アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
新聞社の最上階、エレベーターの扉が開いた瞬間から、空気の重さが変わる。
絨毯は足音を吸う厚さで、廊下の照明は必要な分だけしか点いていない。常務、編集局長、テレビ局側の担当役員——三人が、主筆室の前の待合スペースに並んで座っていた。誰も言葉を交わさない。腕時計を見る仕草だけが、律儀に繰り返される。
「呼ばれてから、もう十五分だ」
編集局長が、独り言のように言った。誰も答えなかった。
秘書がドアを開けたのは、それから三分後だった。
部屋は広く、照明を落としてある。窓の外に東京の夜景が広がっていた。手前の壁際にデスクがあるが、そこに人はいない。窓に向かって置かれた椅子に、人影が一つ、後ろ姿だけを見せて座っていた。
三人は入り口で立ち止まり、頭を下げた。
「お呼びだてして、恐縮です」
編集局長の声が、いつもより一段高かった。
「掛けてください」
低い声だった。振り向きはしなかった。窓の外の光を見つめたまま、その姿勢のまま話し続けた。
「来月の代表選の扱いについて、話しておきたいことがあります」
三人は同時にソファに腰を下ろした。冷房が効きすぎている、と常務が思ったのは、この部屋に入るたびのことだった。
サイドテーブルに、候補者一覧の紙が一枚、置かれていた。名前が二つ並んでいる。片方だけが、この一週間で急に報道量を伸ばしていた。
「あの人の露出を、今週から少しずつ増やしてください。テレビも、紙面も」
「……分量は、どの程度でしょう」
編集局長が、恐る恐る尋ねた。
「編集の裁量に任せます。ただ、今週の月曜より少なく戻ることのないように」
「対立候補の扱いは」
「変えなくて結構です。今のままで」
指示は、それで終わりだった。窓の外の光景は変わらない。後ろ姿は微動だにしなかった。
三人は頭を下げ、部屋を出た。ドアが閉まる音が、廊下に小さく響いた。
エレベーターを待つ間、テレビ局側の役員が、声を落として言った。
「経産省の、例の——なんでしたっけ。あの、振付師とか呼ばれてる」
「モーリス・べシャールか」
編集局長が短く答えた。
「そう、それ。あの人が本当に絡んでるって噂、事実だったんですね」
誰も、それ以上は続けなかった。エレベーターの扉が開き、三人はそれぞれ違う階のボタンを押した。
目黒合同庁舎、三面モニターの真ん中に、また同じ名前が浮かんだ。
「毛利」。数日前に開いたファイルに、Qは新しい行を足した。今度は経産省がらみの記事ではなく、与党の公式サイトの更新ログだった。代表選の日程が、正式に発表されている。候補者欄に並んだ二つの名前のうち、片方だけが、この一週間、テレビの露出量を跳ね上げていた。
Qは右のモニターに視線を移した。報道量を数値化したグラフが、一本だけ突出している。もう一本は、横ばいのままだった。
「……早いですね」
先週と同じ言葉だった。意味は、少し違っていた。
中央のモニターの隅、いつもは「待機」とだけ表示される欄に、また灰色の空白が浮かんでいた。今夜は、それが少しだけ長く留まっていた。
Qはその空白を見つめたまま、通信端末を手に取った。
「南平台、出動要請です」
「今日って、犯罪の話じゃないですよね」
通信越しに、Jの声が届いた。少し間を置いてから、続けた。
「警護なんですよね。追いかける方じゃなくて、守る方の」
「そうです」Qが答えた。
「守る対象は、指名手配犯じゃなくて——政治家、ですよね」
「今日は、そうなります」
Jはそれ以上は聞かなかった。「分かりました」とだけ言って、通信が切れた。切れる直前、何か言いかけたような、わずかな間があった。
南平台分室の車庫で、A1がヘルメットを手に取った。
「政界がらみだ」
それだけだった。詳しいことは、A1もまだ持っていないらしかった。声の高さで分かった。
車に乗り込む前、A1の手が、右腰のホルスターに一瞬触れた。確かめるような動作だった。使うかどうかではなく、そこにあるかどうかを確かめる仕草。
