アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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5.ディラン・ブルー-Dylan Blue-

 なぜここにいるのか、×××××には分からなかった。

 分からないまま、公園のベンチの端に座っていた。アオイの隣に、三十センチほどの距離を保って。保っているのが「礼儀」なのか「臆病」なのか、それも判断できなかった。

 午後八時を過ぎた公園は、昼間とは別の場所だった。同じコンクリートの床、同じ自販機、同じ三つのベンチ——材質は変わらないのに、光量が落ちると空間の意味が変わる。昼間ここにいる人間たちが「持ち込んでくる」ものと、夜ここにいる人間たちが「持ち込んでくる」ものが、たぶん違う。何が違うのかを言葉にする語彙が、×××××にはなかった。

 今夜で三度目だった。

 それがいつの間にかそうなっていた。一度目は偶然で、二度目は「もう一度でいい」という保留で、三度目の今夜になるともはや保留の言葉すら出てこなかった。帰り道の公園に、アオイがいる。それだけのことが、いつの間にか「帰る前にここに寄る」という行動に変わっていた。変わったことに気づいたとき、それを異常だとは思わなかった。それが一番、引っかかっていることのひとつだった。

 アオイはイヤホンをしていなかった。

 それは珍しかった。妖精と話していないとき——妖精を保留しているとき——アオイの顔は少し別の顔をする。内側が一段だけ近い。一段だけ、この世界の光の温度に合わせてくる。

「あなた」とアオイが言った。「家は、遠い?」

「渋谷から二駅」

「そっか」

「アオイさんは?」

「歩いて十分くらい」とアオイは言って、それから少しだけ間を置いた。「一人暮らし。去年から」

 聞いていいのかどうか、迷うより早く×××××の口は「一人で、大丈夫?」と言っていた。言ってから後悔した——大丈夫か大丈夫でないかを問うことの無意味さを、×××××はどこかで分かっていた。

 アオイが少し笑った。笑いというより、顔が一瞬だけ緩んだ。

「大丈夫かどうかは、まあ」と言って、止まった。「続きは、自分でもよく分からない」

 夜風が来た。

 三月の終わりに、花が散るより先に来るこの風の性質を、×××××はうまく言い表せなかった。温かくも冷たくもない。乾いてもいない。皮膚に当たってから消える前の一瞬だけ、世界が季節の移行点にいることを知らせてくる——そういう風だった。

 アオイがスマートフォンを膝の上に出した。

 イヤホンを、今日は左耳だけに差した。片耳だけ開けている。この人の「片耳」と「両耳」の差が何を意味するのか、×××××はまだ分からなかった。ただ、今夜は「片耳」だということは分かった。

 

 そのとき、だった。

 変化は音から来た。

 音というより——音の「なくなり方」から来た。公園の周辺に常に存在していた渋谷の底鳴り——道路の車の音、どこかの店舗から漏れる音楽、人の話し声の集積——それらが一斉に薄くなった。薄くなる、という言い方では正確ではない。それらが「あちら側」に行った。ガラスを一枚挟んだように、同じ量の音があるはずなのに届き方が変わった。

 アオイが立ち上がった。

 立ち上がり方が違った。「立つ」という意志の前に身体が動いていた。反射と呼んでもいい——ただし動物の反射とは違い、訓練された何かに近かった。膝が伸び、足が地に着き、重心が上がる、その連続が一息で完了していた。

「来て」

 アオイの声の質が変わっていた。一段だけ、底が深くなった。

「隠れて」

 ×××××の手首を引く力は思ったより強かった。反論を形成するより先に身体が動いて、気づいたら植え込みの陰だった。コンクリートの縁石と低木の間の、人一人がぎりぎり入れる影。膝が地面についた。砂の冷たさが膝から骨に伝わった。

「動かないで」

 アオイが言って、離れた。

 振り返るな、と言わなかった。振り返るな、と言われなかったから——あるいは、言われていたとしても——×××××は振り返った。

 

 スマートフォンが、光っていた。

 光というには語が汚染されすぎている。LED、ネオン、広告パネル——渋谷に溢れるすべての発光体からかけ離れた性質で、アオイの手のひらの上のデバイスが、藍色に——深海で溶けた岩の色に、あるいは空が白む直前の夜の底の色に——染まっていた。

 光は静かだった。

 爆発しなかった。広がらなかった。拡大しなかった。ただ発光した。それだけなのに、その光を見た瞬間に、×××××の身体は何かを直感した。直感した内容を言語化する時間はなかった。

 アオイの輪郭が、揺れた。

 「揺れる」という動詞は正確ではなかったが、他に当てはまる言葉を×××××は持っていなかった。シャープだった像が、水の中で見るように、わずかにぼやけた。ぼやけた、という言い方も違う——アオイという存在の「解像度」が、一瞬だけ落ちた。何枚かのレイヤーが剥がれかけて、また貼り付いて、その過程で像全体がわずかに非定形になった。

