アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
金曜の夜、NOISE BOXの灯りが落ちるのは十一時四十五分と決まっている。今夜のトークイベントの最後の客が階段を降りていくのを見送って、キヅキはマイクをケースに戻し、配線を手早く巻き取った。今夜は五十二人。先月の同じ金曜より三人少ない。数字は、画面を見なくてもだいたい分かるようになっていた。
シャッターを半分まで下ろしたところで、外にミドリが立っているのが見えた。
歩道の、いつもと同じ位置。前にここで見かけたときは、入るかどうかを迷っているだけだった。まだそんなに経っていないはずなのに、この位置に立っているミドリを見るのが、もう当たり前になっている。
「終わった?」
「うん、今」
会話はそれで足りた。ミドリは何かを尋ねるとき、必要な分しか言葉を使わない。世間話の間を作らない話し方が、最初は素っ気なく思えたが、慣れると楽だった。話す量をこちらで計算しなくていい相手というのは、キヅキにとって珍しかった。
二人でこうして金曜の夜に落ち合うようになったのが、いつからか正確には覚えていない。アオネに声をかけられた夜のあと、しばらくして、気づけばこの位置にミドリが立っているのが普通になっていた。友達、という言葉は多分違う。一人で夜を確かめて回るより、二人の方が早く終わる——それだけの理由で、十分だった。ミドリは場所を確保できる。キヅキは声を届けられる。何かがあったとき、どちらか一方より二人揃っている方が、対応できる範囲が広い。ただの機能の話だった。
先々週、似たような路地で、酔った客に絡まれた小学生を、ミドリが半径二メートルだけ厚くして庇ったことがあった。キヅキはその外側から声を張って、大人たちの注意を全部自分に向けた。二人でなければ、どちらも半端に終わっていた。
シャッターに鍵をかけ、二人で裏通りに出る。
「今夜は、なし?」ミドリが訊いた。
「いまのところは」
数歩進んだところで、ミドリの足が止まった。視線が、先の路地の方に向いている。
「音」
キヅキにはまだ聞こえない。ミドリの方が先に気づく。前からそうだった。全員が同じ方向を向いているときの空気を、変身していなくても拾える感覚があるらしい。理屈は聞いたことがない。聞いても、たぶんミドリ自身うまく説明できない。
早足になった。キヅキの中で、いつもの回路が勝手に立ち上がる。声を出す準備、届かせる準備。だが路地の角を折れたところで、それがただの言い合いだと分かった。酔った男が二人、片方が倒した自転車を、もう片方が怒鳴りながら指差している。血も、妖精の気配もない。ただの、金曜の夜にどこにでもある光景だった。
ミドリが足を止める。口が、何か言おうとして開きかけた。
「誰も、」
そこで止まった。
キヅキは何も言わなかった。以前のミドリなら、ここで「誰も怪我しませんでしたか」まで言い切っていたはずだった。今は途中で止まる。理由を訊いたことはない。訊かなくても、だいたい分かる気がした。
自転車の男が起き上がり、二人組はそのまま反対方向へ歩き去った。何も起きなかった夜が、また一つ終わる。
戻る道、コンビニの看板の赤が濡れたアスファルトに伸びていた。キヅキはそれを見て、少し足が遅くなった。
「……声、変わってたな」
誰に向けた言葉でもなかった。ミドリが振り返る。
「カノンの」キヅキは続けた。「動画の中の声。最初と最後で、全然違ってた。あのとき、それがなんか、な——うまく言えないけど、分かった」
ミドリは聞き返さなかった。「うん」とだけ言って、また歩き出す。説明を求めない相手だった。求められても、キヅキ自身、うまく言葉にできる自信はなかった。
「ワタシも、たまに分かんなくなる」少し間を置いて、キヅキが言った。「声、出してる時。それが、どこから出てるのか」
「……そう」
それだけだった。ミドリはそれ以上聞かなかった。分からないものを、分からないまま並べて置いておける相手だった。
NOISE BOXの前まで戻ると、ミドリが制服の右の袖を軽く引っ張った。癖だった。
「また、来週」
「うん」
