アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
ユカリは、しばらく突っ立ったままだったが、やがて椅子に腰を下ろした。座面に体重が乗った瞬間、肩の線がほんの少しだけ緩んだ。クロエはそれを見逃さなかった。座るという動作一つにも、警戒の解除と、警戒の維持が同時に混ざっている。両方が同時にある人間は、扱いやすい部類に入る。
紅茶に口をつける様子はなかった。カップを両手で包むように持ったまま、湯気だけを見ている。
「藤崎玲二という方を、ご存じですわね」
前置きなしだった。ユカリの手が、カップの取っ手の上でわずかに止まった。
「あの方が、去年の秋にお書きになった連載——『十代の身体と社会』という題でしたかしら。第三回に、匿名の生徒の事例が出てまいりますの。校則と制服の議論の中で、『自らの性自認と身体の齟齬に悩む生徒』として、二千字ほど使って紹介されておりましたわ」
「……それが、何」
ユカリの声は、動揺よりも先に平坦さを選んでいた。だがカップを包む指に、力が入っているのが分かった。
「その生徒の通う学校の規模、部活の顧問との面談時期、保護者面談を欠席した回数——固有名詞こそ伏せてありましたけれど、条件を三つ重ねれば、対象は一人に絞れましたの。読む側のほとんどは気づかないでしょう。でも、探すつもりで読めば、分かるように書かれていた」
わざとらしいほど正確な言い方だった。曖昧にする気は、最初からなかった。
「あなたのことですわ」
ユカリの手が、カップを置いた。音は小さかったが、動作そのものが硬かった。
「勝手に、調べたんですか」
「調べましたわ。隠すつもりはございません」
「それの、どこが——」ユカリの声が、初めて尖った。「わたしに、藤崎が何を書いたか教える権利が、あなたにあるとでも」
「権利の話はしておりませんの」クロエは静かに返した。「あなたが『論じられる側』にずっと置かれてきた、という事実を確認しただけですわ」
面白い。クロエは内心でそう分類した。声には出さなかった。押し返してくる強さの質が、藤崎の文章の慇懃な無関心とは、まるで違う。この子は、論じられることそのものに対して、まだ抵抗する力を残している。
「変身している時間だけ、あなたは違う人になれる——というより、誰にも論じられていない人になれる。そうではございませんこと?」
ユカリは答えなかった。答えないことが、答えだった。
「あなたの変身の回数は、この二年で増え続けておりますわ。頻度も、一回あたりの時間も。妖精からの通知が来る前に、ご自身から変身なさる日が増えている——記録が、そう申しております」
「記録って——」
「界隈の観測は、わたくしの家業の延長のようなものですの」
嘘ではなかった。だが、それが答えのすべてでもなかった。
「怖くないんですか」ユカリが言った。「そうやって、人のことを勝手に並べて。データにして」
「怖くはございませんわ。ただ——」
クロエは、一度言葉を切った。
「今、まさに同じことを、あなたにしております」
否定しなかった。取り繕う気配もなかった。ユカリの視線が、初めて真正面からクロエを射た。
「なら、なぜ」
「わたくしも、似たようなものだからですわ」
窓の外の光が、また少し赤みを増していた。
「対外的には、四十歳離れた兄が父ということになっておりますの。本当の父は、別におります。ご存じの通り」
ユカリは何も言わなかった。おそらく、界隈でその噂を聞いたことがある程度の反応だった。
「先ほどの廊下、ご覧になりましたでしょう。あの家に招かれた方々の写真」
「あなたの写真は、なかった」
「一枚もございませんの。生まれてから今日まで。あの家の記録の中に、わたくしの名前が載ったことは、一度もございませんわ」
紙の上の系図には、わたくしは存在しない。存在しないことになっている人間の、娘として存在している——そういう二重の消され方をされている。クロエはそこまで考えて、口には出さなかった。代わりに、少し違う言い方を選んだ。
