アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
「そっか」という音が、コンクリートから戻ってきた。
工場の中が静かだった。
カノンが下を向いていた。床の焦げを見ていた——自分が今夜ここにいた痕跡が、床に走っていた。A1がしゃがんだまま、動かなかった。
ワタシは二人の後ろに立っていた。
外から、特殊部隊の足音が近づいていた。フェンスの外から工場の入り口へ向かう足音だった。複数の人間が、整列した間隔で移動する音だった。
誰も動かなかった。
工場の中に、間があった。
虫の声は外から来ていた。コンクリートの壁を通してきていた。「そっか」が反響し終わった後も、続いていた。
光の点が来た。
最初の一つが来た時、ワタシにはそれが何か分からなかった。
壁ではなかった。空中でもなかった。カノンの胸の辺りで、小さく動いていた。赤い点だった。次の瞬間、もう一つ来た。肩の辺りだった。また一つ来た。額の辺りだった。
三つが集まって、少しずつ動いていた。
ワタシはその意味を理解した。
理解してから声が出なかった。声が出るより先に足が動こうとした——足が動く前に、カノンが顔を上げた。
床を見ていた目が、少し前を向いた。
何かを言おうとしていた。
口が開きかけていた——その言葉が何か、ワタシの耳には届かなかった。
音が来た。
乾いた音だった。
工場の外から来た——どこか遠くから来たのに、工場の中で鳴ったような音だった。壁の高いところに、月明かりとは角度の違う光が差した。小さな穴が開いていた。
今夜の作業の前からあった穴ではなかった。
カノンが止まった。
立っていたのが——止まった。
膝から先に行った。膝がコンクリートに当たった音がした。それから横に向いた。それから床が来た。倒れたのではなかった。「止まった」という動作だった。立っていたものが、立てる理由を失って、床の方向を見つけた——そういう動き方だった。
A1が前に出た。
でも止められるものがなかった。
A1の右手が前に出て——止まった。手が、空中で止まった。
ワタシには、その後のことが正確には分からない。
カノンが床にいた。さっきまでそこに立っていた。さっきまで「そっか」と言っていた。さっきまで向こうを向いて口を開きかけていた。
その顔が——崩れていた。
さっきまで屈託なく笑っていた顔が、バラバラに砕け散って、床に散らばっていた。ワタシの目にはそう見えた。正確に何が起きたかは、ワタシには処理できなかった。処理できないまま、その映像だけが目の前にあった。
「カノン」
声に出た。
声に出てしまった——後から気づいた。名前だけが出た。それ以上は出なかった。
A1がカノンの前に立った。振り返らなかった。
向こうに言おうとした。
言葉の形が来なかった。何も来なかった。向こうに向けて持っていける言葉が、今夜この場所には存在しなかった。
口が動かなくなっていた。
無線の声が来た。
外からだった。入り口のドアの向こうから来ていた。
「アルファ1より特移動——対象の無力化を確認。現在心肺停止と——」
声が続いていた。
後の言葉は、ワタシの耳に入らなかった。
入り口のドアが開いた。
紺色の戦闘服の特殊部隊が入ってきた。盾を持った四人が先に入った。工場の中を確認した。A1が振り返らないまま立っていた。特殊部隊の一人が「状況を確認します」と言った。
A1がバイザーを外した。Kの書類を出した。
別のチームが入ってきた。担架を持っていた。黒い袋を持っていた。白い手袋をしていた。
ワタシは入り口の壁に背中をつけた。
担架のチームが動いていた。黒い袋が広げられた。カノンが収められた。ファスナーが引かれた。担架が持ち上げられた。四人で持ち上げられて、出口に向かった。
ワタシは壁から離れられなかった。
担架が通り過ぎた。ワタシの横を通り過ぎた——横を通り過ぎる時、ワタシは見なかった。見なかったのではなく、見る方法が分からなかった。目は開いていた。
担架が出口を出た。
鑑識のチームが入ってきた。
青色の上下の作業服だった。小さな機材を持っていた。工場の床を一区画ずつ確認し始めた。
床に残っていたのは、赤かった。
彼女そのものの赤が、床のコンクリートに残っていた。壁の低い部分にも散っていた。鑑識の人間が、それを一つずつ確認していた。小さなライトを当てた。何かを計測した。記録した。次に移った。
何も言わなかった。作業だった。
ワタシはそれを見ていた。
さっきまでそこに立っていた人間の赤が、数字と記録になっていくのを、見ていた。
A1が動いた。
ワタシの横に来た。
「出ろ」
声が来た。平らな声だった。
ワタシは動こうとした——動けなかった。足が動かなかった。
「サクラ」
