アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
コインパーキングの精算機の陰から、マタギ・アオネは高架下を見ていた。街灯は三本のうち一本しか点いていない。九月三日、月曜、午後十一時過ぎ。
赤枠タグの通知は、九月に入ってから夜ごとに増えていた。カノンが死んでからの夜ごとの確認は、九月に入っても変わらず続いている。ただし確かめる対象は変わった。死んだ赤ではなく、赤に似た何かだった。
通知のあった座標に着いたとき、すでに二体いた。
同じ髪の長さ。同じ姿勢の重心。纏う炎の色まで同じ。型が同一であることは、遠目にも分かった。二体はしばらく睨み合ってから、ほとんど同時に踏み込んだ。
計測に使えるのは、この「同時」だった。同一の型を、同じ空間、同じ時間に置ける機会は多くない。変数のほとんどが揃っている。残るのは人数だけ。アオネはスマートフォンのストップウォッチを立ち上げ、指を画面の端に置いたまま動かさなかった。
一体の拳が空を切る速さを、アオネは目で追った。動画で見たカノンの動きより、明らかに遅い。間合いを潰しきれず、二度、三度と空振りしてから、ようやく浅く掠った。掠った程度で、相手の輪郭が揺らいだ。揺らぎの大きさは、そのまま威力の目安になる——揺らぎが小さい。
決着はつかなかった。二体とも、削り合いの途中で息切れするように動きが鈍くなり、無言のまま反対方向へ走り去った。持続時間、四十七秒。アオネはその数字だけを確認して、手帳を開いた。
「9/3 高架下。二体同時。出力、目視で通常の六〜七割。技の持続、短い。輪郭、薄い」
数字は目分量に過ぎない。それでも積み重ねれば傾向は見える。ひと月前、同じような小競り合いを一度見て、二人分の力を足しても一人分に届かないと踏んだ。あのときは一夜きりの印象でしかなかった。今夜のものは、その印象に二件目を足す作業だった。
九月十一日、木曜。今度は河川敷だった。土手の斜面に、一体だけが立っていた。
動きが違う。拳が空を切る速さが、高架下のときより明確に速い。一撃の威力も強い——土手のベンチが一撃で吹き飛ぶのをアオネは見た。金属の脚が折れ曲がっていた。単独で出た夜は、輪郭が濃い。速い。
紙に二行目を足す。
「9/11 河川敷。単独。出力、明確に上。ベンチ大破」
二つの記録を並べる。二体で出た夜と、一体で出た夜。人数が増えると、出力は下がる。人数が減ると、出力は上がる。
人数と強さが逆に動く。比率はまだ出せない。サンプルが足りない。二体の夜が何回、一体の夜が何回——観測できた回数は、まだ両手で数えられる程度だった。比率を出すには、もっと数がいる。焦らず積むしかなかった。
九月十四日、日曜。駅前のロータリーで、アオネは別種の情報を拾った。
自販機の脇で、界隈の見知った顔が二人、スマートフォンを見せ合っていた。「これ、見た?」という声が耳に入る。近づくと、動画は再生できずに終わっていた——撮影者本人が、途中で撮るのをやめたらしい。
「カノンっぽいの、いたんだって」
一人が言った。もう一人が「は? 死んだじゃん」と返す。「それが、歩いてたって。○○のとこの子が見たって言ってた」
伝聞の伝聞だった。動画がないのは、見た人間が撮る前に対象が消えたからだと言う者もいれば、撮ったのに画面には何も写らなかったと言う者もいる。証言が揺れていた。揺れていること自体が、アオネには一つの材料だった。何もなければ、噂は立たない。何かがあって、それをうまく捉えられないから、証言が揺れる。
アオネは自販機から離れて、紙をもう一度広げた。
