アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
「もう少し、正確な言葉で、お話しいたしましょうか」
クロエはカップを置き、壁際のスタンドに手を伸ばした。灯りが一つ点く。窓の外はもう夜に近く、部屋の輪郭が、電灯の光でようやく戻ってきた。
「不思議だと思いませんこと」
ユカリは答えなかった。何が不思議なのか、まだ問いの形になっていない。
「あのK機関ですわ」クロエは言った。「色を持たない魔法少女——いいえ」
一度、言い直した。
「国家というシステムの体現者、とでも申し上げたほうが、正確かしら。それが、たったお一人。無論、最近は『桃』の方が加わりましたけれど、それでも、国を支える装置としては——あまりに数が足りませんの」
「……足りないのに、足りてる」
ユカリがぽつりと言った。クロエの言いたいことを、半分だけ先取りしていた。
「そう。おかしいと思いませんこと」
クロエは、カップの縁を指先で一度なぞった。
「わたくし、幼い頃からバレエを習っておりましたの」
前置きらしい前置きだった。ユカリの視線が、わずかに訝しげになる。
「本題と関係のないお話に聞こえるかもしれませんけれど、少しだけお付き合いくださいまし。舞台には、大勢の踊り手が立ちますでしょう。けれど、その全員が主役、というわけではございませんの」
「群れで踊る者たちがおります。コール・ド・バレエ、と申しますのは——」
一語ずつ、丁寧に開いた。
「群舞、という意味ですわ。全員で同じ振りを揃えて踊る。誰か一人が抜きん出ることは許されませんの。目立たないことこそが、コール・ド・バレエの役割そのものですわ」
ユカリは黙って聞いていた。
「もう一つ、ヴァリアシオン、という言葉がございます」
こちらは、開き方の丁寧さが少し違った。ユカリの理解を待つ気配が、クロエの声から薄れる。
「独りで踊る、短いソロですわ。その間、舞台の上には、その一人しかいないことになっている。他の全員が袖に退がって、待つ。ヴァリアシオンの時間だけは、誰にも奪われませんの」
「……それが、K機関と何の関係が」
「先日、立体駐車場で——ご覧になりましたでしょう」
ユカリの手が、カップの上で止まった。
「四色が、同じ場所に集まった夜。あの夜、あなたも、他の方々も、誰一人として本来の力を出し切れなかった。ご自分でも、感じていらっしゃったのではなくて」
答えは返らなかった。答えないことが、答えだった——ずっと前に、クロエはそう学んでいた。
「複数で舞台に立つ者は、互いに尺を割り合いますの。誰かが強く光れば、その分、他の誰かの光が薄くなる。全員が同時に光ろうとすれば、全員がコール・ド・バレエに沈む」
「独りで立つ者だけが」
クロエは、カップを持ち上げた。
「ヴァリアシオンを許されますの。その分だけ、強く描かれる」
窓の外の暗さが、部屋の灯りをはっきりと映すようになっていた。
「K機関が、お一人で足りている理由も——恐らく、同じ式の中にございますわ。増えれば増えるほど、一人あたりの力が薄まる。増やさないことこそが、いちばん強い状態を保つ方法だとしたら」
尺の話。ユカリの中で、そう名付けられたのが表情から分かった。名前をつけたがる質なのだろう、とクロエは思った。名付けなければ、扱いようがないものが、この世には多い。
「では」ユカリが言った。「あなたは、その——舞台に、独りで立ちたいんですか」
鋭い問いだった。クロエは、すぐには答えなかった。
「真に強い魔法少女、というものがいるとすれば」代わりに、そう言った。「舞台にただ一人立ち、自分だけのセカイを作る方のことですわ。尺を独り占めになさる方——プリンシパルたる姫君、とでも申しましょうか」
姫君、という言葉が、部屋の空気に、少しだけ違う重みを持って落ちた。
「わたくしはこれをどうお呼びするか、まだ決めておりませんの」クロエは続けた。「『プリンセスのアテンション原則』なのか、『プリンセス・プリンシパル』なのか、『プリンシパル・バリアシオン』なのか——まだ」
