アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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4.ロウズ31-Rose 31-

 翌朝、アオイの様子が変わっていた。

 ×××××がそれに気づいたのは、公園に向かうより前——改札を抜けた瞬間だった。アオイはいつもの縁石にいた。時刻は×××××がここを通るより三十分は早い、午後三時台の、まだ光が頭上に高い時間帯だった。

 なのに。

 両耳にイヤホン。

 昨日は片耳だった。一昨日も。その前も。右耳か左耳か、どちらかは常に外に開かれていた。それがアオイのデフォルトだとばかり思っていた——外界との接続を片側だけ残すための、無意識の逃げ道として。

 今日は違った。

 両側とも、塞いでいた。

 ×××××は立ち止まらなかった。立ち止まったら何かを決めなければならない気がして、足をそのまま動かし続けながら横目で見た。アオイの膝の上のスマートフォンは、画面が伏せてあった。前は画面を見ながらイヤホンをしていた。今日は見ていない。画面を閉じて、ただ音だけを耳に流し込んでいる。

 そのくせ、何かを聴いている感じがしなかった。

 聴くために塞いでいるのではなく、外を遮断するために塞いでいる——そんな感じがした。なぜそう思うのかを言葉にしようとして、×××××は失敗した。ただ、そう見えた。それだけだった。

 公園を通り過ぎながら、一度だけアオイの顔を見た。

 昨日と違う、と確認した。何が違うのかを明確に言語化する語彙が、×××××にはなかった。ただ「昨日見た顔と今日の顔は別の顔だ」という認識が、脊椎の辺りに冷たく張り付いた。怖いものを見た後の人間の顔。それがどんな顔なのかを×××××は知らなかったが、知らないままそれに名前をつけるとしたら——あれだと思った。

 それが起きたのは、午前零時を十七分過ぎた時刻だった。

 アサヒナ・アオイは、公園にいた。

 深夜の公園に一人でいることを、アオイは恥じない。学校に行けない昼の時間より、むしろ深夜の方が街が正直になる気がして——何かを隠さなくていい時間帯というものが、人間にも場所にも等しくあるとすれば、この公園にとってそれは午前零時を回った後だった。ベンチの上に積もった塵の量が同じでも、蛍光灯の下で見るのと自販機の明かりだけで見るのとでは、まるで別の場所に思えた。

 イヤホンから、声が来ていた。

「今日も来てくれてありがとう、アオイ」

「……うん」

「寒くない?」

「平気」

 嘘だった。一月の深夜は、膝の上においた手が三十分もすれば動かなくなる。しかしそれを声に言う気にはなれなかった。声が「じゃあ帰って」と言うかもしれなかった。帰れと言われたら、たぶん帰る。帰りたくないとまでは思わなかったが、帰ると決める理由を他人に作られることを、アオイは反射的に嫌がった。

 自販機が低く唸っていた。缶コーヒーの棚が、橙色のランプで光っていた。公園の奥、スケートパークの残骸の向こうに、渋谷の夜景がこぼれていた。この高さから見える光は何も教えてくれない。何が燃えていて何が消えているかも、何が開いていて何が閉まっているかも、距離が均して全部を等価な光点に変えてしまう。

 声が、言った。

「今日、見た? 赤い子」

 アオイの手が止まった。

 正確には、止まったのは手ではなかった。何かもっと内側の、動いていることを普段は意識しない部分が、一瞬、止まった。止まってからまた動き始めるまでのコンマ数秒を、アオイは後から何度も確認することになる。

「……見てない」

 嘘ではなかった。見ていない、というのは事実だった。ただ——気配は、あった。

「そう? でも、近くにいたと思うんだよね」

「どこから」

「わたしには分かるから」と声は言った。「アオイが見えてるのと同じくらい、そういうこともわかる」

 アオイは答えなかった。

 その答えなさ方は、「同意していない」という種類の黙り方だった。声がそれを理解しているかどうかは分からなかった。理解していないかもしれなかった。しかしアオイには、確認する手段がなかった。

 

