アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

58 / 62
3.ソレイユ・ブラン-Soleil Blanc-

改札の内側、案内表示板の下に、腕章をつけた男が三人立っていた。広げた地図に、赤いペンで丸が四つ。改札規制の範囲だった。実施は八時四十分から、総理の到着五分前。今はまだ、通勤の流れがそのまま残っている。

九月下旬、快晴の朝だった。大屋根から落ちる光が、床のタイルに白く反射している。スーツの群れ、キャリーケースを引く旅行者、修学旅行らしい旗を先頭にした列——いつもの朝の密度に、今日だけは規制線の予定表が重なっていた。

「警護22より移動901どうぞ」

耳の奥の受信機に、聞き覚えのない声が入った。SP側の周波数だった。K機関の帯域は別に割られていて、普段は静かなその帯に、今朝だけ他機関の声が混ざる。

「後詰めチェックします。マル動あった場合のみ扱いお願いします」

「移動901より警護22、了解しました」

A1が短く答えた。声に感情はない。動きがあった場合のみ——その一言に、ワタシたちがここにいる理由の全部が入っていた。特捜部との縄張りで、Cから捜査活動を制限されているはずのK機関が、今日はSPの後ろに立っている。制限が、逆にワタシたちをここへ置いていた。皮肉というほどの重さもなく、ただそうなっていた。

代表選に出ない総理が、投開票を前に地元へ帰る。公務でも私事でもない、その中間の移動だった。政治的にはもう終わっている人間を、正規のSPが主で守り、K機関は柱の陰にいる。

コンコースの三番柱、A1がそこに立った。ワタシは少し離れて、キャリーケースを引く旅行者に紛れる位置を取る。私服のワタシたちは、朝の人波の中では誰にも見分けがつかない。それが仕事だった。

「ホームは向こう」

A1が顎で示した先、新幹線改札の向こうに、規制線を張る準備をしているSPが二人見えた。両端に立って、動線を折り曲げる形。K機関の位置はコンコース側から動かない。

放送が流れた。九時発ののぞみの案内。乾いた空気に、アナウンスの声だけがよく通る。九月の光は、真夏の光と質が違う。まだ暑いのに、どこか薄い。

A1が右腰に触れた。ホルスターの上を、指先で確かめるように一度だけ。使うかどうかではなく、そこにあるかどうかを確かめる仕草だった。

今夜も、と思いかけて、ワタシは訂正する。今日も。これは使わない。

何度目になるのか、もう数えていなかった。数えなくても、いつも同じ答えが出る仕草だった。

「今日は静かだな」

A1が言った。独り言に近い声だった。

「静かすぎるくらい」

ワタシが返すと、A1は何も言わなかった。柱の陰から見える範囲を、視線だけで一周させている。

耳の奥に、また声が入った。今度はQだった。

「——偽の赤の出現ログ、今朝から空白です」

一拍、間があった。

「昨夜まで、平均で一日二件はあった。今朝はゼロ」

出ていないことが、いちばん嫌な情報として置かれた。ワタシにはその意味が分からなかったけれど、Qの声の抑揚のなさが、いつもより少しだけ硬い気がした。

「引き続き、注意してください」

それだけで通信が切れた。A1は柱に寄りかかったまま、視線を動かさなかった。

「ゼロってのは」

ワタシが言いかけると、A1が短く返した。

「悪い数字だ。多いより」

理由は説明されなかった。訊く前に、コンコースの向こうで警笛が鳴った。九時発の列車が、ホームに滑り込んでくる音だった。

朝の駅は、まだ何も知らないまま動いていた。改札を抜ける足音、キャリーケースの車輪、子どもの声。ワタシは柱の陰から、その全部を眺めていた。

A1のホルスターに、もう一度だけ視線が行く。

今日も、これは使わない。そう思った数分後に、それが崩れることを、まだ誰も知らなかった。

 

 


 

 

音の質が変わった。

改札を抜ける足音、キャリーケースの車輪、修学旅行の列の笑い声——そういう朝の雑音の中に、違う成分が混ざった。悲鳴より先に来たのは、足の向きだった。ホームへ流れていた人波が、一拍遅れて、一斉に逆を向いた。

