アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
1.ベージュ-Beige-
桜田門の交差点で、車が信号待ちに入った。左手に庁舎群の灰色の壁が並び、右手には堀の石垣と水面が続いている。窓の外を見る限り、いつもの朝と変わらない景色だった。段取りの確認はすでに車に乗る前に済んでいて、後部座席に言葉はなかった。Cが奥に座り、勝はその隣に座っている。礼装は昨夜のうちに簞笥の奥から出してあった。長く仕舞われていた分、袖に畳み皺が一本残っている。アイロンを当てる時間までは取れなかった。運転手はいつもの顔ではなく、儀典を扱う部署の職員だった。無線は繋いでいない。今日この車には、緊急の呼び出しが入る予定がなかった。前日の午後、宮内庁からの担当者が警察庁を訪れ、参入から退出までの流れを一通り説明していった。靴を脱がない建物だという一言だけは、勝の記憶にはっきり残っている。
礼装への着替えは、今朝五時、警察庁の一室で済ませてきた。制服とは重心の置き方がまるで違う。肩の可動域が普段より狭く感じられ、歩幅も無意識に小さくなる。長年被ってきた略帽の代わりに、今日は何も被っていない。頭の重さの感覚が、いつもと違う場所に残っていた。
信号が変わるまでの数十秒、内堀通りの音が窓越しに届いた。走り出す車列のエンジン音、堀端をジョギングする足音、信号が変わる直前の電子音、三つが重なって、また離れていく。歩道の街路樹はまだ緑を保っていたが、根元の植え込みには色づき始めた葉が数枚落ちていた。堀を渡ったところで、この音の総量がどこかで減っていくはずだった。勝は自分側の窓だけを見ていた。Cは書類を持たない方の手を膝に置いたまま、指一本動かさなかった。信号が青に変わり、車が動き出す。半蔵門の方角から、別の車列の音が一瞬だけ混ざり、すぐに遠ざかった。加速の途中で、堀の水面に朝の光が一度だけ強く反射した。
この通りを長官車の後部座席から見るのは、数えるほどしかなかった。今日で三度目だ、と勝は思い出した。一度目は着任の挨拶、二度目は昨年の親任式の随行——どちらも今日ほど静かではなかった。
坂下門で車が止まった。警備の職員が窓側に寄り、身分証と車両の登録を確認する。窓が下がり、短いやり取りがあり、また上がる。運転手のIDだけでなく、後部座席の二人についても、あらかじめ届けられていた名簿との照合が行われた。詰所の表示板には「坂下門」の三文字だけがあり、担当の皇宮警察官が挙手の礼をして「予定通りでございます」とだけ運転手に告げた。所要は十数秒だった。照合が終わって門をくぐった瞬間、タイヤの下の音が舗装から砂利に変わった。塀一枚を境に、音の世紀が変わる——勝はその変化だけで、自分がどこに来たかを確定した。門の内側には、外の車の音がほとんど届いていなかった。
宮殿西車寄に着いたのは九時四十九分、予定より一分早かった。十月半ばの空気は、まだ完全に冷え切ってはいなかった。日差しの角度だけが、夏よりずっと低い位置にある。Cが先に降り、車寄せの庇の下まで十三歩で渡った。勝は十五歩かかり、その十五歩は全部鳴った。踵が砂利に入る音を、勝は一歩ごとに自分の耳で受け取っていた。庇は洋式の意匠だった。石造りの柱に金属の縁飾りが巻かれ、上部には唐草に近い模様の装飾が施されている。砂利から続く床は磨かれた石畳になっていて、和風の式台には、どこにも接続していなかった。運転手が後部のドアを閉め、そのまま車寄せの端で待機の姿勢を取る。出迎えの職員が二人、車寄せの内側で頭を下げていた。宮内庁の制服姿で、名札はつけていない。頭を上げるまでの角度も速さも、二人まったく同じだった。
視界の端、植込みの際に束帯姿の人物が一人立っていた。距離があり、顔までは見えない。動きもない。白に近い装束の裾が、風もないのにわずかに揺れた気がしたが、確かめる前に視界から外れた。勝はそれを宮中の景色の一部として通り過ぎた。立ち止まる理由も、確かめる理由もなかった。庭師の姿はどこにもなく、玉砂利には掃き目だけが残っている。