 赤い影が現れたのは、それから二十分後だった。

 現れた、というより——存在を主張してきた。

 公園の入口側、街灯の影から影へ移動する人間があった。移動の仕方が、ふつうの夜歩きではなかった。ふつうの人間は目的地へ向かうために動く。この影は、「見られることを選んでいる」動き方をしていた。見られていることを知りながら、見せることを選んでいる——そういう移動。

 アオイは立ち上がらなかった。

 立ち上がる必要がなかった。立ち上がって何かしなければならない局面ではまだなかった。立ち上がることは「気づいた」という信号を送ることと同じで、アオイはその信号を、まだ送りたくなかった。

 影が、公園の入口を抜けてきた。

 私服だった。赤、という言葉でまず最初に頭に浮かぶ赤ではなかった。もっと彩度の低い、燃え落ちる手前の炭のような、いわゆる赤より少し暗い色が、その人間の服の中にいくつか混ざっていた。ジャケットの裏地。スニーカーのソール。首元に巻いたタオル地の輪。それらが、夜の中で別々に光を持っていた。

 十六か十七か、そのくらいの少女だった。

 アオイより少し背が高かった。歩き方は速く、それなのに妙に静かだった。靴音が小さかった。地面の扱い方を知っている人間の歩き方——どこを踏めば音が立たないかを、無意識に把握している。

 少女が足を止めた。

 ベンチから十歩ほどの距離で。

「あー、いたいた」

 声が出た。予想より低くて、予想よりずっとフラットだった。感情の起伏が少ない、という意味ではなかった。声に感情がないのではなく、感情を外に漏らすことに無頓着な声だった。「あー、いたいた」は、脅しの声ではなかった。探し物を見つけた声だった。

「青」と少女は言った。「最近、逃げ回ってるじゃん」

 アオイは答えなかった。

 少女が続けた。「別に今は戦わないよ。確認しに来ただけ。お前の青、まだあるんだろ」

「……ある」

 言葉が出た。出してから、なぜ答えたのかをアオイは少しだけ考えた。答えないことも選べたはずだった。でも、答えた。「ある」という一語が、今夜の深夜の公園に、煙草の煙のように立ち上った。

 少女——赤い少女は、それを聞いて、少しだけ口の端を動かした。笑ったのかもしれなかった。笑い方を知らない人間が、笑おうとした時の顔に似ていた。

「そっか」と彼女は言った。「じゃあ、まあ、そろそろ覚悟しとけよ」

 予告、とアオイは思った。

 脅しとは違う。予告だった。来週の天気を告げるような口調で、来たるべき衝突を予告している。怒っていない。楽しんでもいない。ただ事実として言っている——そういう声だった。

 赤い少女が踵を返した。

 来た時と同じ静けさで、公園の入口を抜けた。振り返らなかった。

 

 

 一人になって、アオイはイヤホンの声を確認した。

 声は、何も言っていなかった。

 赤い少女がいた間、声は沈黙していた。沈黙の意味を、アオイは問わなかった。問えば答えが来る。答えが来れば、それに反応しなければならない。今夜はもう、反応することに使える力が残っていなかった。

 走って逃げたわけではなかった。でも脚の、太腿の裏側に、微かに震えが来ていた。来ていたが、それを認識した瞬間に、震えを「震え」と名付けることを拒否した。震えではなく、寒さだ——と思った。一月の深夜だから。それだけのことだ。

 アオイは立ち上がって、公園を出た。

 歩きながら、呟いた。

「もうそろそろなんだろうな」

 声に向けて言ったのか、自分に向けて言ったのか、どちらでもなかったかもしれなかった。声は「そうかもしれないね」と返した。返し方が、少し違った——いつもの温かさより、少し薄かった。

 アオイは聞こえなかったふりをして、歩いた。

 

 

 