コンコースの先、案内表示板の下あたりに、赤い光があった。

輪郭が濃い。動きが速い。人の頭の高さを、まっすぐに滑ってくる。

——今朝はゼロだと、Qは言っていた。あの空白の意味が、今分かった。

進む先に迷いがなかった。総理の動線。改札の向こう、規制線を張っていたSPが二人、盾替わりの鞄を開き、拳銃を構える。距離の取り方は、人間同士の間合いだった。

間に合わなかった。

二人分の身体が宙で折れ、跳ね飛ばされて床に落ちた。倒れたまま、動かない。無線の向こうで、誰かのSPの声が急いていた。

「至急至急!警護45マル動!」

語尾がノイズに沈んで消えた。死んではいない。それだけは分かった。それ以上を確かめている時間はなかった。

指はもうサイドボタンにかかっていた。液晶を外に向け、胸の前にかざす。

一拍の無音。柔らかい和音。

腕を胸の前で広げる。何を迎え入れているのか、今も分からないまま。

——始めます

胸の中心から桃色の光が開いた。大屋根から落ちる九月の白い光の中で、その色はいつもより薄く見えた。眩しすぎる朝には、桃色は勝てない。

次に気づいたときには、床の上にいた。

制圧ではなく、防護だった。逃げ遅れた乗客と赤の間に、透明な板を立てていく。一枚。二枚。三枚。杖の先で角度を直しながら、人の流れを非常口側へ折り曲げる。桃色の板が朝のコンコースに列をなす画を、数百のスマートフォンが同時に向けて撮っていた。

A1が赤に踏み込んだ。

細い棒が、届く前に弾かれた。飛んだワイヤーが、着弾より先に焼き切られた。向けた光に、赤の輪郭が一瞬薄れる——でも、戻る方が速かった。

こんな赤を、ワタシは知らない。

A1の動きが止まった。

止まって見えたのは、三秒くらいだった。距離を測っている。総理の避難が終わるまでの秒数を数えている。消耗させて落とす戦い方には、その秒数が足りない。差し引きの答えは、もう出ている。

「至急至急、移動901より管理官。発砲許可」

無線に、A1の声が乗った。Qの声は入らなかった。この交信は、二人だけのものだった。

一拍。

「——了解、発砲許可」

圧のない声が、ノイズの向こうで一度だけ通った。

A1が右腰のものを抜いた。二発。

音が大屋根に反響した。この朝、いちばん大きな音だった。銃口の火だけが、白い光の中で一瞬、色を持った。

赤が止まった。輪郭が揺れる。粒に分かれていく——映像のノイズのような細かさになって、床に届く前に、どこにもなくなった。

倒れる音がしなかった。何も残らなかった。

一拍、すべてが止まった。板の向こうで、誰かのスマートフォンが、まだ録画を続けている電子音だけがしていた。

 

 


 

 

三十分後には、コンコースの音が変わっていた。

悲鳴も、走る足音も、もうなかった。規制線のテープが立てる乾いた音と、無線の短いやり取りだけが、朝の残響みたいに残っている。改札の向こうに黄色いテープが二重に張られ、鑑識の腕章をつけた男たちが、番号札を床に並べながらカメラのシャッターを切っていた。

耳の奥の受信機に、伊丹の声が入った。

「警護22より移動901。マル護(総理)離脱を確認しました。負傷者はこちらの二名、それと転倒による軽傷が十数名。……死者ゼロです」

ゼロ、というところで、声が一瞬だけ硬くなった。伊丹自身、その数字をまだ信じきれていないような間だった。

ワタシは杖を仕舞いながら、床を見た。焦げた跡が三つ。案内表示板が根元から折れて、床に倒れている。鑑識の一人がそれにかがみ込み、定規を当てて写真を撮った。

その先の壁に、穴が二つあった。

灰色の壁面に、貫通した弾の跡。周りに小さくテープが貼られ、番号札が立っている。弾は壁の中に残っていた。当たったはずのものは、どこにもなかった。

「対象、確認できず」

誰かが小さく言うのが聞こえた。撃った事実だけが、壁に残っていた。

A1が右腰のホルスターに拳銃を戻した。しゃがんで、床に落ちていた薬莢を二つ、手袋越しに拾い上げる。転がして、袋に入れる。ただの手続きだった。バイザーの下の顔は見えなかった。

唇が薄く開いて、止まった。

何も、かたちにならなかった。

視線が、いつもの先を探した。見つからなくて、規制線の外、まだスマートフォンを構えたままの人だかりの方へ、一度だけ流れた。止まったのは、瞬きひとつぶんくらいの間だった。それから、視線は戻ってきた。何も言わないまま。

「戻るぞ」

A1が言った。いつもの声だった。同じであることを、確かめるみたいに、ワタシはその声を聞いていた。

 

 

規制線の向こうで、何十台ものスマートフォンが、まだ何もない壁と、片付けられていく破片を映し続けていた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。