アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
指定された場所は、代々木の裏通りにある古いコインパーキングの端だった。午後六時。空はまだ明るいが、光の角度はもう夏の真ん中のものではない。ユカリは自販機の陰に立ち、腕時計も見ずに、体感だけで時間を測っていた。
三日前のことだった。
戦闘の翌々日、深夜二時を回った頃。ユカリは池袋の外れ、取り壊し予定の雑居ビルの非常階段にいた。変身を解いたまま、体の重さを一段ずつ数えるように屋上まで上がる。ここ数ヶ月、変身を解いた後の重さが以前より長く残るようになっている。誰にも言っていない。
屋上の縁に座って下の道を見下ろしていたとき、路肩に一台の車が止まっているのに気づいた。
黒い車だった。エンジンは切られている。空いている駐車枠がいくつもあるのに、わざわざ路肩の、非常階段の真下に近い位置に停まっている。ユカリはしばらく動かずに見ていた。人が乗っているのかどうかも分からない、街灯の反射だけがそこにあった。
十分ほど経って、運転席のドアが開いた。降りてきたのは黒いスーツの男だった。年齢は分からない。姿勢だけで、この仕事に長く慣れていることが分かった。男は車の脇に立ったまま、上を見なかった。ユカリを探す素振りも見せなかった。
——降りてくるのを、待っている。
呼びかけられるより先にそう分かったことが、ユカリには一番不穏だった。呼びかける必要がないと踏んでいる相手は、たいてい、こちらの動きをすでに見越している側にいる。
ユカリは非常階段を降りた。変身はしなかった。丸腰で行くことに意味がある、と頭のどこかが判断していた。
「フジサキ・ユカリ様に」
男はそれだけ言って、白い封筒を差し出した。名前を呼ばれたことに、喉の奥が一瞬冷えた。この名前を知っている大人は多くない。まして界隈の外側で、この名前と顔を結びつけている人間は、ほとんどいないはずだった。
封筒を受け取ると、男は一礼して車に戻り、そのまま走り去った。追いかけなかった。追いかける理由が、まだ言葉になっていなかった。
中には、厚みのある象牙色のカードが一枚だけ入っていた。万年筆と思われる、癖のある手書きの文字。日付と時刻、それから場所の指示——「代々木、以下の場所にて、お車をお待ちしております」。差出人の名は、最後の一行に短く記されていた。
羽根川クロエ。
聞いたことのない名前だった。だが界隈で交わされる噂の中に、似た輪郭のものがあった。戦わない魔法少女。高いところから見ている魔法少女。黒。
そこまで思い出したところで、記憶が別の記憶と重なった。
崩れかけた立体駐車場の屋上。四色が入り乱れて消耗していく最中、一瞬だけ視線を上げた自分が見たもの——手すりの向こうに、動かない誰かが立っていた。戦いもせず、逃げもせず、ただ見ていた。あのとき、それに気づいたのは自分だけかもしれない、とユカリは思っていた。木の上や壁の隙間から複数の場所を同時に見る癖が、他の三人にはない視点を作っていたから。
あれが、この人だったのか。
招待の目的は書かれていなかった。理由もない。日時と場所と、名前だけ。
目的が分からないものには乗らない、というのが、ユカリが自分に課してきたルールだった。だが今回、そのルールを最後まで守り切れなかった。理由は単純で、目的を確認する手段そのものが、封筒の中に用意されていなかったからだ。返信の欄も、連絡先もない。応じるなら、指定された場所に、指定された時刻に、体一つで行くしかない。
行かない、という選択も、もちろんあった。だが緑と黄が互いに寄りかかり合うようになってから、連合の中でのユカリの居場所は、以前より少しだけ狭くなっている。誰の側にもつかないアオネと、駒として使われることに慣れきったミドリと、二人一組になった緑と黄——その隙間で、自分の位置を測りかねていた。
来た手紙が、その隙間を埋めるものかどうかは分からなかった。分からないまま、指定された時刻に、指定された場所に立っていた。