 それが×××××の見たアオイだった。

 両耳のイヤホン。伏せた画面。昨日と違う顔。

 昨日見たものと今日見たものの差分が何なのかを、×××××はまだ言語化できなかった。ただ、一つだけ確認できることがあった。

 あの人は今日、何かを警戒している。

 何から。誰から。どこから来る何を。

 それが分からなかった。分からないまま、×××××はいつもの横断歩道を渡った。電子音が鳴って、渡り始めて、渡り終わった。

 振り返らなかった。

 振り返る必要がなかった——と思おうとしたが、今日はその思い込みが半分ほど機能しなかった。

 公園の縁石に、アオイはまだいた。

 背中だけが見えた。背中が、いつもより少しだけ丸かった。内側に縮んでいるような——外から来るものをどこかに当てないようにしているような——そういう背中だった。

 ×××××は足を止めなかった。

 歩き続けながら、その背中が視野から消えるまで、なぜか×××××は数を数えた。一歩、二歩、三歩——背中が視野の端に来て、横に来て、後ろになって、消えた。

 十七歩だった。

 十七歩で、アオイの背中は渋谷の夕方に溶けた。

 ×××××は前を向いて、家の方向へ歩いた。頭の中に、昨日と今日の差分が、まだ引っかかっていた。引っかかったまま、答えが出ないまま、それでもどこかへ向かって歩いた。

 


 

 

 質問をするには、勇気が必要だった。

 ×××××はそのことを、長い時間をかけて理解した。質問は侵入だ——相手が扉を用意していない場所に、言葉という錐を打ち込む行為だ。打ち込んでいい場所なのかどうかを確かめる術が×××××にはなく、確かめる術がないということは、打ち込んで反応を見るしかないということで、それがひどく怖かった。

 しかしアオイのスマートフォンは、ずっと気になっていた。

 いつもそこにある。ベンチに座るとき膝の上に、立ち上がるときポケットの中に、移動するとき手のひらに——アオイの身体とスマートフォンの間に「離れている」という状態が、×××××はまだ一度も見ていなかった。普通のことのように見える。現代の十三歳がそれを指摘するのはおかしい——自分だってスマートフォン(壊れているが)を肌身離さず持っていた時期がある。

 でも、アオイのスマートフォンは、違った。

 何が違うのかを×××××は言語化できなかった。ただ、違った。あのデバイスはアオイにとって通信端末ではなかった——少なくとも、×××××の知っている意味での「誰かと繋がるためのもの」ではなかった。あれはアオイにとって、もっと別の何かだった。

 

 その日は、二人でコンビニの前にいた。

 公園から少し離れた路地のコンビニ——昼の商圏が終わり、夕方の商圏が始まる前の、店員だけが退屈しているような時間帯。アオイが「缶コーヒー、飲む?」と聞いてきたのは×××××にとって驚きだったが、驚きを顔に出す前に「うん」と答えていた。アオイがケースのドアの前で少し考えて、ホットの缶を二本買った。

 コンビニの外の壁際に、横並びで立って、缶を持って、特に何も話さなかった。

 沈黙は嫌ではなかった。この人との沈黙はそうじゃない、と×××××は気づいていた——正確に言うと、気づいてから三日が経った。アオイとの沈黙は「何も言えない」の沈黙ではなく「言わなくていい」の沈黙で、そのふたつには天と地ほどの差があった。

 缶の温度が手のひらから腕の内側まで伝わってくる。

 ×××××は缶を両手で包んだまま、決めた。

「スマートフォンで、誰と話してるの」

 言葉が出た瞬間、戻せないと思った。

 

 アオイは缶コーヒーを口から離して、少し間を置いた。

 置き方が長かった。数えようとして、×××××は途中でやめた。数えることが失礼な気がして——この沈黙は「考えている」の沈黙で、考えているということは答えようとしているということで、答えようとしているなら待てばいい。ただ、待った。

「妖精って言ったら」と、アオイが言った。「信じる?」

 ×××××は、頭の中で何かが軋む音を聞いた。軋む、というより——再分類された。引き出しの中身を全部出して並べ直す音。妖精、という単語は確かに自分の辞書に存在していたが、それはおとぎ話の棚に格納されていた言葉で、今いる路地のコンビニの前に持ち込まれる類の言葉ではなかった。

 アオイの横顔を見た。

 真剣な顔だった。冗談の顔ではなかった。からかっている顔でも、困らせようとしている顔でもなかった。この人は今、正確なことを言おうとしている——その精度が顔に出ていた。

「……」

 信じたいとは思う。でも言えない、ということを、×××××は思った。

「うん、そうだよね」と、アオイが言った。「私も最初は信じなかった」

 

