アテンション・プリンセス~空っぽのワタシ、魔法少女になります~   作:樫丹鏡花

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6.テ・マッチャ26-Thé Matcha 26-

扉を入ってすぐ、青い光を纏ったことのある少女が、窓を背にしない側の椅子に浅く腰掛けているのが見えた。膝の上で両手を重ね、背筋を伸ばし、視線だけを一度こちらへ寄越してから、また夜景へ戻す。歓迎の色も警戒の色も、その視線には乗っていなかった。値踏みを終えた後の目だった。「ごきげんよう。お運びいただき、ありがとう存じますわ」。わたくしはその正面、逆光にならない側の椅子に腰を下ろしながら声をかけた。声は社交の声、内側では別の作業がもう動いている。アオネの服装は普段通りの実用一辺倒で、この部屋の調度とは何一つ噛み合っていなかったが、噛み合わせる気がないこと自体が、この方の返事のようなものだった。腕時計は文字盤の大きい安価なもの、革のベルトは擦り切れた側を内側に折り込んで留めてある。単に長く使っているだけだと分かる擦り方で、値段を隠す意図があるようには見えなかった。両手の指先には、ペンを長く握る人間に見られる細かい荒れが見えた。爪は短く切り揃えられ、右手の中指の側面には、書き物の跡にしては硬すぎる皮の厚みがあった。ノートに数字を書き付ける癖が、身体のどこかに跡を残しているのかもしれない。

この方への招待状は、わたくし自身の指示で、差出人を伏せたまま送らせた。ユカリに送った封筒には、わたくしの家紋を型押しした便箋を使ったが、今回はそれをしていない。場所と時刻だけの短い一文にしたのも、余計な言葉を与えれば、この方はその言葉の裏にある意図を先に計算してしまうと踏んだからだった。送信の時刻も、返信の猶予をほとんど与えない設定にした。計算する時間を削れば、来るか来ないかの判断そのものが数字として粗くなる。粗い数字の上に立たされた状態で、この方がどう動くかを見たかった。指定した時刻は、渋谷からこの部屋まで半蔵門線で乗り換えなしに来た場合の所要時間を逆算して決めた。定時に着くか、着かないかで、この方の平時の余裕がどの程度かを測るための時刻でもあった。結果として、一分の遅れで現れた。誤差の範囲として扱ってよい数字だった。

この部屋に人を通すのは、今夜が二度目ではない。以前は紫の光を纏う少女がこの椅子に座り、同じ夜景を見せられた。あの晩は梅雨明け前の湿った夜気がガラス一枚を隔てて重く見え、少女の側にはまだ好奇心のようなものが残っていた。今夜は違う。十一月の空気は乾いていて、窓の外の灯りも輪郭がくっきりと硬い。同じ部屋、同じ椅子、同じ角度の光でも、座る人間が変われば温度がまるごと入れ替わる。それを面白いと分類するにはまだ早かった。面白いのは掌握できた対象に対してだけ、わたくしが使ってよい言葉だった。

ノックがあって、給仕が銀のワゴンを押して入ってきた。茶葉はダージリンの今年の一番摘み、ポットは二つ用意され、一つは湯通しだけで空のまま先に温めてある。給仕は右のポットの茶漉しに茶葉を入れ、左の空のポットへ湯を通してから移し替え、蒸らしの時間を懐中の砂時計で測った。三十秒経ったところで茶漉しを引き上げ、二つの茶碗へ均等な高さで注ぎ分ける。湯気の立ち方まで左右で揃っていた。三段の銀トレイが続いて運ばれてきた。一段目にきゅうりとクレソンのサンドイッチ、二段目に焼きたてのスコーンが二種、三段目に一口大の焼き菓子が並ぶ。スコーンの皿の脇には、クロテッドクリームと二種の砂糖漬けの実を盛った小さな器が添えられていた。焼きたてのスコーンの匂いが、ダージリンの渋い香りの上に薄く重なって漂った。給仕はソーサーの位置を二人分きっちり揃え、一礼だけを残して退室した。扉が閉まる音は、この部屋の他のどの音よりも静かだった。