偽の赤が増えている。死んだはずの赤が歩いているという話も出ている。リソースの配分がどう動いているのか、今の手元の数字だけでは読み切れない。
構造を維持するというアオネの目的にとって、今いちばん欠けているのは、事実の確認だった。誰が本当に死んで、何が本当に増えているのか。噂と目視だけでは、そこまでは届かない。
それを知っている機関は、一つしかなかった。
アオネは紙を畳んでポケットに入れ、画面を確かめた。赤枠タグの通知が、また一件増えていた。
九月も半ばを過ぎたが、池袋の夜はまだ湿っていた。雑居ビルの隙間を抜ける風にも、昼間の熱がわずかに残っている。今夜は金曜日ではない。NOISE BOXの看板も落ちていない。ただの平日の夜に、キヅキとミドリは並んで歩いていた。
自販機の灯りの下で、キヅキは画面を見た。知らないアカウントからのDMが一件。
「昨日、大井町でカノン見た。マジで」
スクリーンショットが一枚ついている。改札の方へ流れていく緋色の輪郭。画質が粗く、確かなことは何一つ分からない。似た報告はこの三日で四件目だった。フォロワー数も投稿の反応数も、キヅキは画面を見なくてもだいたい分かる。この手の噂は毎晩何かしら流れてくるし、たいていは面白がっているだけで終わる。今夜のこれは、送ってきた相手の顔ぶれからして、少し違う気がした。
「なんか、な」
隣を歩くミドリに、画面は見せずに言った。ミドリは聞き返さず、続きを待つ仕草だけをした。
「カノンの声、聞けば分かる」
動画で気づいたのが最初だった。あの夜のカノンの声は、変わっていた。直接聞けば迷う余地はない——そう思っているのは自分だけかもしれないが、それでも確信の方が先に来る。声を届かせる仕事を、キヅキはずっとやってきた。届いた声が誰のものかを聞き分けることも、その仕事の裏側みたいなものだった。
大井町の現場に着いたのは、それから電車を二本乗り継いだ後だった。目撃から二日経った高架下は、当然もう誰もいない。終電にはまだ早い時間の電車が頭上を通るたび、コンクリートの梁が低く鳴った。
ミドリが柱の一本に手のひらを当てて、しばらくそこに立っていた。何をしているのか、キヅキには分からない。ただ、いつもそうするということだけ知っている。
「何もない」
短く言う。それだけだった。
本物が戦った場所には、何か残るらしい。ミドリの言葉を借りればそれは厚みのようなもので、キヅキには感じ取れない種類のものだった。今立っている場所には、その厚みがなかった。
「偽の、ってこと」
「そう、だと思う」
赤の枠が荒れれば、他の色の取り分も削られる。誰に教わったわけでもない理屈が、いつの間にか二人の行動原理になっていた。四人で集まっていた頃はもう終わっている。それでも、確かめる理由だけは、解散した後も残った。
移動中、キヅキの端末がまた震えた。まとめアプリ経由の投稿——湾岸、コンテナヤード付近、赤い光の目撃が複数、時刻は三十分前。
「行く?」
ミドリが先に聞いた。
「行く」
電車をもう一本乗り継いで、埠頭に着いたのは日付が変わる少し前だった。倉庫と倉庫の隙間を海風が吹き抜けていく。ここには壁というものがほとんどない。積まれたコンテナの列が、街灯の届かない高さまで黒い塊を作っているだけだった。水面は油の膜でも張ったように鈍く光り、対岸の明かりを崩れたまま映している。
クレーンのアームの影が、月のない夜の中でも一段濃く落ちていた。
そこにいたのは、偽の赤ではなかった。
積まれたコンテナの一番上、街灯の届かない高さに、緋色の髪の少女が立っていた。動かない。海風に髪だけが流れている。
その斜め後ろ、もう一段高い位置に、黒い服の人影があった。さらにその陰に、もう一つ——紫。
キヅキの隣で、ミドリの息が止まる音がした。
