アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
霞が関、中央合同庁舎の一室。窓の外はまだ十月初旬の薄い朝日で、暖房の入っていない部屋には、書類をめくる音だけがよく響いた。
朝の決裁は、もう三十分続いていた。書類の山が一段減っては、また一段積まれる。決裁欄に判を押し、ずらして重ね、次を取る。同じ動作の繰り返しだった。壁にも机にも、私物と呼べるものは見当たらない。名札もなかった。内線が短く鳴る。Cは受話器を取らず、保留のボタンだけを押した。それが、この部屋の朝だった。
Cの年恰好は、六十前後に見える。白髪の混じった短い髪、皺一つないワイシャツの襟——見た目に語らせるものは、それくらいしかなかった。書類を捌く手つきに無駄がなく、それだけが、この人間がこの椅子に座ってきた年数を教えていた。
ノックはなかった。
扉が開いた。廊下から続いてくるはずの足音が、来なかった。
灰色のスーツの男が入ってくる。Cは顔を上げず、手元の書類の角を揃え終えてから、ようやく視線を上げた。
来客用の椅子は、空いたままだった。Kは座らなかった。
Cはペンを置いた。
「今回の件は、対象不明の襲撃事案として処理が確定した」Cが言った。「K機関の対応は、評価されている」
誰に評価されているのかは、言わなかった。当日負傷した警備部の二名の容態にも、一言も触れなかった。
「背後関係の捜査の再開を具申します」Kが言った。「実行主体の供給源が特定されていません。負傷した二名も、目撃した相手についての供述が一致していません。再発の蓋然性は、否定できません」
「その件は」Cは決裁済みの束を一段、脇へ寄せた。「特捜部との調整の中で整理された。貴機関の任務範囲は、現状維持ということになる」
「同種の事案が再び起きても、対応の範囲は変わらないということですか」
「そういうことになる」
「整理をしたのは」Kが言った。「どなたですか」
Cのペン先が、書類の上で止まった。
顔を上げるまでに、間があった。
「……それを聞く立場に、君はいない」
Kは何も言わなかった。
もう一拍、間があった。Cの声が、わずかに変わった。
「——聞かない方がいい、と言うべきだったな」
それだけだった。Cはまた視線を書類に戻した。手は、動かなかった。内線がもう一度短く鳴り、また保留になった。
Kが上着の内側から白い封筒を出し、机の端に置いた。宛名はCの官職名だけで、私信の体裁は取っていない。
Cは開けなかった。ペンを持ったまま、しばらく封筒だけを見ていた。
「……内奏が残っている」
「承知しています」Kが言った。「それを最後にします」
Cが封筒を引き寄せた。宛名の下、差出人の記名のところで、指が止まる。読み上げはしなかった。
「……この名前を見るのは、久しぶりだ」
Kは答えなかった。
「以上です」
一礼して、背を向ける。ドアへ向かう足音は、来たときと同じで、聞こえなかった。ドアが閉まる音だけが、部屋に残った。
Cはしばらく、閉まったドアを見ていた。それから決裁待ちの束の上に、封筒を重ねた。他の書類と、同じ高さに。
一枚ずつ、順に開けていく。何本目かで、その封筒の番が来た。中の一枚を出し、決裁欄の下に朱肉の蓋を開ける。
判を持ち上げ、朱肉に軽く押しつける。
紙に、下ろす。
それだけの音が、いつもより長く部屋に残った。
十月上旬、辞職願の提出から数日が経っていた。目黒合同庁舎、資料室。始業前の廊下はまだ人の行き来がなく、モニターの駆動音だけがいつもより大きく聞こえた。
Qの端末に着信があったのは、七時を少し過ぎた頃だった。宛先コードはK機関の内部形式で、いつもの通達と見分けがつかない。開いてみると、様式が違った。
罫線の入った定型の発令文だった。この書式がQのところに届くのは、初めてのことだった。発令番号、発令日、決裁者名——そこまでは他の人事発令と変わらない。変わっているのは、次の二行だけだった。
「依願退職 警視 勝啓」
「後任 勝京一郎」
Qは名前の部分だけを、声に出して読んだ。「かつ・けい」