A1がもう一度言った。
今度は前と同じ声ではなかった——何かが一枚、剥けたような声だった。「出ろ」でも「動け」でもなく、ただ「サクラ」だった。
ワタシは足を動かした。
出口の方向に向かった。工場の床を踏んだ。床の赤を踏まないようにして歩いた。踏まないようにしていたことに、外に出てから気づいた。
外の空気が来た。
夏の夜の空気だった。日中の熱を吸ったコンクリートが、深夜になってもまだ温かかった。フェンスの外に、白いバスが見えた。Qの声が来た——端末から来た。「サクラ。バスまで戻ってください」
ワタシは動かなかった。
工場の入り口の横に立ったまま、動かなかった。
工場の中で、内藤という名前の捜査一課の人間がA1と書類を確認していた。やりとりの声が聞こえた。内藤が「今夜の関与について照会を入れます」と言った。A1が「Kの名前で通してください」と言った。内藤が「了解しました」と言った。
それだけだった。
特に何もなかった。
A1が出てきた。
工場の入り口から出てきた——出てきた瞬間、外の空気を一度吸った。ワタシはその動作だけを見た。
「バスに行くぞ」
A1が言った。
ワタシはA1の後ろについた。砂利の上を歩いた。バスの方向に歩いた。夏草が道の端に生えていた。虫の声が続いていた。
白いバスに乗り込んだ。後部コンパートメントに座った。向かい合った。
A1が端末を開かなかった。
開かないまま、少しの間、そのままでいた。
Qの声が来た。「出発します」。バスが動いた。
ワタシは窓の外を見た。工場が後ろに遠くなっていった。工場の前のコンクリートが、夜の中に消えていった。カノンがいた場所が、遠くなっていった。
「ヒノデ・カノンに関連するハッシュタグの検索量が、七十二時間で九十二パーセント減少しました」
Qが数字を声に出した。
深夜、目黒合同庁舎の資料室。モニターが三面、同じ部屋の中で光っていた。外は暑かった。午前二時を過ぎても、外の温度計は三十一度を示していた。コンクリートが冷たいのに外は熱い、という組み合わせが今夜も続いていた。
ダッシュボードの数字が動いていた。
「ヒノデ・カノン」という文字列が、ここ七十二時間でたどった曲線をQは記録していた。死亡当夜の数字。翌朝の数字。翌々日の数字。そして今夜の数字。曲線は単純だった——上がって、急激に落ちた。急激に落ちた後、今も少しずつ落ちていた。
「同一時間帯の過去事例と比較すると、減衰速度は標準範囲内です」
声に出してから、少し止まった。
標準範囲内、という言葉が部屋の空気に残った。Qが発した言葉だった。正確な言葉だった。数字は正確にそう示していた。正確だった——それは確認できた。
Qは次の数字に移ろうとした。
移る前に、もう一つファイルを開いた。
名前のついていないファイルだった。今夜も増えていた。
「……カノン、か」
声に出した。
声に出してから気づいた——声に出す予定ではなかった。独り言として出た。出てしまった。Qは少し止まった後、ファイルを閉じた。閉じる前に一行書き加えた。書き加えた内容は声に出さなかった。
ダッシュボードの数字が、また動いていた。
別のタグが画面の右端で伸びていた。
「止めなかった機関への批判」という分類が出来上がっていた——Qがそのタグに名前をつけたのではなく、SNSがそう呼びはじめていた。批判の向き先が変わっていた。七十二時間前に「正義の魔法少女」を称えていた声が、四十八時間前に「やりすぎ」を叫んでいた声が、今は「なぜ誰も止めなかったのか」に向いていた。
Qはそれも記録した。
記録するときに何も声に出さなかった。
「どちらが大きいかしか分からない。感情の種類が変わったことは分かる。なぜ変わったかは、分からない」という留保を、声に出す代わりに次のファイルに書いた。
捜査一課の内藤からの短い通信が来た。
「捜査一課として引き続き動きます。今週中に——」
そこで途切れた。
Qが「了解しました」と返した。
返してから、少し止まった。ファイルはすでに閉じていた。
二週間が経った。
庭に出た。
欅の木は、変わっていた。
葉の量は変わっていなかった。茂りかたが変わっていなかった。でも、光の角度が少しだけ変わっていた。夏の盛りの光と、今日の光は、同じ庭を照らしているのに違っていた。どこが違うか言葉にはできなかった。庭に出ると、その違いが来た。
お盆の前後だった。
死者を思う季節だと、成瀬先生が言っていた。窓際の席で、新聞を手元においたまま。「この時期は、いろいろ思い出す人が多いんだよ」と言った。答えを期待していない言い方だったので、ワタシは何も返さなかった。
Qからの通信が来た。
「カノンの件の関連タグは現在、一日あたり三十件未満のリアクションです。実質的に話題は収束しています」