 水が染みていくように、光が広がった。

 爆発は来なかった。代わりに——染み込んだ。制服の藍色の布地に、光が裏側から注いで、滲んで、溶けていく。溶けながら別の形になる。「衣装が変わる」という瞬間を×××××は目の当たりにしていたが、変わる「瞬間」がなかった。ある状態から別の状態への移行が、断絶なく、ただ「そうなっていった」。

 水の中にいる人間の服を、想像したことがあるか。

 水に浸かったとき、布は重力を一部放棄して、水流に従う。着ている、という状態が変わる。布地が皮膚から離れる部分と密着する部分の境界が流動的になる。変身後のアオイの衣装は、その状態に最も近かった——固定された衣装ではなく、「まとわれている」衣装。水の層が何枚も重なっているような、動くたびに微妙に遅れて動く、軽いが重い何か。

 アオイの顔を、×××××は見た。

 見て、一歩だけ息が詰まった。

 感情が消えていた。正確ではない——感情を担っていた何かが、場所を移したのだ。目が、まだアオイの目なのに、違う目になっていた。眠っているのではない。感情がないのでもない。何か別の計算、あるいは別の集中の種類が、顔面という表示デバイスを完全に占有していた。「人間の感情を持っているが今はそれ以外のことをしている」という機能的な顔。

 その顔が、公園の向こうに向いた。

 

 来た。

 ×××××には見えなかった。

 一瞬だけ、方向が分かった。来た方向だけが分かった。黄色い、という印象だけが、色という概念の手前の段階で滑り込んできた。

 変身した相手——後から考えれば、アオイと同じ種類の何かが変身した存在——は、×××××が想定していた形をしていなかった。

 形は、人間だった。

 人間の形をしていた。しかしその人間の形に、意思の統一感がなかった。顔が見えなかったわけではなかったが、顔の部分を脳が処理することを、×××××の知覚が拒否した——いや、拒否したのではなく、処理するだけの情報を受け取れなかった。「個人」ではなかった。機能だった。こちらを止める機能、この場所から何かを奪う機能、障害を排除する機能。

 その機能が、アオイに向かって来た。

 アオイが動いた。

 動き方に、×××××の知っているすべての動きの語彙が適用できなかった。格闘技でも体操でも走ることでもなかった。水の中で動くような——水が速く動くような——速度と形の変化。アオイの身体は制動と回避を同時に行っていたが、その両方が「流れる」という一語に収まっていた。

 衝撃が来た。

 音が先だった。植え込みのコンクリート縁石に振動が伝わった。×××××の膝の下から、骨を伝って腰骨まで、固体音が走った。何がぶつかったのか見えなかった。見えないまま、肌が何かを察知した——熱でも冷気でもない圧力が、十メートルほど先で大量に発生して、その余波が空気を変えた。

 アオイの結界、と後から×××××は理解する。

 今この瞬間は、「壁がある」とだけ分かった。見えない壁が、アオイを中心とした空間を区切っていた。向こう側で戦いが起きていた。こちら側には、×××××だけがいた。

 

 きれいではなかった。

 ×××××が最初に思ったのはそれだった。

 アニメーションの中の戦闘には、構図がある。カメラアングルがある。衝突の瞬間を最も映える角度で切り取る視点が、常にどこかに存在している。しかし×××××は植え込みの陰から見ていた。低い。横からだった。照明がなかった。自販機の橙色の光と、月のない夜の暗さだけがあった。

 光が交差した。

 藍色と黄色が——ぶつかった、というより、接続した。接続した瞬間に、双方の輪郭が一瞬だけ崩れて、復元した。復元された形が、互いに一センチずつ違う場所にあった。その一センチを巡って、次の衝突が来た。

 音は、多かった。

 衝突する際の破砕音ではなかった。肉体が機能するときの音——呼吸、足が地面を掴む音、服が引っ張られる音、腕が引き戻される際に空気を押す音——それらの集積が、戦闘の実態を構成していた。×××××は何かの映画で聞いたような乾いた打撃音を予期していたが、そうではなかった。もっと湿っていた。もっと有機的な音だった。身体を使うということは、こういうことだ——という音。

 アオイが押された。

 後退した、という言い方ではない。重心が後ろに動いて、左足が地を蹴って、身体が一体のものとして後退した。後退しながら、腕が前に出た。出た腕から何かが広がった——水が薄く広がるように——それが向こうの黄色い力と衝突して、熱風ではない何かが横に散った。

 その散り方が×××××のいる植え込みにまで届いて、頬に何かが触れた。

 痛くはなかった。

 ただ、それが「届いた」という事実が、×××××の胸の内側のどこかを急速に冷やした。

 

 三分——あるいは、もっと長い——時間が経った。

 ×××××には計測できなかった。

 時計を持っていなかったわけではない。iPodの画面を見ることが、頭から消えていた。呼吸を数えることで時間を測ろうとしたが、自分が呼吸しているかどうかも、途中から曖昧になった。