六時を五分ほど過ぎた頃、同じ形の黒い車が、通りの向こうから静かに近づいてきた。三日前の車と同じかどうか、ユカリには区別がつかなかった。全部同じに見えるように作られている、とだけ思った。
後部座席のドアが、内側から開いた。運転手が開けたのではなかった。
シートに座っていたのは、女だった。制服ではない、仕立ての良い、黒に近い紺のワンピース。膝の上で重ねた手。窓から差し込む夕方の光の角度に合わせて、少しだけ角度を変えて座っている——最初からそこにいるのが当然という座り方だった。
「ごきげんよう」
低くも高くもない、丁寧すぎるほど丁寧な声だった。
「お待たせして申し訳ございません。乗ってくださいまし」
クロエは、乗り込んできたユカリの警戒を、一瞬で数値のように受け取った。硬さは肩から入っている。視線は一度もクロエの顔で止まらない——値踏みではなく、逃げ道の確認。この子は、部屋に入るより先に出口を数える人間だ。
「本日は、遠いところをありがとう存じます」
膝の上の手を崩さないまま言った。ユカリは頷きもせず、窓の外に視線を送っている。会話を続ける気がないことを、態度で示していた。
車は明治通りから首都高に乗り、都心へ向かって速度を上げた。窓の外を流れる灯りが、次第に密度を増していく。晩夏の空は、まだ完全には暮れきっていない。橙と紫の境目が、ビルの稜線の上に薄く残っていた。
「どこへ、向かってるんですか」
しばらくして、ユカリが口を開いた。短い問いだった。要件だけを聞く、この子らしい聞き方だとクロエは思った。
「大手町ですわ」窓の外を示すように、視線だけを流した。「新聞社の建物の中に、少しばかり特別な場所がございますの」
「新聞社」
「ご存じないのも当然ですわ。表向きは、存在しないことになっておりますから」
ユカリの視線が、初めてクロエの顔で止まった。値踏みの色が濃くなっている。クロエはそれを不快とは感じなかった。むしろ正しい反応だと思った。何も疑わない人間より、疑うべきところで疑う人間のほうが、長く使える。
「なぜ、わたしを」
来た。クロエは内心で、その一言に丸をつけた。答えは用意してある。だが今夜、この車の中で使う言葉ではない。
「それは」クロエは微笑んだ。「お茶をいただきながら、ゆっくりと。今夜は、急ぐ必要のない夜ですもの」
ユカリは、それ以上重ねなかった。押しても崩れないと踏んだのか、崩れない相手に無駄な力を使わない性分なのか——クロエにはまだ判断がつかない。判断がつかないところが、この子を選んだ理由の、まだ言葉にしていない部分と重なっていた。
車が首都高を降り、大手町の一角に入ると、ビルの密度がさらに増した。金融機関の看板、法律事務所の入った高層棟。それらに混じって、一棟だけ古い石造りのファサードを持つビルがあった。上層は近年増築されたガラスの塔で、下層だけが創業当時の重厚な石積みを残している。東和新聞、と、正面に控えめな金属の文字が掲げられていた。ユカリはその文字を見上げたが、何も言わなかった。
車は正面の車寄せを通り過ぎ、ビルの裏手に回った。一般来客用の地下駐車場入口には、ゲートと発券機の列が並び、社用車らしい黒い車が何台も出入りしている。だが、クロエたちの車はそこにも入らなかった。さらに奥、案内表示の一つもない、コンクリート打ちっぱなしのスロープへ進んでいく。
「ここは」
ユカリの声に、初めて微かな緊張が混じった。
「地下四階から下は、建物の見取り図に載っておりませんの」それだけ言った。「主筆の——古くからの、決まりですわ」
スロープの照明は、上の階よりずっと少ない。誘導線も矢印もない裸のコンクリートが続いた先に、車一台分だけの小さなゲートがあった。制服姿の警備員が一人、車のナンバーも運転手の顔も確認せず、ただ小さく頭を下げてゲートを開けた。この車が来ることを、最初から知っていた動きだった。
車を降りると、扉が一つだけあった。エレベーターというより、金属の箱に近い佇まいだった。階数を示すパネルはない。代わりに、鍵穴のような小さな差し込み口が一つ。運転手が胸ポケットから細い金属のカードを取り出し、それを差し込んだ。