西車寄から続く玄関は、大理石に近い石の床でできていた。床は白と灰色の石が交互に組まれ、継ぎ目の一本一本まで隙間なく磨かれている。式台はなく、上がり框もない。靴を脱ぐ手続きそのものが、この建物には最初から存在していなかった。踏み出した足の先が、無意識に上がり框の高さを探ろうとした——探す動作の途中で、探すべきものがどこにもないことに気づき、足はそのまま平らな床を踏んだ。革靴の底が石を打つ音を、勝は聞いた。天井の高い空間に短く反響してから、その音は消えた。天井は白く塗られ、中央に大ぶりのガラス製の照明器具が下がっている。下がる鎖の長さは左右で揃っていた。壁際には背の高い壺が一つ、飾り気だけの目的で据えられていた。長い廊下が奥へ延び、途中から床が絨毯敷きに変わる。天井の照明が、その先まで一列に並んでいた。連子格子に似た窓の外を、庭木の影が均等な間隔で流れていく。
絨毯に入ると、足音が急に吸われた。革靴のままの勝の足は、それでも音の出る歩き方を覚えていて、絨毯の上でその癖だけが空転する感触があった。Cの歩調は変わらなかった。石床でも絨毯でも、歩幅も速さも同じだった。素材が変わっても、工程が変わらない男だった。案内の職員はCの半歩後ろにつき、勝はさらにその後ろに続いた。この職員の靴も、絨毯の上でも石床の上でも同じように鳴らなかった。履き慣れた靴底の加工なのか、歩き方そのものが違うのか、勝には判別できなかった。廊下の壁には、額装された書が等間隔で掛けられている。読める距離ではなかった。途中、小さな洋画が一枚だけ額装されて掛かっていた。金色の額縁だけが目に留まり、画面の中身までは見えないうちに通り過ぎた。
案内された先は「桂の間」という控室だった。天井は高く、木の梁が渡され、障子に似た建具から均された光が入っている。低い座卓を囲む椅子が並び、控室らしい簡素さで整えられていた。壁際に一輪挿しが一つ、それ以外の装飾はない。隅の目立たない位置に置時計が一つあったが、針の音は聞こえなかった。時刻は九時五十六分を指している。案内の職員が「こちらでしばらくお待ちください」とだけ告げて退がると、部屋には湯呑が二つ残った。厚手の、飾り気のない白磁だった。事務のための茶だと、見ただけで分かった。湯気はすでに落ち着いていて、出されてから時間が経っていることが分かる。
CとKは並んで座ったまま、しばらく言葉を交わさなかった。長官室であの封筒を渡して以来、二人きりで座るのはこれが初めてだった。どちらもその話には触れなかった。Cの上着の襟に、小さな徽章が一つ留められている。勝の礼装にも同じ形のものが一つあったが、位置は逆の襟だった。Cは背筋を伸ばしたまま、両手を膝の上で重ねていた。勝は自分の右手が、いつもの位置、腰の高さで、何かを探ろうとしていることに気づいた。そこにあるはずのものは、今朝は帯剣も無線も持たされていない。Cは湯呑に手をつけず、腕時計を一度も見なかった。障子越しに、庭の光がわずかに動く。風が出ているらしかった。空調の音はごく小さく、耳を澄まさなければ気づかない程度だった。
低い声が一言、移動を告げた。桂の間を出て、表御座所の中を南棟の方へ進む。廊下の意匠が一段変わり、窓の建具から入る光の色も変わった。硝子越しの光から、格子越しの光へ。奥へ進むほど、建物の時代が遡っているようだった——説明されなくても、床や壁の素材の変化がそれを伝えていた。案内役はここで交代した。新しい案内役は、それまでの職員より歩調がわずかに遅い。廊下の窓越しに見える中庭は、さっきまでの庭よりも一回り小さく、敷石の色も濃かった。
さらに小さな控室に通された。ここが最後の待機になるはずだった。壁は淡い色の布張りで、椅子は二脚だけ置かれている。天井は低く、さっきまでの部屋よりも音の返りが硬い気がした。案内役が「間もなく、お呼びがあります」というようなことを一言残して退がった。敷居の外に控えたまま、扉には触れなかった。椅子はあったが、勝は座らなかった。立ったまま待つ姿勢を取った。窓の外に見える庭は、それまでの庭よりも一段狭く、剪定の形も違っていた。
