アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
1.ビブリオテーク-Bibliotheque-
三面モニターの一番左、報道量グラフの折れ線が、また上に伸びた。
民自党代表選の告示から六時間。二本の線のうち、一本は右肩上がりを止めない。もう一本は、午後八時のあたりから水平に近づいたまま動いていない。数字の差を、Qは今夜だけですでに四回確認していた。伸びている方について、今夜書き足した情報は一つだけだった。地上波の露出秒数、先週比プラス十二パーセント。理由は書かない。数字だけを置く。
窓のない資料室に、モニターの駆動音とエアコンの送風音が低く続いている。机の上でコーヒーはとうに冷めていたが、Qはそれに気づいていなかった。
真ん中のモニターは、匿流タグの怒り係数。今夜の値は一・九。先月、九・二から九・七まで跳ね上がった夜があったことを思えば、平熱に近い。ゼロにはならない。低い位置で、何かがまだくすぶっている。この数字が上がるときは、たいてい何かが起きた後だった。まだ何も起きていない今夜は、燻っているだけでいい。
右のモニターは、偽の赤の出現ログだった。八月に二件、カメラ映像による確認済み。今夜、三件目が加わった。目撃者のスマートフォン映像は、輪郭のぶれが大きい。Qはカーソルを最後の行に合わせ、一行だけ書き足す。
「単独出現時と複数出現時で、確認される出力に差がある。理由は不明」
打ち終えた文字列を、Qは一度だけ声に出して読んだ。音にした瞬間、耳から返ってくるものが、書いた文字と合っているかどうかを確かめる、いつもの手順だった。合っていた。指を止めたまま、しばらくその一行だけを見ていたが、それ以上は足さなかった。
四つ目の画面は、ニュースの見出しを拾うクローラーだった。「フューチャーペイ」「アフィリエイトネットワーク」「NPO法人」「東京地検特捜部」——それぞれ別の場所で断片的に浮かんでいた語が、この一週間で同じ見出しの中に並ぶようになっている。特捜部という一つの主体に、これまで散らばっていた捜査線が束ねられつつあった。Qはその変化を、確認、とだけ記録した。それ以上の言葉は、まだ要らなかった。
内部通信ログの「待機」欄。先週から浮かんでいた四角い灰色の空白が、今夜、初めて文字で埋まった。
「代表選期間中、変身者関連の捜査活動は要人警護に付随する範囲に限定する」
K機関の内部コードにある書式ではなかった。宛先の欄も、発信部署のコードも、ない。文字列だけが、そこに置かれていた。いつもの通達なら、受信時刻の下に処理担当者のIDが並ぶ。今回は何も並ばない。
転送は自動で行われる。Qが見ているのは、その先の応答だけだった。
「了解しました」
その言葉は先月の時と、まったく同じだった。
違ったのは、返信までの時間だった。前回は、既定の応答時間——三十秒以内に収まっていた。今回は、四十七秒。Qはその秒数を数えた。数えたことは、どこにも書かなかった。
ログの時刻表示は、深夜二時を過ぎていた。作業ランプの明かりの中で、Qは次のタブに指を伸ばす。廊下の向こうで、換気システムが一度だけ音を変えた。四つの画面は、まだ動き続けていた。
朝の演説会場に、まだ人影はまばらだった。誘導ロープを張り直す係員の白手袋が、朝の光を弾いている。のぼり旗が等間隔に立ち、拡声器の音量確認の声が二言三言、空に抜けていった。
告示から三日。ワタシとA1の一日は、同じ三つの場所を順番に埋めることでできていた。演説会場の外周に立ち、来場者の顔を数える。ホテルの裏の動線を、配膳のワゴンとすれ違いながら往復する。移動する車列の最後尾について、信号の変わり目を見送る。追う仕事だったはずのものが、いつのまにか守る仕事に変わっていた。
守る相手は、ワタシたちが存在しないことになっている場所で、毎日同じ調子の声を張り上げている。旗の色も、拡声器の反響も、日ごとに同じ密度で繰り返された。ワタシとA1だけが、その密度の外側で立ち位置を変え続けている。
無線に短いコールが入る。「移動901、状況は」。A1が応じる。「変化なし」。それだけで通信は切れる。マイクの向こうで演説の一節が、拍手にかき消されて終わった。ホテルの裏動線では、配膳係のIDカードの色をA1が一度だけ確認し、「昨日と違う」と言った。理由は聞かなかった。次の日には元に戻っていた。
某夜、最後の集会が終わり、人波が引くのを待つ間——A1が右腰に触れた。使えるかどうかを確かめる仕草ではない。そこにあるかどうかだけを確かめる、一瞬の指の動きだった。
