アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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第6章「パラダイスロスト」
1.ポアブル23-POIVRE 23-


東京の夜景は、高い場所から見るほど嘘っぽくなる。

羽根川クロエの部屋は地上百八十メートルにあり、窓の外には光の粒が敷き詰められていて、その一粒一粒が誰かの生活だということを、この高さからはもう実感できない。靄がかかっている。七月末の靄とは違う。あのときはもっと重く、もっと湿っていた。今は少し乾いていて、光の散り方が硬い。湿度が落ち始めている——そうクロエは分類した。季節が動いている、という事実だけを、感傷なしに。

机の上には二台のモニターと、ボールペンと、紙が一枚。クロエは数字を画面で見て、それを手で書き写す人間だった。データはいくらでも複製できるが、自分の手が動いた跡だけは複製できない——そのことに、彼女は奇妙な安心を感じている。

メールの通知が来たのは、午後十一時を少し過ぎた頃だった。

差出人は、依頼した調査記者。「毛利」という名前だけを渡して、あとは何も指定しなかった依頼への返信。件名はない。本文だけが短く続いていた。

「掴みにくい人です、というのが前回のご報告でした。今回、もう少し掴めました。経産省の所属ではありますが、省内の人事系統からは外れた動き方をしています。複数の議員事務所への出入りが確認できました。いずれも与党中堅以上。共通点は——現首相に近くない、ということです」

クロエは画面の文字を、声に出さずに目で二度なぞった。

現首相に近くない。つまり、今は遠い場所にいる人間たちに会っている。今の権力者ではなく、次の権力者になりうる人間たちに。

添付ファイルが一つあった。クロエはそれを開いた。

低い解像度の写真だった。望遠で、夜の路上、車の脇に立つ人影が二つ。一人は記者にも見覚えのない人物らしく、矢印で囲まれて「毛利」とだけ手書きの注釈が入っていた。グレーのスーツ。表情は撮れていない。顔の輪郭だけが、街灯の角度のせいでわずかに白く浮いている。

——この人。

クロエの内側で、何かが小さく動いた。ヒトという生き物の顔は、声よりも輪郭よりも先に、表情の「型」で覚えられる。この男の表情には型がない。笑っているのか、考えているのか、何も思っていないのか、写真からは判断できない。判断できないということ自体が、一つの情報だった。

型のない顔は、分類が遅れる。分類が遅れる人間は、たいてい面白い。

唇の形だけが、わずかに動いた。声にはしなかった。

同じ画面の隅に、ニュースのウィジェットが流れている。べつのウィンドウで開いたままにしていた、政治面のヘッドライン。現首相の支持率が、また落ちている。三つの世論調査が、申し合わせたように同じ方向を指していた。来年の選挙予測では、与党の議席が二桁減るという試算も出ている。記事の文体は慎重に断定を避けていたが、書かれていない部分のほうが雄弁だった——この政権はもう長くない。

クロエは紙を引き寄せ、ボールペンの先を紙面に置いた。

「毛利」と書く。

少し間を置いて、別の行に「現首相、支持率低下」と書く。

二つの言葉の間に、線を引こうとして、ペン先が止まった。

関係がある、とは言い切れない。経産省の官僚が、与党の中堅議員に会って回ることなど、珍しくもない。それだけなら、ただの仕事だ。

けれど関係がない、とも言い切れない。「現首相に近くない人間たちに、わざわざ会いに行っている」という選び方そのものが、何かを見越した動きに見える。

クロエはペンを置いた。線を引かなかった。

ただし——今夜は、少しだけ違う感触がある。

線が、引かれる前の段階まで来ている。

「あの人」が、こういう場面でどう動くかを、クロエは知っている。あの人、というのは父のことだ。父、とはあまり言わない。お父様、とはもっと言わない。クロエにとって彼は「あの人」であり、ときに「主筆」だった。新聞の論調を決める者、世論を書く者。対外的には四十歳離れた兄が父ということになっているが、それは公式の物語であって、本当の系図ではない。