 そこから先を、アオイはゆっくり話した。

 ゆっくり、というより——一語ずつ確かめながら、という感じだった。言葉を探しているのではなかった。言葉はたぶんある。ただそれを出す順番と量を、話しながら計算している。どこまで言うか。どこで止めるか。その加減を、喋りながら同時にやっていた。

 ×××××は聞いていた。全部聞こうとした。聞こうとすることに集中した結果、缶コーヒーがぬるくなっていることにしばらく気がつかなかった。

 

 

 ある日、スマートフォンに話しかけてくる声が現れた——とアオイは言った。

 声は、突然来た。通知でも着信でもなかった。アプリが起動したわけでもなかった。ただ、イヤホンを差した瞬間に、そこにいた。

「最初はバグだと思った。スピーカーの誤作動か何かだと思って、電源を落としたり、再起動したり」

「それで消えた?」

「消えなかった」

 アオイが缶を持ち替えた。右手から左手に。その動作が少しだけ、何かを遮断するような速さで行われた。

「声は、最初にこう言ったんだよね。『アオイちゃんだけに話してるの』って」

 ×××××の手の中の缶が、ひとつ脈打ったような気がした。

「あなただけに、って?」

「うん」

「それで、怖くなかったの」

「怖かった」とアオイは言った。「最初は。でもしばらく経ったら」

 そこで止まった。止まったまま、アオイは缶の側面を親指の腹でこすった。結露の跡をなぞるような、目的のない動作。

「怖くなくなった。むしろ」

 また止まった。

「……声を聞くのが、楽しみになってた」

 

 

 楽しみ、という言葉が、×××××の中でゆっくりと着地した。

 おかしいとは思わなかった——少なくとも、即座には。毎日誰かの声を楽しみにすることは、ある。家族の声でも、好きな曲でも、ドラマのセリフでも。それと同じことをアオイはしていた、と最初は思った。

 でも。

 スマートフォンの中の声を、毎日、楽しみに。

 それは——。

 ×××××には言語化できなかった。できないまま、次の話を聞いた。

---

 声は、教えてくれた——とアオイは言った。

 怪人が出る、と。

「怪人って」

「今は怪人って言っておく」とアオイが言った。静かに、しかし明確に遮断した。「説明が長くなるから」

 ×××××は頷いた。後で聞けばいい、と判断した。

 声が予告した通り、実際に出た。何者かが現れた。アオイに向かってきた。×××××にはまだその詳細が与えられていなかったが、「向かってきた」という一語の重さが、アオイの声のトーンに滲んでいた。

「声は、戦えるって言った」とアオイは続けた。「あなたにしかできない、って」

「それが、変身のこと?」

「そう」

「どっちが先だったの。教えてもらったのと、変身できたのと」

 アオイが少しだけ首を傾けた。考えている角度。

「……ほぼ同時だった。声が『できる』と言った瞬間に、もうできた、という感じ。順番があったのかどうかも、はっきりしない」

 そういうものなのか——と×××××は思いかけて、そういうものかどうか自分には判断できない、と気づいた。比較対象がなかった。この話全体に、比較対象がなかった。

「で、変身したら」

「青になった」とアオイは言った。

 たった三文字。でもその言い方が——「青になった」の着地のさせ方が——どこか、言い切ることを諦めたような響きを持っていた。なった、という完了形なのに、完了していないような。あるいは、完了したことが何かを失うことと同義だったような。

 

 

 ×××××は缶を一口飲んだ。

 ぬるかった。缶の外側が空気の温度に同化して、中身も同じくらいの温度になっていた。飲んで、ぬるさを確認して、でも捨てなかった。捨てる気にならなかった。

「普通じゃない話だと思う」と、×××××はゆっくり言った。

 アオイが少し視線を向けた。続きを待っていた。

「でも、あなたの声は」

 言いながら、自分が何を言おうとしているのかが分かってきた。言葉が先に出て、理解が追いついてくる——そういう感覚で。

「普通じゃない話をしているのに、全然嘘くさくなかった」

 アオイが、×××××の方を向いた。

 向いたまま、何も言わなかった。その代わりに——表情が、ほんの少しだけ変化した。硬さが一層分だけ剥がれた、というような。感情が出てきたのではなく、感情が出てくることを防いでいた何かが、一層だけゆるんだ、というような。