今夜も、これは使わない。
そう思ってから、その「今夜も」がもう何度目なのか、自分でも数えていないことに気づいた。
ルーム3では、いつもと同じ数の生徒がいて、いつもと同じ静けさがあった。誰も彼もが、自分の手元だけを見ている部屋。成瀬は窓際の椅子で、朝刊を四つに折り畳みながら言う。
「今月は、選挙みたいなものがあるらしいね」
民自党の代表選のことだと分かるまで、少し間があった。成瀬の言い方には、それが自分に関わることだという響きが、最初から一つもなかった。ブラインドの隙間から、九月の光が斜めに机を切っている。
出動の連絡が入ると、成瀬は本から顔も上げずに言った。
「分かった。また来てね」
行ってきます、とは言わない。行くとも言わない。ワタシとA1は席を立ち、廊下に出る。
演説会場の外周、待機の列の端。マイクの声が反響して、言葉の輪郭までは届いてこない。柵の内側と外側——人だかりの向こうとこちらを見比べているうちに、言葉が形になった。
こっち側とあっち側、どっちを見てるんだろう。守ってる方と、守られてる方——それとも、いる方といない方。
「現場でのそれは、一往復までにしてほしい」
A1は振り向かない。
「……ちょうど、今ので終わりです」
それ以上、どちらも続けなかった。柵の外で誰かが名前を呼ぶ声がして、旗が一斉に揺れた。
南平台に戻ると、庭の欅の葉先が、数枚だけ黄色く変わり始めていた。朝晩の空気が、少しずつ乾いていく。秋は、まだ始まったばかりだった。
窓の外、九月の夜景に、まだ灯りの密度は落ちていない。わたくしは机に向かい、印刷したグラフの上を、鉛筆でもう一度なぞっていた。手で写すと、数字は形として頭に残る。机の端には、名前を書きつけた紙が一枚——「毛利」「ユカリ」「カノン」、三つの丸。今夜はまだ、四つ目を足す気にはならない。
代表選候補、二本の折れ線。あの人が指示を出してから、まだ十日と経っていない。露出の差はそのまま、支持率の差になり始めていた。先週は五ポイントだったものが、今週は十一ポイントまで開いている。
報道が先に動き、支持はそのあとをついてくる。順番だけは、はっきり見える——わたくしはそう分類した。
ソファでは、カノンさんが動画を見ている。脚を組む角度も、画面が切り替わるたびに少し前へ傾く仕草も、生きていた頃と寸分違わない。わたくしはその一連の再現を、精度の確認、という目で眺めていた。
チャイムが鳴る。ユカリさんだった。
お茶会以来、招かずとも来るようになっている。留保を抱えたまま通う人間は、留保を確かめに来ているのではなく、留保を裏切られたいのかもしれない——わたくしはそう分類しかけて、結論は保留にした。
制服のまま、玄関に立ったまま、しばらくソファの方を見ていた。カノンさんは振り向かない。生前なら、この視線に気づいて何か言ったはずだった——「見すぎ」とか、「なに」とか。その一言の来る間が、来ない。
「……ねえ。この子、外に出してるの」
わたくしへの詰問というより、確認の硬さだった。
「散歩程度ですわ」
そう受ける。留保があることは、お茶会の時点で分類済みだった。留保ごと使える駒——そう思い直した、その直後だった。
「一致していないことが出てきた時は、言います」
前に、アオネさんへ言ったのと同じ言葉。今度は、わたくしに向けられている。
牽制のつもりなのだろう、と分類する。悪くない。牽制のできる人間の方が、後々扱いやすい。
ユカリさんが帰ったあと、テレビの画面が遊説先の中継から選挙特集のスタジオへ切り替わった。偽物の赤が界隈で増えているという噂は、こちらにも届いている。本物に見えるものが一人、外を歩けばどうなるか——確かめる価値のある実験ですわ。
わたくしは紙を引き寄せ、丸のついた「カノン」の隣に、丸をつけないまま一言だけ書き足した。「実験」。
「カノンさん」
「んー?」
画面から目を離さないまま、返事だけが来る。
「明日、少し外を歩いてみません?」
三面モニターの右側、偽の赤の出現ログに、Qは新しい行を足していた。八月最終週、大井町駅前。目撃証言三件、映像一件。荒い画質の中で、赤い輪郭が改札の方へ流れて、そのまま消えている。告示から三日が経っていた。
裏付けを取るなら、駅の防犯カメラと、鉄道会社側の乗降記録がいる。Qは照会の書式を開いた。宛先は二つ——鉄道会社の広報対応窓口と、所轄署の防犯カメラ管理担当。開示を求める範囲、日時、目的。空欄を埋めるだけの作業に、五分もかからなかった。送信してから、返信までの時間は、今回は数えなかった。数えるまでもなく、速かった。