主筆は、政権の終わりが見えてくると、必ず次を見ている。今の権力者の機嫌を取る記者は二流で、次の権力者の機嫌を先回りして取る記者だけが生き残る——それが、あの人の口癖というほどでもない、口癖のように繰り返してきた考え方だった。クロエは子どもの頃、その言葉を、世界の仕組みの説明として受け取った。今でもそう思っている。

毛利という男が、現首相に近くない議員たちに会っている。

主筆が、政権交代を見越して動いている可能性がある。

二つの事実を、クロエは初めて同じ視野の中に並べた。並べただけだ。線はまだ引いていない。けれど並べてみると、奇妙な座りの良さがあった。まるで二つの駒が、同じ盤面の上に置かれるべくして置かれたような。

面白い。

声には出さなかったが、その言葉が今夜の内心の温度を、いちばん正確に表していた。五章の終わり、シンポジウムの夜に思ったのと同じ言葉。面白い夜だった、とあのとき思った。今夜も、似たものが来ている。

政治というものを、クロエは小さい頃から「配役」として見てきた。誰が舞台に上がり、誰が降ろされ、誰が次の出番を待っているか。新聞も、テレビも、選挙も——主筆の家に生まれた子どもにとっては、すべてが同じ一つの興行の、違う面でしかなかった。今、目の前のニュースも、毛利の写真も、その配役表の更新に見える。現首相という主演が、舞台を降りようとしている。次に誰を上げるか、誰かが決め始めている。

その「誰か」の輪郭の片方に、毛利という名前がある。

もう片方に——おそらく、あの人がいる。

クロエは紙の「毛利」の文字に、丸をつけた。線は引かない。丸だけをつけて、ペンを置いた。

その瞬間、写真の中の男の顔が、もう一度目に入った。

輪郭しか分からない、表情の型がない顔。クロエの視線が、写真の上で止まる。

止まったまま、彼女はしばらく動かなかった。

この男が、今、どこで何をしているのか。

知りたい、と思った。それは調査記者への次の依頼というより、もっと単純な、子どものような好奇心に近かった。

 

 


 

その夜、毛利は赤坂の、看板の出ていない料亭の個室にいた。

座敷は古い造りで、床の間に一幅の掛け軸、欄間に透かし彫り。冷房は効いているが、外の熱を完全には消しきれていない。畳の匂いと、出された酒の匂いが、その隙間を埋めていた。

向かいに座っているのは、元首相だった。今は議員バッジを外し、党の役職からも退いているが、その目だけは現役の頃から変わっていない。値踏みをする目。今もまだ、誰かの値を測るためだけに開いている目。