鳳凰の間の扉は木地に漆を掛けたもので、把手には真鍮の金具が付いていた。その扉がノックされ、開いた。敷居のところでCの足が止まり、低い声が一言、名乗りを告げた。「警察庁長官、香椎——」。姓に続くはずの名は、扉が重い音を立てて閉じる、その音に呑まれた。何年もの間、内線には出ず保留ボタンだけを押してきた男の姓が、勝の耳に届いたのはこれが久方ぶりだった。Cだけが中へ入り、勝はその場に残った。扉が閉じる直前、部屋の奥に小卓と椅子が二脚、向かい合わせに置かれているのが一瞬だけ見えた。布が掛けられているらしく、脚の形までは見えなかった。扉が閉じ、控室は勝一人になった——正確には、案内役も一人、少し離れたところに控えている。
扉の向こうにあるのは、辞令の書類には出てこない最後の公務——内奏だった。扉越しに、音はほとんど漏れてこなかった。勝は扉に向かって立たず、控室の窓の方を向いて待った。時折、扉の向こうで椅子の脚が絨毯を擦るような、ごく小さな音だけが届いた。内容は一語も聞こえてこない。聞こえないことそのものを、勝は聞いていた。廊下に時計はなく、時間は案内役の背筋が伸び直す、その一瞬の変化でしか測れなかった。一度、二度、三度——姿勢が直るたびに、時間がわずかに進んだことだけが分かった。遠く、庭のどこかで水を撒く音が短く鳴り、すぐに止んだ。窓の外では、庭木の影の角度がさっきより浅くなっている。廊下の窓から差す光の角度が、警察庁の前でよく見た朝の光と少しだけ違う気がした。同じ太陽のはずだったが、通ってくる硝子の枚数が違うからかもしれない、とだけ考えて、それ以上は考えなかった。
扉が開き、Cが一人で出てきた。手には、最前まで持っていた内奏書がなかった。すでに宮内庁の職員に渡した後の、空になった両手だった。Cは勝に労いの言葉を一つもかけなかった。「行こう」というだけの一言、あるいは無言の頷きだけで、二人は次の廊下へ向かった。案内役が先に立ち、二人がそれに続く。歩幅はさっきと変わらなかったが、Cの視線だけが、これまでよりわずかに低い位置に落ちている気がした。廊下に出ると、さっきまでの静けさが少しだけ緩んだ。窓の外で、庭師の使う剪定バサミの音が一度だけ聞こえた。竹の間へ続く廊下の入口が、正面に見えてきた。
表御座所を出ると、廊下の意匠がまた変わった。桂の間から鳳凰の間そばの控室へ移った時の変化より、今度の方が大きい。窓の外に見える中庭の植え込みは、これまでの丸みを帯びた刈り込みとは違って、直線に近い角を持たせてある。連子格子の間隔もここで一段細かくなり、差し込む光が床の上でより小さな帯に割れた。案内役もここで交代した。今朝これで三人目になる。歩調はまた変わり、今度はさっきより一段速かった。廊下の途中、壁の額装が一段大きくなっているのが視界の端を過ぎたが、読める距離ではなかった。床材は絨毯のままだったが、織りの目がさっきより詰んでいるらしく、靴底に返ってくる感触がわずかに硬い。すれ違う職員の数も増えた。誰も足を止めず、誰も声を出さない。すれ違いざまの礼だけが、廊下の端から端まで同じ角度で繰り返された。遠くの方角から、時を告げる音とも違う、低く短い音が一度だけ響いた。鐘なのか、何かの合図なのか、勝には判別できなかった。すぐにまた静かになった。
竹の間の扉の前に立ったのは十時十四分だった。両開きの扉は黒に近い色の木地で、把手に螺鈿細工の丸い飾り台座がついている。直径は掌ほどだった。実測で五十二センチという数字が、以前どこかの図面に載っていたのを見た記憶として、資料としてだけ勝の中に残っていた——感想はついてこなかった。内側に張られているのは日本産の蝶貝で、外側はメキシコ産のものだと、これも以前どこかで聞いた覚えがある。光の当たり方によって色合いが違って見える、その違いだけが目に届いた。扉の両脇には束帯とは違う制服姿の職員が一人ずつ立ち、視線を正面より少し下に置いたまま動かない。Cは扉の前でも歩調を変えず、両手を体の脇に下ろしたまま、開くのを待つあいだも重心を移さなかった。勝はその隣で、自分の呼吸の間隔だけを数えていた。