「当該の映像につきましては東京地方検察庁特別捜査部において係属中の事件に関連するため、開示できません」
一行だけだった。理由の中身はない。宛先の部署名も、担当者名もない。三十分前に送った照会と、今受け取った拒否の間に、人間が判断した痕跡は見当たらなかった。Qはその文面を、前回受け取ったものと並べてみた。句読点の位置まで同じだった。同じ文面の返信が来るのは、これで二度目になる。ファイルを保存フォルダに移し、末尾に数字を一つ足した。
霞が関の合同庁舎に、A1と二人で向かうことになったのは、その日の午後だった。ワタシはA1の半歩後ろを歩いた。ビルの外壁は九月の日差しを跳ね返していて、まだ夏の重さが残っていた。受付で二人分の身分証を出す。名前ではなく、整理番号で呼ばれるのを待った。エレベーターは四階で止まり、案内の警備員が一人だけついてきて、会議室のドアを開けると、外で待つと言った。
中にいたのは、灰色のスーツの男だった。机の上に書類が一冊だけ置かれている。名刺には検事の肩書きと、名前が一つだけ——沢田。渡す仕草に無駄がなかった。
「そちらの照会は、承知しています」
A1が椅子に座る前に、沢田が先に言った。
「変身者、というものは存在しません。我々が扱っているのは、資金の流れと、教唆と、傷害です。それだけです」
A1は座った。「存在しないものを、立件するんですね」
沢田の表情は動かなかった。「存在しない、という前提の方が立件は進みます。詐欺の被害届に、変身者という言葉は要りません。傷害の診断書にも」
似ている、とワタシは思った。誰の言葉に似ているのか、その時はまだ形にならなかった。
「今日伺ったのは」A1が続けた。「情報提供の可能性を確認するためです」
「難しいと思います」沢田は机の書類に手を置いた。開く様子はない。「係属中の事件について、他機関との情報共有は、原則として行いません。貴機関の存在自体、私は正式には認識しておりませんので」
「では」A1が言った。「今日この部屋にいるのは、誰と、誰ですか」
沢田は、初めてわずかに間を置いた。「——記録には残しません」
それ以上、どちらも何も言わなかった。壁の時計の秒針だけが動いていた。
帰りの車内で、A1は何も言わなかった。ワタシも、何も聞かなかった。似ている、と思ったことだけが、まだ言葉にならないまま、膝の上に残っていた。
目黒合同庁舎に戻ったのは、日が落ちてからだった。資料室のドアを開けると、Qは通信端末を耳に当てていた。座るよう促す仕草はなく、ワタシとA1は入り口近くに立ったまま待った。
「——分かりました」
そのあとの声は、こちらには聞こえなかった。しばらくして、Qが一言だけ挟む。
「今回の異動は」
「この件から、外れることになりました」
低く、抑揚のない声だった。それで終わりだった。続きはなかった。三章からずっと、坂口の通信は途中で切れてきた。今回は、最後まで言い切られた。
Qが端末を置いた。ファイルを一つ、閉じる。指の動きが、いつもより少し速い——それに気づいたのは、Q自身だった。誰かに指摘されたわけではない。Qは、自分が速く閉じたことにだけ気づいて、その事実を、どこにも書かなかった。
その夜、Qのモニターに、Jからの映像通信が入った。警護対象者リストの更新確認、という定型の用件だった。
画面の中のJは、いつもと同じ角度で映っていた。中性的な顔、制服の素材だけが、少し違う。
「確認したいことがあります」
Jが言った。
「守る相手は、選べるのですか」
Qは手を止めなかった。「リストはCの判断です」
「先週まで、私たちは追う側でした。今週から、守る側です。切り替えの根拠はどの書類にありますか」
「Cの判断です」
同じ言葉を、Qはもう一度返した。
Jの返答までに、間があった。○・二秒——それが、Qが記録し続けているJの応答速度の基準値だった。今回は、それより長かった。○・四秒。Qはその数字を頭の中だけで確認し、ファイルには入れなかった。声にも出さなかった。
「分かりました」
Jが言った。それから、少し置いて、もう一つ足した。
「立ち食いそばは、最近食べていません」
いつもなら、誰かが「今は関係がない」と返す場面だった。Qは、何も返さなかった。画面の中のJも、それ以上は続けなかった。通信が切れるまでの数秒、資料室には、モニターの駆動音だけが残っていた。