「今年は紅葉が早いようですわね」。給仕が去ってすぐ、わたくしは季節の話を一言だけ挟んでみた。作法としての一言のつもりだった。「そうですか」。アオネの返事はそれだけで、視線は窓の外の街並みへ向いたままだった。話を広げる気配は一つもなく、続きを待っている様子もない。この方には、間を持たせるための言葉というものが存在しないらしかった。無駄話に付き合う理由がない、と判断すればそれ以上は動かない性質なのだろう。それならば、とわたくしは茶碗を持ち上げないまま本題に入った。「あなたの目的は、今の構造を維持すること。わたくしの相手は、構造を書き換えようとする側。利害は、重なっておりましてよ」。窓の外はまだ暮れきる前の紺色で、東京の灯りが下の方から順に増えていく途中だった。

アオネは茶碗に口をつけないまま答えた。「重なっている部分を数字にすると、三割から四割程度です」。指を一本も動かさず、目算だけで答えを出しているらしかった。声に温度はなく、答える速さもこちらの間合いに合わせる気配がなかった。「連合が崩れた場合、キヅキとミドリがそのまま二人で動き続ける確率はおよそ七割。ユカリがどちらの側にもつかないままでいる確率は五割に届きません。この二つの数字は、この一ヶ月の行動記録から出しています。残りの人数分を全部足しても、あなたの側に利益として計上できる部分は、思っているより小さいはずです」。数字を並べる声に、誇示も謙遜もなかった。ただ計算の結果を読み上げているだけだった。

「その七割という数字は、いつまで有効なのかしら」。わたくしは尋ねてみた。「行動パターンが変わるまでです」。アオネは即答した。「今のところ、変わる兆候は観測されていません。変わればその時に数字を出し直します」。数字を固定した真実として扱っていない、というところにも、この方らしさが出ていた。

駒にはならない、と分類しかけて、わたくしは手を止めた。駒にならないと決めつけるには、まだ材料が足りない。判断を急ぐこと自体が、この方の手のひらの上で動いていることになりかねない。

「偽の赤のデータには、まだ残存価値がございましてよ」とわたくしは続けた。「あなたが観測を続けている限り、その価値はあなたの手の中に留まりますの。K機関にも、わたくしの側にも、正体の分からないその赤を欲しがる向きがございます。手放さずに握っておくことが、あなたにとっての交渉材料になりますわ」。

「残存価値は、来月には今の半分以下になります」。アオネは即座に返した。「出現間隔は、この三週間ですでに四十一・六時間から五十二・三時間まで開いています。九月三日、十一日、十四日以降の観測分だけを見ても、乱れは大きくなる一方です。乱れが大きくなるほど、データとしての値は下がる方向にしか動きません。価値が下がる速度の方が、利害が重なっている状態が続く速度より、明らかに速いんです。重なっているのは、今だけです」。

時間で切る、という発想が、この方の返事のほとんどに通底していた。利害の大きさそのものよりも、その変化率のほうを基準に判断している。毛利は制度語を積み重ねて相手を疲れさせる話し方をする。ユカリは確認を挟んでから答える。この方はそのどちらとも違う、数字を先に決めてから言葉を当てはめる話し方をしていた。珍しい種類の頭の使い方だと分類しながら、わたくしはその珍しさに少しだけ気を取られた。

わたくしは茶碗をようやく一口含み、置く角度をいつもの位置に戻してから、三の矢を放った。「近々、劇場で、ある催しがございますの。白い方も、いらっしゃる予定でしてよ」。劇場という語をわたくしはそこで一度だけ使い、それ以上は説明を加えなかった。窓の外の光の粒が、また一つ増えていた。

アオネの視線はわずかも動かなかった。劇場という語にも、白という語にも、拾う素振りは一つもなかった。「確度の低い情報は、対価になりません」。それだけだった。「日時と場所を伺えば、対価になるかしら」とわたくしは重ねてみたが、「今の話には、そのどちらも含まれていません」と返され、それ以上は続かなかった。裏付けのない言葉には値をつけない、というこの方の基準に、例外は一つもなかった。