九月も半ばを過ぎた夜は、まだ虫の声が残っているはずだった。ここにはもう、それもない。海風が倉庫の隙間を抜けるたびに、油の膜を張った水面が細かく波立つ。
コンテナの上の少女は、動かなかった。緋色の髪だけが風に流れている。
「……カノン?」
呼びかけるつもりはなかった。気づいたら、口から出ていた。
「——なに」
降りてきた声に、キヅキは息を止めた。
軽い。フラットで、確認するみたいな喋り方。動画で聞いたのと同じ声だ。ただし、あの夜——防犯カメラの映像で気づいた、あの「変わってた」声ではない。もっと前の声だった。まだ何も焼け落ちていなかった頃の、初期のアップロードに残っている声。
死んだ人間の声は変わらない。それは分かる。でも、戻るのはおかしい。
「あの夜の話、覚えてる? 路地で会って——動画のこと、聞かれて」
「……なんの話?」
間がない。探す仕草もない。
キヅキは、その「間のなさ」の意味を、少し遅れて理解した。あの夜は二人きりだった。カメラはなかった。誰も撮っていない。記録が、ない。
——記録がないものを、この子は持っていない。
分かった瞬間、喉の奥で何かがひっくり返った。声が裏返り、抑える間もなく外へ漏れる。空間に満ちようとする——だが、ここには壁がない。倉庫と倉庫の隙間を風が抜けるだけの、開けた埠頭だ。声は満ちる前に散っていく。届かない。
「戦うの?」
コンテナの上から、確認する声が降りてくる。予告でも脅しでもない、いつも通りの調子だった。
指先に、火花が散る。
ミドリが先に動いた。スマホより先に、しゃがんで両手を地面につけていた。
「——ここにいて」
コンクリートの冷たさが手のひらから上がってくる。ゆっくり立ち上がりながら、両手を胸の前で重ねる。苔色が茎を伸ばす速さで、膝、腰、胸へ上がっていく。
キヅキも遅れて指をサイドボタンにかけた。三つの音。両手を広げて頭上に上げ、弧を描いて下ろす——観客への挨拶に似た動作。声から変わるのが最初だ。頭頂、肩、指先。黄色い光が外から輪郭に沿ってくる。
赤い光がコンテナの縁を蹴った。着地と同時に、両手に炎の覆いを纏っている。
振り下ろされる寸前、地面が動いた。アスファルトの割れ目から、樹根に似た帯が二人の間に走る。ミドリが作った「場所」だった。厚みのある空気が、攻撃ではなく境界として立つ。
炎の拳が帯に触れる。焼ける匂いより先に、帯が炎を吸い込んでいくのが見えた。水面が橙色を映して揺れる——夜の中で一番、色のある瞬間だった。
吸うたびに、ミドリの息が浅くなる。二度目の接触で、片膝が一瞬だけ落ちた。
もう一段高いところから、紫の光が二つ、同時に降りてくる。鏡合わせのような動き——どちらが先に地面へ着くのか、キヅキには分からない。二方向から赤へ迫る。カノンは軸足を変えるだけで両方を弾いた。指一本分の無駄もない、生前と同じ動きだった。
——違わない。それが、怖い。
疲れていくはずの型が、どこにもなかった。息が上がる、動きが鈍る、次の一撃までの間が延びる——そういう摩耗が一切ない。いちばん強かった頃のまま、体に張り付いている。軽さの底に、恐ろしいほどの力があった。
キヅキは後ずさりながら、コンテナの隙間へ入った。逃げているように見えて、計算していた。開けた場所では声が満ちない。壁があれば、話は違う。声は、届く場所を選ぶ。
鉄壁に挟まれた通路に踏み込んだ瞬間、声が初めて跳ね返ってきた。両側の壁で反響が重なり、増幅する。カノンが一瞬、耳のあたりに手をやった——生前になかった反応ではない。ただ驚いた顔だった。
赤・紫・緑・黄が同じ通路に重なった数秒、誰の技も目に見えて軽くなった。ミドリの帯が届く前に千切れる。紫の光が半分の速さでしか伸びない。キヅキの声が壁に届く前に薄くなる。カノンの炎さえ、勢いを一段落とした。