扉が開かれると、部屋の広さがまず届いた。すべて木曽檜で組まれていて、木の匂いがこれまでのどの部屋よりも強かった。天井は高く、格子状に組まれた木組みの目が、入ってすぐの位置からでも数えられそうなほど整然と続いている。格子の交点に、小さな金具の飾りが一つずつ嵌められていて、真上からの光を受けるたびに鈍く光を返した。照明そのものは天井には見当たらず、光は壁際の低い位置から間接に回されているらしかった。壁は竹の模様を散らした裂地張りで、光を受けるたびに織りの陰影が竹林のように揺れる。正面の壁には竹を描いた一幅の絵が掛かっていた。筆致は写実に寄らず、余白の多い構図だった。反対側の壁際には、金色を帯びた大壺が一つ据えられている。背の高さは勝の腰までは届かないが、膝丈よりは明らかに高い。カーペットは足を沈める厚みがあり、手前は桃に近い色をしていて、奥へ向かうほど淡く色を変えていった。壁際には、束帯や別の正装をまとった人影が数人、等間隔に控えている。数を数えることは、勝の中でほとんど反射のようなものだった——四人。誰も目を合わせてこなかった。部屋の奥行きは、壁際の四人の位置から壇までの距離だけでも、桂の間ひと部屋分はありそうだった。礼装の襟が、うなじのあたりでわずかに擦れる感触があった。歩いているときにはさほど気にならなかったその感触が、立ち止まって動かずにいると、かえって意識に上ってくる。
CとKは並んで入り、定められた位置で足を止めた。勝は視線を上げなかった。視界に入るのは、カーペットの織り目と、Cの膝から下だけだった。取次役らしい低い声が、二人の官職名だけを短く告げた。壇の方に、この宮殿の「主」が立った気配がある。声が一つ届いた。短い言葉だった。中身は勝の耳の外側を通り過ぎていくだけで、残ったのは言い終えた後の間の長さだけだった。
勝の返答も、型の通りの短さで済んだ。内容より先に、礼の角度の方が意識にあった。腰から上を折る角度は、昨夜のうちに一度だけ確認したものと寸分違わなかったはずだった。両手は指を揃えて腿の脇に添え、折った瞬間だけ指先がわずかにカーペットの毛足に触れた。触れた感触の分だけ、角度が深すぎないことを確かめられた。竹の裂地張りの壁は、衣擦れの音を吸い込まずに、わずかに返してくる。桂の間の障子とも、廊下の絨毯とも違う返り方だった。この耳だけが、その違いを聞き分けていた。隣のCの息の間隔は、入室してからずっと変わっていない。
後ろ向きに退がる歩数を、勝は数えなかった。数える代わりに、足の裏の感触と、返ってくる音の質だけを追った。七歩目で、敷居の手前に達した気配があった。カーペットは足音のほとんどを吸い込んだが、竹の裂地の壁がその分を、部屋の隅々に小さな気配として運び返してくる。鳳凰の間の扉越しに聞いていた、あの沈黙とは違う——あちらの沈黙は「聞こえない」という形をしていたが、竹の間の沈黙は、微かな音の気配だけを部屋いっぱいに残す形をしていた。敷居を越えたところで、体の向きを変える許可のような一拍が来て、勝はようやく前を向いた。
竹の間を出た廊下で、Cと浅い礼を一度交わした。言葉はなかった。Cは来た廊下をまっすぐ西車寄の方へ折れていった。十数歩、その歩調は最後まで変わらなかった。廊下の窓を三つ数えるあいだに、その背中は見えなくなった。角を折れる直前、Cの背中がわずかに廊下の窓明かりを受けて、輪郭だけが一瞬濃くなった。この後の一室は、Cの予定表には入っていない。遠くで、砂利を潰すタイヤの音が立ち上がり、塀の向こうへ抜けて、それきり戻ってこなかった——警察庁へ戻る音、とだけ勝は聞いた。廊下の分岐に立っていた職員が一人、Cを見送った後、位置を変えずに勝の方へ向き直った。持ち場の引き継ぎに類する動作は、浅い礼が一つ交わされただけで終わった。
