アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~ 作:樫丹鏡花
「……よく、いらっしゃいました」
声が先に届いた。低くはない。むしろ高い方に近いのに、音の量が足りない——一息で言い切れるはずの短い挨拶が、語尾のところで薄くなって消えていく。勝は頭を下げたまま、その足りなさだけを受け取った。顔を上げてよい間合いになってから、ようやく視線を戻す。
座卓を挟んだ斜め下座、白に近い装束をまとった女の姿は、さっきまでと変わらない位置にあった。碗はもう座卓に戻されている。曲面を描く木の天井が、この部屋の音をどこにも強く返さず、かといって竹の間ほど吸い込みもしない。声の足りなさが、そのまま部屋の性質として響いた。かすかに、香の匂いが鼻の奥に残っていた。竹の間の木の匂いとも、桂の間の白磁の匂いとも違う、この部屋だけの淡い香りだった。
女の座り方は、身体の重みを座面へ預けている、というものだった。膝の上に置かれた両手は白く、指先がわずかに、一定の間隔で震えている。震えを隠す仕草は見せなかった。装束は白に近い色目で、光をほとんど跳ね返さない生地だった。結い上げられた髪の下、耳の輪郭だけが、障子の光を受けてわずかに透けて見えた。
膝を折って座り直したところで、隅に控えたままの束帯の姿が、まだ視界の端にあった。女の目が一度、そちらへ動いた。
「……もう、その格好でなくて結構ですよ」
女がそう言うと、A1は小さく頭を下げた。それから、指を一度鳴らした。乾いた小さな音だった。音と入れ替わるように、装束が消えていた。冠も、裾の長い上衣も、次の瞬間にはどこにもない。次に勝の視界に入った時には、見慣れた白い装いに戻っている。衣擦れの重さも、裾の抵抗も、その一瞬にはなかった。バンクと呼べるような間はどこにもなく、変わる前と変わった後があるだけだった。壁際に立ち直った姿は、車寄せで一度視界の端を過ぎた時とも、ビリヤード室で対局した時とも、同じ人物には見えるが、同じ場所にいるようには見えなかった。この場所は、A1の起源にいちばん近いのかもしれない、と勝は思いかけて、それ以上は考えなかった。腰のあたりに、いつも下がっているはずの重みが見当たらないことにも、気づいてはいたが、それも口にはしなかった。
「無事、お役目を終えられたと聞きました」
女官が退がりかけたところで、女が言った。退がる歩数は少なく、敷居まで五歩もかからなかった。辞令はまだどこにも出ていないはずだった。女がその一言を先に言えたのは、勝の側から見れば妙な話ではなかった。この部屋にいる誰もが、遅かれ早かれそういう位置にいる。
「はい」
勝の返事は短い。今朝、上がり口で交わされた沈黙と同じ質のものが、この一言にも乗っていた。声の高さも、間の取り方も、車寄せで会った男とは別人のように静かだった。
女が碗に手を伸ばす。片手ではなく両手だった。指先だけでなく、掌全体で碗の側面を包むようにして持ち上げる。持ち上げるまでの時間が、賜茶の儀のときよりもさらに長い。人目のある席では出さなかった速度が、二人だけの部屋になって初めて表に出たのかもしれなかった。碗が唇の高さまで届いてようやく、口をつける。飲んだ量は、傾けた角度の割に少なかった。
「今年は、紅葉が早いようですね」
碗を戻す前に、女が言った。見なくても分かる、という言い方だった。女官が心得たように障子をさらに引く。すでに見えていた松の緑の奥に、楓が一本立っていた。葉は半分ほど、朱に染まっている。
「……松の剪定の後で、楓だけが目立つのかもしれません」
勝が応じる。庭師の仕事の話でしかない受け答えだったが、間の取り方に、二人がこの手の話を何度も交わしてきた気配があった。
「そう。目立つ年と、目立たない年があります」
女は碗を座卓に戻した。それから、少し間を置いて続けた。
「降りる、と伺いました」
勝は答えなかった。女も返事を待つ間を置かなかった。
「降りられるあなたは、幸運です」
その先の言葉に、女は一拍を挟んだ。文の切れ目ではなく、文の途中だった。
「わたくしは、」
息を継ぐ音が、文の途中に混ざった。継いだ後、女は続きを言わなかった。言わないことで、続きが伝わる言い方だった。自分の視線が一度、女の胸のあたりへ落ち、すぐに戻ったことに、勝は遅れて気づいた。触れてはならない何かに触れかけて、引いた動きだった。障子越しの光が、その間だけわずかに翳った気がしたが、庭に雲が動いたのか、勝の目の側の錯覚なのか、確かめる術はなかった。