 アオイが前に出た。

 ここまで防御に回っていた動きが、変わった。後退と受流しで作っていた「場所」を、手放した。手放したことが弱さではなく、何かの計算だと——×××××にはそれが分かった。分かったことの根拠は言語化できなかったが、「あの人は今、何かを決めた」という確信だけが植え込みの陰に伝わってきた。

 アオイの手のスマートフォンが、再び藍色に発光した。

 最初に光ったときとは、強度が違った。先ほどが「染み込む」光だったとすれば、今は「圧縮されている」光だった。密度が上がっていた。体積を減らして、密度を上げる——そういう光。

 向こうの黄色い存在が、一瞬、怯んだ。

 怯んだ——という観察が正確かどうか、×××××には分からなかった。ただ動きが変わった。前に来ていたものが、来なくなった瞬間があった。その一瞬を、アオイは使った。

 何が起きたのか、×××××の目には映っていた。しかし映っていたことが何を意味するのかを理解するのに、数秒かかった。

 黄色い存在が、後退した。

 後退し、それから——いなくなった。

 走って逃げたのかもしれなかった。あるいは別の手段で「その場所」から離れたのかもしれなかった。ともかく、いなくなった。公園の向こうに、渋谷の夜に溶けた。

 残ったのは、アオイだけだった。

 

 変身が解けた。

 解けた、という語が正確かどうかも×××××には分からなかった。あの衣装が制服に戻ったのではなかった——「衣装だったもの」が「制服になっていった」。この方向と、変身時の制服が衣装になっていった方向が、同じ連続体の上にある、ということだけが分かった。

 アオイが立っていた。

 立っていたが、重力の扱い方が変わっていた。さっきまでアオイは重力と交渉しながら立っていた。交渉に勝ちながら動いていた。今は——重力を受け入れていた。両方の膝に、体重が正直に乗っていた。

 感情が、戻っていた。

 変身中に「場所を移していた何か」が、顔面という表示デバイスに戻ってきた。戻ってきたものは——疲弊だった。疲弊を、感情と呼んでいいかどうか分からないが、それがアオイの顔に乗っていた。

 ×××××は植え込みから出た。

 地面に膝をついていた時間のせいで、膝から下が少し痺れていた。膝の砂を払いながら立ち上がって、アオイの方に向かった。向かいながら、何を言うべきか考えた。考えたが、考えたことは全部嘘くさかった。

 だから出てきたのは、考えていないことだった。

「……すごかった」

 アオイが顔を上げた。

 アオイの顔が、×××××を見た。その顔が——初めて、少しだけ崩れた。崩れた、というのは正確ではないかもしれない。硬さを保つための何かが、力を抜いた。抜いた瞬間に、アオイの顔が「アオイの顔」になった。変身中のアオイではなく、公園のベンチにいたアオイ、傘の「ありがとう」を言ったアオイ、「大丈夫かどうかは、まあ」と言ったアオイの顔に。

「見てたの」

 声が、少しだけ違った。詰問でも非難でもなかった。確認だった。

「見てた」

「隠れてって言ったのに」

「言われた」と×××××は言った。「でも見た」

 アオイが何か言いかけて——止まった。

 止まったまま、×××××を見ていた。

 風が来た。さっきと同じ風が、もう一度。三月の終わりの、温くも冷たくもない、季節の移行点にいる風が、二人の間を通り過ぎた。

 アオイの前髪が、一筋だけ揺れた。

 揺れて、戻った。

 アオイが、ゆっくりと息を吐いた。吐き方が長かった。長い時間をかけて、肺の中にあった何かを出した。それが終わって、また吸った。吸い方は短かった。

「疲れた」と、アオイが言った。

 独り言のようだった。×××××に向けていたかどうかも分からない声だった。

 それでも×××××は「うん」と言った。

 なぜそう言ったのかは分からなかった。疲れた、という言葉への返事として「うん」は意味をなさないかもしれなかった。意味をなさないまま、口から出た。

 アオイが、少しだけ、また表情を崩した。

 崩した、と×××××が呼ぶことにしているものは——たぶん、笑いに一番近い種類の何かだった。笑い方を使い果たした後に残る、笑いの痕跡みたいな何かだった。

 公園は静かだった。

 渋谷の底鳴りが戻ってきていた。ガラス一枚の向こうに行っていたものが、戻ってきていた。車の音、店の音、人の音。それらが戻ってきていた。

 アオイが自販機の方を向いた。

「コーヒー」と言った。「飲む?」

 ×××××は、「うん」と言った。

 さっきの「うん」とは少し違う「うん」だった。意味のない「うん」ではなかった。この「うん」には、「私はここにいる」という重さがあった——あったと、後から思う。

 アオイが自販機に向かって歩き始めた。歩き方は、さっきより遅かった。重力への交渉をやめた人間の歩き方だった。

 ×××××は、その背中を見ながら、一歩だけ遅れてついていった。

 公園には二人だけが残っていた。

 渋谷は、変わらなかった。

 

 

 

 

 

 

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