短い挨拶を交わし、ミドリは駅の方へ歩いていった。キヅキはシャッターを完全に下ろし、鍵をかける。スマートフォンの画面に、今夜のイベントの再生数が並んでいた。伸びてはいない。落ちてもいない。ただそこにある数字を、キヅキはしばらく見てから、画面を消した。
虫の声が、少し前より低く、間隔をあけて鳴いている。風も出てきた——夏の終わりが、もうすぐそこまで来ている。
「赤枠」というタグを、アオネはカノンが死んでから毎晩同じ時間に確認していた。投稿数は三週間、目立って動いていない。下げ止まってはいるが、伸びてもいない。ただ平らな線が続いているだけの数字を、律儀に記録していた。
今夜、その線が小さく跳ねた。
跳ねた投稿の中身は大したものではなかった。「次の赤、もう決まってんの」「あそこ空いてるらしいよ」——伝聞と憶測ばかりで、裏は取れない。だが数字は嘘をつかない。何かが動き始めている兆候として、アオネはそれを受け取った。
上着を羽織り、部屋を出た。
かつてカノンが根城にしていた界隈は、今も空き家のような静けさを保っていた。シャッターの下りた店が並ぶ通りを抜けると、高架の下に出る。車の音が反響して、頭上でひとつの唸りに変わっていた。晩夏の熱が、まだアスファルトの底に残っている。電柱の低いところに、蟬の抜け殻が一つ、取れずに張りついたままだった。
高架の柱の陰から、アオネは通りの先を見た。
赤い光が、二つ揺れていた。
一方が地を蹴って距離を詰め、もう一方がそれをかわしながら手を突き出す。触れる寸前で二つの光がぶつかり、弾け、双方が数歩よろめいて下がった。
どちらも、カノンが纏っていた炎の覆いとは質が違う。輪郭が定まらず、片方が強く出ようとすると、もう片方の光がそれに引きずられて歪んだ。二人分の赤が、互いの領分を削り合っている——そういう動きだった。
決着というほどのものはなかった。数分もしないうちに、片方が先に光を落とし、もう片方もそれを追うように落とした。二人とも無言のまま、反対方向へ走り去っていった。
アオネは柱の陰から出なかった。
「……二人とも、半分も出てない」
誰に向けた言葉でもなかった。声に出してから、自分でその意味を確かめるように、もう一度画面を戻して数字を見た。
一人なら、もっと強く出せたはずだった。赤の出力がどの程度のものか、アオネはカノンの数字で一度計算している。二人になった瞬間、出力はその半分にも届いていなかった。二人分の力を足しても、一人分にすら届かない——アオネの中では、それはただの割り算だった。
似た形の数字を、アオネは自分のログの中で何度か見ていた気がした。特定の夜、特定の現場を思い出せるわけではない。ただ、色が重なった夜ほど、個々の動きが小さくなっている感触が、記録の端々に残っている。増えるたびに、一人あたりの出力が下がっていく——傾向としては、もう疑いようがなかった。
それなら、K機関はどうなる。
桃色の女を思い出す。「戦ってみていいですか」と聞いたとき、向こうの出力は落ちなかった。むしろこちらが吸収しきれないくらいの、まっすぐな強さだった。あの日、K機関側にいたのは一人だけだった。もう一人、拳銃を持った白い少女がいたが、あれは色を持つ側の魔法少女ではなかったはずだ。
一人しかいないのに、足りている。
数が増えれば増えるほど、一人ひとりが弱くなるのだとしたら——K機関が一人で足りている理由も、同じ式の中にあるのかもしれない。増やさないことが、いちばん強い状態を保つ方法なのだとしたら。
証明にはまだ足りない。データが二件では、傾向と呼ぶにも弱すぎる。だが、計算できるところまでは来ていた。
サーカスに伝えるべきかどうか、一瞬考えた。カノンが死んだ直後の夜、迷って結局送らなかった連絡先が、まだ画面の中に残っている。向こうになら、この数字の意味をもっと正確に読み解けるかもしれない。
指は動かなかった。
渡してしまえば、この計算はアオネのものではなくなる。まだ、自分の手の中に置いておきたかった。K機関に直接確かめに行く、という道も浮かんだが、それも今夜ではない。
高架の上を、トラックが一台通り過ぎていった。音が遠ざかるのを待ってから、アオネは踵を返した。
蟬の抜け殻は、まだ電柱に張りついたままだった。晩夏の風が、それを揺らすでもなく通り過ぎていった。