「——今夜は、ここまで」
紫の声が、通路の入口から響いた。怒っているわけではない。判断の声だった。
カノンが動きを止める。攻撃を続けるでもなく、追うでもなく、ただ止まる。
ミドリの帯が引いていく。キヅキは肩で息をしながら後ろへ下がった。誰も倒れていない。誰も、致命的なところまでは踏み込んでいない。
高いところの黒い影は、最後まで動かなかった。手帳もペンも出さない。ただ見ていた。
去り際、キヅキは振り返らずに言った。
「……あんた、誰」
「カノンだけど」
間がない。
フェンスの向こう、埠頭の外周に、この夜をずっと見ていた影があったことを、二人はまだ知らない。
湾岸沿いの道を戻りながら、ユカリはようやく変身を解いた。潮の匂いだけが、まだ制服に残っている。肩に、いつもより重いものが乗っていた。
制服の右の袖を強く引っ張ってから、端末を取り出す。
呼び出し音は、二回で切れた。
「もしもし」
こんな時間でも、クロエの声は変わらなかった。
「あの子は、カノンなの」
前置きなしに聞いた。答えを待つ間、自分の息の速さが気になった。
「カノンさんの記録から、立ち上げたものですわ。記録は、本物ですのよ」
正確な答えだった。正確なだけで、聞きたかったことには何も触れていない。また、これだ。答えないことが、答えだった。
「そういう意味で、聞いたんじゃ——」
言いかけて、やめた。この先を続けても、返ってくる言葉の形は変わらない。クロエはこういう聞き方をされることを、はじめから計算に入れている。
「今夜は、遅いですわ」
それだけ言って、通話は切れた。ユカリは端末を耳から離したまま、しばらく対岸の明かりを見ていた。留保が、また少し深くなる。何に対しての留保なのか、まだ言葉にはできなかった。
同じ頃、湾岸から山手線の駅へ向かう道を、キヅキとミドリは並んで歩いていた。潮の匂いが、まだ抜けない。しばらく、どちらも口を開かなかった。
「あれ、カノンじゃない」
先に言ったのはキヅキだった。
「なんで、そう思う?」
ミドリが聞き返す。理由を求める聞き方は珍しかった。
キヅキは答えなかった。あの夜のことを知らなかった、という根拠を口に出せば、あの夜そのものが軽くなる気がした。誰にも話していない夜だった。今もそうしておきたい。
「……なんとなく」
「そう、だと思う」
ミドリはそれ以上聞かず、短く付け足した。
「場所に、残らなかった」
埠頭に、何も残っていなかったこと。キヅキには分からない種類の感覚だったが、疑う理由もなかった。声と、場所。別々の入口から入って、同じところに着いている。
問題は、それをどこに持っていけばいいのか、二人とも分からないことだった。警察は、魔法少女がいることさえ認めていない。
「言っても、誰も——」
「うん」
ミドリが遮るように短く返した。それ以上、どちらも続けなかった。
ユカリさんとの通話を切ったあと、わたくしは机の紙を一枚、引き寄せた。
検証は、済んでいる。今夜の埠頭で、カノンさんの精度がどこまで通用するかを見た。キヅキさんという、本物の声を知っている人間の前でさえ、記録の範囲では崩れなかった。声も、間の作り方も、生前の型のまま持ちこたえている。崩れたのは、記録にない一夜のことを聞かれた、その一点だけだった。
ほとんどの疑いは、記録の外側からは来ない——わたくしはそう分類した。
紙に、一行書く。
「検証、完了」
鉛筆を持ち直し、「カノン」の丸の隣に、新しい名前を書き足した。
「キヅキ」
丸は、つけない。
記録の外側を突いてくる人間には、丸をつける前に、もう少し見ておく価値がある。