アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
速報のテロップが、三面モニターの隅を横切った。
「民自党代表選、開票結果」
数字が続く。三百十一票、対、百八十四票。決選投票にもつれ込むという事前の見立ては外れていた。一回目の投票で、決着がついていた。
Qはその数字を、一ヶ月分の報道量グラフの隣に書き足した。伸び続けていた折れ線と、水平のまま動かなかった折れ線——票の比率は、この一ヶ月の傾きと、ほぼ同じ形をしていた。
各局のテロップが、続けて流れる。
「危機に際して、安定を訴えたことが支持を広げた」
「秩序の回復を掲げる姿勢が、有権者の不安に応えた」
「危機」「秩序」——どちらの局も、二語のどちらかを使っていた。何の危機かは、テロップの尺の都合か、誰かの判断か、説明されない。東京駅、という三文字は、どのテロップにも出てこなかった。
クローラーが、この一時間で拾った記事は七十三件。「新総裁」の語を含むものが六十八件、「東京駅」の語を含むものは五件——うち三件は、先週より前の日付だった。
中央のモニターで、二本の折れ線が初めて交わっていた。東京駅関連タグの検索量は、開票速報の流れ始めた午後八時を境に、右肩下がりに折れている。新総裁関連タグは、同じ時刻から垂直に近い角度で立ち上がっていた。交わった時刻を、Qはカーソルで示す。二十時三十四分。
五章に記録した数字を、Qは呼び出した。七十二時間で、九十二パーセント減——匿流タグの怒り係数が、あの夜に落ちていった速さだった。今夜の落ち方は、それより速い。
一行だけ、書いた。
「上書き」
それ以上、続けなかった。あれだけの動画も、丸の内口に積まれた献花も、加工だと言われた映像も、加工ではないと言い張る流言も——次の見出しに、順番に呑まれていく。呑まれていく速さだけが、数字として残る。
Qは別のタブを開いた。数日前、南平台の坂道でサクラが受け取ったという文字列。観測者不明のアドレスから届いた、偽の赤の出現ログと、単独時・複数時の出力差の観測値。当機関のログの数値と、並べる。
出現件数、単独時の持続秒数、複数時の落差。小数点第二位まで、ずれがなかった。
一行だけ、書いた。
「観測者不明のデータと、当機関の記録が一致。出典は記録しない」
書いてから、一度だけ声に出して読んだ。耳から返ってくるものが、書いた文字と合っているかを確かめる、いつもの手順だった。合っていた。
三日後、召集された臨時国会が、新総裁を新しい内閣総理大臣に指名した。テロップの書式が変わる。「新総裁」の四文字が、「新首相」の三文字に置き換わった、その瞬間だけを、Qは静止画で保存した。ファイル名は、日付だけにした。
投開票の夜、わたくしはテーブルの紙を一枚、指先でなぞっていた。
「毛利」——半月前に書いた文字に、丸がついている。今夜、ここに新しい丸を足す気にはならなかった。足す必要が、もうなかった。
テレビはつけないままにしておいた。数字だけで、足りた。
配役表の更新が、完了した。わたくしはそう分類した。
報道が先に動き、支持があとから追いつき、結果は最後に、順番通りの場所へ収まった。順序はすべて、観測できた。誰かが台本を書いたと言うつもりはない。台本があったとしても、この結果と見分けがつかない——それだけのことだった。一人が残り、もう一人は書き割りに戻る。ヴァリアシオンの終わり方は、いつも同じ。
タブレットに、新政権の政策骨子の速報が流れてくる。箇条書きが十数項目、並んでいた。「危機管理体制の再構築」「与党内融和の推進」「経済の下支え」——選んだ人間の目には、ほとんど留まらない言葉の連なりだった。指で画面をなぞり、下の方まで送る。
「多様な働き方に対応する資金調達手段の環境整備」
一行が、指の下で止まった。
どこかで見た形をしている。フューチャーペイ。五章の終わりに、既視感だけが疼いて、そのまま形にならなかった名前だった。
もう一度、同じ疼きが来る。今夜も、その先には進まなかった。線をつなげるだけの材料が、まだ手の中にない。指を、画面から離した。
隣の部屋から、カノンさんの寝息とも、そうでない何かとも取れる音が、かすかに届いていた。確かめには行かない。
紙の上、「毛利」の丸の隣に、新しい一行だけを足す。
「配役、完了」
丸はつけない。完了した配役に、今さら丸をつける意味はなかった。
窓の外、九月の終わりの空気が、少しだけ乾いた匂いを運んでくる。テーブルの端で、三つの丸——毛利、ユカリ、カノン——が、今夜も同じ場所で乾いたままになっていた。
盤面は、また一段、先へ進んでいた。
日比谷の古いホテルの三階。ティールームは平日の昼下がりで、窓際の席以外はほとんど埋まっていなかった。案内された丸テーブルには、Kより先に毛利が座っていた。
「お忙しいところ、恐縮です」
毛利は立たずに言った。灰色のスーツ、皺のないネクタイ——写真で見た通りの、型のない顔だった。
「いえ」
Kは向かいに座った。ウェイターが紅茶を二つ置いて下がる。窓の外で街路樹の葉が一枚、風もないのに落ちた。
「今回の対応は制度上、適切でした」毛利が先に切り出す。「新政権としても、貴機関の位置づけの整合性を改めて確認したいと考えています」
「そうですか」
しばらくカップの触れる音だけが続いた。
Kがカップを置いた。
「一つ伺っていいですか。仕事の話ではありません」
毛利が視線だけを上げる。
「最近、ある筋の資料に——ずいぶん久しぶりに"サーカス"という言葉が出てきました」
一拍、間があった。毛利のカップが皿に触れる寸前で止まる。それからゆっくりと置かれた。
「……どちらの資料で」