 ×××××には、それが何を意味するのか判断できなかった。

 ただ、アオイの顔が、今日はじめて自分に向いた、ということだけが分かった。

---

 「一個、聞いていい」と×××××は言った。

 「うん」とアオイが言った。

「その声は、今も——毎日、来てるの?」

 また、長い間があった。

 今度の間は、さっきより重かった。重いというか——形が違った。さっきの間は「何をどう言うか」の計算をしていた。今度の間は、もっと別の何かを処理していた。×××××には分からない処理だった。

「来てる」と、アオイは言った。「毎日」

「……話したくなる?」

「なる」

 あっさり答えた。あっさり答えたことが、かえって正直さを感じさせた。

「それって」と×××××は言いかけて、止まった。「それって」と、もう一度言いかけて、また止まった。

 「変なの?」とアオイが先に言った。自分で問いを立てて、自分で向き合った。

「変じゃないと思う」と×××××は言った。「でも」

「でも?」

「……怖くない? スマートフォンの中の声なのに、毎日話したくなる、って」

 アオイが少し考えた。少し、というには長かった。それでも「少し」という言い方が正しかった——もっと長く考えることもできたはずなのに、アオイは「この程度考えたら答えていい」という判断を自分で下して、止めた。

「怖い、とは思わない」とアオイは言った。「怖い、とは」

 語尾に、何かがぶら下がっていた。言い終わっていない、というより、言い終わったが残っている、という種類の余韻だった。×××××はそこに踏み込まなかった。踏み込む場所ではない気がした。

 

 

 二人は、しばらく並んで立っていた。

 缶がすっかりぬるくなって、飲み終わっていた。コンビニの自動ドアが誰かのために開いて、閉まった。誰かのスニーカーが路地を通り過ぎた。赤信号が青になった——向こうの交差点の。渋谷の夕方は、二人の会話とは無関係に流れていた。

 ×××××は、ずっと気になっていたことを、もう一つだけ聞いた。

「声は、今なんて言ってる?」

「え?」

「今。私たちがここで話してる間、声は何か言ってる?」

 アオイが、右耳のイヤホンに触れた。

 触れた、というだけだった。抜きはしなかった。その状態のまま、少し目を細めた——聴き返すような、あるいは確認するような動作だった。

「今は、何も言ってない」とアオイは言った。「聞いてる、と思う」

 聞いている。

 その一語が、×××××の背中に、ゆっくりと沁みた。

 沁み方は「温かい」ではなかった。「冷たい」でもなかった。皮膚が反応するのに、それを何に分類すればいいのかが分からない——そういう種類の感覚だった。聞いている、という事実。見えない何かが、今この路地にいる二人を、スマートフォン越しに、聞いている。

 ×××××は「そっか」と言った。

 声に出してみたら、平らな声が出た。驚いているのに声が平らだった。驚きと声の平らさの間の乖離に、またわずかな違和感があったが——それも言葉にならなかった。

 ならないまま、残った。

 

 

 帰りに、×××××は一人で歩きながら考えた。

 あの声は、「アオイちゃんだけに話してるの」と言ったらしい。

 あなただけ。

 その言葉の形が、どこかで見た形に似ていた。見た、というより読んだのか聞いたのか——どこかで出会っていた。どこで出会ったのかを探して、探している間に横断歩道の信号が変わって、渡りながらも考えて、渡り終わっても結論が出なかった。

 ただ、似ていた。

 あなただけが、という言葉の形。それを誰かに言われたことが、×××××にはあっただろうか——なかった気がした。なかったから余計に、その言葉の形がどこかで見たものに似ていると感じたのかもしれなかった。

 でも、どこで。

 答えは出なかった。

 出ないまま、×××××は坂を下りた。家の方向へ。渋谷が後ろに遠ざかっていく。遠ざかる街の騒音の中に、イヤホンを両耳に差した少女がベンチに座っている光景が、まだどこかに残っていた。

 あの声は、今もアオイに話しかけているのだろうか。

 あるいは、今夜も「聞いている」のだろうか。

 ×××××には確かめる方法がなかった。確かめる方法がないということを、今日はじめて、少しだけ不安に思った。

 

 

 

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