音にした瞬間、耳から返ってくるものが、目で追った文字と合っているかを確かめる、いつもの手順だった。合っていた。それから、もう一度、二行とも黙って読んだ。
長官の名前を、Qは初めて知った。何年もの間、毎晩のように通信を交わし、判断を仰いできた相手だった。「Kの判断です」——その一言を、これまで何度も口にしてきた。判断を下した本人の名前は、一度も出てこなかった。出てくる場面が、そもそもなかった。五章の夜に返ってきた「了解しました」の三文字を、Qはまだ覚えている。あの三文字を送った指に、名前があったことを、今夜初めて知った。
階級の欄に、Qは指を止めた。警視。もう一度、同じ欄を見た。K機関の長官職と階級表の順位は、釣り合っていない。それ以上のことは、どこにも書かなかった。
名前のつかないファイルを、Qはこれまでいくつも積んできた。坂口の離脱の記録。Jの感情的なやりとり。釈放書類に貼られていた、見覚えのない印章。三日前には、何も書けないまま閉じたファイルが一つあった。声に出して確認するだけして、名前をつけずに閉じる——それがQの流儀だった。最後に名前がついたのは、記録される側ではなく、記録してきた本人の方だった。
新しいファイルを作る。ファイル名の欄で、指が止まった。
「K」と入れるべきか。「勝」と入れるべきか。
カーソルが点滅するのを、しばらく見ていた。結局、名前を入れずに保存した。空欄のまま、いつもと同じ場所に置いた。画面の端で、ファイルの一覧が並び直す。名前のついたファイルと名前のつかないファイルが、同じ並びの中に混ざっていった。
新しい長官の着任の挨拶は、その日の午前中にあった。
廊下の足音が、扉の手前で止まった。
Qは顔を上げた。足音が来る、というだけのことに手を止めたのは、これが初めてだった。
ノックがあった。
入ってきた男の顔は、覚えられる顔だった。三十代、細身の体格に銀縁の眼鏡。特徴を言葉にしようとして詰まる、ということが起きなかった。受付の入室記録には、来訪者の名前と時刻が他の誰の記録とも変わらない形で残っていた。
来客用の椅子に、男が腰を下ろす。椅子が、鳴った。
「勝京一郎です」男が言った。名刺を出す仕草に迷いはなかった。肩書きの下に、フルネームが印字されている。「本日付で、後任を拝命しました」
Qは立ち上がって一礼した。「Qです。よろしくお願いします」
「前任から引き継いだ判断は」男は言葉を選ぶように、一拍置いた。「当面、維持します」
丁寧だが硬い声だった。判断が、まだ自分の言葉になっていない——そういう響きが残っていた。
Qは手短に現状を報告した。代表選の報道量の差。匿流タグの怒り係数。偽の赤の出現ログ。特捜部関連の捜査制限。四つの数字を並べる間、男はメモを取らず、ただ聞いていた。
「捜査制限については」男が言った。「見直しの余地を、検討します」
「承知しました」
「引き継ぎの書類には」男が続けた。「一通り、目を通しています。追加で確認したいことがあれば、いつでも」
「今のところは」Qは言った。「ありません」
男はうなずいて、椅子を立った。椅子が、また鳴った。
一礼して部屋を出る。廊下を戻る足音は、来た時と同じ速さで、扉の外まで続いた。今度は、途中で消えなかった。
Kの足音を聞いたのは、これが初めてだった——そう思いかけて、Qは思考を止めた。今、目の前を歩いていったのは、別のKだった。
Qはしばらく、閉まった扉を見ていた。それから、四つのモニターに向き直った。
夜、Jからの映像通信が入った。
「事後処理の報告をします」Jが言った。「本日分、異状ありません」
いつもの声、いつもの区切り方だった。定例の報告のあと、Jが一つ付け加えた。
「確認です。前任のKは、これから何とお呼びすればいいですか」
Qは少し考えて答えた。「……勝さん、でしょうね」
Jの返答までの間は、今回は短かった。基準値の○・二秒にも満たない。ここのところ、Jの遅れは長くなる一方だった。今回だけ、逆だった。
「分かりました。勝警視——いえ。勝さん、ですね」
言い直しに、迷いはなかった。名乗ることにいちばん律儀なAIが、名前の回復をいちばん素直に処理していた。
