腕の焦げを判断した。機能に支障はない。警棒を持ち替えた。左手に変えた。電撃の出力を確認した。問題なかった。
カノンが動いた。
床のガラスを踏んだ。
ガラスが砕ける音が来た。カノンの足がガラスの上を走っていた——痛みの感触がなかった。炎の覆いが変身している間は代償が来ない。代償は使った後に来る。A1はその構造を知っていた。
追ってきた。
距離を詰めながら右手を前に出した。炎が腕の先から前方に向かった。
A1は警棒を横に構えた。
警棒の側面に炎が当たった。電撃音が変わった——熱が警棒の機能に干渉している音だった。出力が落ちた。落ちたが止まらなかった。警棒を手から離した。手錠を取り出した。ワイヤーが展開された。
投げた。
当たらなかった。
カノンが体を捻った。ワイヤーが右脚の外側をかすめて、床のフレームに巻きついた。引き戻した。手錠を回収した。
カノンがこちらを見た。
炎の覆いの中からこちらを見ていた。見ていたが、何かを確認している顔ではなかった——見ているが、何も読んでいない顔だった。判断の回路が、感情を通す場所に繋がっていない顔だった。
A1は知っていた。
この顔は、最後に近いところにいる顔だった。
カノンが低い体勢になった。
床に近い角度から来る動きに入った——肩を前に出した体勢。A1は右に踏み出して間合いを開いた。カノンがそちらに向きを変えた。追いかける形になっていた。
追いかけさせていた。
距離が縮まらない範囲で動き続ければ、カノンは出し続ける。出し続けることで、消耗する——変身には限界がある。能力に限界がある。今夜の断罪行動の前から動いていた分の消耗が、すでにある。
A1はその計算で動いていた。
カノンが距離を詰めた。
一歩が速かった。踏み込みが深かった。炎の覆いが最大まで広がった。腕から胸の前まで広がった——最大出力の動作だった。
A1は前に出た。
引くのではなく前に出た。カノンの炎の覆いの内側に入った。炎の外縁部より内側——炎が当たらない距離。マグライトを取り出した。真上から当てた。
光が出た。
カノンの炎の覆いが、一瞬揺れた。
揺れてから戻った——完全には止まらなかった。A1は引いた。マグライトを下げた。
炎の覆いは戻っていた。
だが揺れていた——揺れの周期が変わっていた。出力が戻りきっていなかった。最大出力の後に、マグライトの干渉が来た分だけ、回復に時間がかかっていた。
カノンが手を見た。
自分の手を見た。一秒だけ見た。また動いた。
次の動作が来た。
A1は警棒を拾っていた。電撃の出力が落ちていたが、打撃としての機能は残っていた。横から振った。カノンの左肩の方向へ。
当たった。
炎の覆いの外縁に当たった。覆いが弾いた——能力が物理的な壁として機能した。警棒が弾き返された。A1の手首に衝撃が来た。受けた。
カノンが動いた。
右手を前に出した。炎が来た。
今度は回避しなかった。
前腕で受けた。
白い衣装の右腕が一瞬燃えた。焦げた。衝撃が来た。熱が来た。バイザーの中の数値が上がった。許容範囲内だった——判断した。腕を引かなかった。炎の覆いの出力が下がったところで、腕ごと押し込んだ。
カノンの体勢が崩れた。
一瞬だけ崩れた。
A1はその瞬間に警棒を入れた——電撃は出なかった。打撃として、右脇に入れた。
カノンが後退した。
後退しながら炎を出した。床を照らした。工場の壁が赤く揺れた。カノンの炎の覆いが揺れた——大きく揺れた。揺れてから、小さくなった。
最初より小さくなっていた。
間があった。
カノンが立っていた。
炎の覆いが両手にあった。でも指先の揺れが大きくなっていた——待機状態での揺れ方ではなかった。揺れが制御できていない揺れ方になっていた。
A1は動かなかった。
距離を保ったまま動かなかった。
カノンが来た。
来たが、速さが変わっていた。踏み込みが浅かった。腕の出し方が、さっきより前に出なかった。炎の覆いが手を出すたびに揺れた——揺れて、戻って、また揺れた。
A1は引き続けた。
引いて、引いて、引いた。
カノンが追いかけた。追いかけながら炎を出した。出すたびに揺れた。工場の壁を照らす光が、弱くなっていった。強く出ては落ちた。また出ては落ちた。
落ちるたびに、戻る量が少なくなっていた。
A1には分かっていた。
分かった上で、止まった。
動くのをやめた。カノンから三メートルの距離で、止まった。警棒を下げた。マグライトも下げた。手錠も使わなかった。
ただ立った。
カノンが来た。