しばらく間があって、女は違う言葉を継いだ。労いの続きではなく、別の話のように聞こえたが、口調は変わらなかった。
「この国の中央は、おおむねそういうふうにできているのです」
勝は碗を持ったまま、動かなかった。驚きは、どこにも出す場所がなかった。すでに知っている話を、確認のためだけに聞いている、という姿勢だけが身体に残った。この一言だけを取り出せば、庭の話の延長のようにも聞こえる声の高さだった。中身の重さと、声の軽さが釣り合っていないことに、勝は気づいていたが、指摘する立場にはなかった。
「始まりには、企画をする人がいます。プロデューサーのような人が」
女官が退室し、襖が静かに閉じる音がした。部屋の中の音が、また一段減った。閉じた襖の向こうで、廊下の光が一段暗くなったのが、隙間から漏れる線の細さで分かった。廊下を行き来していた足音も、この一段でほとんど届かなくなった。
「それから、実際に舞台の上で人を動かす人がいる。ディレクターのような人が」
壁際のA1に、勝は一度だけ目をやった。表情は変わらない。視線もどこか一点に定まらず、部屋の空気そのものを見ているようだった。この言葉のどこにも、反応する場所がないのかもしれなかった。
「……近頃」
勝が言葉を挟んだ。ここまで、労いへの相槌以外で初めて口にした言葉だった。声の高さは変えなかった。
「自分の背後に、大きなものがあると思い込んでいる男を、一人知っています。舞台の外に出たつもりで、まだ舞台の上にいる」
女は小さく頷いた。驚いた様子はない。頷く速さに、初めて聞く話ではないという質があった。
「そういう人は、昔からいます。気づく者と、気づかない者がいるだけで」
障子の外、庭のどこかで水を撒く音が短く鳴り、すぐに止んだ。今朝、鳳凰の間の控室で聞いた音と同じ種類の音だった。庭師の手が、この宮中のどこにでも同じ速さで動いている、というだけのことかもしれなかった。
「気づいた者は、どうなりますか」
勝の問いに、女はすぐには答えなかった。碗の底に残る茶の色を見ているような間があった。障子の外で、風もないのに葉が一枚落ちる音がした。庭師の掃く音は、まだ届いてこない。
「降りるか、そのまま舞台にいるか。それだけです。舞台を壊す道は、用意されていません」
碗の縁を指でなぞりながら、女は続けた。指の動きは、ひとまわりするのに数呼吸分の時間をかけていた。
「意匠を与える人もいます。デザイナーのような人が。旋律をつける人も。コンポーザーのような人が」
「……見たことが、あります」
勝が短く言った。誰を指しているのかは、口にしなかった。女もそれ以上は尋ねなかった。竹の間で見た絵の余白を、勝は一瞬だけ思い出したが、それも口には出さなかった。
「昔の人も、たいていそうでした」
女は一度、視線を落とした。
「歴史に名を残した人ほど、入念に」
「脚本のことを、ライティングと呼ぶ人たちがいるそうです。灯りを当てることも、同じ言葉で呼ぶと聞きました」
女はそこで初めて、自分の手を見た。長く、白い指を、確かめるように。指先の震えは、まだ止まっていない。
「わたくしも、そのように書かれた一人です」
勝の相槌は短かった。
「……そうですね」
それだけだった。驚きの色は声にも顔にもない。すでに知っている者同士が、確認のためだけに交わす相槌だった。
女の視線が座卓の脇、活けられた一輪へ移った。桔梗に似た薄い紫の花だった。花瓶は白磁で、碗と同じ窯のものらしい細かな貫入が、光の角度によって一瞬だけ浮かんで見えた。
「この部屋の花も、毎朝、庭師が選んで置いていくのです。同じ花を、二日続けて見たことがありません」
何気ない話のようだった——「配される」という言葉は、その後に、一度だけ挟まれた。
「花も、人も、たいてい、誰かに配されて、そこにいます」
「……選ぶ人にも、好みはあるでしょう」
勝が言った。軽い調子だったが、女はその一言に、初めてわずかに口の端を上げた。
「あるでしょうね。わたくしには、分かりませんが」
その一言のあとに、女は小さく息を吐いた。笑いに近いものが混じっていたが、声にはならなかった。
それ以上、説明は続かなかった。話題はそのまま、庭のことへ戻っていった。今年は霜が早いかもしれない、いつもより虫の音が長く続いた、というような言葉が、二言三言、静かに交わされる。声の温度は、労いの言葉を交わしていた時と変わらなかった。壁際のA1は、その間も同じ姿勢のままだった。花のことと、書かれた一人という言葉と、降りるという言葉、その三つのあいだに、A1の側で線が引かれた様子はなかった。三つを並べても像を結ばない、という反応そのものが、A1の側の答えだった。
