アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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5.ベイ19-Baie 19-

欅の根元に、竹箒の跡がまっすぐ伸びていた。

今朝の掃除でちりとりに集まった葉は、赤茶色が七割、まだ緑の残るものが三割ほどだった。先週まではほぼ半々だったから、色の割合がひと目盛り動いたことになる。掃く量も増えていた。先週までは大きな塵取りに二杯で足りていた分が、今朝は三杯になっている。一杯あたりの重さも増したようだった。乾いた葉より、朝露を含んだ葉の方が箒にまとわりついて、掃く速さを落とす。去年の記録と比べれば、色が変わり始めるのが三日ほど早い。冬に近づくにつれて、この庭の仕事は重くなっていく。サクラは三杯目を集め終えると、竹箒を塀際に立てかけた。息が白くなるほどではないが、指先はもう長袖の下でかじかんでいた。集めた葉は、いつも通り裏の袋に移す。袋の口を縛る紐が、先週よりわずかにきつく締まった。

縁側にはA1が座り、書類を並べていた。要人動線表——官邸から都内数箇所の予定地までの経路図に、到着予定時刻と随行車両の台数が手書きで書き込まれている。経由地には目黒駅前の交差点と代官山の坂が指定されていた。台数の欄は先方の警護課が記入したものらしく、筆跡がA1のものと違っていた。その下に重ねてあるのは掲示場周辺の巡回計画表で、巡回の頻度は「二時間に一回」とすでに決まっているのに、担当者名の欄はまだ半分が空いたままだった。空欄の脇に、鉛筆で小さく「調整中」とだけ書き添えられている。もう一枚、投票所警備の割当表には、目黒区と渋谷区にまたがる投票所番号一二から一四までの三か所と、それぞれの人員数、開始と終了の時刻が縦に並んでいた。一二番だけ人員が一名多く、理由の欄には「昨年、混雑の報告あり」と註が付いている。さらにもう一枚、無線系統の周波数表があり、一チャンネルが巡回連絡用、二チャンネルが緊急用、三チャンネルが要人動線担当に割り振られていた。四チャンネルは予備として空けてあり、使われた実績はまだ一度もない。先月の代表選の控えも隣に広げてあって、あの時は投票所が二か所、チャンネルも二本で足りていた。同じ書式のはずの紙が、数字が一段増えただけで厚みまで違って見えた。

「これ、ワタシの名前も入るんですか」

書類を覗き込んで、サクラが訊いた。

「入らない」A1は割当表の余白を指でなぞった。「これは大人の担当分だ。君の名前は別の紙に載る」

「別の紙って、いつ見れるんですか」

「決まったらだ」

それだけだった。サクラは頷いて、質問を切り上げた。訊けば答えが返ってくる分には、今日はもう十分だった。

昼過ぎ、支援要員の一人が茶を運んできた。この一月ほどで見かける顔ではない。選挙期間中だけ庁舎から回されてくる人員だと、A1が前に一度だけ説明していた。書類の隙間を縫うように盆を置き、会釈だけして下がっていく。湯呑は去年と同じ柄のものだった。人員が入れ替わるたびに備品も少しずつ変わるのに、これだけは変わらずに残っている。湯呑の縁に息を吹きかけながら、サクラは投票所警備の割当表をもう一度眺めた。一二番の投票所は、去年の代表選でも同じ番号だった。数字だけが、去年と地続きになっている。

サクラは頼まれた通り、書き終わった紙を番号順に重ね、三枚ごとにクリップで留めていった。角を揃えるたびに紙の縁が指の腹に当たって、乾いた音を立てる。留め終えた束が、テーブルの端に少しずつ高くなっていく。十二束目を積んだところで、束の高さが縁側の柱の節ひとつ分を超えた。