「……そうですか」
「はい」
通信が切れた。
ワタシは欅を見ていた。
葉が動いていた。風がきていた。木の葉が、夏の盛りより少しだけ重そうに揺れていた。重さが変わったわけではなかった。光の角度のせいで影が長くなっていた。影が長くなると、葉の重さが増したように見える。そういうことだと思った。
「また何かに言おうとしてる」
A1の声が来た。
庭の端から来た。茶室の方向だった。いつそこにいたのか分からなかった。足音が来ていなかった。
「……言おうとしていました」
ワタシはそれだけ言った。
A1が近づいてきた。欅の根元まで来て、庭の光の中に立った。バイザーを上げた状態だった。
「向こうに言えることが」
ワタシは言いかけた。
でも、そこで止まった。
「向こうに言えることが、ワタシには何もなかった」
声に出てしまった。地の文として出るはずだったものが、声になって庭に出た。
A1が少し止まった。
いつもとは違う止まり方だった——判断している止まり方でも、返す言葉を探している止まり方でも、どちらとも取れない止まり方だった。
「そうか」
A1が言った。
処理の「そうか」でも、会話を閉じる「そうか」でもなかった。自分に向けた「そうか」だった——でも自分ではなく、ワタシに向けて言った「そうか」でもあった。そのどちらかは分からなかった。
A1が端末を開いた。
「報告書を送ります」
「……異状なし、ですか」
「今日の報告書は、まだ書いていない」
A1が言った。
それだけ言って、端末を見た。ワタシは欅を見た。
庭に風が来た。葉が一度大きく動いて、止まった。夏草が根元で揺れた。
同じ時期の夜。
羽根川クロエは高層マンションの自室でモニターを前にしていた。夜景に夏の靄がかかっていた。夜景自体は変わっていないが、靄のかかり方が梅雨明けの頃とは違っていた。湿度が変わっていた。
モニターの数字が動いていた。
SNSのダッシュボードだった。「ヒノデ・カノン」という文字列の推移グラフが出ていた。ピークは一点だった。急落は鋭角だった。その後の曲線は緩やかで、今はほぼ水平に近かった。水平に近い線が、右端でさらに低く落ちようとしていた。
「正義の魔法少女が現れた。人が死んだ。やりすぎと言われた。忘れられた」
声に出さずに整理した。
クロエは声に出して整理しない。内側で整理するときの言葉は、外に出す言葉とは違う語彙を使う。でも今夜は、内側の言葉が手元の紙に文字として出てきていた。ボールペンで書いた字だった。
「ヒューマントーチズム」
その言葉の下に横線を引いた。
クロエが持っている言葉だった。持っている言葉で分類した——他者に点けられた火。自分のものではない炎で燃え上がり、燃え尽きた後の残骸が次の消費の素材になる。「正義の魔法少女」というタグはSNSが付けた。カノン自身がつけた名前ではなかった。タグが付いた瞬間から、カノンはタグのための燃料になっていた。
燃え尽きた後も、まだ残っている。
モニターの右端に小さな数字があった。今夜も三十件未満のリアクションがついていた。三十件未満でも、今夜も動いていた。残骸が、まだ誰かに消費されていた。
「計算できる」
クロエは思った。
計算できる、というのは感情的な評価ではなかった。事実だった。曲線には形があった。形があれば予測できる。予測できれば使える。
使える——これが黒の欲望の核心だとクロエは分かっていた。
分かっていて、それでも手元のボールペンが動いた。「計算できる」という四文字の下に、また横線を引いた。
スマートフォンを取った。
調査記者からの返信は三分で来た。
「毛利さんですか。……少し時間をください。調べてみます。ただ、彼は——掴みにくい人です」
クロエは少し止まった。
掴みにくい、という言葉が来た。調査記者がそういう言い方をするのは珍しかった。この人物は普段「調べてみます」だけ返してくる。「掴みにくい」という評価をつけたのは初めてだった。
「掴みにくい人が面白いんです」
クロエは返した。
返してから、モニターの横に置かれた新聞の切り抜きを見た。
「経産省・毛利、社会保障費の民間補完モデルに言及」
という見出しだった。シンポジウムの翌朝の新聞だった。会見の要旨が二段組で入っていた。クロエはその記事を一度読んでいた。一度読んで、手元に残していた。
切り抜きをモニターの横に並べると、数字の曲線と記事が同じ視野に入った。
両方を見ていた。
関係があるとは言えなかった。関係がないとも言えなかった。関係を断言するのが早すぎる夜だった。
「今夜はここまで」
クロエはモニターを落とした。
部屋が暗くなった。夜景だけが残った。東京の夜が、靄の向こうに広がっていた。高い場所から見ると、熱が積み上がっていた——街の光が、その上の空気を押し上げていた。