女の視線が、障子の方へ流れた。相手にではなく、光の方に向けられた視線だった。しばらくそこに置かれたまま、動かない。話の終わりを決めたのは、言葉より先に、視線の位置だった。まぶたの動きが、さっきまでよりわずかに遅くなっている。疲れそのものを隠す余力が、もう残っていないような遅さだった。
碗に残っていた茶は、もう湯気を立てていない——女はそれを飲み干さなかった。
女が座卓に片手を置いた。もう一方の手で、袖口を軽く整える。動作は小さく、労力の要らない範囲に留められていた。襖の外で、足音が一つ動いた。先ほど退室した女官のものだった。声を掛けられる前に動く、その速さが、この部屋で何度も繰り返されてきた手順であることを示していた。
勝が居住まいを正す。両手を膝の上に戻し、頭を垂れる角度を、先ほどより深くした。壁際のA1も、裾のない今の格好のまま、姿勢だけを正した。指を鳴らす前の重い衣擦れも、束帯の裾を払う動作も、もうどこにもない——それだけの違いを、勝の耳はすぐに聞き分けた。障子の光は、入室したときよりわずかに傾いていた。庭では、まだ楓が色を変え続けている時刻だった。曲面の天井が、ここまでの言葉のどれも外へ返さず、そのまま部屋の中に沈めたままにしていた。
女官の手が、部屋の隅に立てかけてあった杖に伸びた。柄を取り、握りの向きを確かめてから、女の座る位置の脇にそっと立て直す。漆塗りの柄が、障子越しの光を受けて鈍く光った。女はまだそれに触れない。触れる前に済ませておくことがある、というように、視線を勝へ戻した。
「今日は、良い声を聞かせていただきました」
労いの言葉としては、少し的が外れていた——声のことを言われる場面ではなかったはずだった。だが勝はその外れ方に驚かなかった。碗を座卓へ戻し、両手を膝の上に重ねる。
「……ごきげんよう」
短い言葉だった。息継ぎの位置は、今日これまでで最も浅いところに来た。言い切った後、女はしばらく口を開かなかった。見送りの言葉が、この一言で全部だという合図だった。
勝は、今朝出された礼装の袖口へ、もう一度手をやった。車の中で気づいた、あの一本の畳み皺を確かめるつもりだったが、今度は直す先の皺がすでにない。手の側が、確かめる作業だけを繰り返していた。確かめ終えても、袖の形は変わらなかった。昨夜のうちに簞笥の奥から出してあった、あの一本の畳み皺は、いつのまにか消えていた。いつ消えたのか、勝には分からなかった。
女の視線が、勝の肩越しに動いた。今日この部屋に入ってから、初めてまっすぐA1へ向けられる視線だった。A1はその視線を受け止め、頭を垂れた。壁際に立ったまま姿勢だけを正す、その動きに迷いはなかった。
「礼子さま」
声に出したのは、それだけだった。名を呼ぶことに、説明の言葉は付け加えなかった。今日この部屋で交わされたどの相槌よりも短い間で、その名は口から出ていった。長く使われてこなかったはずの呼び方が、使われた瞬間だけ古びていない、という響き方をした——勝はその不釣り合いに気づいたが、確かめはしなかった。何年分の不使用が、その一言のどこにも残っていない。残っていないという事実だけが、聞こえた。
女は小さく頷いた。勝への頷きより、わずかに深い角度だった。それ以上、言葉は続かなかった。
勝が最後の礼をする。角度は入室したときと同じだったが、頭を戻すまでの間が、今日いちばん長かった。褥に座す者へ背を向けない、という作法を、勝は入室前に一度だけ確認していた。敷居を越えるまでは後ろ向きに退がり、礼の角度を保ったまま間合いを取る。三歩分、後ろ向きのまま進み、四歩目で身体を回した。回した先に敷居があった。膝から下だけで距離を測る歩き方は、桂の間で教わったものとも、竹の間で自分が実際に踏んだものとも、また少し違う運びを要求した。A1もその歩数に合わせ、裾のない今の姿のまま静かに退がった。
女官が膝で進み、襖に手を掛ける。開いた隙間から、廊下の光が差し込んだ。杖はまだ、女の脇に立てられたままだった。柄には、まだ誰の手も触れていない。女はそれに手を伸ばさず、座した姿勢を崩さないまま、二人が退がっていくのを目で追った。見送りに立つことは、この部屋では最初から予定されていないらしかった。