書類を並べ替えている途中、A1の端末が短く振動した。Q経由の通知だった。庭の逆光で画面が見えづらいのか、A1がわずかに身をかがめる。通知音は鳴らず、振動だけの設定になっていた。開いた画面に映っていたのは今日の予定ではなく、先週分の記録だった。日付の列に、見覚えのない一行がある。「宮中」。隣にA1の名前と、済、の字だけが添えられていた。備考の欄はどこにも見当たらない。地名の後にも前にも、それ以上の言葉は一つも続いていなかった。上の行には「目黒合同庁舎」、下の行には「南平台」と、いつも見慣れた地名が並んでいて、その真ん中に、その一行だけが挟まっていた。先月までの記録に、こうした地名が混じったことは一度もない。

端末はすぐにもう一件、通知を拾った。今度は今日の分の更新だった。巡回担当者の氏名が一件、埋まったという知らせで、空欄はこれで残り二つになる。

サクラはその一行を二度読んだ。訊こうとして、A1の横顔を見る。A1は端末を閉じ、次の紙へ視線を移していた。何かを隠すときの間合いではなかった。話さない、というより、そこに話題がもとから無いかのような速さで、次の作業に移っていた。目が泳ぐことも、間を置いてから話題を変えることもない。ペンを持つ手の速さも変わらなかった。サクラは結局、何も訊かなかった。訊かなかったことが、今日また一つ、自分の中に積まれていく感触だけが残った。積まれた場所に、まだ名前はついていない。数え始めたら、きりがない気がした。

紙の束をそろえながら、庭木の向こうへ目をやる。欅の枝はもう半分近く葉を落としていて、隙間から夕方前の薄い光が差し込んでいた。光の帯は昨日より一段長く、垣根の影が芝生の上でわずかに伸びている。

この家の予定表には、ワタシの知らない場所が、少しずつ増えていく。宮中も、そのうちの一つに数えられるらしい。向こう——今のこの感じ、そっちからは何て見えてるんだろう。言葉がそこまで出かかったところで、サクラは自分でそれを止めた。止めた理由は、うまく言葉にならなかった。

「今夜も自分で決めるのか」

紙から目を上げないまま、A1が言った。止める声でも、許す声でもなかった。ただの確認のようでいて、答えを急かす響きはどこにもない。クリップの音が一度、間に挟まった。

「……まだです」

サクラは短く返した。決めていない、というのが正確なところだった。決めないでいることも、今はまだ自分の側にある選択のうちだった。A1はそれ以上重ねず、次の巡回計画表に目を戻した。ペン先が紙に触れる音だけが、しばらく縁側に続いた。

夕方近く、A1のもとに別の通信が入った。Qからの回線で、声は途切れがちだった。庭のこちら側にいるサクラのところまで届いたのは、切れ切れの言葉だけだった。風が出始めていて、欅の枝がまとまって鳴る音に、通信の声がところどころ紛れた。

「新人が」「——入ってくる、と」

そこまでで、A1が端末を耳から少し離した。声の質から、電波の問題ではなく、A1が自分で音量を絞ったのだとサクラには分かった。端末を離す指の動きに迷いはなかった。むしろ、迷いのなさの方が、いつもより意識して行われているように見えた。それ以上は聞こえなかった。手元に残っていた最後の一束を、サクラは必要以上にゆっくりとクリップで留めた。

ワタシの、代わり——思ったところで、それ以上は続かなかった。向こうに言う形になる前に、声にならないまま消えていった。今日、途中で止めた言葉は、これで二つ目になる。一つ目より、こちらの方が喉の奥に長く残った。

夜、庭に出ると、A1はすでに立っていた。今日の落葉の量を、もう一度確かめているような立ち方だった。手にした端末はもうしまわれている。縁側の書類は、束ごとに重ねられ、輪ゴムで一つにまとめられていた。

「明日は、朝から巡回の下見だ」

A1が言った。

「掲示場、何箇所回るんですか」

「三箇所だ。近い方から回る」

「先週壊された案内板、あれも見てくるんですか」

「ついでにな」

それだけ聞いて、サクラは頷いた。

「異状は」

「——ない。今夜は」

今夜の声には力みがなかった。欅の枝がまた一枚、風もないのに葉を落とす。落ちた先は、サクラが今朝きれいに掃いたばかりの場所だった。見上げると、枝にはまだ八割ほどの葉が残っている。今日一日で落ちた分をあわせれば、明日の掃除はまた一杯増えることになる。明日また、そこから掃き直すことになる。