——今夜も、これは使わない。
言われなくても、ワタシにはそれが分かった。Kの許可なしには動かせないもの。腰にあるだけで、使えないもの。
今夜はどこまで見えてるんだろう。
声にはならなかった、はずだった。
「また誰かに聞いてるのか」
A1が、ヘルメットのバイザーを下ろしながら言った。振り向かなかった。
「……聞いてません」
「聞いてる声だったけどな」
それ以上は、追及されなかった。エンジンがかかる。窓の外を、欅の葉がまた一枚、色を変えて落ちていった。
政界の、どこで、何が動いているのか——ワタシには断片しか見えない。誰かが、もっと高いところから、この盤面の全部を見ている気がした。
十二時を回っても、羽根川クロエの部屋の明かりは落ちなかった。
机の上には、今夜すでに使い終えたものが積まれている。毛利の名を書きつけた紙、代表選の予測記事、支持率のグラフを印刷した紙——政治の側の仕事は、もう終わっていた。それらを重ねて脇に寄せると、机の上に残ったのは、開いていない封筒が一つだけになった。
差出人は書かれていない。表に手書きの走り書きもない。届いたのは夕方だったが、クロエはそれを開けずに、お茶会の支度と、その後の観察に時間を使った。開けるべき時間を、自分でずっと選んでいた。今夜前半に扱った紙とは、手触りからして違う。政治の側の資料はどれも薄く、印刷したての匂いが残っていた。この封筒は分厚く、何度か人の手を経由してきた重さがあった。
家の系列にある芸能プロダクションの、内部記録の写しだった。表の窓口を通さず、別の経路で取り寄せたものだ。政治の調査とは、依頼した相手も、使った回路も違う。あの調査記者に頼めば、記録が残る。今夜のこれは、記録が残らない方の経路を使った。
封を切る。
出てきたのは、そう厚くない書類の束だった。学籍記録の写し、医療機関への照会に対する回答の断片、SNSアカウントの解析シート——バラバラの出どころのものが、日付順に並べ直されている。誰かが、この一晩のために整えた形跡があった。
一枚目には、名前と生年月日だけが並んでいる。ヒノデ・カノン。
見慣れた名前のはずだった。それなのに、紙の上に置かれると、既視感より先に、平たさの方が来た。数字と項目名だけでできた一枚の紙に、人ひとりの十数年が収まっている。収まってしまうということ自体が、一つの事実だった。
二枚目からは、学校側の所見の写しが続く。「感情の起伏について、複数の担任から同種の指摘が繰り返されている」——診断名は、どこにも書かれていない。医療機関への照会に対する返答も、要点だけが伏字混じりで転記されている。クロエは、その空白から一つのことを読み取った。誰も、正確な言葉をこの子どもに与えないまま、様子だけを記録し続けてきたのだ。指摘は積み重なるのに、名前だけが最後までつかない。そういう十数年だった。
次の数枚は、SNSアカウントの履歴だった。開設と削除が、短い間隔で繰り返されている。フォロワー数が跳ね上がっては落ち、また跳ね上がる。ある月に投稿が一日十数回まで増え、翌月には一件も残っていない。削除の理由は書かれていないが、コメント欄の炎上と時期が重なる回が三度あった。
感情の言葉より、この乱高下の方が正確だ——クロエはそう判断しながら、ページをめくる指を止めなかった。必要とされることへの飢えは、言葉にされるよりも先に、数字の上下という形で残っていた。増えるたびに投稿頻度が上がり、減るたびにアカウントごと消える。増えて、消して、また増やす。この子はきっと、その繰り返しに名前をつける機会すら持たなかった。
削除される直前に残っていたキャプションの断片が、一つだけ引用として資料に残されていた。
「チャンスって言い方が嫌い」
別の投稿には、こうあった。
「頑張れって言う奴は大抵頑張ってない側にいるから」
言葉選びへの感覚だけは、当時から鋭かったらしい。クロエは、その二行に丸をつけなかった。丸をつけるほどのことではない、と判断したからだ。ただ、視線が少しだけ長く留まった。