深夜、Qから短い連絡が入った。
「立体駐車場、放置物件。複数の色が同じ場所に集まっている模様です」
それだけだった。詳しいことは現場で確認しろ、という意味だとワタシは受け取った。
車を降りると、下の階からもう音がしていた。放置されて何年も経つ建物だった。スロープの手すりは半分錆びて落ち、太い柱に亀裂が走っている。「満」の字だけが赤く灯って、ちらついていた。晩夏の熱が、まだコンクリートの底に残っている。崩れた外壁の隙間を、少し強くなった風が通り抜けていった。
二階のフロアに、赤い光が一つ、暴れていた。
見覚えのある動きだった。腕を大きく振る角度、地を蹴る角度——似せようとしているのが分かる。だが纏っている光がところどころ薄く、輪郭が定まらない。
本物ではない。
柱の陰から、緑の帯が地面を這って伸びた。赤の足元に絡みつこうとして、届く前に千切れる。
「ここにいて」
声は届いていたはずだった。赤は止まらなかった。
その背後から、壁という壁を震わせて声が来る。黄だった。本来なら一撃で足を止めさせるはずのそれが、今夜は輪郭がぼやけて、赤の後ろで別の音に紛れていく。
黄が、一瞬だけ声を止めた。理由はワタシには分からなかった。
赤がスロープを駆け上がる。三階、四階——上の階へ逃げながら、行く先々の柱を殴りつけて崩していく。土埃の向こうに、また別の光が待っていた。
死角から、紫の光が二方向から同時に来た。赤がかろうじてそれをかわす。かわした先に、また別の光の帯が張られていた——青。地面すれすれの光の格子が赤の足を止めようとして、逆にその放った衝撃を跳ね返し、一撃が緑の帯を切った。
緑の根、黄の音の輪、紫の二重の光、青の格子——四色が入り乱れるたび、駐車場の壁に色違いの影が幾重にも重なって伸びた。崩れた天井の隙間から差す月明かりの中で、埃と光の粉が、ゆっくり舞っていた。
A1はすでに動いていた。警棒を展開しながら、崩れた柱の隙間を縫って赤との間合いを詰める。
ワタシは杖を横に払い、桃色の残光で境界線を引いた。赤の逃げ場を、スロープの出口一方向だけ塞ぐ形で。
「下がってろ」
A1が言った。誰にというより、その場全員に向けた声だった。
下がる者はいなかった。
赤が加速しようとした瞬間、光がわずかに詰まった。届くはずの一撃が、届く前に勢いを失う。
黄の声も同じだった。壁から返る反響が、さっきより薄い。紫の二方向の光も、今度はどちらも半分の速さでしか動かない。緑の帯は、地面から伸びる途中で力尽きたように止まった。
——弱くなっている。
全員が。同じ場所に集まったせいで、誰一人として本来の力を出し切れていない。ワタシはそのことに、名前をつけられなかった。ただ、そう感じた。
A1は何も言わなかった。だが、警棒を握る手から力が少し抜けたのが分かった。向こうも、同じことに気づいている。
赤の光が最後にもう一度膨らもうとして、しぼんだ。膝から崩れるように、赤は地面に手をついた。
誰も、とどめを刺さなかった。
紫が先に光を落とした。
「別の機会に」
低い声だった。二重の像がひとつに戻り、暗闇へ紫は消えていった。
青の格子も、音もなく消えていった。柱の陰に、もう誰の姿もなかった。
緑の帯が地面に還っていく。「誰も、」——今夜も、その先は続かなかった。
黄色い光が、疲れたようにゆっくり薄れていく。肩で息をしながら、黄が赤のほうを一度だけ見た。何か言いかけて、結局何も言わなかった。
その隙に、赤は膝を起こし、よろめきながら暗い方へ走り去った。追う者はいなかった。
その光景を、羽根川クロエは崩れかけた屋上の手すりの向こうから見下ろしていた。
降りるつもりは最初からなかった。
四色が同じ場所に集まり、誰も本来の力を出し切れないまま、勝手に消耗して散っていく——予想していた通りの絵だった。証明にはまだ早い。だが、もう疑いとは言えないところまで来ている。
やはり。
声には出さなかった。夜風が、彼女の髪を少しだけ揺らした。
車に戻る途中、A1が短く言った。
「怪我はないな」
「はい」
それだけだった。
振り返ると、「満」の字のネオンが、最後に一度大きく明滅してから、消えた。