炎を出した。出した炎が、A1の方向へ伸びた——届かなかった。距離が足りなかった。伸びた炎が空中で揺れた。揺れたまま、引いた。
カノンが止まった。
カノンが次の動作に入ろうとした。
炎の覆いが一度大きく揺れた。腕の上まで広がろうとした——広がれなかった。指先の範囲に留まった。
もう一度出そうとした。
出なかった。
揺れた。揺れるだけで、前に出なかった。カノンが右手を見た。揺れている炎の覆いを見た。確認している顔だった——何が起きているかを確認している顔だった。
感情ではなかった。
何が起きているか、声に出さずに確認している顔だった。
揺れが止まった。
炎の覆いが、少しずつ小さくなった。指先から引いていった。手の甲から消えた。手首から消えた。指先の揺れだけが残った。揺れた。
止まった。
カノンが床に膝をついた。
立ったまま膝をついた——膝をつく動作に抵抗がなかった。倒れたわけではなく、力が抜けた状態で床に向かった。変身が解けていった。
A1は動かなかった。
変身が解ける音が来た——音ではないが、そういう感触が空気に来た。光が消えた。工場の中が暗くなった。月明かりだけになった。
コンクリートの床に、カノンが座っていた。
普通の服だった。
普通の顔だった。
A1は近づかなかった。
三メートルの距離を保ったまま立っていた。近づくべき距離かどうかを判断していた。
カノンが口を開いた。
「……また捕まっても」
声が薄かった。
「すぐに釈放されるし」
確認として言っていた——A1に言っているのか、自分に言っているのか、どちらとも取れる声だった。声の宛先が決まっていなかった。
A1が少し止まった。
「捕まるたびに——」カノンが続けた。「なんか、色々忘れてる気がする。最近」
感情がなかった。
問題提起ではなかった——ただ確認として出た言葉だった。忘れている気がする、という事実を声に出した。
A1は動かなかった。
工場の中が静かだった。
虫の声が来ていた。天井の穴から外の夜が降りていた。焦げた壁のコンクリートが、月明かりを吸っていた。
入り口から音が来た。
足音が来た——ガラスを踏む音だった。A1は振り返った。
サクラだった。
工場の入り口から走り込んできた。端末からQの声が「中に入らないで」と言っていた——サクラの耳には届いていなかったか、届いていて来たか、どちらかだった。
カノンがこちらを見た。
「……また来たね」
確認の声だった。
「桃も」
ワタシはA1の後ろで止まった。
カノンが床に座っていた。変身が解けていた。普通の服だった。焦げた壁を背にして座っていた——背にしているわけではなく、ただ座っていた。壁がそこにあった。
A1が立っていた。
白い衣装の右腕に、焦げた線があった。肩から袖にかけて走っていた。A1はそれを確認してから、ワタシを一瞬見た。
何も言わなかった。
カノンが続けた。
「……また捕まっても、すぐに釈放される。それが分かってるから、ワタシは——」
「違う」
A1が言った。
カノンが止まった。
A1の声は平らだった。感情の入り口を塞いだ平らさではなく——通した後の平らさだった。聞いていると、それが分かった。
「お前はやりすぎたんだ」
一拍、工場の中が静かになった。
虫の声だけが来ていた。
カノンがA1を見ていた。
「……やりすぎ」
繰り返した。言葉の形を確かめるように、声に出した。了解でも反論でも、納得でもなかった。その言葉を確認している声だった。
「……やりすぎ、た」
もう一度繰り返した。今度は自分で過去形にした。気づいているかどうか分からなかった。
A1が動いた。
しゃがんだ。カノンと同じ高さになった。バイザーを通してカノンを見た。
「……お前が焼いてきたものは、確かにあった」
A1が言った。
「それは本物だった」
カノンが何も言わなかった。
下を向いた。床のコンクリートを見た。焦げが走っていた——自分が今夜ここにいた痕跡が、床に残っていた。
「……そっか」
カノンが言った。
声に出すべきことがまだ残っていた。でも声がもうなかった——声はあったが、それを押し出す何かがなくなっていた。「そっか」という音だけが出た。
工場の中に出た。コンクリートに反響した。反響した音が戻ってきた。
A1は動かなかった。
ワタシは後ろに立っていた。
向こうに言いかけた。言おうとして——言えなかった。言葉の形が見つからなかった。何を言っても今夜のこの場所には合わない気がした。合わない、という判断が出てくる前に、口が動かなくなっていた。