 

 


 

 

着信音は鳴らなかった。アオネの端末は通知音をすべて切ってあり、画面が短く光っただけだった。コンビニのレジに並んでいる最中に届いた一件で、登録のない十一桁の番号からの本文は、たった二行だった。「大手町一丁目、東和新聞社ビル。十一月七日、十八時三十分」。挨拶も、名乗りも、用件を示す言葉も、そこには一つもなかった。差出人欄は空白のまま、送信時刻だけが十七時二分と記録されていた。この日、この時間に届くということは、返信の猶予をほとんど計算に入れていないということでもある。番地の書き方が「一丁目」と旧来の表記で、法人がプレスリリース以外で使う略式の書き方とは違っていた。この端末は観測用に別で持っている一台で、赤枠タグの確認以外に使ったことはほとんどない。見覚えのない番号からの着信は、この半年で今回が四件目だった。

会計を終えるまでの間に、アオネは頭の中で三十秒だけ使って送信元を絞った。まずK機関を除外する。先月以来、桃色の少女とのやり取りは決まった一本の番号に固定されていて、この番号形式ではない。目黒合同庁舎の代表番号とも桁数から違っていた。K機関という組織そのものとの回線はまだ持っていない。持っていない以上、そこから来るはずがない。可能性は五パーセントに届かない。次に除外したのはサーカス、あるいはその上の存在だった。位置と時刻をここまで具体的に渡す接触は、自分の側から追跡材料を差し出すのと同じことになる。委員会の側にそんな迂闊さがあるとは考えにくく、これも一割に満たない。残るのは、二週間前から自分のノートに載せていた候補、東和新聞グループだった。K機関でも魔法少女でもない「第三の脅威」を計算する過程で、発行部数・広告収入・政界への接触頻度の三点から点数をつけていた組織の一つが、この住所と重なっていた。着信番号の局番も、以前調べておいた法人向け通話回線のブロックと一致していた。三つの条件を並べ終えた時点で、残りの可能性はほぼすべてこちらに寄っていた。八割前後。答えを出すのに、レジ袋の要不要を聞かれて答えるより短い時間しかかからなかった。念のため、無作為ないたずらの線も頭の隅で計算したが、これに文面を作る手間をかける動機が見当たらず、一パーセントにも満たないまま切り捨てた。四つの候補に振った数字を全部足しても百には届かなかった。残りの端数は「未知」の欄に残しておくことにした。分からないものを分からないままにしておくのも、計算のうちだった。

行く前に、持っていくものと持っていかないものを分けておく。渡してよいのは、偽の赤の出現データ——単独出現時の輪郭の濃さ、複数出現時との持続時間の比率、直近三週間分、九月三日・十一日・十四日以降に追加した観測の出現間隔の乱れの数値。平均間隔はこの三週間で四十一・六時間から五十二・三時間まで開いている。すでに一度、桃色の少女を通じてK機関の側にも渡っている種類のもので、これ以上外に出しても目減りはしない。渡さないのは、東和新聞グループを「第三の脅威」候補として計算していること自体だった。その事実を相手に知られた時点で、自分はリストの外側から観測する立場ではいられなくなる。念のため、連合が崩れた後のキヅキ・ミドリ・ユカリの行動確率を試算した紙も鞄には入れなかった。新Kへの接触をいつ・どう切り出すかという段取りのメモも、今日は持たない。ノートの該当ページには付箋を貼らず、めくった跡だけが残らないよう指先で紙の角を整えてから鞄の底にしまった。