「毛利くんが直接来るのは、珍しいね」

元首相が言った。穏やかな声だった。だが穏やかさの底に、何かを試す調子がある。

「お時間をいただき、ありがとうございます」

毛利は短く頭を下げた。表情はほとんど動かない。グレーのスーツの襟元だけが、わずかに照明を反射していた。

「率直に申し上げます」と毛利は続けた。「現政権は、もう持ちません。支持率の数字も、議席予測も、整合性が取れています。次を、整える時期だと考えています」

元首相は盃を口に運んだ。間を置いてから、

「整える、ね」

「制度設計として、です。誰が望ましいか、ではなく——誰なら整合性が取れるか。許認可の系統、党内のバランス、財界との接続。条件を満たす人間は、限られています」

「で。誰が条件を満たすんだ」

毛利は答えなかった。代わりに、小さく折りたたんだ紙片を、座卓の上に滑らせた。元首相はそれを開かず、しばらく毛利の顔を見た。

「君は、誰の意向で動いてる」

問いは静かだったが、座敷の温度が一段階下がったように感じられた。毛利は視線を逸らさなかった。

「申し上げられる立場にありません」

「ほう」

元首相は、それ以上踏み込まなかった。長く政治の場にいた人間特有の、踏み込まない判断の速さがあった。代わりに、紙片を指先で軽く押し返した。

「君のことを、何と呼んでいるか知っているか。永田町の一部で」

毛利は黙ったまま、わずかに首を傾けた。先を促す仕草だった。

「モーリス・べシャール、だそうだ」

座敷の空気が、ほんの少しだけ動いた。毛利の表情に変化はなかったが、何かが彼の内側を通り過ぎたことだけは分かった。

「国家を股にかけて、人間を踊らせる振付師——上手いことを言うものだ」

元首相は笑った。声には出さず、口の端だけで。

「誰がそう呼んでいるかは、申し上げられません」毛利は静かに返した。「ただ、振付師という言葉そのものに、異論はありません」

「踊らせる相手は、もう決まっているのか」

「候補は、絞り込みの段階です。整合性の確認を進めています」

「整合性、整合性。君はその言葉が好きだな」

毛利は答えなかった。沈黙が、肯定として受け取られることを知っていたからだ。

元首相は、ようやく紙片を開いた。短く目を通し、また閉じた。表情は変えなかった。

「『スキーム』との整合性は」

「確認済みです」

「ルートは」

「現行法の範囲内で、組み立てが可能です」

「分かった」元首相は盃を置いた。「動こう。ただし——」

毛利は黙って続きを待った。

「私の名前は出すな。あくまで、後ろから見ているだけだ」

「承知しています」

毛利は短く頭を下げ、それ以上の言葉を加えなかった。座敷を出るとき、彼の足音はほとんどしなかった。役職を持たない人間ほど、自分の重さを消す歩き方をする——元首相は一人残った座敷で、そんなことを考えながら、もう一度盃を口に運んだ。

 

 


クロエの部屋に、静寂が戻っていた。

写真の男から視線を引き剥がし、彼女は次のモニターへと目を移した。盤面を見渡す時間だった。

排斥連合——夏の盛りに生まれたあの連合は、目的を失っている。カノンを止める、という共通の旗印が、カノンの死によって消えたからだ。それでも連合という形だけは残っている。アオネが計算で繋ぎ止め、ミドリとキヅキが別の理由で寄り添い始め、ユカリだけが、まだ留保をつけたまま、その輪の中にいる。

ユカリ。

クロエは、その名前を画面の中で見つけた。フジサキ・ユカリ。紫。連合の中でいちばん最後に加わり、いちばん条件付きで加わった人間。「目的が同じかどうかは確認したい」と、自分の言葉で線を引いた、唯一の魔法少女。

興味、と分類する。同情でも好意でもない。ただ、まだ知らないものへの単純な興味。

クロエの指先が、ユカリの名前の上で、何かを確かめるように動いた。

なぜユカリなのか——その理由を、クロエは自分自身にもまだ全部は説明していない。理由はある。確かにある。けれど、それを言葉にする場所は、今夜ではない。今夜のクロエは、理由の手前にある「選ぶ」という行為そのものを、楽しんでいた。

他の四色は、状況に流されている。連合に入り、連合に留まり、誰かの計算に乗っている。けれどクロエだけは違う。クロエは盤面の外から、誰を引き入れるかを自分で選べる位置にいる。

紙にもう一行、書き足した。

「ユカリ」

丸をつける。

それから、お茶会の支度を考え始めた。招待状という形式にするか、もっと直接的な接触にするか。冷房の効いた応接、二人だけの空間、紅茶と、夕方へ向かう光——頭の中で、すでに舞台が組み上がり始めている。今度は誰かに選ばれる側ではなく、クロエが招く側だった。

クロエは、ペンを置いた。窓の外では、晩夏の靄が、相変わらず光を歪めながら街を覆っていた。

 

 


 

 

目黒合同庁舎の資料室に、窓はない。

Qが時間を知る方法は、壁の時計ではなく、三面モニターの更新間隔だった。左のモニターは午後十一時三十四分の更新を終えたところで、次の更新まであと二十六分。SNSの流量は平常運転。匿流タグの怒り係数は、この一週間じわじわと下がり続けている——減衰速度は標準範囲内。Qはそれを確認と呼び、報告とは呼ばなかった。まだ何も動いていない夜には、確認だけがある。