「経緯は申し上げられません」Kは短く切って続けた。「ただ、思い出したことがあります。あなたが学生時代に作ったものだと」
K機関に入る前、Kと毛利は東京大学の同じ法学部にいた。一年違い——Kが先輩、毛利が後輩。互いの記憶にその事実だけは、階級もコードネームも介さずに残っている。
毛利の口元が初めて緩んだ。
「……覚えていらしたんですね」
「法学部の後輩は、そう多くなかった」
「先輩に言われると、こそばゆいですね」
毛利がティーカップを両手で持ち直した。所作は変わらないが、声の温度が一段下がった——冷たい方にではなく、柔らかい方に。
「あれ、まだ現役なんですよ」毛利が言う。「二十年前、後輩を何人か集めて始めた、ただの勉強会のつもりでした。就職も業界も違う人間同士で情報とコネクションを回す——そんな話です。名前をつけるとき誰かが冗談で"サーカス"と言い出して、そのままバクロニムにしてしまった。頭文字だけ大文字にしたのは、当時は格好をつけたつもりだったんでしょうね」
「バクロニムは、たしか」
「Career Information Resource Circle for University Students」毛利が諳んじるように言った。「今思えば、ずいぶん恥ずかしい名前です。当時はうまいと思っていました」
「まだ関わっているんですか」
毛利が首を振る。
「もう関わっていません。今は——創業家、あるいは大株主のリソースプロバイダーのようなものです」
Kはそれ以上を訊かなかった。
紅茶に口をつけてから、毛利がふと身を乗り出した。
「ところで先輩。例の——魔法少女とかいう連中ですが」
「その話は」
「利用価値のある連中だと思っているんです。色々と、実現したいアイディアがある」
「それは、こちらの管轄ではありません」
Kは短く切って、話を戻す気配も見せなかった。毛利はしばらく待ったが、続きが来ないと分かると肩の力を抜くように笑った。
「相変わらず、隙がない」
「隙を見せる仕事ではありません」
「そういえば」Kが言う。「官邸官僚、だそうですね。念願の椅子が空いたそうで」
「官邸に席をいただくことになりました」毛利の声に初めて誇示の色が乗った。「ようやく思うように動かせます。この国の設計図を——直接、書けるようになる。これまでは他人の作った盤面に口を出すだけでしたから」
「大きく出ましたね」
「事実です」毛利は動じない。「制度設計として、です。誰が望ましいか、ではなく——誰なら整合性が取れるか。それを決める側に、今度こそ立ちます」
「一つ伺います」Kが言った。「あの日の警備計画は、誰の整合性でしたか」
毛利の視線が初めて完全に止まった。
「……ご質問の趣旨を測りかねます」
「阻止しても、しなくても、同じ場所に着く盤面でした。そういう盤面は作った人間がいます」
間があった。毛利の表情は動かない。動かないことが答えだった。
「……仮に、そうだとしても」毛利が言った。「制度は動きます」
「振付師、と呼ばれているそうですね」
「悪い気はしません」毛利の口元にまた薄い緩みが戻る。今度は先ほどの温かさとは質の違うものだった。「ただ——振付師にも逆らえない相手はいます。もっとも」
言葉を切って紅茶に口をつける。
「向こうから何か言ってくることは、まずありません。だから好きにやらせてもらっている」
「その相手というのは」
毛利が少し考えるふうをした。話すかどうかを迷っているのではなく、どう話せば伝わるかを選んでいる顔だった。
「出資者がいます。プロバイダーと呼ばれる連中です。その下に制作委員会というものがある。プロデューサー、ディレクター——肩書きは色々ですが、要するに大きな金と権限を持った人間たちです」
Kは黙って聞いていた。
「委員会、特にプロデューサーとディレクターは」毛利が続けた。「私の——『作家性』に惚れ込んでいます。だからいくらでも出資(リソース)をつぎ込んでくれる。天井が、ない」
「作家性」
「他に言葉がありません」毛利は少しだけ得意げだった。「私が描いた通りに、この国の盤面が動く。それを面白がってくれている人間がいる、ということです」
Kはしばらくカップを見ていた。
「一つ、思ったことがあります」
「どうぞ」
「あなたが知っている委員会というのは——あなたに分かるように書かれた話かもしれません」
毛利の目が初めて細くなった。
「分かるように書かれた話に、あなたが心から納得しているとしたら」Kは言葉を選ぶように間を置いた。「それは一番うまくいっている証拠です。何も言ってこないのは、言う必要がないからだ」
毛利が鼻から短く息を抜いた。笑いに近い音だったが、目は笑っていなかった。
「先輩は昔からそうでした。人の手柄を疑ってかかる」
「疑っているわけでは」
「結構です」毛利が紅茶を飲み干す。「仮にそうだとしても、私の手にあるものは本物です。椅子も、権限も、これから動かす金額も」
それ以上、Kは続けなかった。
Kが長く息を吐いた。
「……お疲れですか」毛利が初めて気づいたように言った。
「仕事で」Kは短く答えた。「少し」
窓の外で街路樹の葉が、また一枚落ちる。
「これからは」Kが言った。「自分のシナリオは自分で決めることにします」
毛利がわずかに眉を上げた。
「次のシナリオは決まっているんですか」からかうような声ではなかった。「なんなら私が一筆書いて、役を用意できますが」
「結構です」
Kは席を立った。
「警察の仕事ばかりで、家族のことは何もしてやれませんでした」上着の裾を直しながら、それだけを言った。「こんな仕事なもので、何も話せませんからね」
毛利は座ったまま見送った。何か言おうとした気配があったが、言葉にはならなかった。
会計を済ませ、Kはティールームを出た。エレベーターホールへ続く絨毯の上を歩く。
足音は、まだ、しない。