勝一人が、来た方向とは別の廊下へ導かれた。案内役の曲がり方に迷いはなかった。今朝渡された予定表の最後の一行に、この移動はすでに載っていたはずだった。廊下の意匠がまた変わり、天井が一段低くなる。窓の外の光も、さっきまでの白さから、わずかに黄みを帯びたものに変わった。表御座所や竹の間よりも、控えの場らしい親密さに近づいていく変化だった。すれ違う職員の数も、ここまで来ると一人もいなくなった。この案内役は、ここまでの三人と違って、名乗りも会釈もしなかった。控えの場に慣れた者の省略なのか、それとも別の理由があるのか、勝には分からなかった。
通された部屋は、檜の匂いも竹の裂地もない、もっと小さな一室だった。木の天井が緩やかに曲面を描いている。木目の色が二種類混じっていることだけが、目に届いた。曲面が音を吸わず、かといって竹の間ほど返しもしない、もっと鈍い響き方をする部屋だった。座卓の上に白磁の碗が四つ並んでいる。碗は、桂の間で出された事務の湯呑みよりも薄く、縁に金の線が一本引かれていた。座卓の脇には黒塗りの盆が二つ用意され、女官らしい装いの女が二人、少し離れた位置に控えている。床は途中まで板張りで、座卓の手前から先だけ畳に類する素材に変わっていた。踏み替える瞬間、足裏に伝わる硬さが変わったのを勝は感じ取った。部屋には、すでに二人分の気配があった。上座に一つ、その斜め下座に、白に近い装束をまとった若い女が一人。声はまだなかった。勝はその名を確認する立場になかった。装束の白さだけが、この場での唯一の情報だった。
女官の所作で茶が注がれ、碗が配られていく。上座から先に、次に斜め下座、最後に勝の順だった。言葉のほとんどない儀式だった。碗を持つ手の角度にも作法があるらしく、勝は昨夜のうちに一度だけ教わった通りの持ち方をした。教えたのは儀典を扱う部署の職員で、時間にして五分にも満たない説明だった。碗の高台に指をかけすぎない、口をつける前に一度だけ軽く傾けて中を見る——教わった手順は二つだけで、それ以上は省かれた。勝は作法の順に碗を取った。上座の手元だけが、視界の端に入る。碗を取り上げる手の速さ、置くまでの間——それだけが目に届いた。顔は最後まで視界に入れなかった。茶を注ぐ音は、思ったより長く続いた。細く途切れない一筋の音が、四つの碗を順番に満たしていく。茶の色は、桂の間で出されたものより幾分薄かった。湯気の上がり方も控えめで、出されてすぐのものだと分かった。
碗が置かれたあと、上座——先程Cが内奏を行い、そしてKと謁見したこの宮殿の「主」——から勝へ、労いに類する短い言葉が一度だけ渡された。中身は残らなかった。頭を下げるまでの時間だけが、勝の側に残った。上座が立ち上がる気配があり、部屋の全員が頭を垂れた。襖に類する建具が開き、また閉じた。去っていったあと、部屋の音が一段減った。女官が碗を一つ下げ、退がっていく足音が二人分、廊下の先で聞こえなくなるまで続いた。部屋の温度が、さっきより幾分下がったように感じられたのは、人の数が減った分だけかもしれなかった。部屋の配置が、二人分のものに組み替わっていく。
組み替わった部屋の隅に、束帯の人物が控えていたことに、勝はここで初めて気づいた。窓から差す光の角度が変わり、それまで陰になっていた隅がわずかに明るくなった、その分だけ遅れて視界に入ってきた形だった。車寄せの植栽の際に立っていた装束と同じものだった。礼装ではなく束帯だという一点だけで、最初の一拍は誰であるか判断がつかなかった。そして顔は、南平台のビリヤード室で対局した相手——A1であった。足の裏が畳に類する床を擦る音が半分だけ出て、途切れた。
「……来ていたんですか」
「元々こっちが本当の職場だからな、たまにこうして出仕している」
一往復で、それきりだった。以後この件について、二人のあいだで言葉が交わされることはなかった。沈黙は戻ってきた——だが、さっきまでの沈黙とは材質が違って感じられた。人が抜けたあとに残る静けさとは、質感がどこか違う。A1とKのあいだにそのまま残った、埋める必要のない沈黙だった。
障子に類する建具が一枚、わずかに引かれた。庭の一部が四角く切り取られて見えた。松に似た木が一本、その四角の中にだけ収まっている。