資料の後半に、芸能プロダクションとの接点が出てくる。候補生として登録された記録、スカウト時の走り書きに近いメモ、オーディションの評価シートの複写——「表情の作り方が独特」「素材としては悪くない」という短評が並んでいる。そして最後に、契約が更新されなかったことを示す、事務的な一行。理由は書かれていない。担当者の名前も伏せられている。「記録なし」という注記が、その先の空白を埋めていた。
紅葉院迅。
クロエは、その名前を静かに読んだ。十代のタレントを見つけては使い、使えなくなれば手放す——そういう仕事をする男だと、聞いたことがある。会ったことはない。この業界のどこかで、何度もすれ違ってきたはずの名前だった。
契約が途切れた日付と、この子どもが妖精と名乗るものに出会ったとされる時期は、近い。近い、というだけだった。どちらが先に、何を失わせたのか——クロエには判断できなかった。判断するための材料が、記録の中にそもそも存在していなかった。
それでいい、とクロエは思った。
これは、素材の精度を確かめる作業だった。同情のための読み物ではない。誰の子で、何を失って、何を得たのか——それを正確に把握することが、今夜の仕事だった。
ページをめくる手が、一度だけ止まった。
削除と再開設を繰り返すアカウントの一覧に、目が留まったときだった。何度も作り直された名前——少しずつ違う綴り、少しずつ違うアイコン——それでも同じ子どもが、同じことを繰り返している痕跡。作り直すたびに、少しだけ自己紹介欄の文章が短くなっていた。
指先が、紙の上で一瞬だけ止まった。
面白い、とクロエは思い直した。それ以外の言葉を、今は使わなかった。
資料を閉じ、クロエは紙の束を机の端に置いた。もう一台のモニターに視線を移す。
そちらには、別のフォルダが開いたままになっている。「H.K.」とだけ名付けられたフォルダ。日付順に並んだファイル名の羅列——配信のアーカイブ、投稿された写真、誰かが撮った動画の転載。文字の記録は、これで全部終わった。ここから先は、映像だった。
フォルダを開くと、サムネイルが並んだ。
どれも小さく、静止していて、まだ何も語っていない。数百枚。数十時間分。誰かがどこかで撮り、誰かがどこかで保存し、誰も見なくなってからも消されずに残ってきたものたちだった。クロエはカーソルを一番古い日付の上に置いた。
指先が、決定のボタンに触れる前に、少しだけ迷った。迷ったこと自体が、クロエにとっては珍しかった。
これは、取り戻す作業だ——そうクロエは自分に言い聞かせた。燃え尽きて、忘れられて、誰も見なくなったものを、もう一度、見える場所に戻す。伝え聞いたばかりの、今夜の主筆の言葉が、頭の隅をよぎった。露出を、今週から少しずつ増やしてください——あの業務命令と、今クロエがしようとしていることと、根はきっと同じだった。同じだと分かった上で、クロエは指を動かした。
クリックした。
再生が始まる前に、何かが変わった。
画面の明るさが、逆に流れ出してくるような感触があった。光がこちらへ向かって伸びてくる。モニターの縁を越えて、部屋の空気の中に、粒のようなものが漂い始めた。無数の静止画と、無数の秒数が、一箇所に向かって集まってくる。エアコンの音が、いつの間にか聞こえなくなっていた。
クロエは動かなかった。
集まった光が、輪郭を持ち始めた。最初に髪の色が決まり、次に背丈が決まり、最後に——声にならない呼吸の気配が、部屋の中に生まれた。
「……あー」
声がした。
「なんか、眩しいんだけど」
光の中に立っていたのは、少女だった。緋色の髪。制服でも、あの炎の覆いでもない、ただの普段着——動画の中でよく着ていた、色の褪せたパーカー。
カノンは、目を細めて周囲を見渡した。見知らぬ部屋、見知らぬ女。警戒するでもなく、ただ状況を確かめる目だった。
「……ここ、どこ」
「わたくしの部屋ですわ」