右のモニターに、経済産業省がらみの記事が一本、上がってきていた。業界紙のオンライン版、署名のない短信。「民間人材活用スキーム、与党内で検討進む」。本文は制度の名称と検討会の開催日程を並べているだけで、温度のない記事だった。

その三行目に、「毛利」という名前があった。

Qは名前を検索窓に打ち込んだ。既存のファイルには何も出てこない。新規。経済産業省、毛利——それだけでは、人物としての輪郭がまだ立たない。ログを遡っても、今夜が初出だった。今週に入ってから、似た文脈でこの名前を見るのはこれで三度目だということだけが、かろうじて数字として残っていた。

「民間人材活用スキーム」という語を、Qは別のファイルとも突き合わせた。夏の初め、丸の内のシンポジウムの資料から拾って以来、「確認中」のまま止まっている案件——債権バンドルを含む労働力ファンド案。今夜の記事とその案件の間に、記述上の直接的なつながりはない。ただ、語彙の選び方に、同じ手が書いたような硬さがあった。似ている、とだけQは打ち込んだ。断定はしなかった。

Qはこれを「名前のつかないファイル」の棚に積んだ。声には出さなかった。声に出すのは、もう一度出てきたときでいい。それが、最近のQの運用だった。

真ん中のモニターに、別の違和感があった。K機関の内部通信ログの隅——いつもは「待機」とだけ表示されている欄が、今夜だけ違う形になっている。四角い灰色の空白だけがあった。差出人のコードも、時刻の記載もない。Cの通達がいつも取る、K機関の内部コードとは違う書式に、どこか似ていた。まだ何も書かれていない、書かれる予定だけが先に置かれたような欄だった。

「……早いですね」

誰に向けた言葉でもなかった。拾う相手は資料室にいない。Qはメモを取らなかった。取れるほどの情報が、まだそこになかった。

毛利という名前が経産省の資料に出てきたことと、Cの気配らしきものが通信ログの隅に現れたこと。同じ夜に重なったのは、偶然かもしれない。偶然でないかもしれない。どちらの判断もつかないまま、Qはカップを持ち上げた。紅茶はすでにぬるくなっていた。

 

南平台分室の庭では、欅の葉の色が変わり始めていた。

深く濃かった緑が、端のほうから乾いた色に寄っている。毎日見ているはずの木なのに、変わり始めた瞬間にはワタシは気づけなかった。気づいたときには、もう変わってしまっている。西日の角度も、少し前より低くなっていた。

縁側で、A1と並んで座っていた。夕食の後、A1が報告書を打ち始める前の短い時間。今日は「ルーム3」で午後まで過ごし、成瀬先生が伏せた新聞の見出しを一瞬だけ盗み見た。それだけの、代わり映えのしない一日だった。虫の声が、真夏の頃より少しだけ間隔をあけて鳴いていた。

A1がノートパソコンを膝に置いた。今夜の報告書は、止まらずに打ち終わった。「異状なし」——二週間前まで、その四文字が書けなかった夜が続いていたことを、ワタシは知っている。今夜はそれだけのことが起きた、というだけのことを、ワタシは口に出さなかった。

欅の葉が一枚、音もなく落ちた。

 

「戻ってきたか」

A1が、庭を見たまま言った。振り向かなかった。

「……気づいてたんですか」

「顔に出る。命の共有していると色々とな」

前にも聞いた説明だった。それでも今夜は、その説明の意味が前より少しだけ分かる気がした。命の共有が実際に何を分け合っているのか、ワタシはまだ言葉にできない。分からないまま、A1が気づくという事実だけが、繰り返し確かめられていく。

「南平台に、じきに出動が来る」A1が言った。

「政界がらみですか」

「たぶんな」A1の声は平らなままだった。「詳しいことは、こっちにはまだ来ていない」

それ以上の説明を、A1も持っていないことは、声の高さで分かった。持っていないものを、持っているふりで話す人ではなかった。

ワタシは頷いた。何も聞かなかった。

欅の木の下に、影が長く伸びていた。晩夏の日が、少しずつ短くなっている。

 

 

 

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