言いながら、クロエの視線が、一瞬、ユカリの向こう側を通り過ぎた。誰もいない壁の方向へ。何かに向けて「お分かりいただけますか」と問いかけたような、そんな間があった。
気のせいかもしれない。
ユカリはそれに気づかなかったようだった。あるいは、気づいていても、口にはしなかった。
「……それは」ユカリの声が、初めて揺れた。「では、あなたは——その姫君になりたいのですか」
クロエは、カップの縁を指先でなぞった。
「さあ、どうでしょう」
はぐらかしではなかった。だが答えでもなかった。
「まだ、分かりませんの。自分でも」
内心では、違った。分からないのではない。分かっているのに、言葉にする準備が、まだ整っていないだけだ。それをユカリに悟られる必要は、今夜はなかった。
「本当に、そんな方が」ユカリは、言葉を選ぶように一度止まった。「主役になれるほどの魔法少女が、そんなに何人もいるとは思えません」
「思えなくて当然ですわ」クロエは言った。「プリンシパルの器たる魔法少女は、そう多くはございませんの」
「もって数人。おそらくは、原色たる七人程度ではないかしら」
「あとの方々は」クロエは続けた。「路傍の石、背景、モブ——尺を割かれる側の存在ですわ」
「七人?」ユカリの眉が寄った。「わたしたち五人と、K機関のあの桃と……あなたを含めて、ということですか」
「いいえ」
「では、誰が」
「黒がある、ということは——白もある、ということですわ」クロエは言った。「そして、あの桃は、やはり違いますの。K機関のあの無色の魔法少女も、同じ」
「白?」ユカリの声が、初めて上ずった。「まだ、他にもいるんですか。それは、一体——」
「おります」クロエは言葉を継いだ。「この国に、正真正銘の姫君が。たとえ魔法少女でなくても、常に
「誰なんですか」
「——
テレビや新聞で、幾度となく見かけた顔が、名前と重なった様子だった。皇室の——ニュースの端に映る、あの「お姿」だ。クロエの語りには、確かに筋が通っている。だが、まさか、という思いが、ユカリの表情の下を通り過ぎるのを、クロエは見た。
「……では」ユカリの声が、辛うじて出た。「あの桃は。彼女は、一体、何なんですか」
「そうね……」クロエは、珍しく言葉を探すように一拍置いた。「本来は『舞台に存在しないはずの』魔法少女——八人目の魔法少女、とでも言うべきかしらね」
「どういうことなんです」
「本来、彼女は存在しませんの」
クロエの声から、いつもの艶が、少しだけ抜け落ちていた。
「あのK機関の無色の魔法少女とは、違いますわ」
ユカリが、さらに何か言おうとしたところで、クロエは静かに首を振った。
「今夜は、ここまでで結構ですわ」
窓の外は、もう夜だった。
ユカリが立ち上がったのは、それからすぐのことだった。
「送らせますわ」
「……いえ、一人で平気です」
クロエは引き止めなかった。玄関まで見送ることもしなかった。使用人が、静かにドアを開ける音だけが聞こえた。
ドアの手前で、ユカリが振り返った。
「一致しないところが出てきたら——言います。前に、アオネにも、そう言いました」
「結構ですわ。それが、あなたらしい」
留保は、まだ外れていない。完全にこちら側についたわけではない——クロエは、それを正確に分類していた。だが、部屋に入ってきたときと、出ていくときとでは、肩の角度がわずかに違っていた。半歩、傾いた。それだけで、今夜は十分だった。
ドアが閉まる音がした。
クロエは一人、部屋に残った。
紫は、緑と黄の二人組から、間もなく離れていくだろう。排斥連合という名の一時的な野合が、また少し小さくなる。声には出さず、そのことを紙に書き留める気にもならなかった——今夜のところは、頭の中に置いておくだけで十分だった。
机の上のメモ帳を引き寄せ、クロエはペンを取った。
「ユカリ」——書いた文字に、丸をつける。「半歩」
もう一枚、別の紙を引き寄せた。今度は、別の名前を書きかけて、途中で止めた。次の一手には、まだ早い。今夜は、この一手で十分だった。
ペンを置いた。
テーブルの上には、書きかけの紙が二枚、そのまま残っていた。