敵にはならない。味方にもならない。駒にもならない。分類の枠を三つ潰して、まだ収まる先が見つからなかった。この方を盤の上にいる人間として扱おうとしていたこと自体が、そもそも間違いだったのかもしれない、とわたくしは思い始めていた。壁の時計を見ると、面会が始まってからまだ十五分ほどしか経っていない。それだけの時間で、七往復分の駆け引きがすでに終わっていた。この方は無駄な言葉を一つも使わない分、こちらの手札を消費する速度も普通より速かった。

アオネはそこで、初めて茶碗に口をつけた。一口だけ。カップを置く音は、この部屋の他のどの音よりも小さかった。「私の人生は、私の判断で決めることにしました」。声の高さも速さも、それまでの受け答えと変わらなかった。ただ、初めて「利害」でも「確率」でもない言葉が、この方の口から出ていた。この一言に至るまでの計算式を、この方がどれだけの時間をかけて組み立てたのかを、わたくしは知らない。数字を並べるだけの人間からは出てこない種類の一言だった。

わたくしは三秒黙った。壁際の置き時計の秒針が三つ分進む間、視線を合わせたまま、何も言わなかった。空調の音だけが一定の高さで鳴り続けている。窓の外で、下の階のオフィスビルの一室の明かりがちょうど一つ消えるのが見えた。給仕が退室してから一度も動いていないティーポットの注ぎ口から、湯気はもう立っていなかった。

駒にはならない。敵にもならない。この方は、盤の外の質量だった。動かそうとする側の理屈が、そもそも届かない場所にいる。招待状に記した十八時三十分から、すでに三十分近くが経っていた。用件の密度を思えば、長すぎるとも短すぎるとも言い切れない時間だった。

「……交渉は、ここまでにいたしましょう」。わたくしはそう言って、茶碗をソーサーへ戻した。声に落胆はなく、失望を装う必要も感じなかった。アオネは頷きもせず、ただ小さく「分かりました」とだけ返した。安価な腕時計に一度だけ目をやり、次の予定を頭の中でもう繰り上げているらしい様子だった。

日はもう完全に落ちていた。窓の向こうの東京は、光の粒だけで出来た街になっている。給仕を呼ぶベルに手をかける前に、わたくしはもう一度その景色を見た。この部屋で二人目の客に見せた夜景は、一人目に見せたものと、明るさも並びも何ひとつ変わっていなかった。変わったのは、この部屋の温度だけだった。三段トレイの一段目と二段目は、まだ手つかずのままだった。サンドイッチもスコーンも冷めていく速度だけを進めている。交渉が決裂した後の菓子をどう扱うかまで、この方の計算に含まれているのかどうかは、わたくしにもまだ読めなかった。この方が席を立つ前に、その手つかずの分をどう扱うつもりなのかは、まだ分からなかった。

 

 


 

 

「……交渉は、ここまでにいたしましょう」と言ってから、わたくしは茶碗をソーサーへ戻した。しかしアオネは席を立たなかった。給仕を呼ぶベルにはまだ手をかけていない。アオネは自分の茶碗に、まだ残っていたポットの中身をもう一度注いだ。傾ける角度は最初の一杯の時と寸分違わず、同じ高さで止める。二杯目を飲み干し、それでも足りないというようにポットを持ち上げ、注ぎ口を茶碗の縁ぎりぎりまで近づけて、最後の一滴を落とす。滴の落ちる音は聞こえなかったが、ポットの中で跳ねる小さな波の動きだけがわたくしの目に残った。空になったポットを傾けたまま、しばらくそのままの姿勢を保ち、完全に何も出てこないことを確認してから、ようやく卓へ戻す。ポットの重さそのものを量っているような手つきだった。対価を残さない、という計算のようにわたくしには見えた。飲み残しは放棄と同じ意味を持つ、というこの方の基準が、茶葉一枚にまで及んでいるのかもしれなかった。ダージリンの茶葉は今年の一番摘み、決して安価なものではない。この方がその値段を知っているのかどうかまでは、わたくしにも読めなかった。