A1が先に敷居をまたいだ。足の裏に伝わる感触が、畳に類する床から板へ変わる。行きにこの部屋へ入ったとき、勝の足はほとんど鳴らなかった。今、敷居をまたいだ足音は、行きよりわずかに大きい。差は歩数の問題ではなかった。踵の下ろし方も、爪先の抜き方も変えていないはずなのに、返ってくる音の量だけが違う。この部屋に入ってから出るまでの間に、何かが一つ、身体の側から抜けたのかもしれなかった。廊下の光の角度も、行きとは変わっている。障子越しの帯は、朝より幅を狭め、色を少し黄色い方へ寄せていた。
廊下を五歩ほど進んだところで、勝の足が半拍だけ遅れた。振り返りはしなかった。ただ、口が一度開いた。言葉の形はまだ決まっていなかった。息だけが先に動き、音になる前で止まる。束帯の姿に気づいて見せた、あの「止まる」動作と同じ種類の間だった。ただしあの時の間は、止まった後に「……来ていたんですか」という一言に着地した。今度の間には、着地する先がなかった。二秒か、三秒か。数え始める前に、間そのものが終わった。何を言おうとしたのか、勝自身にもまだ分からなかった。分からないまま、口の形だけが崩れた。廊下の絨毯が、今度も足音のほとんどを吸っていたが、止まった一拍の重さまでは吸い切らなかった。
「……」
何も声にならないまま、勝はまた歩き出した。歩幅は乱れなかった。喉の動きだけが、言葉を一度組み立てて、それを崩したことを示していた。
二度目の折れの手前で、松の影が揺れる障子があった。行きに見たのと同じ一枚だった。影の位置は、来たときよりも障子の縁に寄っている。風はまだここまで届いていないはずだったが、影だけが先に動いていた。行きに見た時は気に留めなかった変化が、帰りには目に留まった。それだけの違いだった。
表御座所の脇を過ぎ、朝と同じ玄関へ出る。石床を踏む感触も、靴を脱がない手続きも、朝と変わらなかった。玄関の内側にいた職員が、深々と一礼する。もう一名、廊下の中程に就いていた案内役が、持ち場を離れて玄関まで下がってきていた。今朝、この位置に就いていたのと同じ職員だった。任が終わったことを、言葉ではなく持ち場を離れる動きで示していた。勝はそれに応えず、砂利へ足を下ろした。
「この後の予定は」
A1が事務的に問うた。声の高さは、束帯を解く前と変わっていない。装束の有無で、その声質までは変わらないらしかった。
「……少し、人に会います」
それだけだった。誰に、どこで、という続きは来なかった。A1もそれ以上は尋ねなかった。
車寄せまで、十三歩だった。朝、Cが渡ったのと同じ歩数だった。だが鳴り方が違う。砂利を踏む音に迷いがなく、途中で強弱が変わらない。踵から爪先まで、体重の移り方が一定だった。今朝、この同じ距離を十五歩かけて、しかも音の質を変化させながら渡った足が、今は別の数え方で鳴っている。十三歩という数字だけを見れば、Cの歩き方に近づいたことになる。だが音の中身までは重ならなかった。Cの足音には迷いのなさしかなく、今の自分の足音には、迷いのなさの下にもう一つ別のものが乗っている——それが何かを、勝はまだ言葉にできなかった。十五歩と十三歩、その差の二歩が、今朝と今の自分の間にあった何かを、そのまま持ち去っていったようだった。数字にすれば二歩、それだけの差だった。
運転手が車を降り、後部のドアを開けて待っていた。今朝の車と、色も型も同じに見える一台だった。ナンバーだけは違うはずだったが、確かめる理由はなかった。勝は乗り込む前に一度だけ、車寄せの端を見た。白い姿がまだそこに立っている。裾のない、見慣れた輪郭だった。動く気配はなく、車を見送る位置にただ立っているだけだった。次の指示がまだ来ていないのか、来ていても動く必要がないのか、勝には分からなかった。勝は小さく頭を下げ、それだけで乗り込んだ。ドアが閉まる。エンジンが低く立ち上がり、タイヤが砂利を踏んで、車が門へ向かう。出る車が入るときのような照合を受けないことは、今朝すでに分かっていた。停止も、窓の開閉も、短いやり取りもなかった。音はそのまま塀の外へ抜け、戻らなかった。
塀の外の流れに混ざって聞き分けられなくなるまで、車内からでも音の輪郭は追えた。窓の外を過ぎていく庭木の影が、朝よりも短く、鋭くなっている。楓は、女が語っていた通り、今年は色づきが早いようだった。冬に向かう気配が、この庭にもすでに届いていた。車が塀の切れ目を抜けたところで、勝は一度だけ座席の背に体重を預けた。今朝、同じ座席で背を預けなかったのと、それだけが違っていた。今朝から今までに立てた音を、勝は数え直そうとして、途中でやめた。数えるものではなかった。ただ、鳴った、というだけのことだった。運転手が短く、行き先を確認する声を寄越した。勝はそれに答えてから、窓の外へ視線を戻した。堀の水面はまだ見えない。宮中の塀が、後方へ流れていくところだった。