扉が開く。中は狭く、鏡張りで、音楽は流れていなかった。
上昇が始まると、耳の奥で圧の変化がした。速い。普通のエレベーターより明らかに速い。ユカリが一度だけ、耳に指を当てる仕草をした。
「慣れますわ、じきに」
前を向いたまま言った。慰めではなかった。ただの事実の共有だった。
扉が開くと、絨毯敷きの廊下がまっすぐに奥まで伸びていた。
音がなかった。エレベーターの機械音も、下の道路の喧騒も、ここには届かない。二重窓越しの静けさとは違う、もっと徹底した無音だった。壁そのものが、音を吸うように作られている。
廊下の両側に、額が並んでいた。黒い漆塗りの、一つ一つ同じ形の額。中の写真は白黒から始まり、奥から手前へ進むにつれて色がつき、さらに手前に近づくほど、粒子の細かいデジタルの質感に変わっていく。時間そのものが、廊下として敷かれていた。
野球のユニフォーム姿の男が、バットを片手に笑っている写真。ドレス姿の女優らしき人物が、トロフィーを抱えて振り返っている写真。チャンピオンベルトを肩にかけたボクサー。国会議事堂を背にした議員らしき人物。どの写真にも、もう一人が写っていた。だが、その「もう一人」の顔は、どの写真でも、なぜか完全には写っていない。半歩後ろに引いていたり、光を背にしていたり、握手の瞬間にちょうど顔だけ影に入っていたり。
ユカリの足が、一枚の写真の前で止まった。往年の名投手と紹介されそうな男が、満面の笑みで——正確には、フレームの外側の誰かに向かって笑っている写真だった。
「あの人が、じきじきにお招きした方々ですわ」
足を止めず、ユカリの視線の先を追うように言った。
「野球、映画、政治——分野は問いません。あの人が価値があると判断した方が、この廊下を通ります。写真は、そのたびに撮られますの」
「あなたは」
ユカリが、廊下の額を見渡しながら訊いた。
「あなたの写真は、どこに」
クロエの中で、何かが一瞬止まった。表には出さなかった。
「ございませんわ」お嬢様口調のまま、声の温度だけが少し下がった。「わたくしは、招かれる側ではありませんの。この家では」
それ以上、説明を加えなかった。ユカリも、それ以上は訊かなかった。廊下の奥へ向かう足だけが、また動き出した。
廊下の突き当たりに、両開きの扉があった。ノブも取っ手もない、押すと自動で開く仕組みらしい扉。それが開いた先に、ようやく光が戻ってきた。
窓の外には、東京が広がっていた。この高さから見る夕方は、廊下の無音と違って色に満ちている。橙と紫が空を分け合い、その境目が刻一刻と動いている。
部屋の中央には、黒檀と思われる低いテーブルと、二脚の椅子。壁の一面は書棚で、もう一面には、掛け軸が一幅だけかかっていた。奥には畳敷きの小上がりが見える一方、天井は現代的なガラスと金属の意匠——和と洋のどちらにも完全には属さない部屋だった。冷房が効いていて、外の熱をここまで運んでくるものは何もない。
すでに白い制服の男が一人、テーブルの脇に控えていた。銀のトレイに、ポットとカップが二客、用意されている。
「お嬢様——」
「結構ですわ」
最後まで言わせなかった。使い慣れた言葉を、使い慣れた速度で発した。
「あとはこちらで淹れますの。下がってくださって結構よ」
男は一礼し、何も言わずに部屋を出た。扉が音もなく閉まる。
クロエはポットを引き寄せ、慣れた手つきで注ぎ始めた。湯気が、傾いた光の中で薄く立ち上る。
「お座りになって」
ユカリは、まだ立ったままだった。窓の外の夕景と、無人になった部屋を、交互に見ている。
「なぜ、わたしを」
さっきと同じ問いを、ユカリはもう一度、今度は静かに繰り返した。
クロエはカップを差し出しながら、初めて正面から、ユカリの目を見た。
「ごきげんよう、ユカリさん」
答えではなかった。ただの挨拶だった。
「今夜は、長いお話になりますわ」
窓の外で、最後の橙が紫に溶けていくところだった。カップの中の湯気だけが、まだ、まっすぐ立ち上っていた。