アオネは三段トレイに視線を移した。一段目のきゅうりとクレソンのサンドイッチは八切れのうち二切れだけが減っている。二段目のスコーンはプレーンと全粒粉の二種、それぞれ二個ずつ、手つかずのまま並んでいた。三段目の一口大の焼き菓子には誰も触れていない。手つかずのまま冷めていく菓子を一通り見てから、アオネはわたくしの方へ顔を上げた。「これ、包んで持ち帰れませんか」。声の調子に、遠慮も気恥ずかしさもなかった。「全部は、と申しませんの」とわたくしが尋ねると、「スコーンとサンドイッチだけで結構です。焼き菓子は要りません」。数を絞る判断まで、すでに済んでいるらしかった。「持ち帰った場合、食事が一食浮きます」。理由を説明する声も、先ほどまでの交渉と同じ温度だった。恥じ入る様子も、冗談めかす様子もなく、ただ計算の結果を口にしているだけだった。

「お持たせは、いたしませんの」。わたくしは茶碗の位置を直しながら答えた。「この部屋の中で完結するのが、お茶会ですから」。羽根川の家に代々伝わる接待要覧の一文をそのまま借りただけの返事だった——来客への贈答は品目・金額とも記録簿に残すことになっているが、消え物の持ち出しだけは古くから禁じられている。理由までは記録簿に書かれていない。それでも、この一言そのものが、今夜の交渉が決裂したことの確認になっていた。持ち帰らせるという行為は、この部屋の外へ何かを渡すことに等しい。今夜、この部屋の外へ渡してよいものは、もう何一つ残っていなかった。

「分かりました」。アオネの声に落胆の色は乗らなかった。断られた事実そのものに興味がないというより、断られる可能性をすでに計算に入れていたという様子だった。「では、この場で頂く分だけは」と確かめてくる。「もちろん、それは」とわたくしは答えた。この部屋で完結する限り、いくら食べても構わない、という一点だけは、最初から交渉の外にあった。「スコーンを二つと、お水を一杯、いただけますか」。ポットの茶を飲み切った直後に水を頼む、という順番にも、この方らしい合理性があった。茶で流し込むより水のほうが、後に残る味がないという理由なのだろうと、わたくしは分類しながら給仕へ目で合図した。程なく運ばれてきたグラスの水は、氷を一つも浮かべていない常温のものだった。冷たい水は胃を締めつけて食欲を落とす、とでも計算したのかもしれない。

頷きもせず、アオネは椅子に座り直すと、二段目のスコーンの皿へ手を伸ばした。一つを取り、ナイフでクロテッドクリームをすくい、断面の上に均等な厚みで塗ってから、砂糖漬けの実のジャムを重ねる。一口で頬張るのではなく、四分の一ずつ口へ運ぶ動きに迷いがない。皿の上に落ちた小さなパン屑まで、指先で拾って口に運んだ。一つ目を食べ終えると、間を置かずに二つ目へ手をつけ、同じ手順を繰り返す。二個食べれば、コンビニのおにぎり二個分より腹に溜まるはずだ、というような計算をしている顔つきに見えた。途中で一度だけ安価な腕時計に目をやり、次の予定までの残り時間を確かめる間があった。持ち帰れないと分かった時点で、この場で食べる方へ切り替える判断の速さに、わたくしは分類の言葉を探しあぐねた。指先についたクリームをナプキンで拭う仕草だけは、律儀なほど丁寧だった。

二つ食べ終えると、アオネは椅子を静かに引いて立ち上がった。深く長い礼ではなく、上体を十五度ほど倒しただけの、実務的な角度の一礼だった。「本日は、ありがとうございました」。それだけ言って、鞄を肩にかけ、ドアへ向かう足取りに迷いはなかった。ドアは大きく開け放たれることも、音を立てて閉じられることもなく、把手を握った手の動きだけで静かに閉まった。廊下の絨毯が足音を吸い込む前に、扉の閉まる音が、この夜この部屋にあった最後の音になった。エレベーターの到着を告げる小さな電子音が、扉一枚を隔ててかすかに届き、それきり何も聞こえなくなった。