クロエは、いつもの声で答えた。丁寧で、優雅で、温度のない声。
「ごきげんよう。ヒノデ・カノンさん」
カノンは、しばらくクロエを見ていた。それから、特に驚いた様子もなく、
「……あんた誰」
「羽根川クロエと申します。初めまして、というのも、少し変な言い方かもしれませんけれど」
「初めましてって——」カノンは首を傾げた。「あー、いいや。まあいいか」
その言葉の運び方に、クロエの中で何かが小さく反応した。まあいいか。聞き覚えのある言葉が、聞き覚えのある間合いで出てきた。記録の通りだった。正確に、寸分違わず。
「調子はいかがです?」
「別に。……なんか、久しぶりに寝た気がする」
カノンは伸びをして、部屋の中を歩き始めた。ソファの座り心地を確かめるように手のひらで叩き、窓際まで歩いて、外の光を珍しそうに見た。歩き方も、間の取り方も、動画の中の姿と同じだった。生きていた頃の癖が、そっくりそのまま返ってきている。
クロエは、それを黙って見ていた。
一つだけ気になった。カノンは、自分がどこから来たのかを問わなかった。ここに来る前に何があったのかも、なぜ自分がここにいるのかも、問う気配がなかった。生前のカノンなら、まず「は?」と言ったはずだ。「なんで」と重ねて、「それだけ?」と締める。困惑してから確かめる、という順番があったはずだった。
その順番が、今は来ない。
「変身のたびに、何かを忘れていく感じは、ありまして?」
クロエは、静かに尋ねた。試す言い方だとは、自分でも分かっていた。
「え——」カノンは、少し考える仕草を見せた。「そういうの、ないけど」
間がなかった。
生前のカノンなら、ここで一拍止まったはずだった。焦げた感じがする、と言うときの、あの独特の言い淀み。戻ってこない場所を探すときの、視線の迷い。それが、今のカノンには一切なかった。
なかった、というより——そもそも、探すべき場所自体が存在していないようだった。焦げているのではない。最初から、何も置かれていない。
クロエは、それを不具合とは思わなかった。むしろ、正確さの証明だと思った。持っていた記憶を消してしまったのではなく、記録に残っていない部分は、最初から作られていない——それだけのことだ。理にかなっている。問いへの反応の速さも、自分の状況を確かめない姿勢も、同じ一つの事実の、別の面にすぎない。
「そう」クロエは、静かに繰り返した。「よろしいですわね」
カノンは、部屋の中を見回している。夜景の方に、少しだけ興味を示した。
「……いい部屋じゃん」
「気に入っていただけて、光栄ですわ」
クロエは机に戻ると、ボールペンを手に取った。紙の上に、もう一行を足す。
「カノン」
丸をつける。
今夜三つ目の名前だった。毛利、ユカリ、そしてカノン。三つの丸が、同じ紙の上に並んでいる。
窓の外では、東京の夜景が変わらず広がっていた。
政界では、盤面がゆっくりと動き始めている。毛利、元首相、あの人——駒が、少しずつ配置につきつつある。
そして今、この部屋には、もう一つの駒が立っていた。
クロエは、モニターを消さなかった。画面には、まだ「H.K.」のフォルダが開いたままだった。その光と、カノンの立つ光と、窓の外の夜景——三つの光が、同じ部屋の中で並んでいた。
面白くなってきた。
声には出さなかった。だが今夜、何度も浮かんだ「面白い」という言葉の中で、これが一番強い形をしていた。政治の盤面も、この部屋の中の一つの駒も、同じ視野の中に収まっている。誰かに選ばれるのではなく、誰かを選ぶ側でいられる夜が、まだ続いていた。
窓の外の靄は、七月のそれよりも乾いている。晩夏の熱が、まだ完全には抜けきっていない夜だった。もうすぐ、九月が来る。
カノンは、窓辺に近づいて、夜景を見下ろしていた。何を思っているのかは、クロエにも分からなかった。訊けば、きっと何か答えるだろう。それでも、その答えが、生きていたカノンの答えと同じものかどうかは、誰にも確かめようがない。
それでいい、とクロエは思った。
盤面はまだ、動き始めたばかりだった。