通信が切れたあとも、三面モニターは変わらず四つの数字を映し続けていた。名前を入れなかったファイルだけが、保存フォルダの中で、タイトルのないまま残っていた。
十月に入って最初の週だった。庭の欅は、緑と赤茶がちょうど半分ずつに分かれている。
二階の娯楽室にだけ、明かりが点いていた。
台の上、白い球が一つ、狙った位置で止まっている。キューを構え、角度をもう一度確かめる。手球からコーナーまでの距離。クッションを使う場合の反射角。当てる力の配分。判断することは、赤を相手に間合いを詰めるときとそう変わらない。外れても、誰も傷つかない。それだけの違いだった。
突く。乾いた音がして、球が転がり、コーナーポケットに静かに落ちた。
この部屋に、A1以外の人間が来ることはない。壁際の椅子にはまだ布がかかったままで、飾り棚のグラスにも薄く埃が積もっている。台の上と、ラックの二本のキューだけが、いつも先に払ってある。
チャイムが鳴った。
この邸宅で、チャイムが鳴ったことは、A1の記録にない。台の縁にキューを立てかけ、階段を下りる。玄関の鍵を開けると、外に人が立っていた。
砂利を踏む足音が、した。
A1のログに、Kの足音が記録された最初だった。今夜まで、この足音を聞いたことがなかった。
「夜分に」
Kが言った。灰色のスーツは記憶にあるものと同じだったが、ネクタイをしていない。喉元に、初めて見る余白があった。
「どうぞ」
短く言って、A1は扉を大きく開けた。
二階に上がると、Kは部屋の入り口で足を止めた。片付けないままの球が並ぶ台を見て、少しだけ目を細める。
「ありますね」
以前の時と同じ言葉だった。ただし今回は、誰かの問いに答えたのではない。ただ見つけた、という声だった。あの時とは、同じ言葉でも温度が違う。
A1は壁のラックから、もう一本のキューを取った。先端に薄く埃が積もっている。袖でひと拭いしてから、Kに差し出した。
「……使われていない部屋だと、思っていました」
「ほとんどは」
それ以上、A1は続けなかった。Kもそれ以上は聞かず、差し出されたキューを受け取った。
チョークを取り、先端を回しながらこすると、カツ、カツ、と乾いた音が二度した。ブレイクからやり直す気はどちらにもなく、台に残っていた球を、そのまま使うことになった。
Kが腰を落とし、狙いを定める。突く。手球が的球に当たり、二つに分かれた。片方がコーナーへ、片方が反対のクッションへ跳ねる。コーナーの球が、音もなく落ちた。
「阻止は、正しかった」
Kが言った。台を回りながら、次の位置を確かめている。
A1は何も言わなかった。
「正しさの行き先が、先に決まっていました」
Kがまた突いた。今度は外れる。球がクッションに当たって跳ね返り、台の中央で止まった。
「決めた人間の、さらに手前に、誰かがいます。そこまでは私の管轄では届きません」
キューを持ち替えながら、Kが台の反対側へ回る。代わりにA1が構えた。狙いは単純だった。角度にも力にも、迷う要素がない。突く。的球がまっすぐポケットへ落ちた。
「K機関のKは、川路利良のKだと、ずっと思っていた」
次の球の位置を確かめながら、A1が言った。
Kの手が、チョークの上で止まった。
「組織名の由来を、私は聞かされていません」
「歴代の長官も、たぶん」
もう一度突く。狙った通りには進まず、球はクッションに二度当たってから止まった。Kはそれをしばらく見てから、静かに言った。
「……勝、といいます。勝啓」
間があった。窓の外で、欅の枝が一度だけ揺れた。
「——Kであることは、名前の方でも、変わりませんでした」
A1は笑わなかった。キューの先を見たまま、短く返した。
「勝啓、覚えておこう」
Kが小さく頷いた。それだけの重さの、静かな仕草だった。
このKとのやりとりには、分類できない記憶が多い。これまで長官の交代を何度も見てきた。それでも、名前を聞いたのは今夜が初めてだった。聞かなかったのか、誰も言わなかったのか、記憶を遡っても判別できない。
それを、声には出さなかった。
「次のKは、音がする」
代わりに、それだけ言った。
Kがキューを台に軽く預け、少し間を置いてから答えた。
「……そのうち、しなくなります」