「あなたが論じられて、名前を消された記事の中の生徒と、わたくしと。どちらも、誰かの物語の材料として扱われた点では、同じですわ。ただ——」
クロエは、ポットを傾けてカップに紅茶を注ぎ足した。
「あなたは論じられる側に置かれた。わたくしは、物語を作る側の血筋にいながら、その物語から省かれた。似ているようで、少し違う。でも、遠くはございませんでしょう」
「……似ているから、変身に逃げているって言いたいんですか」
「逃げているとは申しませんわ」クロエは首を横に振った。「あなたが変身の中でだけ手に入れているものを、わたくしは持っておりませんの。だから、羨ましいとさえ思っておりますわ——ただ、あまりに長く、あまりに深く逃げ込むと、戻ってこられなくなる方を、何人か存じておりますの。それだけは、申し添えておきますわ」
忠告のつもりはなかった。事実の共有だった。だが、ユカリの表情に、初めて別の色が差したのをクロエは見た。警戒でも反発でもない、もっと個人的な色だった。
ユカリは長い間、何も言わなかった。窓の外を見ていた。夕景はもう、紫のほうが優勢になっている。
「……似た者同士だから、わたしを呼んだんですか」
「それも、理由の一つですわ」
「一つ、ということは、他にも」
「ございますわ。ただ、今夜はここまでで結構」
クロエはそう言って、微笑んだ。ユカリはそれ以上追及しなかった。追及する代わりに、初めてカップに口をつけた。
紅茶は、もうすっかりぬるくなっていた。
紅茶に口をつけたユカリを見て、クロエは話の温度を少しだけ変えた。
「あなたの今の連合について、伺ってもよろしくて」
「連合、って言うほどのものじゃない」ユカリはカップを置いた。「たまたま、同じ方向を向いてただけです」
「そういうことにしておきたいお気持ちは、分かりますわ」クロエは微笑んだ。「ですが、緑の方のことは、少し気になっておりますの」
「先日、立体駐車場の屋上から拝見しておりましたの。緑の方が、地面から帯を伸ばして、途中で止まった場面」
ユカリの表情が、わずかに動いた。
「『誰も、』——そこまで言って、続かなかった。以前は『誰も怪我しませんでしたか』まで、言い切っていたはずですのに」
「……見てたんですか、あそこから」
「はい。ずっと」
隠す必要のないことだった。
「モリヤマ・ミドリさん、とおっしゃいましたかしら。公園のベンチに長く座って、地面に手を置く癖のある方」
「……なんで、そんなことまで」
「対応する方——森山慶介さんという、NPOの代表がいらっしゃいますでしょう。『体制を整えることで持続可能にする』『記録をつけることで見える化する』——立派な言葉ばかり並べる方ですわ。正しいことしか、おっしゃらない」
クロエはカップの縁を、指先で一度なぞった。
「けれど、正しいことは、いつも通るとは限りませんの。あの方の言葉が、モリヤマさんの中を通らずに、そのまま外へ落ちていく——そういう感触があるはずですわ。体制を整えている間に、今日一人でいる子のところに、今日行けなくなる」
ユカリは何も言わなかった。図星だったのだろう、とクロエは分類した。
居場所を求めている人間だ。アテンションへの渇望も、政治的な野心も薄い。連合の中では、いちばん巻き込まれやすい側にいる——駒としては使いやすいが、主役の器ではない。声には出さなかった。
「ミドリは」ユカリが言った。「巻き込まれてるわけじゃない。ちゃんと自分で決めて、来てる」
「そうかもしれませんわね」クロエはあっさり引いた。「訂正いたしますわ」
訂正はしたが、内心の分類までは訂正しなかった。
「では、青の方は」話を進めた。「マタギ・アオネさん」
声の温度が、わずかに変わった。憐れみではなく、値踏みに近い温度だった。
「あの方は、たぶん誰の側にもつかないでしょう。それが一番、厄介ですわ」
「アオイさんの後任、とお聞きしております。数字への感度が、他の方とは違う——SNSのダッシュボードを、ご自身で確認なさる習慣がおありだとか。『七百万。四十八時間で止まるか、伸びるか』——そんな言い方をなさる方だと伺いましたわ」