膝の上に置いていた手帳を、わたくしは気づけば持ち上げ、閉じた扉へ向けて投げつけていた。動作に先立つ判断は、どこにも挟まっていなかった。角が扉に当たって鈍い音を立て、床に落ちて絨毯の上を少し滑り、テーブルの脚に当たって止まる。苛立ち、と分類するには、あまりに動作のほうが先に出過ぎていた。分類が追いつく前に体が動いたという経験を、わたくしはこれまで持たなかった。三秒ほどその場から動かずにいてから、立ち上がって手帳を拾いに行く。表紙の角には浅い折れ目が一つ増えていたが、留め紐は切れておらず、中の紙も破れてはいなかった。指先で表紙の埃を払い、元通り膝の上へ戻す。この部屋に、今の一瞬を見ていた人間は誰もいなかった。それだけが、せめてもの計算通りだった。

敵にはならない。味方にもならない。駒にもならない。そこまでは、先ほど分類し終えていた。空いた椅子と、空になったポットと、二段目から二つ減ったスコーンの皿を見ながら、わたくしはその分類に一行だけ書き足すことにした。腹は減る。この方は、腹が減る。それだけの一行が、これまで並べてきたどの分類の言葉よりも、この方を人間らしく見せた。毛利は空腹を口にしたことがない。ユカリは出された物にほとんど手をつけない。カノンは残さず食べるが、食べたこと自体をすぐ忘れる。腹が減ったと自分で認め、対価として要求し、断られてもその場で満たす方法に切り替える人間を、わたくしはこれまで招いたことがなかった。この方にとって、空腹は恥ではなく、ただの数値のようだった。満たされていない状態を満たされていないと言い、満たす手段が一つ潰れれば次の手段に移る。政治や取引の場でこれと同じ速度で立ち回られたら厄介だろうと思いながら、その厄介さがまだこちらへ向いていないことに、わたくしは安堵に近いものを覚えた。

ベルを鳴らすと、給仕が銀のワゴンを押して戻ってきた。手つかずの焼き菓子と減ったサンドイッチ、皿に残った二個のスコーンを一つずつトレイに戻していく。「お下げしてよろしいですか」。「ええ。厨房の判断で、処分なり、賄いに回すなりしてちょうだい」。この部屋から出た飲食物をどう扱うかまで、いちいち指図する趣味はなかった。給仕は一礼し、伝票に品目と個数だけを鉛筆で書き添えてから、ワゴンを押して退室した。食材ロスの月次報告は経理部が別に集計していると聞いたことがあるが、その数字にこの夜の分がどう計上されるのかまでは、わたくしの与り知るところではなかった。部屋にはわたくし一人が残った。窓の外はもう完全に暮れていて、東京の灯りだけが手元より明るく見えた。

壁の置き時計は、招待状に記した十八時三十分から、すでに四十分以上が経ったことを示していた。交渉そのものより、菓子を巡るやり取りのほうが長引いた勘定になる。そのことに気づいて、わたくしは頬が緩みかけるのを、寸前で元の位置に戻した。給仕の足音が完全に消えてから、わたくしは手帳を開いた。「毛利」「ユカリ」「カノン」と並んだ丸のあとに、「マタギ」とだけ書き足す。丸をつけるかどうかで、ペン先が止まった。この方を駒として囲うための丸なのか、それとも別の意味を持つ印になるのか、まだ言葉にならない。他の三つの丸は、迷いの速度がそのまま線の太さに残っていた。この名前の脇には、まだどんな速度で描くべきかも決まっていなかった。万年筆のインクは、毛利の丸を描いた晩から替えていない同じ黒だった。三つの丸と、これから書くかもしれない一つの間で、色だけは変わらないままだった。丸は、また今度でいい。わたくしはそう決めて、手帳を閉じた。

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