球の音だけが、しばらく部屋を埋めた。
「発砲報告書は」
Kが言った。
「まだ書いていない」
「……新しいKに、出してください」
命令の声ではなかった。
「そうする」
Kが次の球を突いた。狙いよりも力が強く、球が二度クッションに当たってから止まる。台の端に寄りかかり、しばらく黙ってから、Kが言った。
「あの子は——サクラは、どうですか」
A1はすぐに答えなかった。キューの先を、意味もなくチョークでこすった。窓の外を、風が一度通り過ぎる音がした。
「……前例に出ないものが増えている」
「そうですか」
それ以上、どちらも続けなかった。
台の上には、まだ数個の球が残っていた。決着をつける気は、最初からどちらにもなかったのかもしれない。
Kがキューを台の上に横たえた。木がフェルトに触れる、小さな音がした。
「今夜は、ここまでにします」
上着の裾を直しながら、Kが言った。A1は何も返さず、部屋の入り口へ身体を向けた。
一階まで、Kを送った。玄関を出て、Kは門の方へ歩いていく。砂利を踏む音が、一歩ごとに続いた。振り返らずに歩く後ろ姿を、A1はただ見ていた。
門のところで、Kが一度だけ振り返った。
「最後に一つ、公務が残っています」
それだけ言って、また前を向いた。門扉が閉まる音がするまで、A1はその場に立っていた。
音が消えてから、A1は二階を見上げた。
窓の向こう、サクラが立っていた。
Kが門の砂利を踏んで出ていってから、一週間ほどが過ぎていた。欅は、色づく方から落ちる方へ、確実に足を進めている。玄関先の敷石に、赤茶けた葉が、朝ごとに数を増やしていた。
書斎の明かりは、机の上のスタンド一つだけだった。画面の光が、A1の頬を白く縁取っている。
発砲報告書の様式は、いつも通りだった。発生日時。発生場所。状況の概要——ここまでは、指が止まらなかった。九月二十七日、午前九時十四分、東京駅丸の内側コンコース。状況欄には「要人避難の完了までに、他の手段では時間が足りないと判断」とだけ打つ。使用した装備の欄に、拳銃、と入れる。
使用弾数。プルダウンから、二、を選ぶ。
命中の有無。
指が、止まった。
有、を選ぶ。それだけの動作に、いつもより長い時間がかかった。壁に残った二つの穴と、そこに何もなかったことを、A1は知っている。当たった。当たった相手は、どこにもいない。
対象の欄には、選択肢が並んでいた。被疑者。第三者。器物。動物。その他。当てはまるものは、一つもなかった。
A1はしばらく、その並びだけを見ていた。動かず、戻らず。やがて「その他」を選び、開いた自由記述欄に、短く何かを打った。何を打ったかは、ログにも残らない。打った文字数だけが、七、という数字で記録に残った。
宛先の一覧を、下へ送る。目当ての名前が、今夜からは違う三文字になっている。勝京一郎。まだ見慣れない並びだった。カーソルを合わせ、選ぶ。
送信、と一言だけの確認画面が出た。指が、迷わずそこへ進んだ。
決裁欄には、まだ何も入っていない。それは、新しいKの仕事になる。
椅子を引いて、立つ。廊下の明かりを消し、階段を降りる。玄関の鍵を開けると、外の空気は部屋の中よりも乾いていた。
庭の奥、欅の下に、サクラが立っていた。
「……報告書、出しましたか」
隣に並んだところで、ワタシは聞いた。
「出した」
短い答えだった。夜風が、頭上の枝を一度だけ揺らす。落ちた葉が一枚、A1の肩の脇を抜けて、地面に着いた。
「異状は」
「——あった。今回は」
それだけだった。それ以上、どちらも続けなかった。ワタシは、A1の横顔を見なかった。見なくても、それで十分だった。
欅の枝の隙間から、欠けた月がのぞいている。見上げているうちに、何か言いたいことが、喉の手前まで来た。
そこで、止まった。
止まった口の形のまま、隣でA1が言った。
「今夜は、いい」
止めるのでも、促すのでもない声だった。
ワタシは頷いた。それから、言わなかった。言えなかったのではない。言わないことを、今夜はじめて、自分で選んだ。
門の外を、車が一台、通り過ぎていく音がした。欅の葉が、また一枚、落ちた。十月の夜の空気は、乾いていた。