渋谷駅から歩く道すがら、掲示場の骨組みが一つ、また一つと出来上がっていくのが見えた。先週まではただの足場だった区画に、今日はベニヤの板が半分ほど張られている。板と板のつなぎ目から、下地の白さがまだ剥き出しのままだった。区画番号の紙だけが先に貼られていて、候補者名の欄はどこもまだ空いている。作業員が脚立の上から板を留める音が、通りを二本挟んだところまで届いていた。選挙カーはまだ通っていない時間帯だったが、街宣車らしき白い車が一台、路肩に停まって拡声器の点検をしているのが遠くに見えた。街の表面が選挙の色に塗り替えられていく速度を、アオネは意味もなく数えながら通り過ぎた。渋谷から大手町までは半蔵門線で二十二分、乗り換えなしの一本だった。車内で座席には座らず、扉の脇に立って移動時間を丸ごと確認作業に充てる。赤枠タグの巡回はいつも寝る前と決めているが、今日だけは前倒しにして、大手町駅のホームに着くまでの間に一度だけ済ませておいた。新しい出現は、ゼロ件だった。

大手町に着く頃には、日はほとんど落ちきっていた。東和新聞社ビルは周囲のオフィスビルより頭一つ高く、上層の数階だけがまだ夕日の名残を映して、他の階より一段明るい色をしていた。エントランスで来意を告げると、名前を確認されることもなく、指定のエレベーターへ案内された。案内係は一言も名乗らず、階数ボタンも押させずに自分でカードキーをかざした。受付の脇にあったモニターには、この日の来訪者数が「本日:三十二名」とだけ表示されていて、名前の列は伏せられていた。渡された来訪者証には所属欄も氏名欄もなく、発行時刻と有効時間だけが印字されている。有効時間は九十分。九十分という数字の根拠は、どこにも書かれていなかった。

エレベーターの階数表示は、上がるにつれて数字の増える速さが増していくように見えた。三十を超えたあたりで耳の奥に軽い圧がかかり、アオネは顎を小さく動かしてそれを逃した。表示の数字が四十に届く頃、圧はもう一段深くなった。階数ボタンの並びのうち、光っていたのはカードキーが反応した一つだけで、他の階はすべて押しても反応しない設定になっているらしかった。扉が開いた先の廊下には、音を吸う種類の絨毯が敷かれていて、足音はほぼ残らなかった。壁際の照明は等間隔で、その間隔の狂いのなさだけで、この階が特別な階だと分かった。

通された部屋は、壁の一面がそのままガラスだった。窓の外には暮れていく東京が広がり、明かりの粒が下の方から順に増えていく最中だった。ソファの位置、テーブルの角度、置かれたクッションの沈み方。先に誰かがここに座ったことを示す痕跡が、直しきれずにわずかに残っていた。紫色の光を纏う少女がこの部屋に来たという話を、アオネは誰からも聞いていない。それでも、自分が二人目の客として通されたことだけは分かった。壁の一角に据えられた小さなカメラらしき黒いドームも、今の観測に加えておく。テーブルの木目は継ぎ目が見えない一枚板で、傷らしい傷も一つも見当たらなかった。使われた回数は多いはずなのに、傷だけがついていない部屋というのも、それはそれで一つの情報だった。

この部屋は、客を測るための部屋だ。窓を背にした側の椅子は逆光になって表情が読みにくく、向かいの椅子は光を正面から受ける配置になっている。どちらに座らされるかで、この部屋を使う側の意図が分かる。テーブルの上にはまだ何も置かれておらず、ソーサーの並びだけが二客分、先回りして揃えてあった。アオネは椅子の向きを一度も動かさず、案内された通りの席についた。

窓の外の夜景を眺めながら、アオネはいつもの癖で数字を組み立てた。大手町のこの高さの床面積、坪あたりの賃料相場、これだけの窓を維持するための空調費。この階全体を一坪あたり月三万円台後半で見積もっても、窓に面した分だけで一晩の使用料は数万円規模になる。三つを足し合わせても、この部屋一つが今夜見せている眺めの価値には届かない気がした。テーブルに並んだ茶器一式の価格を仮に足しても、差はまだ埋まらない。値段のつけようがないものをわざわざ見せている、というのが計算の着地点だった。

ノックの音がして、扉が開いた。羽根川クロエが、給仕を一人だけ連れて入ってきた。黒を基調にした服装は、部屋の調度とも夜景の暗さともよく馴染んでいて、入ってきた瞬間から部屋の一部だったような座り方でソファに腰を下ろした。時刻は十八時三十一分。招待状の指定時刻からの遅れは、一分だけだった。

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