「……よく知ってますね」
「界隈の観測は、わたくしの家業の延長ですもの」
「先日の屋上からも、よく見えましたの。青の方が、格子を張ってから、音もなく消えていく引き際。誰よりも早く見切りをつけて、誰よりも綺麗に撤退なさる」
「あの方の目的は、おそらく——今の構造を維持することですわ。主役になりたいわけではない。むしろ、誰かが主役になることを、防ぎたいと思っていらっしゃる」
「アオネが、そう言ってたんですか」
「ご本人が、そのようにおっしゃったと伺っておりますの。『私の目的は、今の構造を維持することです』——正しいかどうかは分からない、けれど計算はできる、と」
「わたしのところにも、来ました」ユカリが言った。「『カノンを危険分子だと思いますか』って。『目的が同じかどうか、確認したい』って」
「それで、確認は済みましたの」
「……まだ、途中です。一致しないところが出てきたら言う、って約束しただけで」
クロエは頷いた。
一時的な野合だ、と思った。カノンという共通の脅威がいなくなった今、この連合を繋ぎ止めているのは、目的の一致ではなく、目的の一致を確認し続けるという儀式だけだ。声には出さなかった。
「敵にはならない。でも、味方にもならない」クロエは言った。「あの方は、そういう位置に、ご自分で立っていらっしゃいますの。面白い方ですわ」
面白い、という言葉に、初めて明るい響きが混じった。ユカリはそれを、警戒とも興味ともつかない目で見ていた。
窓の外の光は、もう紫のほうがずっと優勢になっている。
しばらく、どちらも黙っていた。窓の外の紫が、もう夜に近づいている。
先に口を開いたのは、クロエだった。
「排斥連合、というのは良い呼び方ですわね。誰が名付けたのか存じませんけれど」
「勝手に、そう呼ばれてるだけです」
「野党連合に、似ておりますの」
ユカリの眉が、わずかに寄った。
「共通の敵がいる間だけ、まとまって見える。敵がいなくなった途端に、それぞれの思惑がばらばらに顔を出す——カノンという的が消えた今のあなた方の連合と、同じ構図ですわ」
ユカリは何も言わなかった。反論の材料が、すぐには見つからなかったのだろう、とクロエは分類した。
「アオネさんは、調整型の政治家、というところかしら。数字とバランスで動いて、思想はお持ちにならない。ミドリさんとキヅキさんは、票田を固めて足場を作る側」
「……わたしは」
「あなたは、まだ、どちらの派閥にも完全には属していらっしゃらない」クロエは言った。「浮動票、と言えば失礼かしら」
「では、あなたは」
その問いを、待っていた。
「わたくしは、連合を組みませんの。個別に、一人ずつ引き入れる方が、性に合っておりますわ——ちょうど、今夜のように」
隠す気は、最初からなかった。今夜していることそのものを、手口として差し出す。それが、この子に対しては一番効く、という判断があった。
窓の外を、クロエは一度見た。
「政治も、界隈も、結局は椅子の数の話ですのよ」
「椅子」
「舞台に立てる人数には、限りがございますの。人間の政界でも、魔法少女の界隈でも——椅子取りゲームの規則が、少しだけ違うだけ」
「今、永田町でも、同じことが起きておりますわ。誰かが座を降りる準備をして、誰かがその椅子に座る準備をしている。表には出ない方々が、後ろで椅子を並べ替えていらっしゃる」
ユカリは、窓の外を見た。何かを言おうとして、結局、言葉にはしなかった。奇妙な納得と、それに追いつけない違和感が、同時に顔に出ていた。この子は、腑に落ちたことをすぐには認めない性分らしい、とクロエは思った。
「不思議な感じ」ようやく、ユカリが言った。「政治の話をしてたはずなのに」
「不思議ではございませんの」クロエは微笑んだ。「同じ形の話を、二つの場所でしているだけですもの」
カップを置いた。夕景は、もうほとんど夜に近づいていた。
「もう少し正確な言葉で、お話しいたしましょうか」